徒然草
 
 
 重兵衛が,見たこと,聞いたこと,思ったことを,つれづれなるままに,思いついたことを書いていきます。
目安箱とどこが違うのかというつっこみはしないように。
 
目次
謎の標語(07/02/03)

サンタクロースはいるか?(05/11/18)

内閣による国会の解散について(05/09/17)

架空請求撃退法(04/10/27)

やる気地蔵(03/05/06)

「ショボクレ人生」の刑法的考察(02/10/11)

地獄の裁判物語(02/04/27)

カップじゃじゃ麺・カップ盛岡冷麺(02/04/21)

夫婦岩(02/04/08)
 

謎の標語(07/02/03)

 道を歩いていると,交通標語などが掛かってあるのはよくある風景である。その中には,「うまい」と思うものや,何だかなと思うものはあるが,伝えたいところはしっかり押さえているのが常である。
 しかし,標語の中には,いったい何のための標語なのか,全く持って趣旨不明のものがあったりするわけで。
 右の写真は,そのような標語の中で,先日,久慈の農協の前で出くわした標語である

夏は複合農業でひと稼ぎ 冬は温泉大名気分

 複合農業をすれば,儲かるとでも言いたいのであろうか。
 それとも複合農業は夏だけ働けばいいということであろうか。
 アリとキリギリスのように,夏は働けということであろうか。
 温泉がすばらしいといっているのであろうか。
 たくさんのことを伝えすぎて,本当に伝えたいことが見えてこない標語である。


「ハデかな」と思う位でリフレッシュ 「おしゃれ」で農業に活力を

 なぜリフレッシュするのか,「おしゃれ」と農業の活力と,どのような因果関係があるのか。
 「おしゃれ」のカギ括弧に何か込められた意味でもあるのであろうか。
 新しい農業ファッションでも開発されたのであろうか。
 そもそも農協とどういう関係があるのだろうか。
 全くもって意味不明である。

 

 サンタクロースはいるか?(05/11/18)

 今頃何をアホなことをいうかとか,30数年間彼女がいないので,とうとう頭が変になったのかとか,果てはクリスマスにテロでもやるつもりかとか,そういうご意見が聞こえるようだが,無視して進めます。

 さて,まだ11月も半ばだというのに,街ではクリスマスツリーが飾られたり,クリスマスセールが始まったりと,仁義なき商戦が繰り広げられるわけですが,すこしは夢のある話でもしようというのが,このエッセイの趣旨です。(本当にそうなるのかな?)
 昨今は子供も夢がなくなってきたようで,幼稚園あたりから,サンタクロースがいるかいないかが論争になった上,サンタクロースはいない派が多数を占めているようです。
 これに対して,大人はというと,「サンタクロースはいる」などという大人は滅多に見かけません。さらに学校の先生などには,UFOや幽霊が存在しないのと同様に,サンタクロースはいないなどと言って,わざわざ子供の夢と創造性を奪う輩までいるようです。
 でも,「サンタクロース」というのは一体「何」なのでしょうか。
 
 サンタクロースを特定の個人であるとすると(たとえば,「ミラ在住ののニコラスさん」というような),この個人が死亡した時点で,サンタクロースがいなくなるのは当然なわけですが,それならば,サンタクロースがいるかいないかなどという議論自体が成り立たなくなってしまいます。しかし,このような議論がある以上,サンタクロースというのはもう少し普遍的なものではないでしょうか。

 歌や伝承などによると,その特徴は,
 @赤い服を着て,白いヒゲを生やしている。
 Aトナカイの引くソリに乗っている。
 B煙突から入ってくる。
 Cクリスマス・イブの夜によい子にプレゼントを持ってくる。
といったところでしょうか。
 しかし,これらのうち,@からBはサンタクロースの本質ではないように思えます。
 まず,@については,これは完全に個人の趣味や外見である。赤い服を着たのがサンタクロースの本質ならば,この服を着ていないときのサンタクロースは,サンタクロースではないというのでしょうか。逆に,今日日は,ピザ屋のバイトでも赤い服にヒゲをつけているが,これをサンタクロースといわないのは,これが,サンタクロースの本質ではないことを端的に表しているでしょう。
 Aにいたっては,ある一時代・一地方の一般的な乗り物であっても,時代や地方によって変わるものですから,これが普遍的にサンタクロースの本質だとは言えないでしょう。
 結局,サンタクロースの本質というのは,Cではないかと思われます。なお,Bは,Cの手段であって,よい子にたどり着くまでの玄関やドアに鍵がかかっていなければ,煙突から入る必然性はなくなるでしょう。

