ジ ャ ワ ア ン テ ン
「つめかえる」じゃないよ。海外旅行危機管理マニュアルとしても活用してください。
その1 暗転編 その2 好転編
8月21日(水) 爽快なバス旅行
バリ島からジャワ島へ向かう。バリでは実に快適な日々を過ごした。気候も最高だし、ホテルも申し分なかった。会議の内容も興味深かったし、何より新しい知り合いができた。
バリのバスターミナルは中心部からは少し離れたところにある。メーターのないタクシーでバスターミナルへ。ホテルのフロントで聞いていた値段からそう遠くなかったので言い値で乗った。バスターミナルから2時間以上かけて島の北東の波止場へ、そこから船に乗り換えて30分、さらにバス3時間で東ジャワのジュンブルという都市につく。少々時間がかかりすぎるが、バリの田舎を抜け、船にのり、ジャワの山道をぐるぐる行く旅行は楽しい。
8月22日(木) 爽快な議論
ジュンブルでは3年ぶりにあったチャンドラの家に泊まる。チャンドラはしきりにぼくのインドネシア語がうまくなったと言う。誉めるというよりは、3年前はいかに下手であったかを力説する。それで他人がぼくのインドネシア語を誉めるたびに笑う。まあいいけどさ。
彼が思い出すのに時間がかかったが、チャンドラとはそのさらに一年前の98年11月にも会っている。当時から聡明だが低姿勢ないい印象をもっていた。彼は当時からのNGO活動を続けながら、ジュンブル大学の歴史学の講師をしている。夜遅くまでいろいろな話をする。学問の話では共通の意見が多かった。彼に最初から目をつけていたのは正解だった。
8月23日(金)
悲劇の金曜日@
チャンドラに別れを告げ、ベチャに乗っているとチャンドラがバイクで追いかけてきた。おっと、携帯電話を置き忘れていたではないか。
笑って別れて気分よくプロボリンゴ行きのバスに乗る。エアコン付の特急バス。客の乗り降りも少なく、安心感があるので荷物を横においてうとうとする。プロボリンゴからシトゥボンド行きのバスに乗り換える。バスターミナルでは親しげなオヤジが席までついてきて、荷物を座席の下に置くように勧めて降りていった。
プロボリンゴ郊外にあるイスラーム学校へ向かう予定だった。適度な睡眠で頭がすっきりしていた。隣の席に誰も乗ってこなかったので荷物を横の座席に置こうかと思ったが面倒なのでそのままにしていた。眠くないし、下を見ればすぐ荷物が目に入る。財布や携帯を掏られるのも嫌なので、すべてをいすの下のバックパックに入れていた。普段だったら、バックを足に引っ掛けたりしておくのだが、眠くないし、そのままにしていた。
乗って15分ほどして料金を払う。バックパックから財布を出して払いまた入れる。
それから5分ほどして喉が渇いたので水を飲む。バックパックからミネラルウォーターを出して飲みまた入れる。
それから10分ほど1本道の外の風景を眺める。下を見ると、、、ない! いすの下に首を突っ込んだら、空っぽだった!
悲劇の金曜日A
冷静なつもりだった。その場で思いついた最良の処置は、まずバスを止め、同乗していた軍人に協力してもらって荷物検査をすることだった。軍人に助けを求める視線を送ったが、目をそらした(ように見えた)。ぼくの荷物をもって1kmほど手前で人が降りたとぼそぼそと車掌はいい、おばちゃんは「私だったら警察の前で降りてすぐ通報するわ」という。そうか、もう降りてしまったのか。もう少し冷静で、かつ瞬時の判断力とちょっとした勇気があれば、軍人を使って荷物検査をしていただろう。
警察の詰め所の前でバスは止まると、ぼくを降ろした数秒後には元のスピードで走り去っていった。後から考えると、もしかしたらバックパックはまだバスの中だったかもしれない。バイクの背に乗り、詰め所からプロボリンゴの警察署へ。警察で調書を取ってもらう。旅行保険をあとで請求するためには持ち物を調書に書いておいてもらう必要がある。とにかくコンピューターだけは書いておいてもらわないといけなかったが、やはり冷静であったとはいえないな。言い漏らしたものをあとでたくさん思い出すことになる。
「何とか荷物を探してくれ、金はあとで払うから」と何度も頼んだが、「ここの警察は『原始的』で日本やジャカルタとは違うのだから」とそのたびにつれない返事。そのくせこういうときにもジャワ人は冗談をいうからむかつく。調書をとりおわるとインテリジェンスが来た。警察より恐そうで悪そうなヤツが来たが「おまえは桜庭の弟だな」などと嬉しそう。そういえば先週、「プライド」の中継をやっていた。もう荷物は諦めた。
この厄介で金のない日本人を早く追い出したいのだろう。インテルのおやじは現地邦人に電話をしたのだった。
感謝の金曜日
ここプロボリンゴには日本企業がいくつかあるらしい。しかし、日本人に頼るのはためらいもあった。インドネシア人に対してはあまり恥ずかしいと思わないけれど、日本人同士では「厄介者」や「情けないヤツ」が来たと思われるのは嫌だった。いつも(語学能力の有無に関わらず)ホテルの従業員などを含めた現地の人とまったくコミュニケーションをとれない観光客に対して若干の軽蔑心を抱いていたから、そういう目で自分が見られるのは苦痛だった。
20分ぐらいたって作業着をきた二人の日本人の方がぼくを迎えにきてくれた。ぼくのしょーもなくも複雑な気分以上に、お二人はどんな変なヤツが路頭に迷っているのだろうと思われただろう。しかし、突然の珍客に、さほど警戒した風でもなく、馬鹿にするような態度も、なにより迷惑そうな表情もされなかったので、恐縮しつつほっとした。
ぼくがお世話になった人たちが勤める企業は、日本に輸出する合板をつくるのに必要な接着剤を生産している会社だった。横の合板工場とともに30年近く前からプロボリンゴに進出しているという。日本からは三人が派遣され、工場から道をはさんで向かい側に大きな一戸建ての寮に住んでいる。一人の方はぼくにまだ新品のユニクロTシャツをくれて、家族が住むスラバヤに帰った。ここはインドネシア第二の都市スラバヤから車で二時間のところにある。家族を連れてきている日本人はほとんどがスラバヤに家やマンションを借りて週末だけ帰っているという。
少し年齢が上の(40すぎ)のKさんと、まだ若くみえる(35歳だった)Mさんと晩御飯をいただいた。女中さんが作った日本食、ビール付き。変な話だが、順調にイスラーム学校についていたらこんな贅沢はありえなかった。とにかく汚職がひどい、でもインドネシアは住みやすい。インドネシア人社員のために家族向けの住宅までたてて、労働組合とも非常にうまくいっている話などなど。研究の世界とは違うインドネシアの日常を暮らしている彼らの話はおもしろい。
翌朝5時からマラソンだというKさんは早々に就寝されて、年の近いMさんと夜中まで話す。深夜になってから、インターネットと電話を使わせてもらい、クレジットカードを止め、再発行の手続きをする。仮にインドネシア人に助けてもらっていたら日本への電話などできたはずはない。迷ったが、土地勘のないスラバヤよりもジャカルタに出てクレジットカードとパスポートが出るのを待つことにする。Mさんにお金をお借りした。
こちらは身分を証明するものをなにも持ち合わせていなかったが、快く貸してくれた。ほんま、いくらお礼をしても足りないぐらい感謝感謝感謝。