渡辺大濤覚え書き
―安藤昌益研究におけるその位置と役割―

八重樫新治(安藤昌益の会)


渡辺大濤(わたなべ だいとう)

1879〔明治12〕年〜1958〔昭和33〕年)

 本名:渡辺信治。新潟県生まれ。

 職業:自由業。活動:大地の思想家、安藤昌益研究者、画家。

 収入源:語学塾・美術研究所運営、大地の思想講演活動、著作・評論等の文筆活動。

 主な著作・創作等:安藤昌益研究書『安藤昌益と自然真営道』、宗教関係書『新宗教の根本義』『人類聖典』『梵文解説般若心経』、思想体系書『萬国精神総動員』、芸術評論「芸術の本流に舵を向けよ」、三百号の大作油絵「大地禮讃」。


 渡辺大濤(1957年)

渡辺大濤・狩野亨吉と安藤昌益

 渡辺大濤が安藤昌益の存在を知ったのは、狩野亨吉との個人的接触を通じてである。そして狩野が所有する安藤昌益の諸著作を直接手にとって熟読するという機会をもったことによって、その思想の重要さを読み取ったのである。当時大濤は自ら創始した「大地の思想」を体系化し、人間のあらゆる活動分野を網羅する基本原理を打ちたてようとしていた。「大地の思想」という名称が示すように、その思想は大地の生命力を畏敬し、それと真正面から取り組み、人類の糧を得る農業活動とそれに従事する農民の生活を基本に据えるものであった。それゆえに安藤昌益の著作に示された思想の内容は、大濤にとって共鳴と感嘆をもって受け入れられることになったのである。それ以後の彼の活動は、自らの思想体系の確立をめざすことと安藤昌益を世に知らしめることの両面に対して発揮されることになり、著述ということを殆んどしなかった狩野亨吉に代わって安藤昌益を世に広めることに力を注ぐことになった。その活動の大きな成果として著書『安藤昌益と自然真営道』を出版した経緯や、ハーバート・ノーマンが『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』を書く際に彼が協力したことの一端については、渡辺大濤自身が記しているところを見ていただきたい。またその際には渡辺大濤による安藤昌益思想の要点紹介が適切なものであることも読み取って頂けることと思う。(別項『農村の救世主安藤昌益』序詞部分参照。

渡辺大濤の生涯とその安藤昌益研究

 以下に渡辺大濤の思想遍歴と安藤昌益研究について、彼が遺した記録をもとにあとづけて見るが、ここには必然的に狩野亨吉の存在が大きく影響してくる。狩野亨吉自身が自ら発見した安藤昌益によってその人生を大きく影響されたという意味で、彼についても語ることは必要なことではあるが、ここでは渡辺大濤にかぎることにする。

 安藤昌益の著作を入手しその内容に驚嘆した狩野亨吉が、社会への影響の大きさを考慮して9年間も発表をさし控えた後に、某文学博士の匿名談話の形で初めて安藤昌益を世間に紹介した「大思想家あり」という一文が『内外教育評論』に掲載されたのは1908(明治41)年のことであるが、ちょうどこの年、渡辺大濤は彼が生涯の課題とした「大地の思想」の確立に向かう第一歩を踏み出している。

 この時期までの渡辺大濤の思想的経歴はおよそ次のようなものである。

 1879(明治12)年4月20日、新潟の山村に旧家の次男として生まれた渡辺信治は、浄土真宗に接する雰囲気の中で成長しつつ宗教への関心を高め、将来は宗教家になるという希望を抱いていた。父親が事業に失敗し生家が落ちぶれ貧しくなったのをきっかけに一人で東京に出て、間もなく某宗教学校に入学する。ここでは学問としての仏教、倫理、哲学を学ぶが、彼の問題意識はたんに本を読むだけの学校教育にあきたらず、また経済的にも働く必要があったため、学校との両立をあきらめて独学することになる。仏教に関する独学と、時には寺に行って参禅するなどして深刻に宗教にとりくんだ結果は、仏教とはだいたいインドの神話にすぎないものであり、現実生活には没交渉のものであるとの結論に至り落胆する。こうして子供の時代から培われて来た宗教観の破綻をむかえた渡辺は一時期思想上の迷子状態となり、人生の目標を失って煩悶する。そうしたある日、中央会堂の礼拝説教の立札を見て中に入り賛美歌の響きに魅せられて聖書を読み始める。それから3年間ほどはキリスト教の研究に没頭し、時には教壇に立つほどの知識を持つことになる。しかし周囲の牧師たちの無学さと宗派の争いに嫌気がさし、伝道者たちの集まりの席で無信仰を告白することによってキリスト教からも離れることになる。