 そして,サンタクロースをクリスマス・イブの夜によい子にプレゼントを持ってくる人と定義すれば,そのような人は間違いなくいるのです。別に国際サンタクロース協会に公認されなくても,サンタクロースと言えるのです。
 だから,世のお父さん,お母さんは,サンタクロースがいるかどうかを子供に聞かれたときには,迷わず答えてください。
「君がよい子にしていれば,クリスマスの朝に,枕元にプレゼントがあるかもしれない。そういうことがあれば,サンタクロースはいるということだよ。」と。

次回は「日本人に問う。クリスマスは何のための日か!」です。お楽しみに。(嘘)
 

 内閣による国会の解散について(05/09/08)

 2005年8月9日,郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて,国会(正しくは衆議院)が解散された。長崎原爆記念日に何をやっているんだかという点はさておき,こういう場合に内閣が衆議院を解散できるのだろうかと疑問に思っている皆さんも多いのではなかろうか。
 なんといっても,否決したのは参議院なのに,なぜ衆議院が解散されなければならないのか,よく分からない。
 そこらへんを,むかし勉強したことを思い出しながら,検証してみたいと思う。
1 解散ができる場合
 憲法上は,内閣が衆議院を解散する場合としては,衆議院が内閣不信任案を可決した場合と,内閣信任案を否決した場合の二つしか規定がないように見える。(憲法69条)
 そのため,内閣が解散できる場合は,この二つに限られるかどうかが,1940年代後半から50年代にかけて争われた。実際の事件としても,吉田茂の「抜き打ち解散」(昭和28年8月)の解散の効力が争われた,苫米地事件でもこのへんが争われた。
 まあ,結論からすれば,日本国憲法が制定されて以来,内閣不信任決議は可決されたことはほとんどないにもかかわらず,解散が何度も行われていることからすれば,この場合に限らないとされるのが通説となっており,苫米地事件高裁判決や最高裁の一部裁判官の意見でもこの立場によっている。
 その根拠としては,憲法7条3号が揚げられている。すなわち,同上は,天皇の国事行為について,「衆議院の解散」を揚げているが,象徴天皇制を取り,「国政に関する権能を有しない」(憲法4条1項)とされる天皇が,自らの判断で衆議院の解散など決められるわけもなく,あくまで,内閣の「助言と承認」に基づいて,国事行為が行われるにすぎない(憲法3条,7条柱書)。そうであれば,この「助言と承認」を行う内閣こそが,解散についても裁量的に決められるというのである。

2 解散権の限界
 それでは,内閣は,どんな場合でも衆議院を解散できるのであろうか。
 この点にあっては,学説の多くは,不当な解散は許されないとしているようである。
 たとえば,芦辺信喜という著名な憲法学者は,以下のように述べる。
「解散は、憲法六九条の場合を除けば、@衆議院で内閣の重要案件(法律案、予算等)が否決され、または審議未了になった場合、A政界再編成等により内閣の性格が基本的に変わった場合、B総選挙の争点でなかった新しい重大な政治的課題(立法、条約締結等)に対処する場合、C内閣が基本政策を根本的に変更する場合、D議員の任期満了時期が接近している場合、などに限られると解すべきであり、内閣の一方的な都合や党利党略で行われる解散は、不当である。」(芦辺信喜「憲法新版」(岩波書店)より)
 憲法が,衆議院のみに解散を認め,また,法案の単独可決権などの衆議院の優越を認めているのは,衆議院がより国民の意思を体現すべきであるとの思想によるものであるが,解散の限界も,こういった衆議院の性格から合理的な範囲でのみ認められると考えるべきであろう。

3 不当な解散の効果
 それでは,内閣が,党利党略のためなど,不当な解散を行った場合,どのような救済がなされるのであろうか。
 まず考えられるのは,裁判による救済である。しかし,前掲の苫米地事件において,最高裁の判決は,衆議院の解散が無効かどうかは,「裁判所の審査権に服しない」と判断した。つまり,たとえ,解散が法律上は無効でも,裁判所はその救済などはしないということだ。その理由は,三権分立から来る制約であると説明しているが,裁判所が判断を逃げたという批判も大きい。
 結局,不当な解散がなされた場合,その後の総選挙で,その内閣に反対する候補者に票を入れることで,是正する他はないのである。
 

