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ひぐらし日記  

月の一覧表

2004年

9月12日 引っ越し
9月10日 野球というスポーツ
9月9日 斜陽館
9月8日 原稿用紙に題名を書く
9月7日 エリツィン
9月6日 残酷
9月5日 ショッピング
9月3日 タンパク質を放っておいたら
9月2日 漏洩
9月1日 恐るべきこと

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9月1日 恐るべきこと

 ふと気づいて愕然としたのだが、ここ1カ月ほどの間、ほとんど音楽を聞いていない。
 いや、街を歩いていたり、テレビを見ていたりすれば自然と耳に入ってくるのだが、自分から積極的に聞こうという気にならないのだ。

 少し前から「そういえば、最近、あまり音楽に深く感動することがなくなったなあ」と気づいてはいたのだが、いつのまにか事態はここまで来ている。

 どうも大げさな書き方をしているが、中学校の頃から好きな曲を聴いては欣喜雀躍として浮かれ踊り、時にはしみじみと涙してきたのだから、私としては大きな変化である。

 「こうやって人はツマラない大人になっていくのだろうか……」と不安が胸をよぎる。
 まあ、37歳ともなれば、これは誰がどう見ても大人で、大人の煮込みのようなものだが。

 ものに弾む心がなくなってきているのだろうか。だとしたら、恐るべきことである。

 もっとも、少し前にiPodを買ったのも理由のひとつかもしれない。
 手持ちのCDから気に入っている曲をわんさかと入れて、仕事中、曲をかけっぱなしにしていた。そのせいでいささか音楽に食傷しているところもある。

 が、まあ、昔ならいくら曲を聴いてもそんなことはなかったから、やはり音楽をさほど欲さなくなっているのだろう。

 一方で、iPodで落語は聞き続けている。こちらはなかなか飽きない。
 まあ、音楽に比べれば、今まで聞いてきた量がはるかに少ないから当然だが。

 30歳以上の大人を信用するな、というのは、たぶん、正しい。
 ついでに言えば、30歳未満の人間も信用できないけど。

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9月2日 漏洩

 昨日の新聞に書いてあったのだが、日本ネットワークセキュリティ協会というところが、企業からの個人情報漏洩について、損害賠償額は「メールアドレスだけなら最高4千円だが、氏名、住所に加え本籍まで漏洩すると30万円を上回る」としているそうだ。

 損害賠償額というのは、たぶん、受ける被害の額に相当するか、もしくはそれを下回る金額だろう。
 ということは、自分の個人情報を業者に漏洩すると、30万円くらいはもらえるということではないか。

 「もう、漏洩する! 漏洩する! 私の氏名、住所はおろか、本籍地から3親等以内の血縁関係まで、全部漏洩する! 何だったら、履歴書に、デブだった中学生時代の写真までつけて送る!」と思うのは、私だけではあるまい(か?)。

 自ら進んで個人情報を売ることを「漏洩する」と言うのかどうか、よくわからないが。

 何しろ、30万円である。年に2、30の業者に自分の個人情報を売れば、遊んで暮らせる。
 ダイレクトメールでも、未承諾広告メールでも、どんどん送ってきなさい!

 実際に業者のもとに「営業」に行ったら、どうなるのだろう。
「あの、すみませんが、私の個人情報、買っていただけませんか? お安くしときますよ――初回ですから」

 随分、意地汚い話をしているが、実際には、ひとつの業者に売れば、そこがまた他の業者に売って、と、情報はお金と引き替えにどんどん売られていく。
 1箇所に漏洩すると複数に売ったのと同じだから、それやこれやを合わせた合計の損害賠償額が30万円以上、ということなのだろう。
 残念ながら、自分の個人情報を売りまくって、遊んで暮らす、というのは無理のようである。

 それはともかく、こういう話は、消費社会ならではのことなんだろうなあ、と思う。

 例えば、人々がとても貧しい社会があったとして、その場合、個人情報を得た業者は何に利用できるだろう。
 広告を送りつけたって、電話で墓地を売りつけようとしたって、それを買うお金がないのでは仕方がない。