 このときから渡辺大濤の勉学は一転して物理、科学などの自然科学の分野に向かっていく。この分野の研究はほとんど独学で、そうとう高度のものまで読みこなしている。また一方で彼の語学好きは英語やドイツ語、ギリシャ語、梵語などにまで手を広げてさまざまな国の言葉を学ぶ。ただ語学だけは独習と並行して学校でも学んでおり、なかでも英語の力は相当なものとなった。学校に通うとはいっても自分の独習の進度にあわせて適当に時間割りを編成して都合よく授業をうけるというやりかたをとっており、その点で私学はよかったと言う。また経書史伝などの漢籍や日本の古典に関してもそれぞれ師について学んでいる。こうした諸分野における一級の研究知識が後の「大地思想大系」に結実することになる。

 1912(大正元)年、草稿着手から1921(同10)年印刷完了までの十年間ひたむきに研究を続けた成果として『万国精神総動員』と題する本が世に出た。人類の思想を6大系統44分科に系統づけ争乱のない平和な地球を実現するための思想的共通価値を求めようと構想したのがそれである。幼児からの宗教体験と成長してからの科学的論理的考察力とが融合した一つの到達点であった。これは渡辺大濤の生涯を通じての課題としてその後も研究が深められ、後年出版には至らなかったが同書を『大地思想大系』と改題して改訂出版するための原稿は用意されていた。

 のちに安藤昌益研究で協力しあう二人が知り合ったのは、渡辺大濤が下谷区御徒町に住み、狩野亨吉が小石川区雑司ガ谷に住んでいた大正四、五年のことであろう。二人の住居のちょうど中間ぐらいのところに東京帝大があり、そこへ通う学生や教師たちの集まる「芋繁」という店が下谷にあって二人もそれぞれに出入りしていた。地図で見ると二人の住居と「芋繁」の三か所はほぼ帝大を中心とする半径2キロメートルの円内に入るような位置関係になる。この店は学生や教師たちが芋を食い茶を啜りながら学問や世界の情勢を語るというかなりアカデミックな雰囲気を持っていた。そんななかで一風変わった雰囲気をまわりに及ぼしながら現役教授の吉野作造らと談笑している、すでに現役を離れ市井に退隠している狩野亨吉の姿が渡辺の目にとまった。その人物が学識豊かであり教えを請えば親切に応じてくれるであろうことを察知するのは彼にとっては容易なことである。狩野の記憶によれば渡辺は狩野のことを天文学者だと思って、彼が進めている「大地の思想」の研究のために天文学上の助言を求めて相談に行ったのが親しく交際するようになったきっかけであるという。また渡辺も、初めて会った日に SmithAstronomy 他七冊の天文学書を借りて帰ったと書いている。

 この狩野亨吉との交際によって渡辺大濤は安藤昌益について知ることになる。狩野の家を訪ねると、そこには『自然真営道』百巻九十二冊のうち初めから欠けていた二冊をのぞく九十冊の本が揃っている。安藤昌益の書いた社会批判の諸言は、西洋から来た共産主義思想と比較しても社会改革の根本精神においてひけをとるものではなかった。

全百巻に目を通したのは狩野亨吉一人だけだが、彼らは『自然真営道』が東京帝大の図書館に移される以前にこの本を手にしながらさまざまなことを語り合ったにちがいない。表紙の裏紙まで剥がしたりしながら、読みにくい文字は二人で解読するなどの作業も期待と興奮が入り混じったものだったろう。この時の研究成果はもし発表の意思があれば相当充実したものが遺されたと考えるのだが、文章を書くのが嫌いな狩野亨吉と、さしあたりは自らの「大地の思想」に主力を注いでいる渡辺大濤の組み合わせでは安藤昌益研究の成果を世に問うところまで発展はしなかった。それが形となるのは手元に参照すべき原本が存在しなくなってからである。

