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私は急いでいた。 碧黒い酸性雨が降りしきる廃都心をメトロサーブで一気に駆け抜けると、基礎 科学研究所の入り口をくぐった。エレベーターに跳び乗り41階のボタンを押す と、箱は音も立てずに昇り始めた。 寺山教授との約束の時間に30分も遅れていた。今度の論文が通らなければ、 私はもう一年、博士号のために勉強しなければならない。どうしても寺山教授の 後ろ盾が必要だった。 エレベーターは透明プラスチックでできていて、外がよく見えた。20階を過ぎる と雨雲の分厚い層に入りこんだ。無数の雹が渦を巻きながら建物の周りをびゅう びゅう飛んでいく。 33階でエレベーターが停まった。 いらいらしている私を尻目にドアが開いた。乗ってきたのは十歳くらいの少女 だった。この研究所の建物のなかで、こんな小さな子を見かけるのは初めてだ。 赤いリボンのついた包みを持っていた。ドアが閉じるとエレベーターの中は、ク リームの匂いでいっぱいになった。ケーキか何かなのだろう。もしかしたら赤いイ チゴがいっぱい載ったやつかもしれない。 「ねえ、おじさん。おじさんの持っているものは何?」 突然、少女は話しかけてきた。
「論文だよ」と思わず答える。「ふうん、何の論文?」 「物理の」 「会話も絵もないの?」 「もちろん」 「ぜんぜんつまんないの」 少女の背丈は私の腐りかけた肋骨の下から4番目のところだ。 41階で降りると、私は教授の研究室を目指して駆け出した。プラスチックの床 はやけにつるつるしていて、何度も足を滑らした。 研究室には誰もいなかった。いつもいるはずの美人で巨乳の秘書もいなかっ た。時間に遅れた私の方が悪いのだが、30分ばかり遅れたからといって姿を消 してしまう教授も教授だ。 私は応接室で待つことにした。手持ちぶさたなので隣の台所で紅茶をいれる。 紅茶の葉はイーハトーブ高原でとれた高級茶葉だ。湯を注ぐとポップコーンのよう にぱちぱち弾けながら、とてもよい匂いを出す。 テーブルには、最近教授が出版した「行列式的超パノラマ素粒子論要提」が あった。先生はこの理論で次の物理アカデミー賞を受けるだろう。 紅茶を飲んでいると、さっきエレベーターでいっしょだった少女が音もなく入って きた。 「寺山先生いないの?」 少女は小さな声で私に訊いた。 「いないよ」と私。 「じゃあ、またあそこだわ」 「えっ、どこ?」 「鏡の向こう側」と少女は一人でうんうん頷きながらソファーに坐った。赤いサッ シュがいやに古典的でかわいらしかった。 「鏡の向こう側って、いったいどこ?」 「あの鏡の向こう側よ」 少女は北側の壁にはめ込まれている姿見を指さしながらいった。子供のくせに マニュキュアをつけている。紫の軽い色である。 「向こう側ねえ」 私はソファーに深く腰掛けた。少女のいうことを一概に嘘だと決めつけるわけに もいかないのだ。寺山先生は「素粒子系の超磁場における鏡効果」という偉大な 発見を4年前に発表していて、今では学会もそれを認めているのだから。 ところが少女は下をむいて、くすくす笑っている。何だか馬鹿にされているみた いだ。紅茶のポットに頭をつっこみたくなる。 −−−まあ、何はともあれ、教授はめったに外出する人ではないし、カギを開 けっぱなしにして行ったのだから、すぐに戻ってくるだろう。私は自分の論文に目 を通すことにした。 少女は手持ちぶさたに、足をぶらぶらさせていた。10分くらいすると、下の方 から私を覗き込んで、 「先生は遅くなりそうよ。もしかしたらハンプティ・ダンプティと囲碁を打ってるの かもしれないわ」といった。 「壁の上でかい?」とつられて私。 「もちろんよ」 当たり前といった表情の少女。 「先生はねえ、壁から落っこちたハンプティ・ダンプティを3度も元通りにして やってるのよ」 これも先生の論文にあるやつだ。 「虚磁場系におけるハンプティ効果」 エントロピーの減少が初めて理論的に可能になった画期的な発見であり、先生 はこれで物理名人位を獲得している。 「ねえ、おなかすかない?」 少女は包みの赤いリボンを解き始めた。 「そういえば、そうだけど」 「よかったら、召し上がらない?」 「おいしそうな匂いだね」 クリームの匂いだ。 「ケーキかい?」 「ううん、白うさぎのクリーム煮よ」 初めて聞く料理だ。 「山猫料理店で作ってもらったの」 少女はガラスの器に盛ると、素粒子レンジにかけた。食べ物は0.3秒でクオー クの芯まで溶けそうなくらいに暖められた。 「冷めないうちにどうぞ」 大人っぽい口調で、少女は私の前に器を置いた。 食べてみると、なかなかおいしい。白い柔毛(にこげ)までふんわり煮込んであ り、スプーンでかき回すと、たんぽぽの種のように宙に舞った。 半分ほど食べたところで、肉の間から、くさり付きの金時計が出てきた。フォー クで突き刺すと、中から銀色のゼリーがはみ出してきた。 食事を終えても、寺山先生は帰ってこなかった。 「きっと壁から落ちちゃって、足かなんか折っちゃったのよ」 そういいながら、少女は立ち上がった。 「私、迎えに行ってくる」 鏡に向かって走りだした。プランク定数のすき間をぬって、少女は鏡の中に吸 い込まれてしまった。赤いサッシュだけが半分こちら側に出て、ゆらゆら揺れてい たが、それも直ぐに消えてしまった。 私はあっけにとられて鏡を見つめていた。 それから急に、あのかわいらしい少女の名前をまだ聞いていなかったことに気 づいた。 |