千と千尋の神隠し(宮崎駿監督作品)
千と千尋の神隠しは、子どもにしか見えない「不思議の世
界」でおきた、美しく感動的なファンタジーでした。
この映画について(宮崎駿監督) パンフレットより引用
今日、曖昧になってしまった世の中というもの、曖昧なくせに、浸食し食い
尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すこと
が、この映画の主要な課題である。
かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じら
れない日常の中で、子ども達はひよわな自我を肥大化させるしかない。けれども
、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気
づかなかった適応力や忍耐力が湧きだし、果敢な判断力や行動力を発揮する生命
を、自分がかかえている事に気づくはずだ。
もっとも、ただパニックって、「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんど
かもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐに消されるか
食べられるかしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされ
ない力にあると思う。 決して、美少女であったり、類い希な心の持ち主だから
主人公になるのではない。その点が、この作品の特長であり、だからまた、10
歳の女の子達のための映画でもありえるのである。
言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返し
のつかない重さをもっている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りた
い」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行
くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで卵を産み
続けるかの道しかなくなる。逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔
女といえども無視することができない。
今日、言葉は限りなく軽く、どうでも言えるアブクのようなものと受け取ら
れるが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉が力であること
は、今も真実である。力のない空虚な言葉が無意味にあふれているだけなのだ。