「味の素事件」の背景
(『世界』2001年3月号掲載原稿ドラフト。引用はご遠慮下さい。)
見市 建(日本学術振興会特別研究員)
インドネシアで「味の素」現地法人が、豚肉の成分を製造過程で使用したとして、製品の回収を求められた。「味の素」製品にはイスラーム法で定められた禁止品を使用せず、正しい製造方法で生産されていることを示した「ハラル(許可)」マークがついていた。ところが、その認定権限をもつウラマー評議会がマークの更新にあたり「味の素」製品を「ハラム(禁止)」であると断じたのである。現地の報道によれば、ウラマー評議会は昨年の12月16日にハラムの決定をし、19日に「味の素」現地法人に3週間以内に製品の回収を要請する文書を送付した。当初この事実はほとんど知られていなかったが、年末に一部で報道され、さらに年が明けると事態は急展開をみせた。製品の回収、工場の一時閉鎖、日本人経営者の身柄拘束にまで発展したのである。結局、日本人経営者は釈放され事態は収束に向かっている。しかし、市場から製品は姿を消し、「味の素」現地法人は大きな損害を被った。ところで、事件の政治的な背景を指摘する報道も少なくない。そもそもウラマー評議会とは何か、また、仮に今回の事件に政治的な背景があるとすれば、それは何か。本稿では、スハルト体制からの政治とイスラームの関係を踏まえ、今回の「味の素」事件の背景について考察してみたい。
ウラマーとはイスラームの宗教学者を指す。ウラマーはクルアーン(コーラン)やハディース(預言者の言行録)、イスラーム法学に基づき、日常的な問題や時には政治的な問題について見解(ファトワ)を表明する。カトリックなどとは異なり、イスラームには宗教学者間の明確な階層は存在せず、従って唯一絶対のファトワはない。インドネシアのウラマー評議会は、1975年に政府が設立、主要イスラーム団体のウラマーによって構成されているが、一般には「御用学者」の組織とみられてきた。実際、スハルト時代には政府の政策に正統性を与えるファトワがしばしば出されてきた。食品ではこれまでイスラーム法によらない屠殺方法で殺された牛肉や脱脂粉乳の適法性が問題視されたことがある。後者のケースではウラマーがテレビで牛乳を飲んでみせ、人々の密かな嘲笑の的となった。
しかし、今回の「味の素」事件では、ウラマー評議会のファトワを後からワヒド大統領が否定した。大統領自身、著名なウラマーの家系で、インドネシア最大のイスラーム団体「ナフダトゥール・ウラマー」の議長を15年間務めた。その彼は「味の素」製品を「許可」したのである。さらに保健省や技術評価応用庁の調査では製品から豚の成分は発見されなかった。ウラマー評議会の立場はスハルト時代のそれとは明らかに異なっている。では、「味の素」を「禁止」するファトワはなぜ出されたのか。あるいは宗教以外の、何らかの利害がそこに絡んでいたのであろうか。
まず豚肉を切った包丁で料理することも許されないというイスラーム法の立場から言えば、最終製品に豚の成分が残っていようといまいと、豚を製造段階で使用した「味の素」の「適法性」を主張するのは難しい。もっともハラルマークが付いている食品は五千種類程度で、豚肉を使用しただけでただちに法律違反になるわけではない。警察が動いたのは「味の素」が製品を正しく表示していない、消費者保護法違反の疑いであった。
仮に政治的意図があったとすれば、どうした可能性が考えられるであろうか。それを理解するには、ここ十年余の政教関係を振り返る必要がある。1966年に成立したスハルト体制はイスラーム過激派を弾圧し、その他のイスラーム政治勢力も巧みに骨抜きにした。しかし、権力基盤が危うくなったスハルト大統領は1990年代に入り政策転換した。「イスラーム知識人協会」を設立、草の根レベルの宗教復興に同調し、それまで反体制的で民主化を求めてきた在野のイスラーム勢力も体制内に取り込む姿勢をみせたのである。他方で、90年代後半には他宗教や華人に不寛容な一部のイスラーム過激派は知識人協会に参加しない民主化勢力を公然と非難するようになった。スハルトの後を襲いインドネシア第3代大統領に就任したハビビは知識人協会の会長であり、イスラーム過激派もハビビを支援した。
