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1998.8.1 八丁平通信40号。
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八丁平通信は本紙版とあわせてマルチメディアにさまざまな通信環境にある方々との、交信をめざします。
京都北山 八丁平通信 40号 1998年8月号
1998年8月
発行者データ 前号に同じ
表紙スケッチ:ヤマアジサイ
・・・・・・・・・・・・石田万介
1P・・・八丁平近況報告Part1−1(4/22)・・・・・・・花熊桂子
・・・・・
佃 靖子
−大悲山口より八丁平へ−
報告1−2(4/22)・・・・・・・・・・・・・・・・木村一郎
−迂回ルートは崩壊がつづく−
報告2 (5/25)花を中心に ・・・・・・・・・・木村一郎
−カキツバタは一輪のみ−
2P・・・報告3 (6/15)開花状況を中心に・・・・・・・・・木村一郎
・・・八丁平の観察と報告のお願い
・・・・・・・・・・・・・ 事務局
3P・・・10年を迎えた「八丁平通信」 ・・・・・・・・・・・・尾高一郎
−記念すべき1号は1988年5月に発行された−
4P・・・ 北山の自然史ガイド (15) ・・・・・・・・・・・・鈴木博之
−周山・魚ケ淵の三畳紀二枚貝化石−
5P・・・(続き)図版1、魚ケ淵のモノチス化石
図版2、モノチス化石出土地
6P・・・雲ケ畑から久多へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村一郎
−古い日記から読み取る、戦前の雲ケ畑の交通事情−
・・・ 森の中の旧駅舎
−比叡山ロープウェイ旧線を辿って−
7P・・・(続き)
8P・・・(続き)
・・・ 幻の索道・軌道
−歴史に探る索道の可能性−
9P・・・資料:新聞記事他
10P・・・八丁平近況報告Part2−八丁平の野鳥
パソコン通信FBIRDの記録 (5/31)・・・・・小高光一
11P・・・パソコン通信FBIRDの記録 (6/7)・・・・・・高坂泰広
12P・・・お知らせとお願い・・・・・・・・・・・・・・・・・・中川
泉
−八丁平通信 最近の諸事情について−
13P・・・事務局だより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田淵哲夫
−八丁平通信40号、10年の軌跡−
・・・京都労山よりお知らせ、登山祭典(10/25)
全国登山者自然保護集会六甲集会(10/31〜11/1兵庫労山主幹)
10周年、40号記念特別付録−八丁平通信総目次(全14頁) 別刷り・中川
泉
お知らせとお願い
八丁平通信 最近の諸事情について
八丁平通信も10年かかってやっと40号までたどりつきました。この間の事情については、この号で尾高さんや事務局田淵さんが書いています。八丁平通信については(今のところ)今後特に大きな変更もないと思うのですが、40号からバックグラウンドでマイナーチェンジがありましたのでお知らせします。
今まで、通信の発行のすべて、観察会などその準備の殆どを事務局の田淵さんに頼ってきました。その努力にはただ頭がさがるばかりです。この号から、通信の編集を中川が担当することになりました。印刷と発送は従来どうり事務局が担当してくれます。また木村さんに事務、編集、双方の補佐をしていただいている格好になっていますので、連絡等はこの3人のうち皆様がアクセスしやすいところにお願いします。
電子版八丁平通信について
通信36号、39号に私なりの活動プランをかいてみましたが、その1つのとして、八丁平関係資料の電子情報化に着手しました。着手年月日は1998年1月1日とし、その手始めに八丁平通信40号の総目次と電子版八丁平通信40号(1号)を発行することに(特に反対意見もなかったようですので)なりました。発行年月日は1998年8月1日とします。
してその実態や如何?
