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1分で読めるインドネシア

2001年9月〜12月 2002年


2002年

10月17日 バリ事件その後

まだ犯人像ははっきりしない。アル=カイダの関与などとアメリカ中心に言われているが、アル=カイダというのはそもそも何なのかよく分かっていない。指揮系統がはっきりした確固たる組織がどこかにあって、一つの目標のために次々と世界中を狙っているなどと考えるのは誤りだ。フィリピン南部にもインドネシアにも急進派はいるが、それぞれの目的や取り巻く事情は様々である。

さて、事件の解決とは直接関係ないのだが、イスラーム勢力をめぐって政府の動きはすでに活発である。事件後数日でジハード部隊(ラスカル・ジハード)が解散され、イスラーム擁護戦線(FPI)の代表が逮捕された。前者はマルク諸島の紛争に介入していて、キリスト教徒との「聖戦」を戦う兵士を送り出していたが、「役割を終えた」として解散した。マルクではインドネシア国軍との協力関係があった。FPIはジャカルタでディスコや売春施設などイスラームの教義に反すると思われるような施設を襲撃している団体である。このFPIも警察との関係が取りだたされていた。警察が「用心棒代」をせしめるためにFPIを使ってディスコなどを襲わせていたというのである。国軍と警察に近い二つの団体にまず手が入った。この動きはこれから加速するだろう。

もう一つは「反テロリズム法」の制定である。これが成立すれば、「テロリスト」と政府が認定する人や集団をスハルト体制で行っていたように簡単に逮捕や解散させることができる。いわゆるイスラーム過激派と同時にアチェの独立運動や左派の学生運動のようなものまでターゲットになることだろう。きな臭い雰囲気になってきた。



10月14日 バリの爆弾事件


大変な事件が起きた。バリのディスコの前で自動車爆弾が爆発して180人以上が死亡したという。同時にバリのアメリカ名誉領事館やマナドのフィリピン領事館前での爆発が起きたことから見て、テロと断定できるだろう。イスラーム過激派の犯行であろう。これまでも殺傷能力の低い小規模な爆弾事件はめずらしいことではなく、2000年クリスマスのキリスト教会爆破やショッピングセンターやアメリカおよびフィリピン大使館を標的とした例がある。しかし、今回の事件はこれまでのテロとは規模も対象(外国人観光客)も大きな差がある。

事件の背景について現在の時点では断定をするのは難しい。しかし、テロの規模と対象から見て犯人グループは国際的なつながりがあったと見るのが自然である。マナドに関してはフィリピン領事館が標的であったし、地理的にもフィリピン南部のイスラーム過激派が関連している可能性が高い。そしてなによりも、バリの事件で使われたのはこれまでの爆弾よりもはるかに殺傷能力が高いものである。また、外国人観光客の命を狙うというケースは初めてである。これまでの小規模の爆弾テロとは区別した方がよさそうである。あくまで想像だが、国際的ネットワークとつながりのある少人数のインドネシア国内のグループがそれぞれの場所で協力者になったのであろう。しかし国内に大規模な過激派ネットワークがあるとは思えず、それぞれがバラバラに外国の勢力とつながっているのであろう。

インドネシア国内にはイスラーム政党が多くあるが、これらの政党勢力と犯行グループに直接の関係はないだろう。現在の政局から考えてイスラーム政党が不利な立場になることは明白だからである。今後、インドネシアではイスラーム急進派(暴力的とは限らない)の取り締まりが強まるであろうが、イスラーム政党はこれに反対できないだろう。ただし、取り締まりに反発して小規模の爆弾テロ事件が頻発する、ということはあるかもしれない。




9月16日 憲法改正(その2)

むちゃくちゃにみえるインドネシアの政治だが、それなりの制度改革は進んでいる。

今回最大の変化は、大統領の直接選挙制の導入、と国民協議会の権限の大幅削減だろう。国民協議会は5年に一度開かれる国権の最高機関だが、これまで任命制だった(つまり大統領により決めれていた)国民協議会の地方代表も選挙で選ぶことになった。

これで政治がよくなるかどうかは分からない。少なくとも大統領に巨大な権力が集中していた状況は過去のものになった。それから制度(ゲームのルール)が変わったので、選挙などにおける競争のやり方が大きく変わる。不確定要素が大きくなった分、観察者にとってはおもしろい。