 ……などと書いてきて、先ほどから疑問に感じているのだが、個人情報って、何に利用されているのだろう。広告とか、電話セールスとか、それくらいしか思いつかないのだ。
 プライバシーの侵害、なんていうけれど、そのプライバシーって何なのだ!? と、基本的なことがわかっていないので、どうも、今日の文章も、相変わらずだらしない。

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9月3日 タンパク質を放っておいたら

 私は、生物の進化ということに常々不思議の念を抱いていて、いっそ、「進化ファン」と呼んでもいいくらいである。

 ただ、本式に勉強したことはないし、文献をよく読むわけでもない。
 「何でこんなんになっちゃったんだろうなあ」と、奇怪な生物の姿を見ては感嘆しているだけである。
 アホの一種と言ってもよい。

 たとえば、イカ。水族館で、ヘリコプターのホバリングのように水中でゆらゆらしているイカの姿を見ると、魅了される。
 ひれと言っていいのかどうかわからないが、胴体のまわりの薄い膜のような部分を、スタジアムの観客のウェーブのように波立たせて、現在位置をキープする。
 コトがあれば、尻(というのか?)から水を吹き出して、ロケットのように高速で進む。

 海中にたまたまできたタンパク質を放っておいたら、何十億年か後、勝手にイカになってしまったというのだ。こんな不思議なことはない。

 いや、イカでなくとも、人間の体について考えるだけでも不思議だ。

 心臓があり、肺があり、胃があり、腸があり、脳があり、筋肉があり、骨があり、神経があり、肝臓のB細胞がある。
 それぞれが機能する形にできあがっている。白血球は外からの侵入者を攻撃するし、腎臓は汚れを漉してくれる。よく使うところの筋肉はだんだんと太くなる。

 何十億年か前のタンパク質が、勝手にそんなのに変わったのだ。

*   *   *


 前置きが随分、長くなった。

 今日の私的ヒットはこの新聞記事である。

・鳥の進化めぐり新説 後翼、だんだん退化?[asahi.comより]

 後脚と尾をくっつけているミクロラプトルのイラストも素敵だが、最後の一文がいい。

鳥の起源をめぐっては、「樹上降下説」のほかに、地面を走っているうちに前脚で羽ばたいて飛び上がったとする「疾走離陸説」もあり、論争になっている。

 いいなあ、疾走離陸説。
 その恐竜は何を考えて、走りながら前脚で羽ばたこうとしたのだろう。
 いや、恐竜が「考えた」のかどうか知らないが、走りながら羽ばたくには羽ばたくだけの理由が必要だ。

 羽ばたく、ということは、あらかじめ羽があったということであり、どうしてそんなものができたのかも不思議である。

 さらに、一度や二度羽ばたいたからといって、飛べるものではない。
 何十世代もかかって、走りに走って、羽ばたきに羽ばたいて、突然変異やら淘汰やらもからんで、ようやくどうにか「飛んだ」と言える状態になる。
 その執念、あるいはやむにやまれぬ事情とは何だったのだろう。

 恐竜が野っ原を走り回り、前脚をバタバタさせては飛び上がろうとしている。何匹も、何匹も。
 まるでアホの子の集団である。

 いわば、小野道風の蛙が柳に飛びつこうとし続け、子供達もその遺志を引き継ぎ、その子孫達も延々「うおおおおお、柳につかまりたいよおおおお」と続けていたら、鳥になりました、というようなものなのだ。

 まったく、タンパク質を放っておくと、大変なことになるもんだ。これだから、進化はやめられない。

 ところで、小野道風の蛙の故事は、柳に飛びつこうとし続ける蛙を見て、小野道風が発奮し、書に励んで、天晴れ筆の上手になった、という話だ。

 小野道風も惜しいことをした。
 蛙を見て発奮したのなら、なぜ素直に自分も柳の葉に飛びつこうとしなかったのか。

 何十世代と続けていれば、鳥か、せめて蛙には進化できたかもしれないのに。

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9月5日 ショッピング

 本やDVDを別にすれば、モノは必要なときしか買わない。

 別にケチでそうしているつもりはない。
 東京で夜中まで飲んでタクシーで帰る、なんていうのは随分無駄な出費だけれど、お金を使うことが気にはならない。

 なんというか、買い物、というものの楽しさがよくわからないのですね。衣服にも、モノにもあまり興味がないし。

 よくプロフィールに、趣味や休日の過ごし方に「ショッピング」なんて書く人がいる。女性に多いようだ。

 私は、面倒くさがりのくせに気短かという厄介な欠陥を抱えているので、あれやこれや迷う、ということが嫌でたまらない。
 必要に駆られて何かを買うときも、まあ、モノを手にして、長くて30秒、たいていは10秒以内に決めてしまう。