架空請求撃退法(04/10/27)

 第63回民事介入暴力対策全国会議が岩手県で開催されたのを記念して,最近はやりの架空請求に対するノウハウを徒然に書いていきたいと思います。
1 架空請求対策
@「債権回収業者」のウソ
 債権回収業者が,債権を回収するためには,もともとの債権者から債務者に対する通知が必要となるが(民法467条),架空請求の場合,このような通知なしに,いきなり「最終通告」などとする場合が多い。また,登録を受けた債権回収業者でも,回収できるのは,銀行等金融業者が貸し付けた貸金と破産などで倒産した会社から譲り受けた債権のみなので,「アダルトサイト利用料」「通話料」などを請求することは,弁護士法違反として処罰される違法行為である。
A 連絡は取らない
 身に覚えのない請求や,多少の心当たりはあっても確実でない利用料等の請求に対しては,裁判所からの文書が来ない限り,こちらから連絡を取る必要はないばかりか,下手に連絡すると,つけ込まれるケースが多いので,絶対に連絡してはならない。特に,相手方の連絡先が携帯の場合や,東京局番(03)のときは,プリ携や転送サービスを利用する架空請求業者である場合が高い。もし,裁判所からの文書が来たときは,早急に弁護士等に相談すべきである。
B 「強制回収に伺います」は怖くない
 支払わなかったり,連絡を取らなければ,やくざが家に来るのではないかと思われる人も多いが,それは心配には及ばない。遠隔地の場合,そもそも交通費をかけて,取れるかどうか分からない架空請求を取り立てに来ることはあり得ないし,多数の者に,同じ内容で請求を出しているので,いちいち取り立てに行くことはあり得ない。もし万が一取り立てに来たら,警察を呼べばいいだけのはなしである。
C 銀行振込は慎重に
 架空請求やオレオレ詐欺は,銀行に振り込んでしまえば,ほとんど取り戻すことは不可能である。したがって,振り込む前のチェックが重要となる。原則としては,相手方と面識がないか,面識があっても,書面で約束を取り交わさない限りは銀行振込による支払いはすべきではない。
 

やる気地蔵(03/05/06)

盛岡の北側,中津川の上流に,綱取ダムというダムがある。
そこのほとりにある名物スポット。
ラーメンがおいしいので有名ですが,ちょっと変わったところです。
 やる気のかっこう発着所
この櫓から,針金が1本伸びています。
かっこう時計の一種だと思うのですが・・・
 
 やる気坂
だんだんやる気が失せていきます。
 
 森林浴場
森林浴というのは聞いたことがありますが,
「浴場」とは。
 
新やる気音頭
旧やる気音頭があったのでしょうか。謎です。 
 
 古代エジプトの遺跡 盛岡版
スフィンクス(SPHINX)
 つっこみどころ満載です。
 
 
 

「ショボクレ人生」の刑法的考察(02/10/11)