1923(大正12)年狩野の手元から東京帝大図書館に移された『自然真営道』が関東大震災による火災で焼失し、安藤昌益の思想を世に伝えるものが無くなってしまうと、狩野亨吉と渡辺大濤のみが知る内容について文章にして発表すべきだとの強い声が共通の友人である吉野作造などから出てきた。一方あらたに『統道真伝』が狩野の手に入り無資料の状態ではなくなった。渡辺自身の手元にも狩野から聞いた話のメモが溜ってきていた。大震災火災で家を失った渡辺が狩野の家に逗留した際に、寝起きを共にしながら狩野亨吉は相当に深い内容まで自身の考えもまじえながら安藤昌益のことを語って聞かせたようだ。狩野としてもあまり遠慮せずに懐に飛び込んでくる14歳年下のこの人物に対しては、他の学者友人とは異なる魅力を感じたのかもしれない。この時期に安藤昌益に関する知識はほぼ二人の共通財産となっていった。

書くことに関しては渡辺のほうが早い。大正14年8月には「自然真営道」と題する文章をまとめていたことが資料に見える。しかしこの時期には発表が見送られたようだ。狩野亨吉の文章を先に発表することがあらゆる面からみて適切だと判断されたからではなかろうか。

1928(昭和3)年狩野亨吉の「安藤昌益」という文章が岩波講座『世界思潮』に発表され、2年後に渡辺大濤の『安藤昌益と自然真営道』が出版された。また大震災火災をまぬがれた十二冊の原本が存在する事もあきらかになった(1929年)ことにより、他の研究者による論文も発表されるようになり安藤昌益研究はいちだんと活発になった。特に『安藤昌益と自然真営道』に収録された原文はほんの一部ではあったがそれ以外の部分についての渡辺の抜粋訳文とともに、多くの研究者にとっては安藤昌益の思想を研究するにあたって身近に活用できる有用な資料となった。

狩野亨吉と渡辺大濤とは共同研究という形態こそとってはいないが、それぞれが収集した情報の交換はよく行なわれていたようである。安藤昌益の高弟神山仙確の末裔で小学校の教員をしていた神山久興を、はじめて八戸の地に狩野が訪ねて行ったのが昭和2年頃のことであり、渡辺はその後著書を贈るなどして連絡をとりつづけた。また彼を通じて八戸の幾人かの郷土史家との連絡もつくようになっていった。狩野が八戸、秋田方面、渡辺が京都、大阪方面と手分けして調査にでかけたこともあったが、そのときは殆んど成果がなくおわった。また京都で刊本『自然真営道』が見つかったという知らせが狩野亨吉のもとに入った1931(昭和6)年には代わって渡辺がそれを実見しに行ったりしている。かれら二人は紛れもなく安藤昌益研究の最先端にいたのであり、それは衆目の認めるところでもあった。

1942(昭和17)年、狩野亨吉の没後から渡辺は実質上一人で安藤昌益調査を継続することになるが、その際、八戸の郷土史家たちの協力は貴重であった。また八戸の人々にとっても東京に居てかれらと連絡をとり、研究成果を中央で発表する際の手掛かりとなる人物の存在は得難いものだったと思われる。

かつてわが国に安藤昌益という人物がいて、自然真営道という膨大な著作をのこしたこと、その著作に盛り込まれた思想はそれまで知られていた江戸時代のどのような思想家のものとも異なる独自性をもっていて、その革新的合理性と人間存在についての根源的な問題意識とは、われわれ日本人の思想的遺産として正当な評価を与えるべきであること、および現代に対してなお新鮮に呼びかけてくるものであること、について多くの人々に知らしめることは、最も良く知ることが出来た自分自身の役割であることを渡辺大濤は認識していたといえる。そのような観点で彼は安藤昌益に関する著書を刊行し、雑誌に論文を発表してきた。また最晩年の住居である中野区鷺の宮の自宅で開いた私塾(大地社)で、自らの思想体系の研究講義に組み合わせて安藤昌益の思想についても研究を行なうとの案内用印刷物が遺されている。残念ながら間もなく病を得ることになるので、実際にはあまり深められなかったのではないかと思われる。

