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<縁 起>
  ときどき、私は思い出すのである。あの頃のことを。
  遠くから、遠くから、耳鳴りの様なひぐらしの声が聞こえて来る
夏の早朝。私たちは平安の美しい物語を朗読し、有明の月を待った。
 霧の深い中に、私たちは永遠に美しい少年のままいた。時折は月
をめがけて魂を翔ばした。魂は青く光る一本の線となって月に翔ん
だ。そのころ月には生き物がいる様子だった。月の上でもひぐらし
の声は聞こえて来る様だ。もしかしたら月の生き物の声かもしれな
い。かそけき声ではあった。
 じっと耳を澄ませていると、その声は古い古い詩編のようにも聞
こえた。私たちは香の匂いに酔いながらそれらを書き留め、また時
には低い声で何度も暗唱し、そのまま物語に編んでみたのである。


花  火(蒸発都市)
  開け放たれた窓は大きい。吹き込んでくる涼風はもう秋を思わせ
る。陽にやけてきいろくなった障子の破れ目が風にぱたぱたいって
いる。

  妹は押入れの中にこもるのが好きだ。時には私も彼女といっしょ
に中にはいる。私の体臭がしみこんだ布団に二人でくるまって、熱
燗を飲むのは好い。妹はあかいクレヨンで押入れのしろい壁に落書
をする。

  窓からは地平線まで見渡せる。超高層ビルの最上階にあるこの部
屋に、私は幼い妹と二人きりだ。都会の夜のあかりはどこまでも続
いている。くろぐろと見えるところは森だ。代々木公園、新宿御苑、
それに皇居。

  ささくれだった割りばしで、ゆどうふを食う。熱い酒が腹にしみ
る。妹は酒を盗み飲みしてむせかえる。ほんのりと頬があかい。妹
はここ一週間ばかり花火の夢を見ている。大きな花火だそうである。

  あかい満月がのぼり、妹は冷たい黒髪を私の口の中におしこむ。
とろけそうな味だ。

  「花火よ」妹はさけぶ。

  ちょうど皇居の上空で、花火がひかる。空という空が白くひかる。
 音はない。

  『しけんきゅう』(140号2003年6月1日発行)に掲載
   初出:『ユリイカ』(1989年12月号)

海 の 街
湾岸線に乗る。
廃都心を抜け、埋立地に広がる住宅街を過ぎると海面街である。
六つ目の駅で降りる。駅のプラットホームは木造で、潮風にやられ
ていたるところ腐敗している。ラッシュの時など、踏み抜いてその
まま海に落ちてしまう乗客もいる。
「希望が瀬」という名前の駅である。街のメインストリートはさす
がにコンクリートでできているが、路地に入ると板ぶきである。板
の腐った臭いにはなかなか慣れることができない。
焼き鳥屋から流れる脂煙に包まれて私の家がある。玄関は半分ほど
腐り落ちていて、下の濁った海面が見えている。その奥を一心に覗
き込んでいる白髪の老婆が私の母である。
自分の部屋にこもって貝腐酒を飲む。一番下の妹を呼んで焼き鳥を
買いに行かせる。路地板を踏み抜いたり、渡り板から落っこちたり
しないように注意しなさい、という。
日が暮れると風が出てくる。家が揺れ始める。建ててから五年しか
経っていないのだが、もう根太が腐り始めている。この前の台風の
時には、末の弟が部屋ごと波にもっていかれた。
床のすき間から見える海面が薄赤く光っている。「海火」といって
プランクトンの異常発生が原因らしい。街の全体がこの光に包まれ
たときに、夏祭りが始まる。

肉 汁 胎 児
 廃都心の瓦礫の中に立つ少女は、ポケットから小さな箱を取り出し、
私にそっと手渡す。
 箱には暑さでべとべとになったフルーツキャンデーがいっぱい詰ま
っている。箱の隅には牛の舌のような赤い生き物がひくひく蠢いてい
る。震える指先でそっと取り出せば、三か月の胎児のように鰓があり
尾があり四本の足がある。なめくぢのようにべとべと湿っていて指の
腹で軽く圧してみると、微かに脈打っていることが分かる。ああこれ
がカンガルーの子供なんだなと思う。母親の袋にもぐり込む前に何か
の理由でフルーツキャンデーの箱の中に閉じこめられてしまったらし
い。
 少女に見せると、顔を蒼くして、これは私の胎児に違いないという。
私は驚いたあまりに指先でそれを潰してしまう。ぱちん、と音がして
肉汁が私の爪を汚す。舐めてみるとマーボドーフの味がして私はひど
く狼狽する。