 そのせいで、家で包みを開いてから、「いやあ、これは失敗したなあ」と気づくこともあるのだが、全く使えないものでもないから、「まあ、いいか」と思う。

 そんな調子だから、人の買い物に付き合う、というのが非常な災難で、もう、ため息ばかりついている。

 それが原因で喧嘩になることもあるのだが、これはどうも、性分なので仕方がない。
 面倒くさがり、気短か、おまけに我慢ができない、という三重苦を背負っている。いろいろ、不都合なことは多い。

 時々、笑っちゃうほどの大金持ちになれたらなあ、と思う。
 そうしたら、「面倒くせえから、売り場ごと、買ってやらあ」と言えるのだが。退屈なショッピングになぞ、付き合わずに済む。好都合だ。

 が、たぶん、ショッピングを好きな人はあれやこれやと迷ったり、考えたりすることが好きなんだろう。売り場ごともらっても面白くないに違いない。

 どうにかならんもんかな、と思う。

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9月6日 残酷

 ひさしぶりに井上陽水のCDを聴いたら、安全地帯の「恋の予感」のカバーが入っていた。
 知らなかったのだが、「恋の予感」の作詞は陽水なのだそうだ。

 陽水の伸びやかな声で聴く「恋の予感」はなかなかよい。

 安全地帯による「恋の予感」がヒットした頃は真面目に聴いていなかったのだが、歌詞はなかなか意地が悪い。

なぜ なぜ あなたはきれいになりたいの
その目を誰もが見つめてくれないの

夜は気ままにあなたを踊らせるだけ
恋の予感がただ駆け抜けるだけ

 恋をしたいと思って、きれいになろうと努力しながら、見向きされない女性のことを歌っている。
 陽水らしい皮肉っぽさ、毒である。残酷と言ってもよい。

 アキ・カウリスマキ監督の「マッチ工場の少女」の1シーンを思い出した。
 主人公は20歳前後の、マッチ工場で働く冴えない女性である。タイトルでは少女となっているけれど、もう少し年は行っている。

 容貌は不細工ではないけれど、パッとしない。
 「出会い」を求めて、ダンスパーティーに行く。女性達が並んで座っていて、男性から誘われると立ち上がり、一緒に踊る。
 ひとり、またひとりと女性達が誘われて立っていく。座っている女性はだんだん減っていき、最後は主人公だけが残る。

 主人公の緊張と焦り、居心地の悪さが表情から伝わってきて、見ている方がいたたまれなくなるシーンだ。

 こういう残酷さで人を描きたくなる理由は、何なのだろうな、と思う。
 陽水も、カウリスマキ監督も、見当違いの努力をする女性を、単純に笑いものにしているわけではない。
 いや、「マッチ工場の少女」はその後の展開が悲惨すぎて、笑ってしまうところがあるけれども。

 ままならぬ人のありようを描く面白さのようなものだろうか。足蹴にする暗い喜びも、少しは混じっているかもしれない。

 アメリカの20世紀前半の作家シャーウッド・アンダーソンに「卵」という短編小説がある。
 人から面白みがないと思われている中年の男性が、面白く思われたいと、卵を使った芸を黙々と練習する。それだけの話だ。

 高校時代に読んだきりだが、男の必死さが伝わってきて、涙ぐましく感じられた。
 一方で、卵の芸ができるようになったからといって、人々が男を面白いと感じるとは思えなかった。