1958(昭和33)年夏逝去。


渡辺大濤著『農村の救世主安藤昌益』(農文協刊)序詞より


1、安藤昌益の出現

 わが日本の宝暦時代、すなわち徳川期の中頃に、農村の救世主をもって自ら任じ、大がかりな実行運動にのり出した安藤昌益という大思想家が現われた。最近、彼の誕生を一七〇三年(元禄十六年)と推定し得る確実な史料が現われたから、彼のおおいに活躍した宝暦ごろは五十代のはたらき盛りで、人生の最も充実した年ごろであった。この頃は百姓たちはものの数にも入れられない時代であったが、彼は早くも幕府の権力政治がいかに民衆の社会生活と相容れないものであるかを看破して、その弊害を除かんがために極端なる農本民主主義を提唱した。しかしながら原始的な類似の思想は、ほとんどどの教義にも多少含まれていることであり、農を本とする共産的思想も『孟子』の「滕文公章」に出てくる許子の説などがそれに近いものであるから、珍しいとは言えまいが、わが安藤昌益の思想が断然卓越して毫も他の追随を許さなかった点は、地上現象のすべてを相対性的原理に立脚して観察し、いやしくも絶対性を帯びたる強奪的存在の何物をも許さなかったところにある。彼はこの新しき物の観方に互性活真という新熟語を用いていた。そして彼は宝暦あたりの交通の不便な時代にいながら、全国の要所に門人を配して、大規模な潜行的実行運動をやった。これ実に安藤昌益が、わが日本のみならず、世界の思想史上にも特筆すべき特徴を持った実行的大思想家たる所以である。

 しかるにこういう大人物が幕府時代から明治にかけて、まったく葬り去られていて、何人もこれを口にするものが無かったことは驚異に値する。

 これは一方から言えば、わが安藤昌益の思想があまりに偉大にして当時の人々には理解し得られなかったことを物語り、同時に神・儒・仏以外にほとんど何物をも考え得なかった当時の学者や為政者などにとっては、まったく耳目を聳動せしむる種類のものであるのみならず、神君家康を呼ぶに「奴輩」を以てし、互性活真の道を知らざる奸智の徒と罵ったために、いわゆる公儀を憚りて言い伝え得ず、これがために安藤昌益の名がいつしか忘却されてしまったものとも思われる。

 しかも当の安藤昌益は、自分の思想があまりにもラジカルなものであり、互性活真などいう新熟語を要するものであるだけに、当時の学者や為政者たちに理解できなかろうくらいのことはよく承知していた。それゆえ、彼は百年の後に知己を求める覚悟で筆を執り、百巻九十二冊の大著『自然真営道』と『統道真伝』五巻とにこれを書きつづって置いた。これが保存されていたために彼の思想が湮滅せず、事実百余年後の今日ふたたび世に出られるようになった。

 安藤昌益の著書は特殊の漢文で書かれ、しばしば隠語を用い、新熟語を駆使し、はなはだ読みにくいものであるが、原本の所有者であった狩野亨吉博士が苦心研究され、のちには筆者もお手伝いした結果、これを読みこなすだけの端緒を開いた。

 『自然真営道』の原本は、その後、井上哲次郎博士、三上参次博士、最後に吉野作造博士などの斡旋で、大正十二年の春、ついに狩野亨吉博士の手から離れて東京帝大図書館の所蔵となったが、間もなく、かの関東大震災でその大部分が焼失してしまった。

 『自然真営道』の噂だけは早くから世間に伝えられていたが、その内容はいまだかつて何人もこれを公開せず、したがって何人もこれを窺い知ることができなかったのを慨し、筆者は昭和四年末に東京帝大図書館長姉崎正治博士の了解を得て、同館所蔵の焼け残り本を研究し、また当時、筆者の手許に完全に保存されていた『統道真伝』五巻、および安藤昌益の書簡断片などにより、これを系統的に書きあげ、『安藤昌益と自然真営道』と題する単行本を公刊した。

 渡辺大濤著『安藤昌益と自然真営道』(木星社書院版)

 これが機縁となって、さらに有力な材料がたくさん集まった。また昭和六年四月、大阪朝日新聞社後援の下に、筆者の絵画作品展覧会を神戸において開催した。その帰途、大阪、京都、その他、安藤昌益に関係ある土地を尋ね、長日月を費やして研究材料を探り歩いた。今回これらの材料を基とし、これにいささか創作的想像を加味して整理配列したのが『農村の救世主 安藤昌益』である。この表題は安藤昌益の主義思想を最も端的に言い現わした言葉であり、事実彼は農村の救世主をもって自ら任じていた。