増 女(ぞうをんな)
 大広間には背欄繊維で作られた真新しい畳が一面に敷き詰められて
いる。一隅には、能の舞台が設えてある。眩しいばかりの照明の中で
舞っているのは、増女である。地唄は暗い。
 観ているのは私だけであり、真夏だというのに畳表は変に冷たいの
だ。氷靄が腰の方から上がってきて、躰を薄青色に凍りつかせるよう
だ。それでも震えながら、しばらく観ていると急に楽の音がやむ。
 増女は、重たげな衣装のまま本舞台から私のところへ降りてくる。
 背丈は私の腐った肋骨の下から4番目あたり。一つにまとめ上げら
れた髪が磁気テープのように美しい。
 無言のまま増女は器用に衣装を脱ぎ始める。焚き込まれた香が蜩の
声を思い出させるのは「夕顔」を使っているからだろう。わき、地謡、
囃といった連中は人形の顔に戻って増女を眺めている。
 乾いた衣ずれの音がしんと響く。深蘇芳色の紗(うすぎぬ)だけに
なって初めて私は増女が少女であることに気づく。
  面の内側で、少女はくすくす笑いをしているように見える。私の妹
かもしれない。確かめようと面に手をかけた途端、天にある軍星(い
くさぼし)から発する光条が私に向かって一直線に暗闇を引き裂いて
来る。
 私の左眼がじゅっと焼ける。小気味よい音だ。

 坂 
 坂はコンクリートでできている。両側には古い家々が軒を並べてい
る。急な坂だ。坂の向こう側に何があるのか分からない。暑さに溶け
た赤いクレヨンが道ばたに落ちている。坂の上り詰めたところに、私
の古い友人が住んでいる。この家の窓からなら向こう側を見ることが
できるかもしれないのだが、今まで、一度も窓が開いているのを見た
ことがない。窓はいつも分厚いカーテンで閉ざされている。
 今日は友人といっしょにガラス玉で遊ぶ。友人はギリムシ弾の照射
で遺伝子をやられたので、少年の姿のまま年を取らない。笑顔が青液
晶のように美しい。
 少年は玩具箱の中からガラス玉を取り出す。ひとつひとつが少年の
手の中で微かに共鳴している。
 色とりどりのガラス玉は冷たい。眼に押し当てると南極の磁気嵐が
見える。内奥で火が燃えている紅玉や深海に棲む謎の生き物の目玉が
浮いている緑玉。
 私は少年の左眼に一番冷たい青玉を押しつける。青玉はそのままず
ぶりと眼窩に吸い込まれてしまうが、少年は微笑んだままだ。取り出
した青玉は、少年の分泌した腐食性の液で、ぶよぶよになり、すぐに
溶けてしまう。フーリエガスの臭い。
 私は急に恐ろしくなって窓辺に駆け寄る。カーテンを引き、窓をあ
ける。すぐ目の前に開かれた窓がある。奥から覗き込んでいる顔があ
る。よく見ると、他ならぬ私の顔だ。その後ろには、白髪の老婆が歯
のない口でガラス玉を舐めながら、笑って、立っている。

じゃんがら念仏踊り
 夏祭りでは、じゃんがら念仏踊りが踊られる。
 じゃんがら念仏踊りというのは、文字通りじゃんがらじゃんがら
じゃんがらと、金(かね)を叩いて踊るのである。そのやかましさ
は奥の古い虫歯が浮いてきて、ひどく痛み出すほどである。
 今年は家の新盆(にいぼん)だから前庭で踊りがある。親戚の人
びとが縁側に座布団を敷いて並んでいる。老婆の小さな背には小さ
な虫が群れているが、これは老好虫(おいこいむし)、または死誘
虫(しにこいむし)と呼ばれている虫で、老人の背にしか群れない。
大変に忌み嫌われている虫であるが、盆の期間だけは吉兆の標(し
るし)だといわれている。
 踊りは神聖なものであるから、一言も無駄口をたたくものはいな
い。ましてや踊りの輪に参加することなどない。選ばれ清浄(きよ)
められた新男(にいのこ)だけが踊りの任につけるのである。未婚
の女は踊りを見ることはできない。配偶者を失った女も同様である。
彼女たちは踊りの間中、閉め切った奥の座敷で「ほうやあ、ほうや
あ」と合いの手を入れなければならない。家長が「よし」というま
で掛け声は続く。
  踊りは単調なリズムの繰り返しであるが、長い時間にわたって続
くうちに、別の世界に入りこんだようになる。このトリップ状態に
入りこむことを人々は「浄土めぐり」と呼ぶ。極楽浄土を体験でき
ないものは地獄へ堕ちるといわれている。あまりに知的な男や感受
性のない男は陶酔できないで終わることがあるが、それを他人に話
したりはしない。踊りの後に銭を投げればよいのである。
 踊りはじゃんじゃんじゃんと締めを打って終わる。庭から一列に
なって退出する。「歩きの金(かね)」のリズムで新男たちは次の
新盆の家を目指す。
  『しけんきゅう』(139号2002年12月1日発行)に掲載
   初出:『ユリイカ』(1989年12月号)



