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  @レイキとの出会い


私がレイキと出会ったのは、ほんの些細なきっかけである。結婚してやって来た町。友達もなく、そしてなれない環境。私は参っていた。心が仮死状態になっていた。外に出るにも制限があった。だから何年経ってもこの町のことはよく分からなかったし、分かりたくもなかった。嫌いだった。買い物の際、時々通る道沿いに、見慣れぬ看板を見つけたのはそんなときである。「レイキヒーリング」。一体何なのだろう。何にも興味を持てなくなっていた心が、一瞬ピクリとした。そして反面、レイキという言葉に尻込みをする自分がいた。その時の私にとってその名称は、何だか胡散臭く感じたからだ。でも何故だろう。私はその施療院をネットで検索し、メールを送るこことなる。恐る恐るながら、それでも何かに導かれる様に。これが私の学んだ「元気堂」、そしてせき院長、レイキとの出会いである。


A初めての施療


初めて元気堂のドアを開けたとき、迎えてくれたのはせき院長だった。せき院長の第一印象を思い返すのだが、正直全然覚えていない。その頃の私はかなり病んでいたのだろう。今思い返せばかなりのノイローゼ状態だった。自分を保つのが精一杯で、せき院長の顔を見るどころか、目さえなかなか合わすこともままならない。挙動不審である(笑)。最初のカウンセリングで、身体の不調な部分について聞かれる。元気堂宛のメールで私は、以前摘出手術を行った卵巣膿腫について触れていた。左側の部分摘出だったのだが、その頃また少し痛みはじめていたのだ。この病気は、ストレスが大きく作用すると掛かったお医者さまが言っていた。

ひどい時には、一夜にして腫れ上がることもこともあるそうだ。私には原因が分かっていた。しかし、いくら先生と云えど初対面の人に、身の上話など出来るはずもない。ましてや内心何処かで胡散臭いと疑う、レイキヒーリングの先生だ。しかし、私の状態を見て、やはりストレスからなるものなのではと、せき院長は分かっていたらしい。徐々になれない環境や人間関係などについて話し始めた。そして初めての施療。最初、施療手順を説明されるのだがそれどころではない。なんせ未知との遭遇である。緊張していて、施療台に横たわっていてもなかなか落ち着かない。どのくらい経ったのであろう。身体の下の方から金色の光が上がってくるのが感じられる。とても柔らかくて、そして力強い。その光は喉元まで上がってくると、身体の表面から放出された。それからはあっという間だった。感想はとにかく「スッキリした」だ。何だか分からないけど身体の中のネガティブなものを洗い流されたようだった。幾分、喉のつまりも少なくなっているように感じた。あとで分かったことだが(せき院長に教えていただいた)、喉の詰まりもノイローゼの一種だそうだ。私が経験した限りでは、言いたいことを言えず、自分に無理を掛ける状態を何年も続けると誰でもこの症状が出るだろうと思う。この爽快感を継続させたい・・・、何処か怪しいと一歩引いていたレイキについて、もう少し突っ込んで知りたいなと思う。そしてあの光は?眼下に現れた映像は?(これについては体験に書かせていただきます)不思議なことだらけだったが、その時の私にはそんなことはあまり重要ではなかった。この重苦しい心と、そして少しづつ病みはじめている身体が両面から健康になるのであれば、こんなに素晴らしいことはない。わらをも掴む思いで、無意識下によって連れて行かれたような元気堂。私はここに通おう、そう決めていた。

只ただ自分のために、自分を救う為に受け始めたレイキ。当時は、自分のことでいっぱいいっぱいで、他人を癒すなんて考えてもみなかった。それがまさか癒しを一生の仕事としていきたいと思うなんて。後に思う、「人生に偶然などない、全ては必然である。」、小さな看板を見つけた時点で、私は素晴らしい偶然の出会いを果たしていたのだ。


Bアチューンメント


アチューンメントを受けよう、そう決めたのは何度目の施療の時だろうか。

アチューンメントを受けると、施療院に通わずとも、毎日のセルフヒーリングにより効果的に自身を癒すことが出来るのである。まずアチューンメントとは一体何か?自分自身の手により、レイキを流すことが出来るようにするためのチューニングと言えば分かりやすいだろうか。回路を開き、そしてチャンネルを合わせる。これはレイキの肇祖、臼井甕男先生が自身だけではなく、誰にでもレイキが使えるようにとの思いで考案されたそうである。レイキという名称のために(何となく宗教っぽいじゃないですか)胡散臭いなどと思っていたが、今ではこのアチューンメントを考案していただいたことを、全レイキ人口を代表してお礼を申し上げたいと思っている。というか毎日が感謝の連続である。何の修行なども必要とせず、私のような普通の女がこの恩恵に授かれるのだ。


