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ひぐらし日記
月の一覧表
2004年
2月28日 関西弁とブルース
2月27日 命名権ビジネス
2月26日 だんどり
2月24日 哲学者と胃腸
2月23日 意味
2月22日 日記
2月20日 寝相
2月18日 肉問題の日々
2月17日 ううう
2月16日 悪の中小企業
2月15日 大人類史
2月14日 未来の予測
2月13日 2001年宇宙の旅
2月12日 アニメ的
2月11日 筒と穴
2月10日 このダメぶりはどうか
2月9日 地軸
2月8日 涙の乗車券
2月7日 名前
2月6日 鼻血
2月5日 知識自慢
2月4日 繰り返す
2月3日 東京と大阪と
2月2日 理論武装
2月1日 200億円の笑顔
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2月1日 200億円の笑顔
青色発光ダイオードの発明者、中村修二氏に、当時勤めていた企業、日亜化学は対価として200億円払うべし、と判決が出た。
200億円である。ニュースを聞いた多くの人が、まずその金額に驚いたろう。私も、この土日の間、ずっと桃色発光ダイオードを発明できないか、頭を悩ませていた。
が、しかし、赤、緑、青の光の三原色の発光ダイオードが揃えば、ディスプレイでは桃色を表現できるらしいので、たとえ発明しても200億円にはならないようである。今、肩を落としながら、これを書いている。
記者会見で、中村氏は終始笑顔だったようである。それはそうだろう。なんたって、200億円だ。
・200億円の笑顔
ただし、私は記者会見をちゃんと見聞きしたわけではないので、中村氏が200億円を喜んでいるのか、自分の主張が通ったことがうれしいのか、企業研究に新たな道筋をつくったことを誇りに思っているのか、記者と猥談を交わしているのかは、知らない。
ちなみに、こちらは香港、100万ドルの夜景である。
・100万ドルの夜景
1月30日現在で1ドルは約106円だから、1億6百万円の夜景ということになる(えらく安い)。
もし中村氏が今回の判決の通りに収入を得られれば、所得税と住民税を払って、100億円が手許に残る。
香港の夜景を94箇所、作ることができる計算だ――というのは、もちろん無理矢理なボケである。インフレと、そもそものネーミングの適当さを無視している。
ところで、青色発光ダイオードは「世紀の発明」と言われているそうだ。どうもよくわからない。発明されたのは1993年で、20世紀のことである。
20世紀の発明というなら、テレビやコンピュータや飛行機やロケットの方が何倍も凄いと思う。そもそも、青色発光ダイオードが世紀の発明なら、その元になるダイオードの発明はどう考えればいいのだろう?
まあ、プロ野球やサッカーに、2、3年に1度は「10年に1度の逸材」が登場するのと、同じ類であろうか。
それはいいとして、日亜化学は、もし控訴審で負けたらどうするのだろう。
200億円分を、有価証券など、簡単に換金できる形で持っているならともかく、設備投資などに回していたら、中村氏に支払えず、倒産しかねない。
いや、別に日亜化学の肩を持っているわけではない。私には、判決の妥当性を判断できる知識も、頭も、そもそもやる気もない。
単に、日亜化学の社内は大騒ぎだろう、と思っただけである。
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2月2日 理論武装
私は、新聞記者なんかがヨロコぶ、あの根性の卑しい諷刺なるものをしたいわけではない。
単に、くだらないことをくだらないままに書きたいと思っている。
自衛隊のイラク派遣が現実のものとなった。
すでに先遣隊が派遣され、本隊も明日、出発するという。
派遣については、憲法との関係が問題になっている。
もし、攻撃を受けて反撃した場合、「海外における武力行使」に当たるのではないか、それは憲法違反ではないか、というわけである。
そう、問題は武装なのである。
武装にはふたつの意味がある。
ひとつは、武装することによって、「オラオラ! 俺たちゃアブナいことだってできるんだから、近寄るんじゃないよ!! コラ、下がれっつってんのに。危ないよっ! 危ないので、白線の内側までお下がりください」とまあ、威嚇の意味がある。
武装のもうひとつの意味は、もちろん、武力行使をすることだ。
威嚇をものともせずに攻撃してくる相手だったら、どうなるか。「憲法のためだ。黙って死んでくれ」と言われたって、隊員は納得できないだろう。
無抵抗にコロされるわけにはいかないから、反撃するか、逃げることになる。
個人的には、最初から逃げる支度をしておいて、頃合いを見て戻ってくるのがいい、と思っている。しかし、見栄とか面子とか恥とか国際的発言力がどうのこうの、という面もあるだろうから、なかなか逃げるのは勇気がいるだろう。
結局、反撃することになる。そうすると、憲法違反ということになりかねない。
そこで提案したいのが、理論武装である。
小泉首相「自衛隊は武器を持っていくけれど、なるべくなら使わずに済むように願いたいな」
福田官房長官「そうですね。しかし、しかるべき場合には、交戦も覚悟しませんと」
首相「そんなことになったら、国民が内閣総辞職を求めるんじゃないか。それは困る」
官房長官「そこで、私、考えましたんですけどね、武装は武装でも、理論で武装するというのはどうでしょうか。これでしたら、交戦するにしたって、口喧嘩のレベルで抑えられます。憲法の問題もクリアできるのではないか、と」
首相「うん、名案だ。それでいきたまえ。米百俵の精神だ」
というわけで何が米百俵の精神なのかよくわからないが、陸自精鋭の理論武装部隊が編成されるわけである。
現地で宿営地が銃撃される。
理論武装部隊は、土嚢の後ろに隠れながら、時々顔を出して、ハンドマイクで叫ぶ。
「あー、そこのキミ達!」
パーン、パーン。慌てて、土嚢に隠れる。
頃合いを見て、また顔を出す。
「マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、こんなことを言っている……」
ダダダダダ。カンカンカン。
「ダメです、隊長! マックス・ウェーバーは不評のようです」
「うーむ、やはりプロテスタンティズムがまずかったか」
「イスラム系の哲学者だとどうでしょう」
「よし、やってみよう」
また顔を出す。
「あー、キミ達! イスラム世界最高の哲学者、14世紀のイブン=ハルドゥーンは知っておるかね?」
ヒュルルルル、ドッカーン。
「隊長! まずいことに、スンニ派ではなく、シーア派のようです!!」
「困った。井筒俊彦先生でも連れてこればよかった……」
やはり、現地のキビしい状況に、理論武装では太刀打ちできないようである。
イラクは諦めるが、どこかで戦争が起きたら、ぜひ理論武装部隊同士の戦いを見てみたい。
論破、論難、難癖、嫌み。説伏、説得、説教、あげ足取り。ありとあらゆる思想、哲学、論法、修辞法が入り乱れて、凄い戦いが行われると思う。
特に、ドイツのカント/ヘーゲル直系哲学理論武装部隊と、中国の朱子学系理論武装部隊の対戦なんて、どんな展開になるのか想像もつかない。
論戦を馬鹿にしてはいけない。中国の故事では、論破された方が、しばしば憤死したようである。
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2月3日 東京と大阪と
ある大阪の人に言わせると、「東京の電車の中はシンとして、気味が悪い」そうだ。
東京の車内でも、もちろん話をしている人はいる。しかし、確かに黙っている人は多い。