本来、八丁平通信の会として独自にインターネットにホームページ(ウェブサイト、ウェブページ)を開くべきなのですが、諸事情から(ほんとに諸事情あります)、現在は私の個人サイトの中にあります。(中には何故か田淵加工所の非公認ページもありますのでアクセスできる方は是非見てください。)
下記のように入力していただければ、直接八丁平通信のページがひらきます。植物園にいろいろな入り口があるものと思っていただければありがたいです。こう書きましても、でも、私はインターネットには関係のない、という方には面白くないと思われることでしょうが、今のところ電子版八丁平通信と従来版は同一の内容とする方針です。工夫してインターネットやpc通信の情報を出来るだけ反映させるようにしたいと思っています。座して待つだけでインターネット(の内実が)が得られる、と言う訳です。ただ、発行後から次の号まで従来版ですと数ヶ月間ありますが、電子版ではその間の情報も逐次反映させていきたいと考えています。(今のところ、個人サイト各ページの更新を毎月10日前後に考えております。)
そこでお願いがあります。情報提供をお願いします。
一次情報、2次3次情報であるかを問いません。(つまり聞いた話し、又聞き)。ご連絡は葉書き、電話、fax、E-mail、いずれでも結構です。
あて先は上記、下記を参照ください。また、ホームページにも書き込めるようにしたいと考えています。
八丁平通信編集担当中川 泉 〒187−0043(東京都小平市学園東町)3−7−30
電話/FAX 042-345-0537Email:take-wood.izumi@nifty.ne.jp
八丁平通信ホームページhttp://member.nifty.ne.jp/take-wood/Bdaira/dairatuu~index.htmと少し長いです。
当方のサイトからリンクをたどるにはhttp://member.nifty.ne.jp/take-wood/index.htm
今後とも八丁平と八丁平通信をよろしくお願いします。
八丁平近況報告 晩春から初夏
現地報告1−1、1998・ 4・22 参加者:木村一郎、花熊桂子、佃靖子
今回は大悲山口より八丁平にむかう。
満開の桜に迎えられ、林道すぐにイカリソウの群落が続く。
林道、八丁平周辺を含め、出合えた花は、スミレ・ショウジョウバカマ・ヤマルリソウ・キケマン・ムラサキケマン・ラショウモンカズラ・ヒメオドリコソウ・エンレイソウ・ネコノメソウ・チャルメルソウ・ヤブジラミ・アケビ・チゴユリ・イワウチワ・アセビ・シャクヤクなど。
峰定寺に至る迄の山岸に、シャクナゲと黄色のヒカゲツツジが可憐に咲き、地元の人臼く、伐採がすすむまえにはもっとヒカゲツツジが多かったとのこと。たいへん残念に思う。
昨年4月16日には、ミヤマカタバミ、ヤマエンゴサク満開だったが、今年はニリンソウ一色だった。中村寄り下山道に群落あり。アブラチャン、ダンコウバイ、クロモジの花もなく、どの木をみても、若葉の透きとおるような緑がまぶしいくらいだった。
来年は是非、新心荘跡近くのウワミズザクラの開花を期待したい。今回は三人と少人数だったが、たっぷり時間をとりながらの、花の一日旅だった。
遠目にも むっくりもっこり 山若葉 (佃靖子)
(八丁平通信の会 花熊桂子)
1−2、この日、峰床西の迂回ルートの林道を少し歩いてみた。法面の植生の回復はしておらず、特に山側は崩壊が続き、種子の吹き付け等の緑化対策も94年当時のままで、以後特に施されていない様だった。暖冬の影響で植物の開花は全般に早い様で、俵坂付近等で例年この時期見られるイワウチワもほぼ終わりで、コブシも見当たらなかった。尚、平日にもかかわらず、堅田からのバスで入り大悲山へ向かう女性ばかりの10名程のパーテーに出会った。
(八丁平を守る会 木村一郎)
現地報告2 1998・ 5・25(花の開花を中心に)
ヤブデマリ:伊賀谷〜回遊道〜随所。 タニウツギ:一部は未だつぼみ状態(東部)。カマツカ:一部開花。 マユミ:乗越からの出合、南東など。 ウルシ:目立たぬが。ヤマボウシ:乗越出合東上、同北すぐ、南端等、多くの花。 サワフタギ:一部始まる。ホウノキ:南端東他。 ナナカマド:終わりかけ(南西、クラガリ頭部)。
レンゲツツジ:南北湿原。 カキツバタ?・中央部群落で一輪のみ、双眼鏡で紫色発見。
ズミは不見当だった。既に終わったのだろうか。
アジサイ系の花は未だである。暖冬による時期のずれも次第に元に戻って来つつあるのだろうか。
ウグイスはよくさえずるが、他の鳥の姿や声は少ない。雨のせいだろうか。
ヤマドリのおやこ:俵坂から少し花背寄りへ下った所で、我々の接近を恐れたのだろうか、親鳥が羽を広げて子を抱える様にして、這う様に斜面を下方へ逃げていった。
(八丁平を守る会 木村一郎)
現地報告3 1998・ 6・15 (開花状況を中心に)
『伊賀谷』ヤマアジサイ(色調薄めで淡い・同様の色のシジミチョウ多数翔ぶ)、ウノハナは終近しフジキ?(又はユクノキ?)大木で白花、『ユリノオク谷』中腹尾根筋含む。ウノハナ(終近し)、ウリノキ、コアジサイ、ササユリ。アサギマダラ飛来。