 みなさんは「ショボクレ人生」という歌を知っているであろうか。歌っているのは,ハナ肇とクレイジーキャッツである。実は,重兵衛は,高校生のときに出会って以来このクレイジーキャッツの大ファンである。正確には,彼らが歌う歌の大ファンということになろうか。彼らの歌は人生の目標というか座右の銘とも思っている。その結果,スーダラ大学生,スーダラ受験生,スーダラ修習生と来て,目下スーダラ弁護士を目指しているところである。
 「ショボクレ人生」はこのクレイジーキャッツが歌っていた歌の一つで,せこいサラリーマンに対し,と叱咤激励するという内容である。
 しかし,先日,この歌を聴いていて,愕然とした。「ショボクレたこと」と言われているのは,ほとんどが犯罪である。
 たとえば,1番では,バーやキャバレーで灰皿を盗むという内容の歌詞がある。
 これなどは,下手をすれば「被告人は,平成14年○月○日午後9時20分ころ,盛岡市大通2丁目○番○号××ビル所在のキャバレー「○○○」において,灰皿1個(時価1000円相当)を窃取したものである。」などと言う感じで,窃盗罪で起訴されてしまう。昔のサラリーマンはこういうことを平気でやっていたのだろうか。それとも,東京と盛岡では,感覚が異なるのだろうか。(ちなみに盛岡では1000円程度の盗みでも起訴される。)
 ほかにも,
 焼き鳥の串の数をごまかす→ 詐欺罪である。
 2番に至っては,
 人から借りた定期券で電車に乗る→詐欺罪ないしは旅客鉄道法違反
 混雑に紛れて女性に触る→強制わいせつないし迷惑防止条例違反
 人のズボンで靴を磨く→器物損壊?
 また3番では,
 パチンコ屋で落ちている玉を拾う。→これも立派な窃盗罪である。
 以上のように,「ショボクレたこと」ではすまないような気がするが,この歌ができた当時は,こういうことでは捕まらなかったんだろうなあ。
 それではなぜこういうことが最近処罰されるようになったのか。一つには不況による財産犯の増加がある。そのため,ちょっとのことでも厳しく処罰しようと言う風潮ができているのかもしれない。
 しかしそれよりもやはり警察の能力の低下のような気がする。窃盗や傷害などといった事案は,操作が比較的定型的で,事務処理さえきちんとやれば立件できる。ときには,こんな小さな事件でなぜ?と思うくらい大規模な捜査(それに伴う厚い記録)がなされるときがある。
 これに対し,大規模な詐欺や,背任,横領,あるいは経済事犯といった面倒な事件は,告訴をしても警察は捜査をしたがらない。理由は忙しいからだとするが,結局は,マニュアルで処理できない事件を立件するだけの能力の自信がないからではないだろうかと思うときがある。また,ストーカー被害などの深刻をまじめに取り上げなかったために最悪の結果になった事件についても報道されている。
 軽微事件で忙しくなるくらいなら,被害者の声に耳を傾けて,巨悪を取り締まってほしいものである。
 ちなみに,上記の「ショボクレ人生」の作詞をしたのは,スーダラ(前)都知事の青島幸雄氏である。彼は、スーダラ節など、クレイジーキャッツの作詞を多く手がけている。
(03/01/15訂正)
 

地獄の裁判物語(02/04/27)

 最近盛岡では,八重桜が咲き始めました。八重桜といえば,京都にある千本えんま堂が思い浮かびます。今日はそのえんま様のお話。
 地獄の入り口には「地獄の裁判所」があります。ここは,亡者の生前の罪を裁き,善人は極楽へ,悪人は地獄へと送ります。
 ここの地獄の裁判長は,泣く子も黙るえんま大王です(写真上段)。えんま大王は,この世で,一番はじめに死んだ人間であるとの言い伝えもあります。
 また,地獄の裁判所には,日本の裁判所と同じく,書記官さんもいます。この地獄の書記官を司録尊といいます(写真中段)。書記官さんの役割は,地獄の裁判記録を作成したり,書類をえんま大王に渡したりします。
 さらに,地獄には検察官もいます。地獄の検察官は,「司命尊」といいます(写真下段)。地獄の検察官の役割は,亡者の罪状を読み上げて,地獄の裁判長であるえんま大王に報告することです。
 もしかしたら,書記官と検察官は逆だったかもしれませんが,間違っていたら教えてください。他にも,地獄の廷吏として,鬼どもがおり,また,地獄の捜査員としては,三尸虫というものがあります。 
 地獄の刑事裁判制度は,我が国のそれと違います。我が国の刑事裁判は,検察官と,被告人・弁護人が対等な当事者であり,裁判所はこれら当事者とは,独立した立場で判断をするという,三面訴訟構造を取っているという建前です。また,国選弁護人制度があり,刑事被告人には,原則として,弁護人がつきます。
 しかし,地獄では,地獄の検察官は地獄の裁判長の部下の1人です。このような制度は,戦前の日本で採られていました。捜査機関と裁判機関が一体となっているという点では,大岡越前など,江戸時代の奉行所とも共通するスタイルです。また,地獄の刑事裁判では,原則として,弁護人がいません。これも,江戸時代と同じスタイルです。