大阪の車内の方がにぎやかというか、喋っている人が多いようである。
大阪の人がしばしば「東京の人は気取っている」とか、「冷たい」と言うのは、そういう印象にもよるのかもしれない。
誤解であろう。実際には東京でも気取っていない人の方がずっと多いし、冷たい人は全体から見れば少数だろう。
ただ、知らない人が多い場所(車内が典型だ)では、無意識のうちに周囲となるべく距離をとる習性があるのだと思う。
そういう習性がどういうふうにできてきたのかは、興味深い。
東京でも、いわゆる下町の方は人と人との垣根が低いというか、大阪(といっても、地域によっていろいろだろうけど)の気安さに似たところがある。
ただし、マンションの浸透と商業圏の移動によって、下町はだんだん縮小しつつあるようだ。
東京は、東京以外の出身者が集まって拡大してきた都市だ。
東京以外の出身者にとって、東京には地縁的な人間関係は少ない。そういうところから、知らない人とは距離をとる習性ができてきたのかもしれない。
下町と対照して語られる山の手も、武家、武家関係者か、明治以降に地方からやってきた人が多く住んだ町だ。
下町ほど、人と人との垣根が低くないのはそのせいだろうか。考えてみれば、武家だって、旗本を別とすれば、当時の地方出身者(代々、江戸詰めの家は別として)である。
私自身は富山で生まれ育って、18歳のときに東京に来た。その後、東京近辺に住んでおり、仕事は主に東京でのものだから、既に人生の半分以上を東京圏で過ごしていることになる。
では、自分に東京人という自覚があるかというと、全くない。
反対に、既に富山の人間という意識もなくなった。宙ぶらりんというか、浮き草的というか、そもそも「〜の人間」という感覚がないようである。
初めて東京に来たときは、電車の中のシンとした雰囲気に、「母ちゃん、東京は怖いところだあ」と思ったものである。
嘘である。富山にいる頃は日常的に電車に乗ることはなかったので、そういうものだ、と思っただけだった。
一方で、大阪には親戚がいて、子供の頃からよく遊びに行っていた。中学まで、毎年、夏休みに1週間から2週間滞在していたので、割と馴染みがある。
大阪の人には、知らない人にでも割と気さくに話しかけてくるところがある。時には油断しすぎじゃないか、と思うくらいだ。
大阪のそういうある種の馴れ馴れしさを好まない東京の人もいるようだが、私は気安くて、好きである。仕事などで大阪に行くと、いつもなんとなく楽しい気分になる。
一方で、東京のお互いに立ち入りすぎない暗黙の了解のようなものも、気楽でいい。
そんなわけで、えーと、何を言いたいのか、自分でもわからなくなってしまった。
というか、最初からさほど言いたいことなどなかったのかもしれない。
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2月4日 繰り返す
日本語独特の特徴なのか、他の言語でも見られる現象なのかは知らないが、少なくとも日本語では、しばしば同じ言葉を繰り返して、新しい言葉ができあがる。
「ワンワン」とか、「ニャンニャン」、「ボサボサ」、「ゲラゲラ」などの、擬音語、擬態語に多いが、それだけではない。
驚くようなことを言った人に対して、「またまたあ」と言ったり、暴走族の皆様が暴走なさるときに「おらおらあ」とお叫びになったり、そういう人々に警官の方々がご注意なさるときに「こらこら」とおっしゃったりする。
ちなみに、「こら」というのはもともと鹿児島の方言だそうだ。特に怒るための言葉ではなくて、単なる呼びかけの言葉だったらしい。
明治維新のとき、東京で警官になった薩摩武士が多かったことから、共通語の叱りつける言葉になった。確かに、警官が人に呼びかけるのは、多くの場合、叱るときだ。
知識自慢をしてしまった。
大学の頃にいたサークルで、述語をやたらと繰り返すのが流行ったことがあった。
たとえば、「昨日のコンパどうだった?」と訊ねると、「もう、飲む、飲む」などと答えるのである。
「飲む」の「の」を高く、「む」を低いイントネーションで言うのがポイントだ。なるべく強調する口調で言う。そうすると、つまらないことでも、ひどく大げさに聞こえる。
「起きる、起きる」、「電車に乗る、乗る」、「授業に出る、出る」、「寝る、寝る」、「教授が怒る、怒る」などと、とにかく全て強調して話してはゲラゲラ笑っていたものである。
まあ、今、こうやって書いていても、何が面白かったのか、わかるような、わからないような、だが。
言葉の繰り返しには、もうひとつ使い方がある。人の名前の一部をとって、繰り返すと、可愛らしいような、馬鹿にされているようなニックネームを作れるのだ。
たとえば、「稲本」なら「イナイナ」なんてニックネームにする。ちょっと小馬鹿にするような、でも、愛されているようなニュアンスが生まれる。
権力や権威のある人にこれをやると、相手をひきずり落とすことができる。
たとえば、安部晋三自民党幹事長だと、「アベアベ」なんていうふうにする。いや、「シンシン」の方がいいかな。強気なようで、どこか腰の甘さを感じさせる安部幹事長には結構、合うと思う。
石原伸晃国交大臣も、「ノブノブ」なんてふうに呼ぶと、弱腰な感じが出て、いい。
ただ、菅直人民主党代表を「カンカン」と呼ぶのは、何か怒っているみたいでよくないかもしれない。まあ、あの人は怒りっぽいようだから、合っているといえば合っているが。「ナオナオ」の方がいいか。
中曽根康弘大勲位(なんか、位牌みたいだな)を、「ナカナカ」とか、「ヤスヤス」と呼ぶのは、なぜかイマイチな感じがする。大勲位からとって「クンクン」なんていうのがいいな。
皆様も、学校・職場でお試しください。ではでは。
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2月5日 知識自慢
「誰かに教えたくなる雑学」とか、その手の本がある。
今、素早くAmazonで検索してみると、こんな本が出てきた。
・思わず人に教えたくなる雑学館
・きっと誰かに教えたくなる読めるようで読めない漢字2500
・だれかに教えたくなる今どきの雑学700
・みんなに教えたくなる!ふるさと自慢オモシロなんでも日本一
・みんなに教えたくなる!雑学 身近な食材大疑問
・人に教えたくなる雑学の本―ついつい話したくなる身の回りのマメ知識
・つい他人(ひと)に自慢したくなる無敵の雑学
・他人につい自慢したくなる「数」の雑学
・言葉の秘密 知ったかぶり!―誰かに自慢したくなる「日本語」の話
私はこの手の本を買ったことはないが、本屋で立ち読みしたことはある。書名は忘れたが、マメ知識とか、ウンチクとか、短いエピソードなどが、2、3ページずつ並んでいた。
たまたまその本のデキが悪かったのかもしれないが、さほど人に教えたくはならなかった。
こういう書名を見ると、「教えたくなったり、自慢したくなったりする方はいいとして、教えられたり、自慢されたりする方はどうなんだろう?」と思う。
人からある知識を伝えられて、聞いた方がよかったと思うのは、自分の興味のあることだった場合か、何かの役に立つ場合か、よほど内容が意外な場合か、相手の語り方が面白い場合か、に限られると思う。
「トリビアの泉」という番組があるけれど、主に後の2つの路線を狙っているようだ。
仕事などに必要なケースは別として、逆に日常会話の中で知識を人に伝えたくなるのはどういう場合だろうか。
私は、もっぱら、相手を面白がらせたい場合か、教導したい場合か、相手より優位に立ちたい場合だと思う。
相手を面白がらせるときは、その知識自体が面白いか、語り手が面白く語れる話術を持っていなければならない。
教導したい場合、相手は教導されたくないかもしれない。