8月6日 マレーシアから

マレーシアのイスラーム思想はインドネシアの文脈ではずいぶん過激だと思うことがある。マレーシアではイスラーム法の適用が具体化しており、インドネシアのようにそれに公然と反対するような公的な発言が許されないことなどである。

しかし、今日クアラルンプール近くの国立大学に行って少し考え方が変わった。この大学にいるマレー系の女性はほとんどベールをしており、それはインドネシアだと結構厳格な大学だといえる。でもその横にノースリーブの中国系の女性がいてもまったく問題がない。インドネシアだと、大学ですら両者はまったく別の空間にいて、交流することがほとんどない。他宗教には無関心かもしれないが、マレーシアの方が「良い」ように思えた。実際、この国では30年以上、民族/宗教間の暴動が起きていない。同じ宗教の議論でも、その国の文脈によって意味がぜんぜん変わってくる。

他の国にいると自分の国のことがよく見えることがある。やはり別の場所から観察してみる必要がある。



8月4日 憲法改正(その1)

シンガポールのチャンギ空港からこれを更新している。ノートパソコンがあれば無料でLANカードを貸し出してくれる。この空港に来るたびに関空と比較してため息がでる。関空の方が後からできたというのに。

さて、インドネシア。宗教に関する憲法29条は変えないという方針が決まったようだ。インドネシアの憲法は五大宗教(イスラーム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー)に平等な地位を与えている。いきなりのイスラーム国家化は無理でも、「イスラーム教徒はイスラーム法を遵守する」という条文を挿入すべきであると主張する勢力もいたが、大きな抵抗はなかった。一部でイスラームの過激化が指摘されるが、国家の体制を左右するような大きな流れにはまだなっていない。


7月20日 国民協議会へ向けて

来月インドネシアでは国民協議会特別会が開催される。憲法改正が一番の議題なのだけれど、それより各勢力の駆け引きに注目が集まるだろう。2004年に総選挙があり、すでに選挙を目指した動きが活発化しているのだ。

99年と同じくどの勢力も過半数を取れそうもない。従って、巧い具合に多数派連立に加わって大臣職を得たいというのがほとんどの政党の本音。大臣職とともに利権が転がってくるからだ。

一応イスラーム系、世俗ナショナリスト系などと政党の傾向を色分けできるが、最近の報道を見ているとどことどこが組んでもおかしくない状況だ。8月4日の出発までに、もう少し細かい動きをおさえておきたい。



5月20日 東チモール独立

今日東チモールが正式に独立した。インドネシアはオランダ領だったので、日本が3年半占領したあと敗戦撤退したあと、独立戦争を経て「オランダ領東インド」がほぼそのままの国境でインドネシアになった。ところが東チモールだけはポルトガル領だったので1975年まで植民地占領されており、ポルトガルが手放すとすぐにインドネシアが軍事占領した。そのあとインドネシアが住民の半分近くを虐殺したので、インドネシアには統合しきれず、スハルト体制の崩壊とともに独立への動きが加速した。

さて、東チモールに新しい政府ができたわけだが、問題は山積みである。例えば、言葉一つをとっても、一番広範に使われているインドネシア語は嫌われているし、ポルトガル語は旧支配層やある程度以上の年齢の人しかしゃべれない。土着のティトゥン語は全土で使われているわけではないし第一ボキャブラリーが少なすぎて使い物にならない。

私はインドネシア語に、土着的な言葉をミックスさせて、新しい名前の国語を作ればいいと思っている。これからの東チモールを担うのはインドネシアで教育を受けた若い人たちなのだから。


5月8日 禊

日本では何人かの議員が最近辞めさせられた。どうも陰謀めいていて可哀想な気もしてしまうが、法律に反した行為を犯したのだからしょうがない。もっと悪い人たちはめったに捕まらないことを考えるとため息がでるが、それでもロッキード事件やリクルート事件のようなこともあるし一旦違法行為が分かれば簡単に逃げ切れるものではない。法治国家なのだから。辞職した議員が「禊」(みそぎ)選挙で再選するのは、有権者が選んでいるのだから文句のつけようもない。それが民主主義の制度なのだから。