柱時計  −「田園に死す」より−
 オホーツクから流れてきた灰色雲がどんどん重なっていく。湿った
空気もどんどん冷却されていく。少年は今年初めての雪がもうすぐ
この枯野いちめんに舞い始めることを知っている。
 少年は、今、あんなに可愛がっていた羽陽鳥を絞め殺して、家から
跳び出してきたところである。理由は知らないが家にあった古い柱時
計を抱えている。その重さに、はあはあ息を切らしながら、枯野を駆
ける少年。
 空はますます暗く冷たく、そして、あたりは変に静かなのである。
 どこまでも続く枯れ野原のまんなかで、突然、柱時計が大きな音で
一度だけ鳴る。少年は立ち止まり、そのまま動けない。
 枯野に雪が降り始める。

葬儀の花の花ことば  −「田園に死す」より−
 碧黒い酸性雨が降りしきる廃都心をメトロサーブで一気に駆け抜け
ると、社会福祉センタービルに着く。年老いた祖母の葬式が行われて
いるのは41階の「東雲の間」である。がれきに埋もれた廊下を抜け
葬儀場に入る。
 狭い部屋には既に多くの人々が集まっており、それぞれに香を焚い
ている。無声香といって紫陽花の匂いに似ている。僧侶の読経が続く
中、私はほてった頬を両手でかかえながら、朽ち果てた祖母の顔を見
つめている。
 葬儀は滞りなく進み、いよいよ最後は棺放逐の儀式であるが、その
前に棺に納められた花や遺品は参列者に配られる。葬儀の花は白い陀
羅尼草である。
 祖母の棺は、4人の男衆によって「えいやえいや」の掛け声ととも
に、割れた窓の隙間から放り出される。外は濃い靄がかかっていて、
棺はすぐに見えなくなってしまう。下の方から微かに衝突音がするが、
誰も聞いてはいない。
 陀羅尼草の花束はほどかれて少女達の髪にむすばれている。
 花ことばは、「歓喜」である。


風邪の午後
 風邪で発熱したので私は学校を休む。短い眠り。氷枕の生ゴムの臭
いのなか、教室の飛ぶ夢を見ていたのだが、ふと気がつけば複葉のプ
ロペラ機が私の躰いっぱいに入って来ている。胸の奥で銀色のエンジ
ンがごおごおいっている。
 機体は鉄のまま、私の体の中で凝固してしまう。10トンの重さの
ために私は声も出せないで、ただひたすらにオイル汗を流す。少しで
も身動きすると、機体が私の薄い皮膚を破って跳びだしてきそうであ
る。枕元にある培養ゲル薬液を飲む時間なのだが、指1本動かせない。
 土曜日の午後はゆっくりと過ぎていき、やがて陽は西に沈む。私は、
アンタレスのような赤い点滅燈の突き刺さった目玉を、ちかちかと光
らせてみる。


能面の空と茉莉花

 大気汚染によって見る間に突然変異を起こした脆弱な空には、補強
のために厚ぼったい能面がそれこそ地平線まで埋まっている。猩々の
面もあれば翁の面もある。小面の面もあれば般若の面もある。そして、
能面はひとつ残らず茉莉花の部屋を凝視している。
 茉莉花はぶよぶよの絨毯に座して一心に祈っている。雪白の唇から
漏れる嗄れ声は聖なる密言を思わせる。時が満ちて茉莉花は立ち上が
る。すると、空を埋め尽くしている無数の能面の目玉が茉莉花の姿を
追う。空が動く。
 茉莉花は自分の部屋から百メートル下の歩道を見る。遙か眼下、不
思議な生き物たちの群を見つける。華奢な蒼白い脚をがに股にして歩
いている。歩きながら口々に鮮血を含んでは、アスファルトの道にぺ
っこぺっこと吐いている。胎児の群である。大きな頭部は無毛であり、
雛鳥の心臓のようだ。
 茉莉花は思う。
「おまえたちはそれぞれの母親の胎の中でくるくると回転した末に死
んでいった。アルカロイドの毒とギリムシ弾の照射で死んでいった。
ああ、おまえたちは船酔いにも似た嘔吐感でまだ見えない瞳を動かし
ただろう。」
 その時、若い僧が通りかかったので、胎児の群はここぞとばかり僧
に向かって鮮血を吐きかけた。白い砂漠の香に満ちたころもは、たち
まちのうちに赤く染まる。それから群は僧を裸にすると、その躰中を
歯のない口でしゃぶり始める。僧はその気味悪さに悲鳴を上げながら
駆け出すが、胎児達はがに股で追いかけるのである。足は速い。あっ
という間に僧は追いつかれ骨までしゃぶり尽くされてしまう。後には
紅い蓮の華のような僧衣だけが残る。
 茉莉花の心が白い紫陽花で満ちたとき、確かに空の能面がいっせい
に笑った。