相手より優位に立ちたい場合は、聞き手が相対的に下位に立って、不快感を覚えることがある。
知識自慢には、注意が必要だと思う。「トリビアの泉」で「へえ〜」とやっているけれど、日常会話では「はあ」となることが多いのだ。
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2月6日 鼻血
昨晩、何を突然、コーフンし始めたのかわからないが、鼻血が出た。
あぐらをかいていた。一瞬、鼻が詰まった後、腿にポタポタと水滴が落ちるのを感じた。
見てみると、赤黒い血である。床にも落ちて、ちゃんと表面張力で盛り上がっている。
「ややや」。突発的な展開に驚いて、ティッシュペーパーを取ろうと体を動かしたら、買ったばかりのカーディガンにまでひっかかってしまった。
ティッシュペーパーを丸めて、鼻の穴に突っ込んだ。
私だってオスであるからして、けしからぬことを想像することがないとは言わない。しかし、誓って言うが、そのときは別に妄想にふけっていたわけではない。
私が世界を守るには、どうしたらいいかを考えていたのだ。
そのまましばらくたって、「そろそろ止まったかな?」とティッシュペーパーを抜いた。
鼻の下に液状のものがたらたらと流れるのを感じた。
流れ落ちた血はカーディガンからジーンズへと伝わった。結構な量である。
再び鼻の穴にティッシュペーパーを突っ込んだ。なんとも、間抜けな格好だ。
ティッシュペーパーを取り替えるために抜くごとに、鼻血がだーと流れる。
悪いことに、ちょうど風呂を沸かしていた。
どうにか治まったのを見計らって、風呂に入った。
のぼせて、再び鼻血が吹き出た。湯船が真っ赤に染まり、ハリウッド映画の殺人現場のようになってしまった。
――というのは誇張のしすぎだが、鼻血が再発したのは本当である。
シャワーで顔から鼻血を流し落とし、鼻をタオルで押さえて、風呂からあがった。
またもや、鼻の穴ティッシュペーパー男と化した。
軽く仕事をして、きりのいいところでやめた。
その頃には、鼻血もどうやら止まってくれた。
快気を祝って、一杯やった。
再び鼻血が流れ落ちた。
愚か者である。わざわざ血を吹き出させるようなことばかりやっている。
あのまま、鼻血が流れ続けたら、どうなったのであろうか。出血多量で死んだのか。
稲本喜則、享年37歳。死因:鼻血
なるべくなら、避けたい事態である。
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2月7日 名前
大阪近鉄バファローズが、バファローズの頭につける名前を売る、というので話題になった。
各球団は、いっせいに反対。それも、猛反対と言っていいくらいだったと思う。
そんなに熱心に見聞したわけではないけれど、マスコミの論調も、手厳しいものが多かったようだ。
予想以上の反発に、近鉄側がビビって、結局、白紙撤回。
買うために40億円ほど用意していたのに、残念である。
買ったあかつきには、大阪ヨシノリ・バファローズか、よっちん・バファローズにでもしようかと思っていたのだが。
「福岡ドームで行われました福岡ダイエー・ホークス対よっちん・バファローズの試合は〜」と、ニュースも痒くなって、面白かったろうに。
しかし、この余った40億円、何に使おう? 社民党くらいなら、買えるかな。
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2月8日 涙の乗車券
ビートルズに「Ticket to Ride」という有名な曲がある。
彼女が乗車券を買って、自分の元を去ろうとしている、悲しい、悲しい、とまあ、そういう内容の歌だ。
・どこかにあった「Ticket to Ride」の歌詞
曲調はえらく違うが、内容は浜口庫之助先生作詞・作曲による守屋浩の「僕は泣いちっち」と同じようなものである。
・どこかにあった「僕は泣いちっち」の歌詞
「♪ぼ〜くの恋人、と〜きょ〜へ、行っちっち!」というわけで、情けない歌である。薩摩武士なら、「ちぇすとーっ」と自顕流の一撃で叩っ斬られても仕方あるまい。
というわけで、突然ではありますが、私はここに、ジョン・レノンは浜口庫之助先生の「僕は泣いちっち」をパクったのだ、という説を唱えるものであります。
誰の賛同も得られないことも、重々承知のうえなのであります。
まあ、それはいいとして、「Ticket to Ride」は最後に細かな16ビートになって、ちょっとテンポをアップしたような感じになる。
原曲を記憶していない人はわからないだろうが、そういう者はあっさりと見捨てる。
ジョージ・ハリスンのへなちょこなギターソロと掛け合いで、「My baby don't care.」と繰り返す。メロディは「ミ↑〜(My)、ドソ(baby)、ファ〜(don't)、ミ(care)」と、急なテンポアップと合わせて、ちょっとキチガイじみた感じだ。
あの部分、英語がネイティブの人はどんな印象を受けるのだろう。
日本語に訳すなら、「ミ↑〜(ハァ〜)、ドソ(気に)、ファ〜(しね)、ミ(え)」と、えらいヤケクソというか、槍投げに感じられるんじゃないか。
この時期のジョン・レノンの曲は、音に、粗い木綿のようなザラッとした感触があって、好きだ。
しかし、「Ticket to Ride」の最後は、今ひとつ納得できないのである。
結構、丁寧に曲を作って、アレンジもしているのに、最後に面倒くさくなって放り捨てたように感じられる。
まあ、東京へ行っちっちで泣いちっちであるからして、ヤケクソになるのもおかしくないのかもしれないが……。
なお、「Ticket to Ride」は、いろんな歌手にカバーされている。少なくとも私は、ひとつとしていいと感じたことがない。それも、不思議といえば不思議である。
ついでに言えば、邦題の「涙の乗車券」というのも変ではなかろうか。乗車券を買ったのは彼女であって、しかもオイラことなんか気にしちゃくんねえ、のだ。乗車券がどうして涙に濡れるのだろう?
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2月9日 地軸
今日は暖かい。
さすがに2月も10日近くになると、寒さがゆるんでくるようだ――と油断してハダカで浮かれ踊っていると、急に気温を下げて風邪を引かせるのが、ヘクトパスカルどものいつもの手である。
そうして、私は毎度毎度、その手に引っかかる。
こう暖かくなってくると、昔のやんごとなき方々が「水ぬるむ〜」などと歌を詠んだ気持ちもわかる。
もっとも、私はやんごとなくないうえに、詩歌についてはまるっきり猿なので、「水ぬるむ〜」の後にどんな言葉が続くのか、覚えていない。自分で「水ぬるむ〜」という歌をつくることもできない。
無理矢理につくろうとすると、こんなふうになってしまう。
水ぬるむ でもまだ冷たい 嫌だなあ
湯沸かしあるから だいじょうぶ
今この瞬間、思いっきり馬鹿にされたことはわかっている。
暖かくなったり、寒さがぶり返したりしながらも、季節はだんだんと春に向かっていく。
どうしてかというと、科学的には地球というのが、地軸を23.4度傾けた、斜に構えたヤロー(かギャルか、ババアか、ベイビーか知らないが)だからだ。
北半球側の軸が太陽から離れたときには、日光が斜めに当たることになり、熱量が広い面積に拡散される。一定の面積あたりがいただける熱は減るので、寒くなる。大勢に金をバラまくと、ひとりがゲットできるお金が少なくなるようなものだ。
逆に軸が太陽側に傾いたときは、頭上近くに太陽が来て、熱が集中する。当然、熱くなる。少ない人数でお宝を山分けだ。
うーん、うまく説明できた自信がないな。懐中電灯を床に斜めに当てると光が弱く感じられ、垂直に当てると強く感じられるようなものです。これでもわかりにくいか。