『回遊道沿い』エゴノキ(乗越出合東・東南部・南端・新心荘南群生)、サルナシ(乗越出合他)、クリ、ヤマボウシ(各所点在)、ミヤマイボタ(東南に群生)、イヌツゲ(フノ坂岐南)、ウノハナ、ガマズミとタニウツギは盛をやや過ぎる、マユミ少々残、ヤブデマリは完全に終。カキツバタ終?(オグロ峠から急拠久多へ下りる事になり、湿原中央群落を確認出来なかったが、前日現地を歩いた尾高氏の談によれば全く無かったとの事である。)
『大杉よりオグロ坂峠』ヤマアジサイ、コアジサイ、ツルアジサイ、サワグルミ。
『オグロ谷』シジュウカラ等カラ類群れる(峠)。ハルゼミ?鳴く。雨止み薄日射す。ハクウンボクは(あれ程満開のエゴノキと同系だが)花は無し。谷入り口から1KM
程入った所から東側へ林道の新しい支線が。開設月日不明。今回は花熊氏他計4名の山行。次回は10月上旬頃を予定していますが未確定。同行されたい方は事前に連絡願います。
0771・23・9751(八丁平を守る会 木村一郎)
この日同行の花熊さんからも以下のメモをいただいています。出合った花。ヤマアジサイ、ハナイカダ(実)オカトラノオ、ササユリ、コアジサイ、ツクバネソウ、サワギク、ギンバイソウ(蕾)トリアシショウマ(久多)ミズタビラコ、ツルアジサイ、コナスビ、キツネボタン、ママコノシリヌグイ、イチヤクソウ。(編集室)
(事務局)
八丁平を守る会々員 尾高一郎
八丁平の林道問題が新聞報道で公になったのが1969年(昭44)、今から数えると30年も前のことになり、正に今昔の感を改めて思う外はない。
高層湿原の言葉さえ知らなかった当時の私には、八丁平そのものは峰床山に登るルートの一部としか考えておらず、伊賀谷右股から乗っ越しを下って、直線で100m足らずの原を横切るのに、密生するイヌツゲに悩まされ、田圃状の湿原に置かれた枯木を踏み損ねて靴を泥まみれにされるなど、当時の心情としては恨めしく憎い存在でしかなかった。
林道が付けられることになった二ノ谷側は、尾越の外れから谷に沿った山道だけで、途中に新築まもない芦火荘があるくらいで、フジ谷峠の道を分けてからその先でフノ坂に続いていた。工事が始まる前までは小野谷峠を越えるコースからフノ坂道も使っていたが、起工されてから全く覗きもせずに過ごし、その後になって林道工事が一時中断されていると知ったのである。
それから10年、所属していた山岳会の仲間を通じて八丁平の林道間題に関わりを持ち、貴重な自然遺産を次世代に引き継ぐ意識を啓蒙され、強固な秘密性と権力主義で工事を推進させようとする行政側と対立するなど、自身でも驚くほど八丁平の林道間題にのめり込んだのだった。
「八丁平を林道建設から守る会
」が1979年に発足してから、他の同志団体と共同で現地集会を開催し、その場を通じて間題の重要性を訴え、対策の必要性に同意を求めるなど、多くの人たちに運動の意図を認識してもらうことに力を注ぎ、更に写真展や講演会を開催するなどして、八丁平の保全と林道間題に市民の関心を集める努力を積み重ねていた。
その間でも林道の工事は進んでいたが、一方では湿原の貴重性を認めた行政側の対応も進展を見せたことで、事態の変化を速やかに文書で公表することを考え、定着してきた自然観察ハイクと共に、定期的なニュースレターとして「八丁平通信」の発刊が図られたのである。既に八丁平を保全する目的の団体は三っつの組織のみとなり、「京都府勤労者山岳連盟」と「地学団体研究会京都支部」及び「八丁平を林道建設から守る会」から「八丁平を守る会」と名称変更した三団体の合名のもとに、記念すべき第一号は1988年5月に発行されたのだった。
これまでに発行された「八丁平通信」では何と言っても目を引くのが第19号で、1992年11月に京都市長が自ら発表した、「
林道大黒線の計画路線を変更」による林道路線の回避を特集しており、永年に亙る八丁平保護運動報の成果が16ページの誌面を飾っていた。
また最近の通信第39号では、「インターネットの八丁平をたずねる」(中川 泉)にも興味をひかれた。なお現在同氏により八丁平通信の電子入力がすすめられているとお聞きした。過去の通信には八丁平の歴史や保護運動史をはじめ、多くの報告やエッセイなど、楽しい読みものもたくさんある。電子化される事になれば貴重な資料となるだろう。パソコンも興味はあるもののまだ入手には踏み切れず、自分のことは棚に上げて申し訳ないが、電子情報の入手、提供なども含め今後も八丁平通信へ記事を書いて戴くことを切望して止まない。
周山・魚ケ淵の三畳紀二枚貝化石 |
<北山と大型化石>
化石は「地質時代に生存した生物の遺体およびその生活跡」と定義されています.環境に対応してさまざまな化石がみつかりますが,貝化石やアンモナイトなどのように肉眼で認識される大きさの化石を大型化石といい,顕微鏡などを使わないと確認できないような化石,たとえば放散虫や有孔虫は微化石といいます.大型化石は誰でも化石とわかりますので,ポピュラーですが,その産出は浅い海に限られます.北山を構成する丹波層群は,海溝付近の深海で堆積した地層であり,一般的にいって大型化石の産出を期待することはできません.ところが,北山の周山南方の魚ケ淵は,北山で唯一の二枚貝化石産出地として有名です.