 当時、想像した卵の芸を練習する男の姿が、随分残酷な光景として、20年たった今でも頭の中に残っている。

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9月7日 エリツィン

 政治家には思想や政策、その結果の是非とは別に、強い印象を残す人物がいる。

 古い時代ならば、チャーチルやドゴール、ルーズベルト、レーニン、毛沢東、日本では吉田茂がそうだ。ヒットラーはその中でも別格だろう。
 戦中戦後の各国指導者はさすがに修羅場をくぐり抜けただけあって、個性が強い。

 もっとも、これはあくまで、1960年代生まれの私にとっての印象だ。世代が違えば、印象も違うかもしれない。

 戦後ならば、ケネディ、レーガン、サッチャー、日本では田中角栄がダントツだろう。
 中国では、とう小平(JISも、早く「とう」の字をなんとかしてほしい)が大きな存在だが、この人には得体の知れないところがあって、姿を見せないでいる「気配」が印象的、という不思議な人だった。

 情報があまり西側に伝わってこなかったせいかもしれないが、ソ連の指導者はレーニン以降、強烈な個性を残す政治家が出てこなかった。
 フルシチョフの豪快なハゲっぷりが印象的なくらいである。

 ゴルバチョフは一時期、大変な人気だったけれども、今となってはソ連の幕引きをして、抜け殻になってしまった人、という印象である。
 結局は、世渡りのうまい、期を見るに敏な秀才だったのではないか、とも思う。

 その後のエリツィンは、ソ連〜ロシア系の中では破格の人物だったと思う。

 繰り返すが、実績の是非とは関係なく、単なるキャラクターの話をしている。

 政治的なやり口が豪快というか、豪腕というか。
 大統領を解任されそうになると憲法などハナからないかのように最高会議を強制解体したり(日本なら自分の不信任案が可決されたからといって、国会をナシにしてしまうようなものである)、政敵がたてこもったビルを砲撃したり。
 やり口に日本的な意味での「政治的な手練手管」というものがまるで感じられなかった。

 エピソードにも事欠かない。

 どのサミットだったか忘れたが、昼の会合(真面目な話し合いだ)に出席したエリツィンは酒臭くて、各国首脳達はそばに寄りたがらなかったという。

 大統領選挙で健康不安説を覆すためにテレビカメラの前で若者とダンスしたら、その後で心臓発作を起こした。
 まるでコントである。

 ロシアの国民にしてみれば、彼の行ったこととその結果にいろいろと言いたいこともあるだろうが、無責任な立場の私からすれば、10年にひとりのキャラクターだったと思う。

 こんな話をしたのは、昨日、昔のいしいひさいちの漫画を読んだからだ。

 私はいしいひさいちの描く、いつもウォッカをラッパ飲みしているエリツィンが好きである。
 エリツィンの大ざっぱさ、豪腕、短慮、ヤケクソ、そして大物ぶりがとてもよく表れている。
 というか、私のエリツィン観が、いしいひさいちに影響されているのかもしれないが。

 亡くなったという話も聞かないし、どうしているのかな、と調べてみたら、年金生活で悠々自適だそうだ。
 ウォッカをラッパ飲みしているのだろうか。

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9月8日 原稿用紙に題名を書く

 昔の小説家はたいがい原稿用紙に書いたのだろう。

 原稿用紙の最初に小説の題名を書くときの気分というのは、どういうものであろうか。何か、独特な緊張感や高揚感があるんじゃないかと想像する。

 もっとも、「うおおおお、仕事したくねええええ」と叫びながら、辞書をパッと開いて目についた言葉を書いたとしても、それはそれで当人の勝手である。

 ともあれ、ここで扱いたいのは、「原稿用紙に題名を書く」ということである。ワープロでさらりと書くのとは違った感覚がありそうだ。
 何となくだが、「覚悟」だとか、「不退転の決意」みたいなものが胸中にわき起こるような気がする。まるで、どこぞの政治家の演説みたいだが。

 ここで、作家の心境を考えるため、作家が今まさに原稿用紙に題名を書いているところを想像してみていただきたい。

 夏目漱石が原稿用紙に「それから」と書いている。
 森鴎外が原稿用紙に「高瀬舟」と書いている。
 川端康成が原稿用紙に「雪国」と書いている。
 芥川龍之介が原稿用紙に「蜘蛛の糸」と書いている。
 志賀直哉が原稿用紙に「城の崎にて」と書いている。
 谷崎潤一郎が原稿用紙に「細雪」と書いている。
 井伏鱒二が原稿用紙に「駅前旅館」と書いている。