1999年のワヒド大統領選出にあたって、世俗的で女性のメガワティ現副大統領よりはましだという理由だけで一時的にイスラーム政治勢力は団結した。しかし、内実は多様かつ複雑である。現在では、イスラーム過激派はワヒド大統領の非ムスリムへの寛容な態度に反発し、政権に揺さぶりをかける勢力に加担している。昨年来のマルク諸島における宗教対立は国軍内部のスハルト派の生き残りが暗躍していると言われているが、イスラーム過激派が「聖戦義勇軍」と称してこれに介入している。ウラマー評議会は組織として直接こうした勢力と結びついてはいないが、評議会のメンバーが個人単位で、こうした動きに荷担している可能性は十分にありうる。その意味で今回の事件は、これら反政府勢力に新たな大統領批判の材料を提供したといえよう。
今回の騒ぎをきっかけに、インドネシア国内の日系企業は、警察や軍の「資金調達」の格好のターゲットにされるのではないかと危惧し始めているという。ウラマー評議会や警察に十分賄賂を払わなかったためにこのような問題が表沙汰になったという説もある。しかし、少なくとも「味の素」現地法人に慎重さが不足していたとはいえるだろう。同社の発表によれば「菌の保存用培地に、豚由来の酵素を触媒として作られた大豆蛋白物質が一部使用されて」いた。日本人の感覚から言えば些細なことのようだが、豚を使用したとの印象を与えたのは大きな失敗であった。このような事実が知れ渡れば、過激派だけでなく、多くの、穏健だが敬虔なムスリムにも嫌悪感を抱かれるとの認識あるいは「想像力」が必要であった。
インドネシアの民主化におけるイスラーム社会運動の役割に関する調査
2001年7月25日〜8月16日
25日間のインドネシア出張は重要な政治日程と重なった。30年以上続いたスハルト体制崩壊後の「民主化移行期」インドネシアにおけるイスラーム政党と社会運動の役割について見聞する絶好のタイミングであった。
7月23日にアブドゥルラフマン・ワヒド大統領が非常事態宣言を発令したが、国軍・警察の支持を得られず、その日のうちに国民協議会特別会が開催され、ワヒドは解任、メガワティ・スカルノプトリ副大統領が大統領に昇格した。翌24日にジャカルタに到着した報告者はまずワヒドが大統領になるまで15年間議長を務めたナフダトゥル・ウラマー(以下NU)の関係者と、非常事態宣言に支持を表明したNGO・学生運動関係者を中心にインタビューした。1999年のワヒド大統領選出においては、ワヒドの民族覚醒党以外に、イスラーム諸政党(開発統一党、月星党、国民信託党、正義党)がワヒドを支持した。今回はこのイスラーム諸政党がワヒド降ろしの急先鋒となった。ワヒド政権の二年間、大統領のイスラエルとの外交関係やマルクス・共産主義を禁止する国民協議会決定の破棄などをめぐってイスラーム主義者はワヒドへの反発を強めた。他方で、NGOやキリスト教徒知識人と良好な関係にあったワヒドの後継者たるNUの青年層は、左派の学生運動とともに大統領を支持する側にまわった(もっとも大統領解任へ事態が向かった直接の理由は各政党出身の大臣の解任であった)。
スハルト体制は公定のナショナリズム(パンチャシラ)を各政治・社会団体に押しつけ、言論・思想の自由を許さなかった。しかし上からのナショナリズムのヘゲモニーが崩れると、新たなイデオロギー探しが始まった。この3年間で、最も有力な代替的なイデオロギーたるイスラーム主義と左派の出版物は書店にあふれている。さらに「イスラーム左派」や、地域主義とも混合したイスラーム法適用運動が台頭し、複雑な状況になっている。報告者は出版物を収集するとともにそれぞれの活動家や出版社に対する調査を行った。インドネシアの民主化の長期的な見通しを立てるにおいて、かかせない作業であると考えたからである。
まずイスラーム主義であるが、スハルト体制下で禁止されていた雑誌『サビリ』は隔週8万の売り上げを記録している。『サビリ』は書店では手に入らず、露店やモスクの周りで売られているが、インドネシアで発行されているすべての雑誌の中で少女向けの『ガディス』誌に次ぐ驚異的な売り上げである。『サビリ』の成功にあやかって同様の雑誌が数多く発行されている。中には今まで考えられなかった『イスラーム国家Darul Islam』と題する雑誌もある。