<魚ケ淵の二枚貝化石の発見>
ずいぶん昔のことですが, 1956年に美山町の井上さんという方が,魚ケ淵の大堰川の川原の転石から二枚貝の化石を発見されました.大学で鑑定したところ中生代三畳紀後期(約2億年前)のモノチスという浅海性の二枚貝化石であることがわかりました.北山の丹波層群から二枚貝化石はそれまで知られていませんでしたし,当時の知識では丹波層群は古生代の地層と考えられていましたので,この発見は研究者から注目されました.
化石は川原の転石から発見されたものなので,本当に丹波層群の地層に由来するものかどうかが問題になり,付近の丹波層群が調査されましたが,貝化石を含む地層は当時見つかりませんでした.丹波帯の北に位置する舞鶴帯には,二枚貝化石を多く含む三畳紀の地層が知られていましたので,そこの地層の一部が川によって運ばれてきた転石ではないかと疑われました.
しかしながら,ついに1981年になって丹波地帯研究グループの精力的な調査によって,付近の丹波層群の砂岩から同じ貝化石が発見されて,丹波層群に三畳紀の砂岩が存在することが確実となりました.最初の発見から25年後のことでした.しかし,この事実はまた新たな問題を提起することにもなりました.
<魚ケ淵の三畳紀二枚貝化石がもつ地質学的意義>
1970年頃から放散虫化石の研究が進み,また,プレートテクトニクスの概念が普及して,1980年頃には丹波層群はジュラ紀の海溝堆積物を主体とすること
が明らかになりました.それまで丹波層群は石灰岩中のフズリナ(紡錘虫)化石から古生代の地層とされてきましたが,これらの石灰岩はプレート運動によって海溝に運ばれてきた海山上のさんご礁で,それがジュラ紀の海溝堆積物中にブロックとして取り込まれた異地性岩体と考えられています.すなわち,丹波層群はジュラ紀の付加体なのです(このシリーズの2および12を参照してください).
このような丹波層群の新しい概念に対して,魚ケ淵の貝化石は2つの点で問題となります.それは時代が三畳紀後期であることと,貝化石が浅海環境を示すことです.丹波層群がジュラ紀の海溝堆積物を主体とする地層であることを重視する立場からは,魚ケ淵の三畳紀浅海性砂岩はジュラ紀の海溝に陸側の大陸棚から海底地すべりで落ちてきた異地性岩体と考えることができます.一方で,最近西山や篠山周辺地域でも三畳紀の砂岩や泥岩が比較的広範囲に存在することが報告されていることから,丹波帯に三畳紀後期の付加体が存在するとの見解も有力になりつつあります.しかし,これらの砂岩や泥岩は比較的浅海の堆積物で,明瞭な三畳紀の海溝堆積物が見つかっていないことが,この見解の弱点になっています.魚ケ淵の三畳紀二枚貝化石を含む地層は,その発見から25年かかってやっと存在が確認されたにもかかわらず,まだなお当分の間,地質学者の頭を悩ませ続けることになりそうです. (地団研・鈴木博之)
図版1 モノチス化石(上図の白線は1cm) 図版2


図版1、2(「京都5億年の旅」1976より)
雲ケ畑から久多へ
木村 一郎
●日記を拝見したいきさつ・『通信39号』の訂正を兼ねて。
通信39号では「彼女も、会社で執務を行う夫の周造氏の所へ何度か訪れた」と書いたが、此の箇所について、おばあさん(波多野早苗さん)本人から誤りの御指摘を受け、当方の早とちりを反省しつつここに訂正をお許し願いたい。
改めて最初から述べると、波多野早苗さんの今は亡き夫、波多野周造氏は林業家であり又地域の要職を長年勤め、雲ケ畑バス設立者のひとりでもある。彼はバス事業に専任していたのではなく役員として数日おきに会社へ顔を出しており、そのことが昭和16年の「彼自身の日記」に出てくるのである。日記が彼女の物だと錯覚してとんだ失礼をしてしまった。
ところでこの事がきっかけで、日記の実物を見る機会を得た。 (後略)
*注1 編集室より。40号用に寄せられた木村さんの本稿ではこの後、波多野氏の日記の一部が紹介されているのですが、その内容は大変に貴重な近代京都北山の交通史の一次文献、ということができます。これを原文に近いまま転載するにあたっては、現時点ではやや難解すぎる、という編集員の判断です。後日稿を改めて紹介していただけると思います。
今回は木村さんから他にも次号、次次号に充当できる興味深い原稿をいただiいています。
出し惜しみせず!以下に40号記念として一挙掲載させていただきました。)
注2、PC画面での文字を読み取り易くするための編集として原文以上に短い段落で改行を加えてあります。
(ロープウエイ旧線を辿って)