 いずれも、違和感はない。あくまで私の想像だが、気の張りのようなものも感じられる。

 しからば、この人はどうか。

 三島由紀夫が原稿用紙に「愛の渇き」と書いている。
 三島由紀夫が原稿用紙に「ラディゲの死」と書いている。
 三島由紀夫が原稿用紙に「美徳のよろめき」と書いている。
 三島由紀夫が原稿用紙に「獣の戯れ」と書いている。
 三島由紀夫が原稿用紙に「愛の疾走」と書いている。

 どんなもんだろう。気恥ずかしくならなかったのだろうか。
 私なら、例えば、「美徳のよろめき」とペンで原稿用紙に記した直後、急に恥ずかしくなって、「だよーん」と書き添えてしまいそうだ。

 「美徳のよろめき だよーん」

 まあ、「美徳のよろめき」などと書いても気恥ずかしくならなかったのが、この作家の特徴なのだろう。

 私は三島由紀夫の作品を読んで、あまり面白いと思ったことがない。たいてい、途中で飽きる。肌が合わないようだ。

 三島由紀夫には熱狂的ファンがおり、身も世もなくのめり込む人もいるので、先ほどから地雷原を歩いているようなものなのだが。

 バランスを取るために、三島由紀夫が嫌っていた太宰治(三島由紀夫の「第一私はこの人の顔がきらいだ」という文が残っているそうだ)についても、想像してみよう。

 太宰治が原稿用紙に「人間失格」と書いている。

 書いた瞬間、自分でヘコみそうだ。
 しかし、わざわざ自分でこういう題名を書ける人というのは、単純な自己嫌悪だけでなく、一種の計算高さのようなものも持ち合わせていると思う。

 三島由紀夫の題名には臭気ふんぷんたるものがあるが、太宰治の題名にも別種の臭みがある。
 まあ、計算のない優れた作家はいないのかもしれないが、あまりそういうものが見えると、シラケる。

 しまった。太宰治にも熱狂的ファンがいるのだった。ひとつの地雷原を避けようとして、別の地雷原に来てしまった。

 えーと、三島最高! 太宰最高! ヒャッホウ!

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9月9日 斜陽館

 昨日、太宰治についてちょこっと書いたついでに、いくつかサイトを見ていると、こんなのがあった。

・金木町太宰治記念館「斜陽館」

 太宰治の生家を、実家の津島家が戦後に手放し、買い取った人が昭和25年に旅館にしたらしい。

 太宰治が入水自殺したのは昭和23年だから、まだ事件の記憶は人々の中によく残っていただろう。それを利用して、儲けようということだったのだと思う。

 それにしても、「斜陽館」という名乗りは凄い。まるで潰れかけている旅館が、ヤケクソで開き直ったみたいだ。

 斜陽館は平成8年に金木町が買い取って、太宰治の記念館にしたそうだ。
 買い取った理由はわからないが、もしかしたら本当に旅館として斜陽になったのかもしれない。

 「人間失格館」にしなかっただけ、まだ良識があったとすべきか。

 この伝で、いろんな作家の生家を旅館にすると、どうなるだろう。

 三島由紀夫の「美徳のよろめき館」は、なんだか、旅館というより秘宝館のにおいがする。

 井伏鱒二の「駅前旅館」では、そのまんまだ。

 二葉亭四迷の「浮雲館」は、なかなかきれいである。旅館として、いい感じの老舗になりそうだ。

 森鴎外の「渋江抽斎館」は、どっちの記念なんだかわからない。

 田山花袋の「蒲団館」というのは、そこはかとなく、おかしい。

 坂口安吾の「堕落館」なんていうのは凄い。中では思いっきり、退廃的な光景が繰り広げられていそうだ。

 江戸川乱歩の「黒蜥蜴館」、「芋虫館」は、部屋に入ったら、床や壁に大量のそれらが蠢(うごめ)いていそうで、気持ち悪い(うええ)。「人間椅子館」は、座るのがためらわれる。