C段階


レイキには段階がある。レイキを伝授している施療院は大手も含めてそれこそどれだけあるか定かではないが、殆どのスクールにて教授されている段階は、ファースト、セカンド、サードの3段階である。だが、私が学んだレイドウレイキでは、サードがab2段階に分かれている。今現在、私はサードのbまで習得しているのだが、このbとは、レイドウレイキだけにみられる更なる実践を行っていくためのレッスンだ。レイドウレイキでは、アチューンメントも勿論だが、自分自身の探求、そしてヒーリングとは、ヒーラーとは何か?というレッスンに重きを置いている。自分を見失い、そして「心」をもなくしかけていた私は、ここでのレッスンで改めて自分というものに向き合うことができたと思っている。このあとは、私自身がティーチャーとなる為の段階だ。レイキによるセルフヒーリングを毎日続けるうち、様々な気付き、そして体験、環境の変化などがあった。レイキは魔法などではない。しかし、自分が自分によって掛けていた思い込みという魔法を解いてくれる、愛のエネルギーである。レイキと出会う前の私なら、愛なんてこっぱずかしくて絶対口に出さなかったであろう。しかし、私は明らかに変わった。というよりも本来の自分に戻りつつある。更には人間の本質についての探索、そして何のために生まれ、毎日を生きるのか。そのようなことまで、自身の内面に問い、そして自分なりに少しづつ解釈を進めている。自身が癒されたように、誰にでも受け取る事の出来る愛のエネルギーを少しでも多くの人に分かち合いたいと思う。では何故私は次の段階へ進まないのだろうか?




D導き手


ここでやっと、せき院長が登場する(笑)。先ほども書いた通り、レイキを伝授して下さる施療院や学院はきっと沢山あるのだろうが、私はこのせき先生がいらっしゃる「元気堂」と出会って、心から嬉しく思う。最初は私自身の挙動不審のために印象どころではなく、ただレイキの不思議さに驚くばかりであったが、そんな私が胡散臭いと感じていたレイキを素晴らしいものだと教えてくださり、ここまで導いて下さったのはのはこの院長だ。様々なクライアントがいる中、それぞれが自分の足で進んでいけるように導いて下さる。・・・
11人、誰もの人生がドラマそのものだ。このHPの名にもあるように、シンプルに、真っすぐ前を見て進んでいけるように共に歩んで下さっていることを強く感じる。−自分の人生なのだから、その全責任は自分にあることに間違いはない。しかし、その他人の人生に対し、自分も人生の一部分を掛けることが出来るかどうか。人を癒すということはそういうことなのではないかと私は思っている。私には施療経験がまだあまり多くない。今現在、元気堂に通いインターンとして経験を積ませていただいてる。一生勉強なのであろうが、きっと前に進み続けることによって、いつかもう一歩踏み出そうと内面からの声が聞こえる日が来ることと思っている。




Eレイドウレイキ

私が伝授して頂いたせき院長は、青木先生主宰のヒューマン&トラスト研究所の出身である。私は、サードまで来たとき、大きな壁にぶつかった。10年近く本心を心の奥底に押し込み、何重にも鍵を掛けて来たため、そのはずし方さえも分からないのだ。それさえも分からなくなっている自分に驚き、そして只ただ涙が溢れ続けた。涙は解放の近道だ。絡まった糸を少しづつ組み解いていくうちに、ここまで来られたことへの感謝の念で心がいっぱいになった。そして、どうしても青木先生にお礼を言わずにはいられなかった。きっと突然のメールで、青木先生も驚いたことと思う。しかし、私が一番お伝えしたい気持ちは、きっと通じたことと思う。「せき院長と出会って下さりありがとうございます。」その出逢いがあり、私はレイキと、そして院長と出会ったのだ。やはり人生に偶然などないのだと思う。全ては必然であり、そして様々な経験が自分のために必要なこと。これからも沢山の学びがあるのだろうが、私はこのレイドウレイキから教授を受けたことを誇りに思っている。




Fレイキの言葉の由来と意味

前文で、レイキという名称について触れさせていただいた。何となく宗教っぽくて・・・という下りだ。最初に述べておくが、私は宗教に対して批判的な気持ちはない。宗教といえば日本にだって仏教というすばらしいものがある。べつに無宗教であったってお盆になればお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そしてご先祖様のお墓参りに家族で出掛けたり、そしてその後はお寺の御住職様のお説教を聞いたりして。自然と生活の中に浸透していることだ。私自身、無宗教なのでよくは分からないのだが、きっと信仰するということはきわめて自然に、日常と一体化しているのではないかと思う。1日の無事を祈って、そして感謝する。本当はとてもシンプルなことだと思う。だが実際、宗教というと私も含めて多くのかたが二の足を踏む、それも無理のないことだろう。度々世間を騒がせている様々な事件、または過剰な勧誘。そういう一部の情報により、悲しいかな色眼鏡で見てしまうのは致し方のないことである。そこで、宗教と混同されがちな「レイキ」という名称についての由来を、是非これを見て下さっている方々に知って頂きたく、レイドウレイキの教本から一部分抜粋させていただき掲載しようと思う。






「レイドウレイキ教本より抜粋」