比叡山が北山に含まれるかどうかはともかく、洛北開発を語るならば、そこをめぐる観光開発にも触れたい。最近、大原からロープウエイが造られる計画が持ち出され、地元でも賛否が別れ論議を呼んだが、ひとまずは中止になったということで、少なくとも自然保護の点からは良かった。比叡山には既存のケーブルやロープウエイがあるのだから、むしろそれらを有効に活用すべきではなかろうか。
●戦前のロープウエイ
比叡山ロープウエイの歴史は古く開通は昭和10年で、日本で最初のものであると言う。ここで注目したいのはそのルートである。現在はケーブルの終点から山頂遊園を結んでいるが、開通時は今と全く別のルートで、ケーブルより東北三丁の高祖谷から延暦寺駅(根本中堂の数丁手前)を結んでいたのである。
せっかくのこのロープウエイであるが、戦争によって撤去され、1956(昭31)年再建された時は今のルートになったのであるが、そのすぐあと1958年ドライブウエイの開通により、観光客の輸送は自動車道に主導権を奪われた感がある。尚詳しくは、文末に一部を転載したが「京福30年史」や「50年の歩み」を参照されたい。
ところで、この戦前のロープウエイの話を私の父母から聞くことができた。
昭和3年と6年の生まれで当時まだ幼少で、それぞれ別個に比叡山を訪れたわけだが、父の話では、「ロープウエイにはケーブルを降りて少し歩いてから乗り、特に記憶にあるのは、動き出した途端にグウーンと落ち込むように谷底へ下っていった事で、だから途中に支柱がなかったのではないか。」と。
確かにそれを裏付けるように社史には、支柱がなかった訳ではないが、一本だけあったことが記されている。一方社史の写真では比叡山付近の山々は木々が少なく草原状になっている様に見えるが、「ケーブルからロープウエイの間は杉林等もあり、特に木が少ないという事もなく、普通の山の景色だった。」と言う。
また当時ケーブルを降りると二人の担ぎ手による駕篭が何台か待っており、母はそれにのったと言う。その料金はいくらだったのか分からないが、「客の様相を見て高くふっかける場合もあると聞いた。」と言うが、実際どうであったか定かでない。
この旧ルートのロープウエイは前述のように戦時中撤去されたわけであるが、ケーブルはかろうじて残っていた。しかし客車は運転されておらず、父は「台車だけのような物に何となく便乗のような形で乗って行った」という。
○現地を訪ねて
先日 7月24日旧線のロープウエイ跡を訪ねてみた。夏休みに入っているにもかかわらず午後の登り便の客は私だけで、四明 終点で降りるとロープへの乗り換えの案内だけが、静かな付近一帯にスピーカーから呼び掛けている。職員の方に道を訪ねると親切に教えて頂き、ロープウエイの土台は残っているが道は草ボウボウで、行くのは難しいだろうとのことだった。
しかし、ともかくスキー場へ行く道より少し左手下方にある道を、現在のロープの下をくぐり、山腹を巻く様に進む。
途中、薮がきつく一旦植林帯の方へ迂回したりしながらある程度行くと、電柱が続く所まで出てしばらく進み、四本のモミの木(これはケーブル駅から見える)の所を過ぎて小さい堰堤のある沢を渡り、再びひどくなった薮を掻き分けながら支尾根を回り越すと、茂みの向こうに崩れた茶屋のような旧駅舎が見えてきた。ここまでの所要時間は約10分、ただし道を探す時間を除いての話である。
旧駅舎には当時の切符売り場の小さな窓口も残っており、崩れかけた壁には西陽を受けて「反革命・・」などと書かれた70年代を感じさせる落書きも見受けられる。ひたすら鳴き続ける蝉の声の他は人の声もしない静かな山の中で、時間が止まった様である。駅舎の後方にはゴンドラが発着していた土台と機械室と思われるコンクリートの構造物が残っている。トンネル状の薄暗いその建物の中は、独りで入るには少し不気味であった。
視点をロープウエイが結んでいた延暦寺(釈迦堂)の方向へ向けてみる。すでに目の前に楓などが生え相当成長しているので、木々の間からしか見えないが、途中の支尾根をはさんで終点と思われる稜線が見える。この支尾根にただ一本の支柱が残っていると言うが木々に覆われているためか全く見えなかった。
ケーブル終点から此処までの道は、今でこそ薮に覆われて草ボウボウだが、それでもよく見ると幅自体は荷車が通れる位あり、勾配は殆ど無く、等高線に沿った水平方向(つまり駅はスキー場の真下くらいにある)なので、平坦な道を徒歩7分位で乗り継ぎができたと思われる。そうであれば、延暦寺へ行く交通手段としては、現在より便利であったのではないだろうか。
特に昨今、むしろ中高年層を中心とした参拝客の中に、幾分かでもケーブル等の公共交通機関を利用する層があるのではないかと思う時、このルートが撤去された事は誠に残念である。