 大江健三郎の「性的人間館」、「飼育館」となると、予約するには相当な勇気がいる。

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9月10日 野球というスポーツ

 以前から思っていたのだが、プロ野球再編の騒動を見ていると、野球というスポーツ、およびそのファンはつくづく保守的だな、と思う。

 まず私の現在のスタンスを書いておくと、プロ野球の試合自体にはそんなに興味がない。

 子供の頃に背負った業のようなもので、マリーンズというチームの勝敗が気にはなる。しかし、わざわざ千葉まで試合を見に行きたいと思うほどではない。

 試合を見れば面白いときもあるけれど、長ったらしいので、敬遠気味である。
 何しろ、2時間半から3時間だ。映画でも見た方が濃い時間を送れる。

 プロ野球を愛しているか、と問われれば、昔馴染みだし、いくらかの愛はある。
 昔通った学校のようなもので、廃校になると聞けば喪失感はあると思う。しかし、同級生と肩を組んで校歌を唱うほど、ノーテンキに愛しているわけではない。

 大相撲と一緒で、テレビをつけてたまたまやっていれば、しばらく見ることもある。
 しかし、基本的には、どこかでちゃんと存在していてくれればよい、積極的に自分から見るほどではない、という感じである。

 こう書いてみると、私も、プロ野球に対して、保守的な感情を持っているようである。

 で、今回の、バファローズとブルーウェイブの合併、それから1リーグ制をめぐるドタバタだが、アンケート調査を見ると、合併反対、2リーグ制を支持する人の方が多い。

 毎日新聞が9月3〜5日に行った全国世論調査(面接方式)では、「2リーグ制がよい」が43%、「どちらかと言えば2リーグ制がよい」が18%、「1リーグ制がよい」「どちらかと言えば1リーグ制がよい」は計8%しかなかったそうだ。

・毎日新聞の世論調査

 2リーグ制支持の理由は,「日本シリーズやオールスター戦を楽しむことができる」が44%、「合併はファンの声を無視している」が39%。

 しかし、これはあくまで私の推測なのだが、この他に、「プロ野球は昔から(50年以上)2リーグ制で来たから」という理由が、大きいのではないか。つまり、そういう状態に慣れているのである。
 こういうぼんやりとした保守的感情というのは、アンケートの答にはストレートに出てこない。

 ファンが2リーグ制を支持するのは、日本シリーズやオールスター戦、急な合併話の故ばかりではない、と思う。
 試しに、「ファンの声を聞いて」合併はやめて12球団、ただし3リーグ、各リーグ優勝チームによるプレーオフ(トーナメントでもリーグ戦でも可)で日本シリーズをやる、オールスター戦は東西対抗にする、と提案してみたらいい。
 おそらく、反対意見が多いだろう。「プロ野球とはそういうものではない」からだ。

 たとえば、サッカーのJリーグの意味不明な前後期制をやめ、東西2リーグに分けると提案したらどうなるか。
 ファンからは反対意見も出るだろうけれど、プロ野球再編ほどの大騒動にはならないと思う。
 Jリーグには、まだファンに保守的感情を強く持たせるほどの伝統がないせいだ。

 私は別に1リーグ制を支持しているわけではない。いっそ、5リーグ制くらいにしてもいいと思っているくらいだ。それでは、ただの対抗戦の集まりだが。

 まあ、それは冗談で、やはり2リーグ制に落ち着くと安心する。合理的理由によるものではなく、保守的感情によるものだ。

 ところで、ナベツネが巨人のオーナーを辞任して、再編騒動がツマラなくなるかと思ったら、「一個人として」相変わらずあれやこれやと吹いてくれる。
 マスコミも大いに助かっているだろう。私も、楽しみが続いてくれて、ありがたい。

 木村剛がナベツネを「プロ野球界、最強のコンテンツ」と書いていた。私もそう思う。

 試合、チーム、選手が最強のコンテンツになれないところが、今のプロ野球の厳しいところである。

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9月12日 引っ越し

 日記はブログでやってみることにしました。

 新しいURLは、

http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/

 飽きたら、またこっちに戻すかもしれません。

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