 カナダ公使E・H・ノーマン博士は熱心な安藤昌益の研究家で、英文版 Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism (安藤昌益と日本封建制の解剖)という著書をまとめて公刊し、世界的に安藤昌益を紹介された。その和訳版は『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』と題する上下二巻で、岩波新書として発行されている。ノーマン博士は歴史学を専攻された豊富な知識の持ち主である。カナダのトロント大学、英国のケンブリッジ大学などの業を卒えてから、米国のハーヴァード大学で、日本および中国問題を研究された方で、日本文を解し、漢文を読み、英文においてもすぐれた文章家である。博士のこの著書には筆者も所蔵の昌益関係の材料を提供した。

2、安藤昌益の性格と弟子たち

 ここで安藤昌益の性格を少し述べておくと本文の理解をおおいに助けることになる。

 安藤昌益は学問ばかりする者を好まなかった。学問ばかりするから、学問にとらわれて自然を疎かにし、思考ばかりしていると、思考に誤られてかえって人生の進路を踏みちがえる。ただ自ら耕して衣食し、権門に媚びることなく、衣食の根本さえも知らない偏屈な学者や、地位や利権あさりに夢中になっている横着な政治家にごまかされることなく、自然に忠実な生活をしていかなければならぬというのが彼の信念の基調となっている。

 「予は学問において師承するところなく、また門人あることなし。予が道は絶対なり。生まれながらにしてこれを知る。学んで得しものにあらず」と彼は言っている。けれども彼が相当に読書していたことは確かであり、恐らく当時発行された書籍は、たいてい目を通していたことは彼の書いたものを見ると首肯される。また門人もなかなか多く、しかもこれを全国の要所に配して大規模な実行運動の基礎を固めていたのである。門人たちのおもなるものを拾ってみると、

 (以下に門人紹介の記述があるが割愛する。)

3、安藤昌益の価値観

(この項省略)

4、安藤昌益は絶対平和主義者

 昌益の思想の中心は平和主義である。闘争、戦争を止めさせるのが主眼である。つまり非戦論である。そして世界一家の共同生活を徐々に実現させようとするのである。そして民族的農本制の中に永遠の平和確立の基礎を見出したのである。「わが道は兵を語らず、わが道に争いなし、吾は戦わず」と絶えず唱導し、かつ自ら実行してきたのである。争うものは必ず斃れる。斃れて後に何の益があろう。

 「われ考う、故に我あり」と近世哲学の祖デカルトが言った。考えるのは一歳や二歳の赤ん坊にできることではない。長い間、農産物で生命を養って貰ってから後のことである。

 また我と彼とは相対的である。心だけが真に存在するものでは無い。我は心で思うのだが、彼は物として相対しているのだ。

 無我などという考えは成立するものではない。無我を唱えるにも生命を養う食物が要る。その他、信仰的、理想的、霊的、神秘的、詩的、芸術的などの形容詞のついた空想が跋扈したがるが、こんなものでは堅実生活、したがって堅実な社会派はできっこない。

 互性活真、これは昌益の思想を理解するのに最も大切な範疇である。互性とは相対性ということだが、たとえば苦と楽、和と争、善と悪、正と邪、信と疑、空と有など、すべて一方だけでは立たないことを意味する。活真とは、それが成立して活動する自然の状態を言うのである。ここで安藤昌益自身の言葉を借りよう。曰く、

 「真道は自然の進退(増減というほどの意)にして一真道なり。即ち天地にして一体、日月にして一神、五穀にして一穀、男女にして一人、牝牡にして一疋、雌雄にして一番、善悪にして一物、邪正にして一事、是非にして一理、表裏にして一般、生死にして一道、苦楽にして一心、喜怒にして一情、一切つまびらかに二別と見るは即ち一真営の進退なり。この進退は一真営なり」(『統道真伝』〔糺聖失「五常、皆失リ、火ヲ二ツニ分クル失リ」〕の智論)

5、自然世

 自然世――昌益の理想郷はここにある。昌益のみならず、万人皆、自然世を離れては存在しえない。自由といったら、これくらい自由な世界はない。自然は是非、曲直、美醜、善悪を問わないところに、実に測り知ることのできない偉大さがある。

 昌益は自然世をそのままに直観しようとした。虚心坦懐に自然に聞こうとしたところは、立派な科学者の態度に近かった。真理や原則や発明は個人の私有すべきものでない。金銭通用の邪法を以て、それを特殊の階級にのみ私用しようとするところに、闘争、戦争、殺人、強盗、自殺、貧富などのあらゆる醜汚な事件が起こる。宝暦頃にあって、これを見抜いて、これを矯正しようとしたところに昌益の偉大さが浮かび上がってくる。

