「大きな家」


 辺境の深い森を抜けると、大きな建物がそびえていた。今にも冷たい雨が落ち てきそうな空。厚く垂れ込めた層雲は妖磁気を帯びて、びょうびょう鳴っている。
 廃都心から長い旅をしてきた私は、七層からなる木造の家を見上げる。驚くほ ど古びた建物だ。膨大な木材が使われていて、全体から抑えきれない腐敗の匂 いが重たく伝わってくる。
 いつの間にか、猫背の年老いた男がひっそりと私に近づいてきて、耳元でささ やきかけた。
「お遍路様、客人としてこの家にご招待いたしたいと、そのように家の主が申し上 げておりますが。」
 男の吐く息がかび臭い。
「しかし、この家の主を私は知らないのだが。」
「いえいえご冗談を。主はお遍路様のことをよく存じ上げております。」
「ほお」
「お連れしなければ、ワシがひどく叱られますので。」
 折しも雨が降ってきた。長旅で躰もつかれていたので、よく分からぬままに、私 は招待を受けて家を訪ねることにした。久しぶりに、固い地面の上ではなく、暖か で柔らかい布団にくるまって眠りたい。

 入口近くの水場では、大勢の老婆が洗濯をしているところであった。秋の終わ りの冷たい水にしわだらけの手を赤く染めて、ひたすらに黙りこくり、ゆがみなが ら衣服を洗う姿。
 しかし、案内の男は私の先に立ってずんずん進んでいった。
 薄明るい廊下にはイーゼン油の赤い灯がちろちろと燃え、廊下の板はぎしぎし と湿った音をたて、広い階段の手すりは無惨なくらいすり減っている。一体いくつ の家族が住んでいるのか分からないが、長い廊下に沿って数え切れないくらい の部屋が続いている。白い障子には薄ぼんやりと人影が映り、子供たちのくすく す笑いや老人の咳払いが内奥から聞こえてくるのだ。
しかし、案内の男は遍路の先に立ってずんずん進んでいった。
 私は少しばかり不安になって男に聞いてみる。
「一体、私はどこまで行くんですか。」
「もう、すぐでさあ。」と男は振り向きもせず答える。
 すれちがう人達はみんがみんな、うつむき加減。私たちと視線を合わさないよう に、そくさくと通り過ぎる。床がぬるねると滑って湿っぽい場所に出る。かなり広 い浴場である。青い液晶ガラスを通して、暖かそうな白い湯気の中にぼんやりと 女達の姿。
しかし、案内の男は遍路の先に立ってずんずん進んでいった。
「一体、私はどこまで行くんですか。」
「なあに、もう、すぐでさあ。」と男は振り向きもせず答える。
 初めのうちは生活の臭いもあったのだが、階を昇るにつれて、人影がまばらに なってきた。
「もう、誰にも会いませんね。」
「それだけこの家が広いんで。」
「私を招いた主はどこにいるのですか。」
「この家のずっと上の方でさあ。」
「しかし、なぜこの家の主は私のようなものを知っているのだろうか。」
「はあ、なぜですかなあ。」
 そんなとりとめもない会話を交わしているうちに、私たちは何の変哲もないぼろ ぼろの襖(ふすま)の前にいた。
「ふう、やっと着きました。」と男はいって、襖をを開けた。

 部屋の中には女が立っていた。一昔前に都で流行った萌黄の紗(うすぎぬ)を 身につけている。40歳はもう超えているように見えたが、なかなかに、あでやか な風貌をしている。
「よおく、来たねえ。」と女は静かな、しかしよく通る声でいった。
「私はお前の母親だよ。」
「えっ。」
「ここはお前の生まれた部屋だよ。」
「はあ・・・」
 しかし、私にはこの大きな家もこの部屋も全く記憶がない。自分は都で生まれ、 都で育ったと聞いている。ものごころがついた時には都に住んでいた。母は10 年前に訳もなく突然姿をくらましてから、一度も会っていない。
 今目の前に立っている女の顔は、母親の顔に似ているような気もしたが、10 年前よりも今の方がかえって若いようにも見えるのが不思議である。
「じゃあ、ワシはこれで失礼いたしまする。」
 案内の男は、かしこまった声でそういうと部屋から出ていった。
女は黄ばんだ障子の窓を開けた。小さな子供でもいるのだろうか、障子はとこ ろどころ破れている。
「ほおら見てごらんよ。見晴らしが好いから。」
 私は何がなにやら分からずに、「はあ」といったきり、身動きもできない。
「ほおら見てごらんよ。とっても見晴らしが好いから。」
 女はもう一度いうと、私の手を引き寄せる。女の手は驚くほど冷たい。
 私はしかたなく外を見る。この地方が一望に見渡せた。この家の最上階にいる ようである。真下は絶壁である。白い霧のような雨。遠くの山の背がけぶってい る。蛇行する河が灰色に濁って流れている。どこからか雲雀の声が聞こえる。
「いい風景ですね。」
 何か言わなければいけないと思い、やっと声を出す。
 しかし女の返事はなく、急に襖の開く音がして、童女が部屋に入ってきた。
 振り向けば、女の傍に、はにかむように立っている子供。五歳くらいだろうか、 とても可愛らしい姿をしている。
「ほおらこの子がお前の子だよ。」
 嬉しそうに女はいった。
 醜い容姿の私とは似ても似つかない。自分の子ではない。自分の子というより も、もともと私は結婚さえもしていないのだ。
「あ、あのう・・・」私は混乱し、そして困惑する気持ちの中で、嗄れた声を出す。
「その子は私の子供じゃありませんよ。」
「いいえ、お前の子です。」女はきっぱりと言う。
 童女は私を見て頬笑んだ。何だか、そう念を押されてみれば、自分の子のよう な気もする。
 子供は私に駆け寄ると、膝を抱きしめていう。
「お父ちゃん、あたい心配してたのよお。」泣き出しそうな涙声と夕顔の香の匂 い。
 一体、この子の母親は誰なんだろう。自分に思い当たる節はないのだ。
 私は、顔をよく見ようとして童女の頬を両手に取る。すると、子供の頭がぐらぐら したかと思うと、途端に首から上が抜けてしまった。
 童女はアッと短く叫んだ。私は驚いてその首を畳の上に放り投げた。不思議に 血は出ない。
「ああ、あたいの首、あたいの首。」と童女は首のない胴体の奥の方から、機械 声でいって、床の上をころころ転がっていく首を追いかける。首は首で、転がりな がら何か楽しい遊びでもしているように笑い続ける。
 女も立ったまま笑っている。
「ああ、あたいの首、あたいの首。」
 首は部屋から出ると、階段をとんとんと音をたてて落ちて行く。
 首を追う童女も、とんとんとんと音をたてて階段を降りて行ってしまった。