★山を下りながら・・
帰路のケーブルカーでは「西日が暑いですよ」と言われながらも、乗務員横の特等席に座らせてもらった。彼の話では、ドライブウエイ開通前は現在とは一ケタ違う数の乗客を運んでいて、八瀬のケーブルの駅の前には長い列が出来る事もあったと言う。
意外であったのは、ケーブルには泊勤務があることである。それは二台の内どちらか一方は最終便で登ったままにならざるを得ない構造上の必然であり、たとえシーズンオフの夕方迄の運行の時であっても、上で操作する運転士と乗務員の各一名が四明 終点で泊まると言う。
乗務員は何か障害物があった時、運転士に連絡して車両を止めるのであるが、鹿や猿が出てくる事もあり、雪のとき、木が倒れていて、腰まである雪の中を降りて行って倒れた木を斥けた事もあると言うことだった。
前項では、延暦寺へゆくには今より寧ろ便利であった比叡山ロープウエイの旧ルートについて述べた。山は歩いて登るものだとはいうものの、ケーブルやロープウエイがあるとやはり有り難い場合もある。かといって各地の山々に次々とそんなものが出来ても困る。
しかし現在自動車で行っている所をそれらに切り換えてゆく、という試みは注目に値する。信州の栂池では実行に移されているという。自動車では聞こえない鳥や虫の声をケーブルカーからは聞くことができる。
ところで既存のロープウエイは殆ど観光用のものだが、多雪地などで生活路線として使えないものだろうか。と言うのも、最近気になる昔の新聞記事を目にしたからだ。
「洛北索道申請」( 大正 3・7 ・21朝日新聞)
「洛北索道会社設立」(大正 5・ 2・19日出新聞)
*現在の京都新聞。
これは花背と市内を結ぶ索道が計画されたことを報道するもので、それによるとこの索道は貨物輸送を目的としたものである。附帯事業として不動産業などもあり、ひょっとすると寧ろその兼業の方がその会社の主たる目的だったのではないかとも思える。
しかし、まんざらそうでもなさそうである。なぜなら「特殊鉄道とロープウエイ(生方良雄著)」を読むと、当時全国各地で索道の建設が盛んで、鉱石木材輸送だけでなく鉄道の未開通部分の連絡(紀州)といった旅客用も登場し、貨物用としては美濃坂下から下呂まで35KM
に及ぶものも出現した、と記述がある。だからこの「洛北索道」も決して荒唐無稽な計画ではなかったのだろう。
しかし残念ながら実現には至らなかったようで、そうした記録や語り伝えを見聞きすることは出来ない。それが少しは着工されて中断したのか、当初から計画倒れとなったのかも定かでない。何か詳しい事が判らないかと、近畿運輸局鉄道部へ電話照会したが、そんな古い資料は無いとのことだった。
広河原の80歳代の人に聞いても知らないとのこと。創立委員長の住所の六角通を歩いてみたが、その「森田」という姓の家は見当たらなかった。この幻のロープウエイともいうべき計画は夢の様な話だが、最近花背に山の家ができ、冬季も団体客の往来が盛んなことを考えると、現代的な意義が全くないとは言い切れないであろう。
当時このように陽の目を見なかった軌道や索道は他にもある。同じく大正時代の新聞記事に「祖父江谷(京北)に軽便軌道」(大14・3
・13日出)がある。京北町史によれば、この森林鉄道は実現せず、後になって林道の形で目的が達せられた旨記述がある。
今日の様に道路が発達し、また自動車があまりにも深く密接に関わっている時代には、考えられない事であるが、当時、雪の多い地域の人々が確かな輸送手段として、軌道や索道に寄せた期待は大きかったのかもしれない。
*新聞記事は次頁に掲載。
( 八丁平を守る会 木村一郎)
以下はニフティーサーブのパソコン通信FBIRD上の野鳥フォーラムに寄せられた情報です。なお八丁平通信本誌版では未接続の読者の参考のために記録転載させていただくにあたっての通信ログを編集掲載させていただきました。(パソコン通信がどんなものか知っていただくため)
ウェブ版では。当方よりの往信部分のみ掲載(一部編集)。
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報告1:八丁平
【県 名】 京都府
【市町村】 葛川中村町
【場 所】 八丁平
【年月日】 1998年05月31日(日)
【時 刻】 05:00−12:00
【天 候】 晴れ【観察者】 コタッチ
【環 境】 低山【観察種】
1.オオルリ 5.ヒヨドリ 9.オオアカゲラ 13.ヤマガラ 2.ミソサザイ 6.ウグイス
10.アカゲラ 14.トビ 3.モズ 7.アオゲラ 11.コゲラ 15.コルリ 4.カケス 3羽 8.シジュウカラ