まあ、いいや。ついてこられない者は、あっさりと見捨てます。中学の理科で学ぶので、家庭教師のトライにでも電話してください。
でまあ、この地軸の傾きというのは偉いもので、これがなければ春夏秋冬の違いというのは生まれなかったわけだ。
そうすると、やんごとなき方々が「水ぬるむ〜」と詠むこともなく、正月に「初春の」などと言い出すこともなく、桜の花も4月には咲かず(いや、年中咲くことになるのかな、季節がなかったら)、夏もなく、TUBEは失業することになり、ヴィヴァルディは「一季」という曲を書き、泉谷しげるは「春夏秋冬」ではなく「春春春春」という歌を唄うことになるのである。
というか、そもそも四季というものがなかったら、生物の進化の具合も随分違ったものになったろうから、人類すら生まれていたかどうかわからない。
そんなわけで、23.4度の傾きに我々は感謝すべきなのである。斜に構えた態度が何かを生み出す、ということもあるわけだ。
ま、おれにゃ、関係ないけどね。へっ。
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2月10日 このダメぶりはどうか
「最近の若い者は〜」というのは、古代メソポタミアの遺跡からの出土品にも書かれていた、古いフレーズなのだそうだ。
私は、人生の最初の方でズッコケて、ズッコケたまま現在に至っているので、あまり他人様のことをとやかく言えない。
しかし、ある程度の年をいった人が、「最近の若い者は〜」と言いたくなる気持ちも、まあ、わかる。
年をとれば、それなりに経験してきたことがある。「こういうときはこうすべきだ」、「こういうことはしてはいけない」、「こういう態度でいるべきだ」という公式のようなものも持っている。
しかし、若い人は、そういうものをあまり持っていないから、危なっかしく見えてしょうがないのだろう。
一方で、若い人は追う立場、年とった方は追われる立場だから、無意識の焦りや不安、反感も作用するのかもしれない。
また、若い人は一般に目下として扱われるから、平気で蹴落とすことができる。「最近の若い者は〜」と貶めて、相対的に自分を高く感じよう、という心理が働くのだろう。
ここらへんは、2chなどでしばしば見られる、蹴落とし合いを思わせる。
私が大学生の頃、私より少し年上の、就職したての世代は、「新人類」と呼ばれた。
そのさらに上の世代から、会話が成り立たないとか、考え方が理解できないとか、やる気がまるっきりないとか、仕事の意味がわかっていないとか、さんざん言われたようである。
その「新人類」の世代の人々も、今では40歳前後。働き盛りであり、会社の中堅的ポジションにいる人が多い。
まあ、ダメなままの人もいるだろうが(私を指ささないでいただきたい)、たいがいの人はそれなりに形になっていくものなのだと思う。
こんなことを書いたのは、一昨日に紹介した浜口庫之助先生の「僕は泣いちっち」の歌詞が、あまりに情けないからだ。
・どこかにあった「僕は泣いちっち」の歌詞
出だしからして、いきなりこうだ。
僕の恋人
東京へ行っちっち
な〜にが「行っちっち」だ、いい若いもんが。と、当時の上の世代からはバカにされたのではないか。
特にひどいのは、2題目である。
みんな浮き浮き踊るのに
なんで、なんで、なんで
どうして、どうして、どうして
僕だけションボリみそっかす
うーむ、これは相当なダメ男だ。「僕だけションボリみそっかす」。このイジイジぶりはどうであろうか。
歌詞はさらにたたみかける。
涙がホロリひとりで出っちっち
お祭なんかいやだよ
何をいじけながらゴネているのであろうか。嫌なら帰ればよかろうに。
この、軟体動物のごとき私でさえ、「シャンとせんかい、シャンとっ!」とどやしつけたくなる。
「僕は泣いちっち」は昭和34年の歌だ。ナツメロとして残っているということは、当時の若い世代にそれなりに愛唱されたのだろう。
愛唱したということは、歌の内容にそれなりに共感していたと思われる。昭和34年の大人達は、「最近の若い者は〜」と呆れていたに違いない。
「僕は泣いちっち」を愛唱していた人々が当時20歳だとすると、今は64、5歳ということになる。少なくとも、こいつら、いや、この世代の方々に(私は目上を重んじるのだ)、「最近の若い者は」とは言わせないぞ。
人類は、全体として成長しているのであろうか、と思うのである。
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2月11日 筒と穴
急に妙なことに気づいた。
といっても、大したことでないのは、いつもの話だ。
「人間」というと、何やらリッパなもののように聞こえるが、要するに、筒と穴でできたものではないか、ということだ。
筒というのは、口から肛門までの消化管で、これには、上の方で鼻からの二本の筒もくっついている。入り口は3本で、途中で一緒になり、出口は一本だ。
途中から気管というのが分かれて、肺へつながり、袋小路で終わる。袋小路は他にもいくつかあって、膵臓だの、胆嚢だのにつながるところもある。
まあ、しかし、大まかに言って、人間は大きな筒のまわりを肉が覆っている、という捉え方もできるだろう。山下洋輔が「人間はしょせん下水管に目鼻だ」と書いていたが、うなずける。
で、穴の方だが、これはやたらといっぱいある。先の筒も穴といえば、穴だ。
シモの方には、排泄と生殖のための穴がある。頭部には耳と、細かいが涙腺という穴。それから、全身に数え切れないほどの毛穴と汗腺という穴がある。
よくまあ、これだけ全身穴だらけなものだ。しかも、それぞれがちゃんと役目を持っていて、どれひとつ欠けても不都合が起こる。
大昔のアメーバか何かを放っておいたら、こんな筒と穴だらけのものができてしまった。そうして、毛穴がどうの、汗腺からのにおいがどうの、とコマいことを気にするようになった。
不思議なことである。
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2月12日 アニメ的
仕事や趣味でいろいろなサイトを見ていると、時々、トップページにどーんと、ロリロリのアニメ的な絵を載せているサイトに出くわす。
私は、いつの頃からか、あの巨大な縦長の目をした少女の顔が奇怪に見えて、しょうがなくなった。偶然見たサイトでロリロリのアニメ顔に出くわすと、「うえっ」とウンコを踏んづけたような気になる。
昔のSFで言う、BEM(ベム)。バグ(昆虫の)・アイド(目をした)・モンスター(怪物)である。
実際にあんな目をした人間がいたら、こんなふうに見えるはずだ。

これでは、化け物である(本人よりはマシだ、などと言わないでいただきたい)。あるいは、松島トモ子である。
では、バカボンのパパが現実の世の中に存在したらどうなのか。楳図かずお(本人ではなく、漫画の絵の方)は、アトムは、ドカベンは、と問われると、私も答に窮する。
エジプトの横向きに歩いて胴体は正面向き、顔は横、という絵も、浮世絵の美人画だって、「リアル」という尺度に照らして言えば、変である。
そう考えると、ウンコを踏んづけたような気になるのは、別の理由による気がしてきた。
好きな人には悪いが、ああいうものを平気で受け入れて、なおかつ、自作の絵を人前に晒せる批判精神のなさ、が嫌なのかもしれない。
悪口雑言、揶揄、蹴落とし。人を不快にさせることを言っているのは、わかっている。
まあ、私には、一度嫌ったら、徹底して嫌ってしまう、という悪癖がある。リアルさだの、批判精神のなさだの、というより、そのせいと考える方が自然なのだろうが。
でも、やっぱ、気持ち悪くないですか、あの手の顔?