他方で左派の出版物のインパクトも大きい。実際、2001年5月にはイスラーム主義者を中心に、左派系の出版物を回収・焼却するという運動がおこった。チェ・ゲバラやマルクス、レーニンなどに加え国内のタン・マラカなどの社会主義・共産主義者に関するものが目立つ。特にインドネシア共産党(PKI)員であったタン・マラカの著作『MADILOG』(注1)は1年あまりで2万冊を超える売り上げを記録していた。チェ・ゲバラはTシャツが売れるなどいわばファッション化したが、南米カトリックの「解放の神学」やグラムシ、デリダなど比較的「地味」な思想を紹介する本も短期間でそれぞれ初版の二千部程度は売り上げており、学生やNGO活動家に幅広い左派思想への関心が見られる。特徴的なのは左派が反宗教的ではなく、むしろイスラームと相容れることを強調する書籍が少なくないことである。タン・マラカのイスラーム性を強調した『MADILOGの中に見られるイスラーム』や、PKI党員ハッサン・リードの自伝『共産主義ムスリム』といった本が発行されている。後者はNUの青年グループによって出版されたが、彼らの一部は1965年の共産党虐殺の被害者家族と和解の運動を始めており、また寛容なイスラームの言説を広める大衆向けの冊子を毎週金曜日の集団礼拝向けに4万5千部発行している。
またイスラーム主義者と見られていた学生団体HMI-MPO(注2)は共産主義者とも言われる民主人民党(PRD)と『宗教的社会主義:第四の道?』と題する本を発行した(アンソニー・ギデンズの『第三の道』=社民主義に由来)。明らかにイスラーム主義的な『イマームの噴水percikan Imam』誌でも労働者の特集が組まれていた。同誌は「もしイスラーム共同体が労働者に布教(ダクワ)をしたくなければ、他の勢力の利益になる間違いを犯す」と巻頭に記し、あからさまに左派に対抗する姿勢を示している。少なくとも後者は左派の台頭へ警戒感を示して、イスラーム主義による大衆動員の必要性を訴えている。
南スラウェシ州では5つのプサントレン(イスラーム学校)の他、2つのイスラーム系NGO、さらにイスラーム法執行準備委員会(KPPSI)を訪問した。KPPSIは南スラウェシ州にイスラーム法を執行させるべく運動を展開しており、すでに州議会の全会派の賛成を得て国会に要望を提出している。プサントレンのウラマー(宗教教師)を含め、個別のインタビューではイスラーム関係者でも必ずしもイスラーム法執行について意見は一致しておらず、むしろ刑法の厳罰化や個人の領域と思われることまで宗教が介入することへの反発も大きい。しかし、スハルト体制後の地方分権化の流れの中で、イスラーム法執行は南スラウェシ州の「特別州」化と一つのセットになっており、地方主義や新たな利権の発生も睨んだエリートの支持を得ているようである。またイスラーム法の執行に反対することは反イスラームやPKIの汚名を負うことにもなりかねないので表だった反対はない。
私見では、1950年代以降これまで社会的分裂を彩ってきたアリランと呼ばれる政治・社会・宗教的潮流を越えて、特定のイデオロギーを持つ政党が新しい集合意識を作り出していくことが、民主化の定着に欠かせない歩みである。その点で、イスラーム主義者はすでに一定の成功を収めている。1980年代前半からエジプトのムスリム同胞団をモデルに拡大してきた学生の宗教運動は1998年にKAMMIとして組織化、1999年選挙に参加した正義党は140万以上の票を獲得した。NUを中心とした「イスラーム左派」は都市部では「世俗的」な左派学生運動の中心にあり、他宗教の知識人やNGO活動家とも良好な関係にある。イスラーム主義者のような組織化はなされていないが一部では新たな政党設立の動きもある。NUは東ジャワを中心にした団体であるし、正義党支持者でもジャカルタ周辺部を中心としたジャワ島の都市部に限られている。いずれにしろ、大学やNGOに限らない「大衆」や、ジャワ島外にこうした運動をいかに浸透させていくかが、長期的な民主化の趨勢を左右するだろう。なお、メガワティが大統領に就任した翌日から、左派の学生運動やNUに対する軍や警察の介入が頻発している。紛争解決を議会や明確な法的な枠組みのなかで解決することが民主化定着の条件であることは言うまでもない。
(注1):MADILOGとはMaterialisme, Dialektika dan Logikaの略。つまり「物質主義、弁証法、論理」。
(注2):HMI-MPOとは、インドネシア最大のイスラーム系学生団体HMI(インドネシア学生同盟)から分裂した組織。1983年以降、スハルト体制が国家五原則「パンチャシラ」をすべての政治・社会団体の「組織原則」として採用するよう強要し、HMIがこれを受諾したことに反対して分裂した。MPOとは「組織救済委員会Majelis Penyelamat Organisasi」の略称。1950年代のマシュミ党の後継者を自称する月星党幹部の庇護を受けている。