12.ヒガラ 16.vコマドリ
【備 考】○コノハズクらしい鳴き声を聞いた。
○他のbirderの方がゴジュウカラを確認している。
○右俣付近では、ミソサザイが沢山さえずっていた。
○コマドリのさえずりを何度も聞くが、発見できず。しかし、コルリは、しつこく探したおかげで、なんとか姿を見れました。
○毎年この時期に八丁平に行くのですが、昨年はカッコウ類の声をよく聞いたのでが、今年はまだ時期的に早いのか一度も聞きませんでした。
以下は後日メールでいただいた報告です。
96/9/23 ○ウグイス
備考 まだ鳥見を初めて3ヶ月しか経っていなかったのでウグイスしか確認できませんでした。 それと、前日に降った雨により「中村乗越」までしか行くことができなかった。(普通のスニーカで登っていたため「中村乗越」から八丁平間での坂道を降りることができませんでした。
97/6/25 ○オオルリ ○カッコウ ○ウグイス ○ジュウイチ ○コルリ ○キジ 備考 コルリとジュウイチは声だけ。 カッコウは向かいの山の木で鳴いていた。 キジは3羽多分♀
E-mail往信
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コタッチさんはじめまして。私はFBIRDハンドルネーム、だいらぼうというものです。京都北山八丁平を守る会、日本野鳥の会京都支部にもはいっております。(いちおう)八丁平の記録のアップ、有り難うございました。うっかりして2,3日前に気が付きました。八丁平のことならばどんな記録でもあつめています。八丁平の野鳥はずいぶん詳しくみておられる方が何人かいらっしゃるようなのですが、なかなか情報がつたわってこないのが悩みです。これからもよろしくお願いします。それから八丁平通信はご存知でしょうか。次号は7月中下旬になるかと思うのですが、その紙面にコタッチさんの記録をのせさせていただいてもよろしいでしょうか。次号はできれば電子版もだせるよう検討準備しています。
1998/6/10 だいらぼう
-------------------------コタッチさん有り難うございました-----
報告2:八丁平周辺
【県 名】 京都府
【場 所】 八丁平周辺(京都市・滋賀県との県境)
【環 境】 山林・湿原(800m)
【年月日】 1998年06月07日(日曜)
【時 刻】 10:00〜15:00
【天 候】 晴れ
【観察者】 滋賀県野鳥の会 田計里
【観察種】1 トビ 12 ビンズイ 23 ヒガラ2
キジバト 13 ヒヨドリ 24 ヤマガラ3 ジュウイチ 14
モズ 25 シジュウカラ4 ツツドリ 15 カワガラス 26
メジロ5 ホトトギス 16 ミソサザイ 27 ホオジロ6
アカゲラ 17 コルリ 28 アオジ7 オオアカゲラ 18
クロツグミ 29 イカル8 コゲラ 19 ウグイス 30
カケス9 ツバメ 20 センダイムシクイ 31
ハシボソガラス10 イワツバメ 21 キビタキ11
キセキレイ 22 オオルリ
【備 考】 ・林道入り口の葛川小、中学校に着くなり校舎の上でキセキレイが、安曇川にかかる橋の下からイワツバメが出迎えてくれる(イワツバメは橋の下に10巣営巣中)
・伊賀谷林道を歩く、谷川の水の音がやかましいくらいだ。林道終点近くでミソサザイ、オオルリの声、目の前をカワガラスが横切った。山に入っても谷川沿いに登るので水の音が暑さを忘れさせてくれる。登山途中でジュウイチが鳴く。遠くなったり、近くなったりだが、視界が利かないで声だけ。
・県境の尾根を越えれば、平均標高800mの八丁平だ。ここで鳴くウグイスの声は他で聞くのと違って聞こえる。ブナ、ミズナラ、クリ、カエデなどの深緑と盆地状の地形がそうさせるのか。
・登って来た時間が遅く、峰床山(970m)への登頂はあきらめ、湿原のなかをあるく、ウツギ、カマツカ、ヤマボウシ、この時期白い花が目立つ。鳥はホトトギス、クロツグミ、コルリ、アカゲラ、コゲラ、モズなど、本物の森と、野鳥の声に堪能した一日だった。
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E-mail往信
田計里さんはじめまして。だいらぼうです。(いもぼう、の親戚?^_^;)
八丁平周辺の記録のアップ、有り難うございました。
伊賀谷からの探鳥行、楽しませていただきました。FNも紀行文があると雰囲気が伝わってきますね。
八丁平に関するすべての記録をあつめています。
目下の大きな悩みは少し遠くなってしまい、また稼ぎが悪くて中々現地へ行けないことです。^^;)