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2月13日 2001年宇宙の旅
ひさびさに映画「2001年宇宙の旅」を見た。
見るのは、何度目だろうか。
好きで好きでたまらない、というわけではないのだが、5、6年に一度くらいは、「また見てみようかな」という気になる。
初めて見たのは、中学のときだったと思う。映画館でリバイバル上映したものを見た。
宇宙船や宇宙ステーションのデザイン、例の壮大なR.シュトラウスの「ツァラツストラはかく語りき」、宇宙ステーションのシーンで流れる「美しく青きドナウ」には感動した覚えがある。
しかし、木星へ向かうディスカバリー号の中の話になると、だんだん「我慢」の二文字が頭の中に現れてきた。スターゲイトのシーンには「あわわわわ」と驚きながらも、「?」となり、突然白い光に包まれたホテルの部屋で「???」、赤ん坊が出てきて、「?????」、映画館を出てから、「???????」となった。
理屈を好む年頃であり、その割には知識に乏しいものだから、いろいろと考えても、不可解なままだった。
映画をご覧になっていない人、別に「2001年宇宙の旅」に興味のない人には、それこそ「?」な話をしている。
が、そういう人のことはあっさりと見捨てる。ユニットAE35でも、交換していたまえ(何のことだか、わからないだろう。ウヒヒヒヒヒ)。
初めて見たときの話に戻るが、不可解ながらも、いくつものシーンが強く印象に残った。
さっきの話と一部ダブるが、モノリスの3つの登場シーンはもちろん、宇宙ステーションへの着陸シーン、HAL9000の「目」、副船長が宇宙空間に吸い込まれていくところ、HAL9000を少しずつ「殺して」いくところ、スターゲイト、ホテルのシーンなどだ。
時々、そうしたシーンを再び体験したくなるときがあり、その後も、何度か、見た。
各シーンの強烈なイメージはいつ見ても、同じだ。そうして、いつも不可解な感覚が残る。
逆に言うと、見終わった後でいろんな解釈をしてみることも、この映画の楽しみ方のひとつだと思う。
「2001年宇宙の旅」の脚本は、監督のスタンリー・キューブリックとSF作家のアーサー・C・クラークの共同によるものだ。
クラークは小説版「2001年宇宙の旅」を書いているが、これは映画の脚本の後で書いたんだそうだ。
SFと推理小説ばかり読んでいた中学の頃、「ハードSFの巨匠」ということで、当然、クラークの小説も読んだ。
しかし、あまり好きにはなれなかった。理屈っぽすぎるというか、発想が直線的すぎるというか、「知性」と「合理性」をあまりに素直に信用しすぎているというか、そういう感じがしたのだ。
だいたい、「ハードSF」という呼び名からして、よくわからない。じゃあ、反対に「ソフトSF」というのがあるのか。サドマゾじゃああるまいし。
何を突然、怒り始めたのか、自分でもよくわからないが、キューブリックとクラークの組み合わせというのは微妙だと思う。
映画「2001年宇宙の旅」が傑作であることは間違いない。そして、クラークの協力がなければ、この映画はできなかったろう。
しかし、キューブリックとクラークでは、最終的に目指しているものが違う気がする。
クラークは真面目に、人類の次の段階への進化というものを信じており、それを素晴らしいことと捉えている。
一方、キューブリックは、「進化」だのなんだのは、道具立てとしてあればよく、映画的なサスペンスを、美しくも強烈な映像で表現できればそれでいいと考えている。そういう意味では、まさに「映画芸術家」である。
だから、キューブリックに「『2001年宇宙の旅』は、結局、何が言いたかったのですか?」と訊ねても、まともに答はしないだろう。
答があるとしたら、あの映画まるまる全部が言いたかったことです、ということだと思う。
一方のクラークに同じ質問をしたら、きちんと言葉で答が返ってきそうだ。
そこらへんが、クラークの物足りなさ、だ。底知れなさというものがない。
おそらく、クラークは、雑誌の「Newton」的な世界観を素直に信じているはずだ。
一方、キューブリックはそうでない。だからこそ、コメディ、SF、歴史映画、スリラー、戦争映画、ポルノ、といろんなジャンルの映画に手を出せ、しかも、そのどれもがキューブリック的としかいいようのない出来になるのだ。
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2月14日 未来の予測
昨日に続いて、映画「2001年宇宙の旅」の話。
「2001年宇宙の旅」は1968年の作品である。
アポロ11号が月面に着陸したのが、1969年。まだ、特別な訓練を受けた限られた人物が宇宙空間に行って戻ってくるのが、精一杯の頃の作品だ。
そういう中で、あれだけの未来像を描けたのは凄いことだと思う。
もっとも、それはキューブリックだけの功績ではないだろう。
時期的には宇宙に対する夢と希望が大いに盛り上がっていた頃だ。科学者が、具体的な技術の裏付けがさほどなくても(というか、ないからこそ)、宇宙ステーションだの、惑星間有人飛行だの、の姿を、自由に想像できたのだろう。
それらの中から、いいものをキューブリックとデザイナーが選んだのだと思う。
映画の中に、いろいろな未来の道具類が出てくる。
あれらは、当時のアメリカの大企業が、「2001年の我が社の製品はこうなっている」というふうに、未来像を描いてみせたものだそうだ。
たとえば、月への宇宙船の中でテレビ電話が出てくるが、あれらのデザインやインターフェイスはAT&Tが製作した。月への定期便の船内は、パンナムだったか、ユナイテッドだったか、それともボーイングだったか、忘れた。
企業側からすれば宣伝になる。映画製作側からすれば、アイデアを得たり、プロトタイプの提供という形で製作費を減らせたりする。なかなかうまいことやったものだと思う。
我々が今、生きている現実の世界は、映画からはだいぶ遅れてしまったようだ。
宇宙船方面では、ようやく無人の火星探査機が走り回っている。
中国は、有人飛行を成功させて浮かれている。
スペースシャトルは落っこちた。
日本は、あまり正確に覚えていないが、やたらとロケットの打ち上げに失敗している気がする。
木星への有人飛行へはほど遠い。
宇宙ステーションは、一応、国際協力のもとで作られているが、あんなに居心地のいいものではないし、ロシアの経済問題やスペースシャトルの事故で計画は遅れている。
月面基地はまだ影も形もない。なので、モノリスはまだ埋まったままだ。
HAL9000はできていない。
しかし、コンピュータについてはだいぶ発展の方向が変わってきた。
当時は、コンピュータの未来と言えば、人工知能、という認識があったようだ。
しかし、現実のコンピュータは、機械類を電子制御する部品を別とすれば、メディアとして発達してきた。
HAL9000の方向ではなく、テレビや電話、文房具、手紙、計算機としての機能を充実させる方向で進んできた。
ざっと考えてみて、映画より現実の方が明らかに進んだのは、ゲームくらいではないか。
映画にはディスカバリー号の船員がHAL9000とディスプレイ上でチェスをするシーンがあった。
市松模様の盤面の上に、ピクトグラムの単純な絵があるだけだった。
CGがこれだけ進んで、まさかゲームの中で擬似的にバンバン人を撃ったり、ロリロリのアニメ顔の少女と恋愛ごっこをしたり、トンボ捕りをするようになろうとは、キューブリックも想像しなかったろうなあ。
人の欲望を喚起するものの進歩は早い、と、突然ではありますが、ここで仮説を発表して、終わりとさせていただきます。
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2月15日 大人類史
シツコくも、映画「2001年宇宙の旅」の話の続きである。いい加減、うんざりしている方も多いだろうが、かまわずにどんどん行く。
ディスカバリー号の船長ボーマン博士は、最後に胎児「スター・チャイルド」に変身し、宇宙空間を漂う。
「スター・チャイルド」は、映画の画面上では、ほとんど地球と同じくらいの大きさであった。
もしあれが、カメラの撮影の近景、遠景のせいでなく、並べて撮ったものだとしたら、どうだろう。地球の直径が1万2千7百キロだから、「スター・チャイルド」も同じくらいの大きさということになる。
成長して、「スター・アダルト」となったら、どうなるのだろう。身長5万キロくらいになるのではないか。そんなものに地球のまわりを漂われたら、甚だ迷惑であろう。
これは困った、というので、ブルース・ウィリスら、「アルマゲドン」のチームが再び結成されるに違いない。スペースシャトルが、決死の覚悟の土方部隊を乗せて、「スター・アダルト」に突入するのだ。
さて、ボーマン博士はいいとして、HAL9000によって宇宙空間へ飛ばされた副船長のプール博士はその後、どうなったのだろうか。
アーサー・C・クラークの「3001年終局への旅」によれば、1000年後の未来に発見され、蘇生するという(小説は読んでいない。今、素早くインターネットで調べたのだ)。
まあ、それでもいいが、私としては、宇宙空間を漂ううちに、地球への恨みつらみが重なって巨大化し、ウルトラマンの怪獣ジャミラになったという説を採りたい。
・どこかにあった「ジャミラ」
こういう発想というのは、どんどん加速装置的に飛躍していく。
もし、有名なSFがすべて“本当のこと”だったとして、年表を作るとどうなるのだろう?