 なぜこのように制度が違うかというと,地獄の裁判所では,当事者主義や,国選弁護人制度がなくても,日本の裁判所のような冤罪判決をするということがないからです。すなわち,地獄の被告人である亡者の罪状は,三尸虫の報告に基づき,地獄の検察官が読み上げる地獄の起訴状「えんま帳」にすべて記載されており,罪状認否において嘘をついても,真実を映す鏡で,嘘がばれてしまうからです。また,日本では機能していない偽証罪ですが,地獄では,この鏡のおかげで,嘘をついた者には舌を抜くという制裁が加えられます。
 もっとも,地獄にも,たまに弁護人がつくことがあります。地獄の弁護人は地蔵菩薩です。お地蔵さんは,亡者の情状弁護をして,極楽へと導きます。また,お地蔵さんは,少年事件については,すべての子供の味方であり,地獄の付添人の役割を果たしています。すなわち,日本では,福岡にしかない全件付添人制度が,地獄では確立されています。さらに,地獄の裁判で有罪(地獄送り)になっても,お釈迦様により,気まぐれで恩赦が出されることがあります。通常は,蜘蛛の糸が降りてくるようです。なお,地獄には,死刑制度がありません。なぜなら,亡者はもう死んでいるので,死なないからです。
 地獄の裁判長えんま大王と,地獄の弁護人地蔵菩薩は,実は同一人物だという説もあります。すなわち,地獄では,法曹一元も完全なのです(こういう話をしたら,Uraq殿に,まるで遠山の金さんみたいだ,といわれた)。  





 

カップじゃじゃ麺・カップ盛岡冷麺(02/04/21)

 最近,岩手県で話題の食品である。発売元は北舘製麺。じゃじゃy,盛岡冷麺とも,重兵衛 お勧めの店で紹介しているので,詳しい説明は省くが,いずれも盛岡の名物であるから,地場産品としては,話題性十分だからであろう。そういうわけで,早速試食してみた。
 じゃじゃ麺のほうは,・・・これじゃじゃ麺?という感じ。私(と言うか盛岡の人)にとって,じゃじゃ麺といえば,白龍のものを思い浮かべるので,熱いうどんに仙台味噌ベースの肉味噌をかけ,ニンニク・根ショウガ・お好みでラー油を混ぜて食べるというのがじゃじゃ麺である。しかし,このカップじゃじゃ麺は,味噌が,いわゆるジャージャー麺(じゃじゃ麺との違いについては,白龍参照)の味噌のように,甘味噌系であり,麺に至っては,これって,冷麺と同じものを使っているのではと思うような,弾力性のある麺。薬味は,刻み紅ショウガとラー油である。変わりジャージャー麺として食べれば,味的には,決して悪くはないのだが,じゃじゃ麺を期待して食べると,テーブルをひっくり返したくなるほど腹が立つ。そして,これを食べて思い出すのは,スーパーや駅のおみやげ屋で売っている「盛岡じゃじゃ麺」である。カップじゃじゃ麺とコンセプト的には同じで,うどん「っぽい」麺と,ジャージャー麺「っぽい」味噌である。じゃじゃ麺の味噌は,研究すれば家庭でも作れるのであるから(?作れる人は,かなり限定されようが),これらを開発した人たちは,本当のじゃじゃ麺を食べたことがあるのか?と聞きたい思いを感じたものである。
 しかし,この歳になって考えてみると,このような商品を開発するのも一理あるように思えるのである。白龍のじゃじゃ麺は,確かに世界一おいしい食べ物であるが,それは,自分の味を見つけた場合のことである。初めての人が,自分の味に出会うことは,むしろまれであり,従って,最初に食べたときには,それほどの感動はない(それどころか,最初に食べたときの味が気に入らないと,そのまま「食わず嫌い」になる人もいる)。しかし,他の地方の人に,自分の味を見つけるまで,白龍で食べろと要求することはできない。そうであれば,誰もが味を想像できるジャージャー麺を,麺をうどんに代えて作れば,じゃじゃ麺「っぽい」ものができるだろう。味自体は,そこそこいけるのであるから,一般ウケするし,土産物としては,盛岡のいい思い出として,記憶されるのであろう。すなわち,このジャージャー麺「っぽい」ものは,盛岡のイメージアップに一役買っているのであり,「カップじゃじゃ麺」は手軽に盛岡の気分を味わうことができるのである(開発者がそこまで考えているとすれば,言うことなし)。そういうことで,「カップじゃじゃ麺」の意義というものをそれなりに見つけたのであった。私は,もう食べないと思うけど。