これからもよろしくお願いします。
1998/6/12 だいらぼう:kodaira.tokyo
-------------------田計里さんありがとうございました-------------------
ウグイス(八丁平)少々古い^_^;1992・6(中川 泉)
「八丁平通信」、40号10年間の軌跡 1988年6月に「八丁平通信」創刊号を発行して以来、今号で40号(10年)となった。思えば、11年前の1987年、南側からの林道(市営林道大黒谷線作業道)がすでに八丁平手前200mまでに迫り、膠着状態がしばらく続いていた。このような状況下、同年11月に3団体と京都経済局(現在の観光産業局)農林部長との会談において「1992年に八丁平への林道を完成させる」との具体的な表明があり、「八丁平保護運動」としては新たな運動の展開をせまられていた。
そこで、より多くの賛同者を増やす目的で「八丁平通信の会」を結成して、保護運動の現状、観察ハイクの案内、各方面のレポート等を綴った機関紙「八丁平通信」を発行するに至った。以降、19号(1992年12月発行)では八丁平への林道迂回を祝しての「特集号」を発行することができ、又23号(1994年1月発行)では八丁平の将来像を探る目的で「八丁平についてのアンケート」を実施した(268通配布)。
事務局の余談になるが、通信発行の手順として各氏へ依頼した原稿を集め更半紙にコピー印刷して発送するのであるが、その発送用の封筒を新聞折り込みの広告紙を再利用して封筒を作り発送していた。その間、理解ある数人の会員の方から、このリサイクル封筒をわざわざ事務局へ届けていただくようなありがたい協力もあった。切手や、まとまった会費外のカンパをいただくこともあった。
顧みて、今日40号を発行できるというのも、会員の皆様の暖かいご協力とご支援なくしてはできなかったことであり、今後も八丁平通信の会の機開紙であると共に八丁平と保護運動の記録誌として引き続き発行していきたいとおもいます。
今後ともよろしくお願い致します。 (八丁平通信の会事務局 田渕哲夫)
現在の会員数一般会員126人 特別配布83通(京都市、八丁平環境調査団、各環境団体、各種研究者、等)。なお各自が入手された通信は再配布等御自由にお使いください。
記録
◎「鯖街道マラニック」が行われた。以下はINETにあった要項である。[主催京都トライアスロンクラブ開催日98年5月17日(日)小雨決行コース小浜〜上根来〜桑原〜久多〜八丁平〜尾越〜花背峠〜鞍馬〜 加茂川〜出町柳 約80km集合場所フィシャーマンズワーフ前公園 6:30 集合スタート小浜市今宮 泉町商店街鯖街道起点 7:30スタートゴール出町柳・三角州 制限時間19:00まで参加費10,000円申込締切98年4月25日 定員先着300名申込先〒604 京都市中京区竹屋町通堀川東入スポーツサイクル「ヤマネ」TEL.075-231-3347 FAX.075-231-8155]
サバ街道マラソン短報
二百三十余人の参加で一位は7時間15分3秒で走った34才の男性と云うことでした。この催しは今年が3回目と聞きましたが過去の記録を今回は48分も短縮したとか。私が5月4日に大見尾根を歩いていた時2人のランナーと出逢いましたが、梅ノ木から走り出して出町柳まで行くと云っておりました。オグロ峠辺りで写真に撮れたら良いと思いましたが、所用のため果たせませんでした。今後を注目しております。 (尾高一郎、98年5月20日)
◎「森愛館」オープン。京都市が左京区花背地区に整備していた「「山村都市交流の森」の拠点エリアに建設中だった森林文化交流センター(多目的ホールを主にした約1000平方メートルの建物)が完成し、7年あまりかけた整備事業が完了した。7月19日にグランドオ一プン記念式典がおこなわれた。
京都労山からのお知らせ
京都府勤労者山岳連盟秋の取り組み
◎登山祭典 10月25日(日)京都府労山主催
府内3〜4ヵ所の登山コースに別れて登山を行う。(一般参加歓迎)
◎全国登山者自然保護集会六甲集会10月31(土)〜11月1日(日)(主幹 兵庫労山)
尚詳しくは次号に掲載予定です。 問い合わせ先:京都労山事務所 075−312−8059
表紙スケッチ石田万介:ヤマアジサイ(ゆきのした科)1997・7・21
八丁平通信40号はここまでです。お読みいただきありがとうございました。本紙版の次号発行は9月下旬から10月はじめにかけての予定ですが、ウェブ版には新しい情報が入り次第、次の水平線以下に入力していきます。
八丁平通信40−1号 1998年8月1日〜