そういえば、山下洋輔が昔のエッセイに、「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」の関連について書いていたな――と、今、素早く調べてみると、ありました。
ところで、あのバンドの連中(稲本註:「スター・ウォーズ」の1作目、モス・アイズリー宇宙港の酒場で演奏しているバンド)、実は「未知との遭遇」に出て来た宇宙人のなれの果てだという説もあった。あいつらもどうも芸能人臭かったし、流れ流れて姿形も変わり果て、港町の場末の酒場にたどり着いたというのはあり得る。(「ピアノ弾きほざき帖」、1978年。「ジャズ武芸帳」所収、晶文社)
私も支持したいところだが、「スター・ウォーズ」の出だしはいつも、「A long time ago, ……」で始まるので、順番的には逆だろう。
で、インターネットを駆使して、なるべく年代を調べると、こんな年表ができあがった。
(大昔):猿人がモノリスに触って、骨を道具として使うことを思いつく。ついでにそこらへんの骨を叩きまくって、史上初のドラムソロを敢行。(「2001年宇宙の旅」)
(これも大昔):共和国だ、帝国だ、ジェダイだ、クローンだ、フォースだ、デス・スターだ、と入り乱れて、大騒ぎがあった。バンドメンは、惑星タトウィンのモス・アイズリー宇宙港の酒場で、ディキシー風のナンバーを演奏。(「スター・ウォーズ」)
A.D.1977(?):モス・アイズリー宇宙港のバンドメン、来日。じゃなくて、来地。歳月は彼らの音楽をだいぶん変容させたらしく、ジャズからシンセを使ったテクノに宗旨替えしていた。レミドド(↓)ソ、を皮切りに、最後はめったやたらのフリー演奏となる。(「未知との遭遇」)
A.D.1982(?):E.T.、来地。(「E.T.」)
A.D.1984:地球はビッグブラザーに支配される。(「1984」)
A.D.1984:未来からターミネーターが送り込まれる。未来のレジスタンス・リーダーの母親を殺そうとする。さしものビッグブラザーも、ターミネータは怖いのか、街なかでどれだけ暴れても、おとがめなし。(「ターミネーター」)
A.D.1998(?):隕石が迫ってきたので、宇宙へ向け、土方部隊、出動!(「アルマゲドン」)
A.D.2000:月で知的生命体によって埋められたモノリスを発見。(「2001年宇宙の旅」)
A.D.2000:その頃、地上では、チャーリーズ・エンジェル達が大活躍! メンバーのひとりは、かつてE.T.と出会った少女(ドリュー・バリモア)であった。やっぱり、ああいう幼児体験をすると、普通の人生では物足りなくなるのか?(「チャーリーズ・エンジェル」)
A.D.2001:木星探査船ディスカバリー号でいろいろあって、プール博士が宇宙空間へ放り出される。ボーマン船長は巨大化。(「2001年宇宙の旅」)
A.D.2003:鉄腕アトム完成。(「鉄腕アトム」)
(不明):正確な年はわからないけれど、この頃、ジャミラと化したプール博士が帰還。ボーマン博士ほどではなくとも、やはり巨大化していた。しかし、地球の人々の態度は冷たく、ウルトラマンに水を掛けられる。(「ウルトラマン」)
A.D.2020:酸性雨が降り注ぐ地球に、植民地惑星から脱走してきたレプリカント達がやってくる。ハン・ソロ船長の子孫である賞金稼ぎと、追いつ追われつする。アトムは登場せず。ロボットの立場からして、どちら側につけばいいのか悩んだ末、日より見することに決めたのかもしれない。(「ブレードランナー」)
A.D.2029:機械対人間の戦争で大騒ぎ。アトム、またも悩む。(「ターミネーター」)
A.D.2065:アメリカの大富豪ジェフ・トレーシーが国際救助隊を結成。いろいろなものを救助する。(「サンダーバード」)
A.D.2087:惑星LV426で人類とエイリアンが遭遇。事情はわからないが、こういうときにこそ呼びたい国際救助隊は登場せず。経費がかかりすぎて、トレーシー家は破産したのかもしれない。(「エイリアン」)
A.D.2214:謎の巨大な有機体が地球に接近。ミラ・ジョボヴィッチを連れ、宇宙へ向け、タクシー運転手、出動!(「フィフス・エレメント」)
A.D.4500(?):チャールストン・ヘストン、宇宙船で未知の惑星に不時着。実はそこは地球で、猿が支配していた。(「猿の惑星」)
結局のところ、人類史は猿に始まり、猿に終わるようである。後の方の猿どもも、やっぱりモノリスに触って、賢くなったのであろうか。
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2月16日 悪の中小企業
まだまだSFの話は続くのである。
といっても、ここ数年は小説のSFを読んでいないから、もっぱら映画の話だ。
昨日、インチキなSF年表を書いていて気づいたのだが、SF映画では、しばしば悪の大企業が登場する。
「ブレードランナー」にはタイレル社、「エイリアン」にはW.ユタニ社、「ロボコップ」にはオムニ社。
まあ、「悪の」といっても、悪とは何なのか考えると難しい。ここでは、利益のためには非人間的な行為も辞さない、ということにしておこう。
SF映画に「悪の大企業」は登場するが、「悪の中小企業」というのは聞いたことがない。
悪役として、マッドサイエンティストやクラッカーが登場することはある。しかし、彼らは「悪の中小企業」というより、「悪の自営業」、あるいは「悪の趣味人」と呼ぶべきであろう。
なぜ「悪の中小企業」が登場しないかというと、やっぱり迫力不足なのと、一般に規模が小さいと世の中への影響力も小さいから、だろう。
また、世の中には、大企業の活動による恩恵を受けているくせに(たとえば、大量生産で製品が安くなったり)、何となく大企業を面白く思わない風潮もある。たとえ本人が大企業の社員であっても、だ。
大企業は顔が見えにくいので何となく不気味であり、また、巨大ということは敵役、憎まれ役としてふさわしい。
そんなわけで、SF映画では、しばしば大企業が悪役に仕立てられるのだと思う。
もっとも、ちょっとSFの話から離れるが、「大企業=悪」、「中小企業=善」という図式はあまりに単純すぎると思う。
選挙になると、しばしばそんな単純な図式で語ろうとする候補者が出てくる。
共産党は毎回そういうふうに話を持っていく(まあ、社会主義国の多くが崩壊した今となっては、そうとでも言うしかないのだろうが)。
中道や保守の候補者は、大企業から政治資金を得たりしているので、ロコツに「大企業=悪」とは言わない。しかし、票集めのために、「中小企業=善」という絵はしばしば描く。
別に大企業の肩を持つわけではないが、私は天の邪鬼のせいか、「中小企業=善」、「中小企業=庶民」という図式に得心いかないのである。
そんなわけで、たまには主人公が悪戦苦闘して、「悪の中小企業」を叩きつぶすSF映画があってもいいじゃないか、と思うのだ。スケールが小さくて、ものすごい駄作になってしまう気もするが。
いっそ、自分で会社を立ち上げようか。
社名は、「有限会社ショッカー」。
悪の金型で、悪の部品をじゃんじゃん作り、悪の営業が納品するのだ。ふふふ。これで、世の中は不良品だらけとなり、大混乱だっ!