 冷麺のほうは,さすがにちゃんとした(というのは失礼か)冷麺を出している北舘製麺である。麺もスープもそれなりの味であり(スープはカップでない冷麺と同じものと見た),カップ麺としては,かなり完成度が高い。しかし,カップ麺としては,致命的欠陥があると思う。それは,「面倒くさい」。お湯を沸かして,湯を捨てる。そこまでは,カップ焼きそばと同じであるから,さほどの手間ではない。しかし,その後,麺を冷やさなければならないのである。生ぬるい冷麺は,明らかに不味いから,何度か水を取り替えなくてはならないが,この作業を麺をカップに入れたまま行うと,カップはぬれるし,湯切り穴から麺が出たり,最悪の場合,ふたが取れて,麺が散乱と言うことにもなりかねない。これを防ぐためには,麺をカップからざるに移して冷やすことになるが,ここまで来れば,普通の冷麺とほぼ同じ行程である。すなわち,湯を沸かす→麺を湯に入れて2,3分→麺を取り出して冷やす→スープに入れる。また,具材(かやく)だが,カップ冷麺についてきているかやくは,冷たいスープに最後に入れるので,キムチやネギは,乾燥したまま食すことになる(作り方には,麺・かやくをスープに入れてから1分待てとあるが,麺が延びてしまいそう)。日持ちの点も,今は真空パック技術が発展したので,そう変わらないであろう(カップも生麺タイプである)。ここまでして,カップにこだわる必要があるのか正直疑問である。強いて,カップの利点を見いだすとすれば,鍋や食器がいらないことぐらいか。確かに,これは,食器の少ない学生や独居男性にはいいかも。私の場合,,一人暮らしの時も,食器は用途に応じてそろえていたので,このへんはよく分からないが,修習時代,鍋,食器どころか,ガス台もなかった友人もいたから,彼にはお勧めしたい(って,もう結婚しとるけど。)。
 

夫婦岩(02/04/08)

 今日,仕事の関係で,藤沢町に行った。帰りに,千厩町,大東町を経由して帰ってきたが,途中,夫婦岩なる神社を発見。石マニアとしては,車を止めて,立ち寄る。民俗学に造形のある方は,もうお気づきのことと思うが,夫婦岩とは,男根と女陰の形をした巨岩である(写真右)。そのほかにも,子宝地蔵があったり,写真を掲載すると,わいせつ物陳列罪で捕まりそうな,生々しい「ご神体」があったりと,盛りだくさんであった。柳田国男が,明治時代に,陸中,陸前(今の宮城県と岩手県)を称して曰く,「文化あまねかざる地にて,原始の性器崇拝が未だ残っている。」と。
 日本では,縄文時代の昔から,繁栄の象徴である,性器や,乳房というものを信仰の対象としてきた。その残滓は,東北に限らず,全国各地にあり,上記の夫婦岩などはその一例である。
 日本人に限らず,アジアでは,一般に,先祖崇拝というものがすべての宗教の根本にある。先祖を供養することで,今自分が存在することを実感するとともに,自分を含めた先祖を供養する人を欲することから,子孫繁栄の象徴であるこれら性器崇拝が生じたのであろうか。それとも,さらに,根元にある「生」・「命」というものが生み出されるいわば神の領域へのおそれ,畏敬がこのような信仰を生んだのであろうか。いずれにしろ,このような原始感情に,労働力の確保やお家の安泰という実利が加わって,現在まで信仰されているのであろう。
 昨今,「性」というものが,ゲームのように行われ,あるいは,商品のように手軽に売買されている風潮にある(出会い系サイトというものは,いわば「性」のインターネットショッピング・インターネットオークションであろう)。これらの風潮に乗る人たちには,「生」・「命」への畏敬というものは感じられない。むしろ,「性」の当然の結果として「生」み出された「命」に困惑し,あるいは憎悪し,それが,相次ぐ幼児虐待や乳幼児遺棄を招いている感すらある。
 また,人工授精,クローン人間など,かつては神の領域であったところに,人間が,何らの覚悟もないまま,土足で踏み込んでいる。こちらについても,「生」・「命」への畏敬を感じられない。
 「生」・「命」への畏敬を持つことなくしては,個人(他人)の尊重はあり得ず,生命軽視の風潮が人類を席巻するようになる。いま,アフガニスタン,中東など,世界各国で起こっている紛争・侵略は,生命軽視のなれの果てである。原始時代の性器崇拝にもう一度立ち戻って考えてみるのがよいのではないか。

(補)こういうサイトを見つけました。
全国夫婦岩サミット連絡協議会(http://www.nhk-chubu-brains.co.jp/gifu/nakatsugawa/meotoiwa/)


 
 
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