Chichiko Papalog 「気になるエトセトラ」オルタネイト・テイク

芝丸山古墳

東京タワーのすぐ隣りに、南関東最大の前方後円墳があることはあまり知られていない。芝公園の中に吸収されたようになり、散策用の単なる築山と思われているのかもしれない。東京湾をみおろす高台に、5世紀後半(古墳時代中期)に築造されたといわれている。芝増上寺全体と比べても、その巨大さがわかる。

 

 

おそらく、多摩川(野毛/田園調布周辺)と鶴見川(横浜周辺)沿岸に、膨大な古墳群を築いた南武蔵勢力の中の、とびきり強力だった大王の墓に違いない。当時の南関東では、埼玉(さきたま)南部の入間川沿いに展開したオミ大王に象徴される北武蔵勢力と、オキ大王に象徴される南武蔵勢力とが覇を競っていた。丸山古墳は、明らかに南武蔵勢力圏に築かれた前方後円墳だ。

残念ながら、かなり早い時期に盗掘されたものか玄室は崩れ、同時代に特徴的な舟形石棺さえ残っていない。増上寺の五重塔を建立した江戸期、古墳の上部が削り取られているが、遺物はなにも発見されなかったという。たぶん鉄刀または鉄剣、鉄鏃、勾玉、管玉、刀子など、同時代の他の古墳で多数出土する副葬品の豊富さでも、群を抜いていたと思われるのに残念だ。

 

東京タワーから眺めてみると、手前で建築中の高層ホテルとの比較で、その大きさがよくわかる。・・・の部分が墳丘のみの大きさだが、外周の濠までを想定するといかに巨大な墳墓だったかがしのばれる。下の写真は、東芝本社ビルからの情景。前方部が見えるが、後円部はビルの陰に隠れている。

 

 

地下鉄御成門駅から芝公園の中を歩いていくと、梅園の向こうにまるで立ちふさがるように、左右に拡がった小高い丘へと突き当たる。この丘陵全体が、芝丸山古墳の墳丘だ。

近づくにつれ、東京タワーも建築中の高層ホテルもすべて隠れてしまうほど、いまだに築土がしっかりしている。これでも江戸期に、墳丘の上部が大きく削り取られている姿だ。

丘をのぼっていくと、前方部を大きく削りとって造られた空き地があり、さらに階段をのぼると墳丘の尾根道に出る。突き当りには、伊能忠敬の測量記念碑があり、さらに進んだ右手の奥には、後円部の山頂となる円形の公園が設置されている。

空襲で焼けてしまったが、墳丘上には増上寺の五重塔があり、広重の名所江戸百景「増上寺塔赤羽根」に描かれたべんがらの朱も鮮やかな塔の真下が、江戸期当時の丸山古墳にあたる。また、『江戸名所図絵』第一巻でも、塔下の古墳を確認できる。構図から、塔が築かれた位置は、現在の前方部の空き地あたりに相当する。

 

名所江戸百景第五十三景「増上寺塔赤羽根」

 

 

 

前方部の築土は、現在でもはっきりと確認することができる。(写真左上) 目測だが、前方墳丘の高さだけでゆうに10m以上はありそうだ。風化が進み、上部を土木工事で削られても、まだこれだけの規模を保っているということは、築造当時にどれだけの労力が注がれたのだろう。

 

隣接する元・芝ボーリング場は、高層ホテルへと再開発されている。丸山古墳に接する築土境界には、ていねいに補強工事がなされ、一面シートで覆われてガードされていた。

上の写真は、前方部の左側から見た丸山古墳の半景。かなり手前にあるブルトーザーと比較しても、古墳の巨大さがよくわかる。ちょうど、ブルトーザーの前方に見えている白いシートの部分が、前方部と後円部とをつなぐ“くびれ”に当たる。前方後円墳の“くびれ”の位置には、通常、「付きだし」と呼ばれる祭儀を行ったらしい舞台が設けられることが多いが、目視した限りでは確認できなかった。

 

■参考文献

『日本橋南之絵図』 尾張屋清七版(再版) 1863(文久3)

『江戸名所図絵』第一巻 斎藤月岑/長谷川雪旦 1836(天保7)

 

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