……あっという間に取引停止となり、倒産するだけか。
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2月17日 ううう
二日酔いナリ。
「面倒くせえ、飲んじゃえー」となったナリ。
全てがどうでもよくなったナリ。
明日なき暴走だったナリ。
気持ち悪いナリ。
しかし、見舞いの言葉など不要ナリ。役に立たぬナリ。
頼りになるのは、時間と己の肝臓のみナリ。
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2月18日 肉問題の日々
鳥インフルエンザが国内でも見つかって、話題になっている。
「話題になっている」というと、まるで最近の流行についての、職場での軽い会話みたいだ(実際、鳥インフルエンザは流行についての話なのだが)。
私には鳥インフルエンザの深刻さ度合いがよくわからないので、こういう書き方をした。
国内では収まっていた狂牛病騒ぎも、アメリカで再燃(お国は「BSEと呼べ」と指導しているが、「狂牛病」という言い方の方が表情があって好きだ)。そのせいで、にわかに牛丼チェーン店が注目を浴びる、という変な玉突き騒ぎが起きた。
ついでに、ここぞとばかり、オーストラリア政府がオージー・ビーフをアピール。確か、前回の国内での狂牛病騒ぎのときも、キャンペーンを打った。なかなか素早い国だ。
豚は豚で、豚コレラというヤツがある。これはずっと昔からあるもので、忘れた頃に突然、どこかの国で発生する。
また、鳥インフルエンザが豚に感染した、という報告もあり、三匹の子豚もレンガの家にたてこもって、ぶるぶる震えているらしい。
もっとも、レンガの家は狼を防げても、人間様までは防げない。レンガはハンマーでぶっ壊される。御用、御用と棒でつつかれる。捕り縄が投げられる。彼らはあっさりと引っ立てられて、三匹の子豚の丸焼きになる、とまあ、そういう筋書きになっている。
鳥インフルエンザ、狂牛病、豚コレラ。いずれも、どのくらい大変な話なのか、今ひとつよくわからない。
人間が鳥肉を食べて鳥インフルエンザになったケースは、まだ報告されていないそうだ。
狂牛病の肉は、クロイツフェルト・ヤコブ病との関連が指摘されている。しかし、後者は発病までに何年もかかることもあって、どの部位を食べたらどうだ、とか、どういうメカニズムで人間様が迷惑するのか、とか、まだよくわからないようである。
新しい病気は、得体が知れないだけに、恐怖を助長するのだろう。何しろ、物事、悪いふうに想像していったら、ずぶずぶと泥沼にはまっていく。
コホン、と咳をしただけで、結核かもしれないと思う。二日酔いになれば、肝臓がもうダメだ、きっと肝硬変だと思う。下痢をすればコレラ、腕が痛めば骨肉腫、夢に優しかったお婆ちゃんが出てくればお迎えだ。
しかしまあ、肉方面は最近、相当やられている。世界の貿易が進展するにつれて、病気も広がりやすくなるのかもしれない。
いや、私はもちろん、「反グローバリズム」とか言って、マクドナルドを襲撃する、あのフランス人の勇ましいお百姓さんの仲間ではないよ。マクドナルドにも、別に行かないけど。
牛、豚、鳥、とやられてくると、だんだん食うものがなくなってくる。あとは羊か。彼ら・彼女らも、今頃、戦々恐々としているのかもしれない。
・羊たちの沈黙
長々書いてきたけど、結局、これが言いたかっただけだったりしてー。
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2月20日 寝相
寝相がいいか悪いかというと、あまりいい方ではないと思う。
夜中に何やら寒くて目を覚ますと、ベッドから布団が消えていることがある。
いろいろ姿勢を変えているうちに、布団がずり落ちるのだと思うが、だいぶ離れたところに落ちているときもある。寝ている間に蹴り飛ばしているのかもしれない。
もっとも、ベッドから転がり落ちる、ということはめったにないから、めちゃくちゃにひどい寝相、というわけでもないようだ。
友達には、朝、目を覚ますと、なぜか玄関で寝ていたというツワモノがいる。確かに前の晩にはベッドで寝たのにだ。ここまで来ると、寝相が悪いというより、夢遊病というべきかもしれない。
ただ、本人はあちこち痣ダラケなので、玄関まで転がっていったのだ、と主張している。「夢遊病」というと、本人にしてみれば不気味なので(なにしろ、何をしているかわからないのだ)、寝相が悪いだけだ、としておきたいのだろう。
まあ、どちらでもいいが、私は寝相の悪さなり夢遊病なりよりも、痣を作っても目を覚まさなかった方に感心する。
最近、変な格好で眠るクセがついてしまった。
夜中に目が覚めて、何となく寝付けないときがある。そのときにこの姿勢をとると、なぜか眠れるのだ。
まずうつぶせになる。右手を枕代わりにして、頭は左に向け、手の甲に乗せる。
これだけなら、まあ、そんなに変な格好ではないだろう。
この格好だと、頭と右腕で輪っかをつくることになる。この輪っかに、左腕をまっすぐに通すのだ。ちょうど二の腕の部分にアゴが乗る形になる。
決して、自然な格好ではない。
むしろ、体の左側が伸びて突っ張る。変なふうにアゴを乗せているせいで、首筋にも負担がかかる。
しかし、これがカシッとはまった感じがして、落ち着くのだ。そうして、自然に眠りに落ちていく。どうもよくわからない。
ひとりで関節技をやっているようなものだ。まあ、まさしく寝技ではあるが。
布団を蹴り飛ばしたり、関節技を決めたりと、寝ているときの私は、結構、格闘技的であるらしい。
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2月22日 日記
こうやってほぼ毎日、サイトで何事かをほざいていると、たまに「偉いねえ」と言われる。
確かに、私は偉いのだが、毎日、日記を書いているから偉いわけではない。存在自体が偉いのだ。神様、仏様がリクツ抜きに偉いのと同じである。
――誰も、賛同してくれないようである。諦めて、続きを書く。
私が日記を書く理由には、いくつかある。
まず、仕事を始める前に、ちょうどよい。
会社に行って仕事をしている人は、通勤時間という切り替えタイムがある。電車に乗ってしまったら、諦めるしかないのだ。食肉工場にトラックで運ばれる豚と一緒である。違うか。
が、私の場合、家で仕事をしている。自宅(ベッド)から職場(机)まで、歩いて3秒だ。
仕事はあまり好きではない。単に、「うおおおお、嫌だよおおお」と泣いていてはオマンマがいただけないので、仕方なくやっているのだ。
この、「うおおおお、嫌だよおおお」から諦めの境地に至る間のクッションとして、この日記は結構、役に立っている。
書き物でありながら、デキは別に問われないから、仕事のような責任はない。そんなわけで、仕事を始める前の「逃げ」のような感覚で書いている。書き終わった頃にはすでに諦めがついていて、おとなしく食肉工場へ行くのだ。
仕事を始める前だから書けるのであって、夜、仕事が終わってから書く気はしない。
毎日、夜に日記をつけている人のことを、だから、私は「偉い!」と思う。
また、サイトで公開している、というのは大きい。
私はこう見えても、義理堅い。
大した数ではないにしろ、わざわざ、見に来てくれる人がいる。マウスでクリックして飛んできていただいたのに、「なんだ、今日は書いてないのか。ちぇっ」と思われたくないのだ(昨日はサボったが)。
特に効くのは、最後の「ちぇっ」というやつで、そういうことを気にするところに、私の、壮大なスケールでお送りする、人間的小ささがある。
まあ、ちゃんと更新してあっても、読んだ後で、「ちぇっ」と言われることはある。それは、読むやつの方が悪いのだ。ゲラウヒヤッ、と言いたい。
日記を、ある種の記録として書く人がいる。
将来、読み返して、「この頃は人間関係の問題を抱えていたなあ。キツかったなあ」とか、「SFに興味があったんだよな、この時期」とか、「よかったなあ、あの頃のSM」とか、「よし! ひさしぶりにムチでも、振るってみるか!!」とか、まあ、いろいろな思いにひたるのだ。
私も、昔書いた文章を読み返すことはある。
しかし、何年も前のものを読むことはあまりない。なので、この日記には、たぶん、何度も同じネタを書いていると思う。
自分じゃあ、あんまり覚えていないものだから、「以前に書いた気もするが〜」というフレーズがよく出てくる。
この日記は記録として残しているものではない。というか、記録にできるほどのものが最初からないのだ。
また、後で読み返すことを目的としているわけでもない。
いわば、猿のマスターベーション。かきっぱなし、というやつだ。
かといって、未来を見据えて書くような種類のものでもない。
私に関心があるのは、基本的に今だけだ。映画のタイトルみたいだが、「今を生きる」のだ。
ただし、今を懸命に生きているわけではない。いかに今をテキトーにやりすごすか。そればかりを考えている。
そう聞いて、みなさんも残念だろう。私も残念だ。
今をのんべんだらりと、のたくりながら生きている。その、のんべん、と、のたくり、の記録がこの日記だというのだから、いやはや、呆れたものじゃあないか。
私がナマコやイソギンチャクにシンパシーを覚えるのは、どうやらそのせいらしい。
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2月23日 意味