 腕力を生産の労力に用いよ。戦争などに浪費するな。知力を生産の進歩改良に用いよ。他を倒し、他を不幸にするために用いて何になる。暴富、奢侈、罪悪などの原因となるものを未然に防ぐのが真の政治家だ。党利、党略に余念ないような賤しむべき心で動いている者を表面に出すな。そんな者には労働する習慣をつけるようにせよと言うのである。

 昌益の言う自然世は、つまり、何よりも自然を理解するのが肝要だと言うのである。そして善悪の発生を最小ならしめる目的を以て準備的に布くところの農本制度の始めに、自然現象の正確な知識を獲得させ、その知識によって改良しつつ落ち着くところに落ち着かせようとするのである。それには誰一人として徒食遊民たることを許さないのである。

 昌益は家族生活を以て共同生活の第一歩と観た。家族中のどの一員が利益を得ても、それが家族全体の生活に寄与する。一家庭には搾取がない。老人は老人、若者は若者、男は男、女は女、幼児は幼児として分配消費にあずかる。だが社会をなしている以上はこの機構を社会的に拡げ、一国に拡げ、万国に拡大するのである。

 楚の許行は君民並耕の説を唱えたが、昌益の考えもこれに似たところがある。君主の役目もこれを一つの職業と見てこれを認めたが、農耕は必ず分に応じてやれというのである。
 性に関しては、即ち男女間のことについては、昌益は厳然たる態度でこれに臨むのである。夫婦間の嫉妬による争いを起こさないためには、一夫一婦主義を取り、一夫数婦は野馬の業なりと戒めている。男女と書いて男女と読ませる信念から出てくるので、これを唱えるに至った顛末は本文にあるからここでは説かない。

6、法世

 「法世」とは昌益の造語で政教ずくめの世を指すのであるが、ここでは法律と権力を笠に着た役人、横暴な幕府が一番目に立つ。昌益はこれを不耕貪食者の搾取機関としか見なかった。年貢だ租税だと民衆から取り上げて贅沢を尽くし、民衆の苦労などは省みない悪魔の巣窟と見なした。自然世、すなわち真の自由世界の正反対であり、特に金銭通用の悪集団として最も嫌った。これに生死を委ねて苦しんでいる民衆の愚を法世の名で戒めている。

 腕力、知力、それらを金銭通用の怪力によって組織した階級、したがってこの趣旨から割り出した政治、法律、宗教、学問、その他あらゆる制度文物、文字、言論、思想までも、昌益はこれを全部捨ててかかったのである。彼によれば金銭通用を全廃すれば価値観は一変して本当の価値を見いだし得るというのである。

 本当の価値は労力と協力とによって正義に生きること以外には無いと見ている。そして物質的武器と精神的武器とを兼ね備えられればこれに越したことはあるまいが、二者その一を選ぶとすれば後者を選べというのである。精神的武器というのは心の底から正義のために奮い立つ勇気のことである。これによって身心をますます鍛練せよと言うのである。

 土地問題については、金銭通用による土地の独占を排除した。個人の所有は大体認めないのである。これは力に応じて土地を耕し、協力して働き、共同して生活するのであるから、共産的共有を通り越して無所有の上に立つことになるので、遠い将来の土地問題解決に興味あるヒントを与えている。

7、農村人の自覚と万国の平和実現


 ここでながながと述べた序説の帰するところを要約すると、

 人はまず自ら侮りて後に人に侮らる。

 農村人よ、汝らはすべからくまず自己の尊き天職を覚りて、深く省察修養し、真の文化を農村の大地に押し建てよ、而して武器を用いず平和裏に世界の戦争防止と万国の平和建設とに貢献せよ! その実力が汝らの双手にあることを悟れ! 但しそれにはまず農村生活と組織を根本的共同体に改めなければならない。

 都会人よ、汝らはいつまでも盲目的に金銭通用による暴利を追求しつつ、搾取、詐欺、闘争、混乱の生活を続けようとしているのか。一日も早く人間生活の根本を覚り、都会を分散させて自然に帰り、万物を愛育しつつあるのみならず、直耕直織(安藤昌益の造語、本文を読めば明らかになる)の生活の基本である大地の前に跪き、真の農本文化創設に助力せよ。

 安藤昌益の思想信念は、この二大目標に向かって自然の偽らざる真理をたどって展開される。