■本の紹介


川村晃生著『見え始めた終末』

─「文明盲信」のゆくえ─


三弥井書店/2000円+税










「文明盲信」に警鐘

 本書は文明社会に警鐘を鳴らしている。文明発達の弊害のひとつとして環境破壊をあげる。またスマホに熱中する国民や漢字の読めない政治家を例にあげ、文明の発達は人間を劣化させている、としている。
 このように文明を否定的に論じることについては批判も多い。「文明を享受しながら、“文明がなんだ”といって駄々っ児(だだっこ)のようにわめいている」という批判である。しかし本書はそのような単純な文明否定論を説いているのではない。
 著者は、文学者であると同時に、さまざまな市民運動に深くかかわっている。「ストップ・リニア!訴訟」の原告団長などをつとめ、研究と実践を両立させている。類い希な“行動する学者”である。市民運動にかかわるなかで現代社会の危機的状況を痛感している。のっぴきならない現実を背景においてものを言っているのである。
 日本の景観は破壊の一途をたどっている。各地で森林が伐採されたり切りくずされたりしている。湿地や谷津田はどんどん埋められ、住宅地や工業用地などが造成されている。それらに抗する運動も各地でつづいている。だが、市民が環境破壊を食い止めるのは容易ではない。
 リニア新幹線は環境破壊や安全性、採算などさまざまな問題をかかえている。それなのに、アリバイづくりとしかいえないズサンな環境影響評価でもって建設を強行する。本書は、そのような具体的事実をいくつもあげ、私たちはいま重大な岐路に立っている、と警鐘を鳴らす。そして、「〈科学技術立国〉なるものがもたらすものについて、私たちは本質的な議論を始めねばならない」と問いかける。
 本書は『万葉集』や『古今和歌集』などの古典文学を紹介し、「古人は自然に対して、きわめて優しい眼ざしと細やかな配慮を持っていた」と主張する。また、文明開化のまっただなかで生きた夏目漱石の文明批判論を紹介し、文学の視点から文明社会を痛烈に批判する。
 著者はこう書いている。
     「文明がもたらしたものは、環境の破壊ばかりではなかった。それは資本主義経済を高度に発達せしめてしまったという点と相俟(あいま)って、人間性の喪失や財政の危機をも招いたのである。いま私たちは、あらためて文明の罪を問い直さなければなるまい」
 本書は、現代社会のあり方や私たちの生き方を根底から問うている。いろいろと考えさせられる本である。


古典文学の自然観

 問題を2点提出させていただく。
 ひとつは古典文学の自然観である。評論家の加藤周一氏は、『日本文学史序説(上)』(ちくま学芸文庫)や『「日本文学史序説」補講』(同)、『加藤周一自選集』(岩波書店)でこんなことを記している。
 『万葉集』の歌人たちは、主として人事にかかわるかぎりで身辺の自然的環境を描いたのであって、大洋や高山や野獣のすむ森にはふれていない。9世紀の『古今集』の歌人たちは、新しい「自然」を発見したのではない。『万葉集』の歌人が彼らの恋を託するために詠(うた)った花や鳥や風や月を、恋をはなれてもそれ自身のために詠うようになったにすぎない。平安朝の歌人たちは都の外へ出ることをきらった。やむをえず外へ出たときにも、ほとんど自然を見てはいなかった。広い海も、雪の連山も、広葉樹の深い森も、彼らの歌のなかにはほとんどあらわれない。芭蕉以前の日本の選良たちは、自宅の庭の季節の移りゆきに敏感ではあったが、自然を愛していたとは義理にもいえない。彼らが愛していたのは、都であり、恋であり、女である。この時代には、画家でさえも、名所を描くのに名所を見てはいなかった。重要なのは画題の歌枕であって、現実の風景ではない。清少納言や紫式部の文学には宮廷社会の秩序に対する批判がまったくなく、貴族以外の日本の人口の大部分に対する配慮もほとんどなかった──。
 文芸作品の題材として自然をとりあげるだけだったら、古人よりも現代人のほうがはるかに多い。それに、いまの日本には山や海、野鳥の愛好者が何百万人もいる。
 問題は、そうした文芸家や自然愛好者のなかで自然破壊に抵抗する人はほんのわずかしかいない、ということである。文学作品の自然観をとりあげるさいは、このような問題も考察してほしい。


文明発達は不可避

 もうひとつは文明論である。文明の発達は不可避、と私は考える。たとえばインターネットの普及を止めることは不可能である。
 一例をあげる。著者が原告団長をつとめる「ストップ・リニア!訴訟」は、ニュースなどをインターネットに全面的に依存している。私も原告に加わっているが、紙のニュースや会費納入依頼書(振込用紙)はいっさい送られてこない。ネットを利用しなければニュースを見ることができない。このようなネット全面依存の運動は、ほかに類をみない。
 近代文明を痛烈に批判した夏目漱石も、文明開化を止める手立ては考えつかなかった。
 加藤周一氏は『日本文学史序説(下)』(ちくま学芸文庫)でこう指摘する。漱石は西洋化や文明開化を批判したが、「その必然と不可避性を充分に自覚していた」と。漱石は、「現代日本の文明開化」と題した講演において、「どうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、わたくしには名案もなにもない」とのべた。さじを投げたのである。
 大学も文明発達の産物である。文明の発達がなければ大学や大学教授は存在しなかった。これは歴史的事実である。
 文明の発達を不可避としてとらえ、負の部分をどのように解決していくか。それが私たちの課題ではないか。現に、自然や景観を大事にしている文明国もある。この点の検討もぜひお願いしたい。
 東京学芸大学の石井正己教授(日本文学)は本書の書評でこう記している。
     「今、日本のみならず世界を見ても、この『暴走』はますます加速している。それでも私たちは、『見え始めた終末』と言って悲観せず、文学批評の言葉によって、人々の意識を変革していかねばならない」(『週刊読書人』2017年6月30日号)
 同感である。
(中山敏則、2017年7月)












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