読んでいただいた方はわかると思うが、この日記では、あまり意味のあることを書いていない。
たまにニュースで扱われるような出来事について、論評めいたことをする場合はある。そういうのは、「意味」のあるものといえば、意味のあるものかもしれない。
しかし、「論評“めいた”」という書き方でもわかるように、あまり大したものではない。
後で読み直すと、浅く、ひとりよがりで、裏付けになる知識に乏しく、――これが決定的なのだが――面白くないことが多い。
じゃあ、「意味」ってなんだ、と言われると、実はいろんな捉え方がある。「意味」の意味って、いろいろあるのだ。
私は、「主張したいこと。リクツの世界の中で、他に影響を与えることをねらったもの」を、ここでは「意味」と呼んでいる。英語の「nonsense(ナンセンス)」の「sense」に当たる。
大学の頃、当時、劇団の、夢の遊眠社を率いていた野田秀樹が、「僕は演劇に意味なんてなくていいと思っている」というようなことを言っていた。驚いた。
創作物は「意味」のために作るのだ、と思っていたのだ。お恥ずかしい。リクツっぽいことが好きな年齢だったからか、それとも私個人がそうだっただけなのかはわからない。
まあ、やはり大学生というのは、「意味」が大事と思いやすい年代、あるいは身分なのだろう。
1970年前後に学生運動がブームになり、マルクス主義が学生に受けたのも、たぶん、マルクス主義が「リクツ」と「意味」の塊だからなんだろう。そういうのは、学生という頃合いと身分にぴったり合うのだ。
話がそれた。
今の私は、物事に「意味」なぞなくてもよい、ということがわかる。
たとえば、「♪タンタン狸の〜」という歌に「意味」を見出そうとするのはアホらしい。あるいは、「ゼンジー北京の手品の意味は何か?」と問われても困る。
もちろん、意味を見出す(というか、意味をつける、かな)ことはできるだろうが、それが面白いかどうかは別なのだ。美人を解剖して美人である理由を見つけることと、美人にちょっかいを出すことは違う。
まあ、前者の方が面白い、という人がいても、それはそれでよい。
とか何とか言って、今日の文章は結構、「意味」方面に走ったな。まあ、「意味」をおもちゃにして遊ぶ、っていう手もアルノコトヨ。
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2月26日 だんどり
仕事はあまり好きではないが、自分の中で仕事のだんどりを決めるのは結構好きだ。
ナマコ並みにやる気のない稲本が、と意外かもしれないが、好きなんだからしょうがない。
「えーと、今日はなにをなにして、なにまでやったらなにができるから、そしたらなにに取りかかれる、と。なにがなにするからなにでなになに。なになに、なに。なににな、なに。なにに、なににに、なにになに。なになな、なににに、なにににに。なにに、なに、なに、なにななに。てなわけで、家一軒建つわな」
というわけで、実際に仕事に取りかかる前に、終わったような気になる。やった、やった、バンザイ、バンザイ、とうれしくなって祝杯をあげ、酔っぱらってその日はなにもできなくなるのだ。
まあ、だんどりを決めても、「よっしゃ、やっか!」という踏み出しまでが、えらく遠い。「♪君の〜、行く〜道は〜、果てし〜なく〜、遠い〜」わけで、なかなかやる気が起きないのだ。
そんなわけで、だんどりだけは決まっている、手つかずの仕事が目の前で「オラ」と鎮座ましましている。
それを見ただけで、げそっ、として、やる気が失せる。「面倒くせえ、飲んじゃえ!」となっちまうのだ。なんだか、飲んでばかりいるな。
仕事のだんどりだけ決めて、「後はヨロシク!」と肩で風切って現場を去り、100万円いただけるんなら、すぐにそっちの方に転職するのだが。
だんどり屋、いらんかね? 1本100万円のところ、今なら、90万円にマケトクヨ。
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2月27日 命名権ビジネス
少し前に、大阪近鉄バファローズが、名称の中の「近鉄」の部分を売る、と言い出して(大阪も売るんだったかな)、他球団の猛反対にあった。
バファローズの球団社長は辞任。一応、「球団名問題とは無関係」と言っているらしいが、さて、どうだろう。
バファローズが「売る!」と言い出したときに、全国で推定120万人が思いついただろうが、自分の名前を売ることはできるのだろうか。
たとえば、稲本“Yahoo BB”喜則、とか、そんなふうに名乗って、企業からお金をいただくのだ。今はタイミングの点で、この名前は、難しそうだが。
私としては、別に自分の名前に思い入れはないから、いくらでも売る。ただ、企業が買いたいと思うかどうかは別問題だ。
問題は、大金を積まれたものの、名前が「あの、ちょっと」という場合だ。
たとえば、稲本“ボラギノール”喜則、というのはどうだろう。
痔の薬だということを知らなければ、なんだか、ラテンっぽい感じで楽しそうだ。日系人風に、ボラギノール・稲本と名乗るのもいいかもしれない。サルサっぽい。
しかし、社会生活上はいろいろ不具合がありそうだ。
病院に行き、診察カードを出す。
待合室で待っていて、係の人から、「はーい、次は稲本“ボラギノール”喜則さーん」と呼ばれたら、結構、恥ずかしい。
たとえ、他の診療科を受けるとしても、周囲は、「こやつは肛門科だろう」と決めてかかるに違いない。
あるいは、あの某機能をパワーアップする薬を作っている会社からお金をもらうと、どうなるのか。
稲本“バイアグラ”喜則。一発大勝負に出た風俗ライターか(大敗しそうだが)、AV男優のようである。
また、オカモトさんから頼まれた場合も、考え物だ。
稲本“ビッグボーイ”喜則、とか、稲本“リアルフィット”喜則、とか、稲本“ドットでホット”喜則、とか、稲本“シーローズ”喜則とか。オカモトさんの企業努力の見本市になる。
知らない人には、問題ないだろうが、知っている人にはニヤリ、とさせる名前だ。
てなわけで、金額は応相談ですが、企業の皆様からのご連絡、お待ちしております。
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2月28日 関西弁とブルース
今の大阪は知らないが、一時期、関西圏から、“いい感じの”ブルース・バンドが輩出した時期があった。
憂歌団、ウェスト・ロード・ブルース・バンド、ブルース・ハウス・ブルース・バンド、それから、ブルースというよりはR&Bと言った方がいいけれど、サウス・トゥ・サウス。
どれも個性的なバンドだ。みんな70年代にできたバンドで、今も残っているのは憂歌団だけである。
といっても、僕はどれも追体験、である。当然だ。それらのバンドが活躍していた頃、こちとら学校で恥ずかしげもなく、「♪はーるがきーたー」などと唄っていたのだから。
ブルースは大阪、京都、ロックは博多、というのはあまりに図式的にすぎるだろうけど、関西からは“ええ感じの”ブルース・バンドが出ている。
どうしてなのか、以前から興味があるのだが、これ、といった答を見つけたことはない。まあ、上記のバンドに関しては、ある時代のあるムーブメントの中にいた、という側面が大きいのかもしれないが。
昨日、何となくいろんなウェブサイトを見ていたら、こんなサイトを見つけた。
・The Beatles in Kansai-ben
ビートルズの曲の歌詞を関西弁に訳そうという試みだ。関西弁といっても、主に大阪の言葉のようである。
読んでみると、これが実にいいのだ。
そして、歌詞だけ見ていると、なんだか、ブルースっぽい。
特に、「A Hard Day's Night(きっつい日の夜)」、「Baby's In Black(あの娘は喪服や)」、「Help!(助けてぇな!)」、「Ticket To Ride(乗車券)」などがいいようだ。
たとえば、「Ticket To Ride(乗車券)」はこんなふうになっている。
たぶんドツボやで,今日からは
惚れ込んだ女がどこや行ってしまうんや
あいつは乗車券買いよった
あいつは乗車券買うてしもた
あいつは乗車券買いよった
俺に断りもなしに
これは、モロにブルースだ。大阪には、こんな歌詞を唄っているブルース・バンドがいそうである。
ロックはブルースを原点のひとつとしているけれど、ビートルズはあまりブルースを感じさせないバンドだ。ブルースの呪縛にかからなかったところに、ポップスターとしての成功の秘密があったと思う。
しかし、歌詞を関西弁に変えると、たちまちブルース化する。これは面白い。
関西からいいブルース・バンドが出る理由のひとつは、言葉にあるのかもしれない。
もちろん、単純にアクセントとかイントネーションとかの問題だけではない。
ある言葉の感覚を生む土地柄というものがあり、一方で言葉(や時に歌)がやりとりされる中で、そういう土地柄が醸成されてもいく。
小難しい書き方をしたけれど、「ドツボやで。惚れた女がどこや行ってしまうんや」という会話が交わされるようなところに、ブルースはハマるのだ。メンタリティの問題かもしれない。
やっぱり、東京の青山あたりで、ブルースは生まれないと思うのだ。青山でもっぱら生まれるのは、器用だがインチキくさい真似事ソングである。
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