インドネシアではなんと国会議長、中央銀行総裁が起訴されている。もちろん起訴の裏には政治的な動きがあり、これはどこでも多かれ少なかれあることだ。ところが、議員辞職どころか真相追求の委員会の設立すら先延ばしにされている。起訴までいけば十分みそぎを受けたことになる、のか? 法制度は利用しているが、これではやはり「法治」とはいえない。

 

■[禊]の大辞林第二版からの検索結果  http://www.goo.ne.jp より

みそぎ 【禊】

(名)スル

(1)海や川の水で体を清め、罪や穢(けが)れを洗い流すこと。

(2)特に陰暦六月晦日(みそか)、夏越(なごし)の祓(はらえ)の神事をいう。[季]夏。《禰宜ひとり―するなる野河かな/几董》

 


4月16日 需要と供給

去年はじめて行った南スラウェシ州でイスラーム法を適用しようとする運動が活発化している。南スラウェシに行ったのは、7月だったかな、「イスラーム法適用準備委員会」の代表者や、地方のイスラーム教師に話しを聞いた。実はイスラーム法といっても、その内容も適用の仕方にもまったく合意がない。イスラーム教師たちは、「準備委員会」の動きに必ずしも賛成していなかった。インドネシア政府は、フィリピン警察を使って、私が会った代表者を逮捕させたようだ。一緒に逮捕した人物が所属する政党への牽制と同時に、こうした地方の動きがインドネシア全体へ波及することへの警戒心があるのだと思う。

上のようないわばエリートたちの様々な思惑とは別に、多くの村でイスラーム法を適用する自警団のような集団が自発的に形成されているという。軍や警察が信用ならないので、自分たちで治安を守り、「正義」を保証する制度をつくっているのである。これは根が深い問題である。

こうした草の根の必要性と、外から来たちょっと怪しい連中が見事に結びついたのがアフガニスタンのタリバーン政権だったのではないか。 


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2001年 

10月25日 アラブ=中東=イスラーム?

「アラブ、中東、イスラーム」という三つの言葉はさしたる区別もなく使われている。しかし、アラブは言語や文化、エスニック集団を示す言葉(例:アラビア語、アラブ人)、中東は地域概念、イスラームはもちろん宗教である。例えばイランは中東にあるが、アラブではない(ペルシャ)。ましてはアフガニスタンは中東でもアラブでもないというわけ。

あるモロッコ人の研究者と話しをしていたら、モロッコでは反米デモなど起こっていないとのこと。彼らにとってはアフガンは遠いアジアの国だから、あまり同情を感じないようだ。反対にかなり過剰に反応しているのがインドネシア。国会内のイスラーム勢力は、すぐにアメリカ支持を表明したメガワティ大統領に態度の変更を迫っている。「アメリカ人狩り」みたいなことも起こったり、日本総領事館がデモを受けて日の丸を降ろさせられるという事件もあった。

インドネシアの一部のイスラーム勢力は、アフガニスタンがソ連と戦っている1979年以降、数百人の義勇兵を送り出している。アフガン帰りが国内の紛争に加わるようなこともあって、一部の人にとっては身近な「同胞」なんだな。

テロリストは「アラブ系」だという。空爆を受けて死んでいるのはアフガニスタン人。

 


9月28日 アメリカと「寛容なイスラーム」

「寛容なイスラーム」を拡大しようとする勢力がいる。他方でイスラーム共同体の利益のみを追求する勢力もいる。前者もきれい事ばかりではなく、非イスラーム勢力とも手を組んで政治勢力を拡大しようとしている。そのうち政党を作るだろう。後者も、真剣に社会のことを考え、イスラームこそが問題を解決する答えであると思っている。こちらはすでに政党を持っていて、従来の政治家に比べたら清潔で「真面目」に活動をしている。

コーランのなかで明確に暴力を否定する条項はないはずで、イスラームを「正しさの根拠」として行動すると、暴力は否定されないかもしれない(しかし、アメリカ外交の辞書にも「非暴力」という言葉はないよね)。現代インドネシアのイスラーム教徒に限れば、西洋近代との対話のなかで「非暴力が正しい」という考え方が定着している。暴力的なイスラーム組織はほとんどの場合支持されていないが、暴力でしか争いを解決できなくなっていしまっている社会では「非暴力が正しい」などという考え方の説得力は非常に弱い。

さて、アメリカは単に「過激なイスラーム」を敵視するだけではなくて、「寛容なイスラーム」を育てようと、積極的に援助をしている。NGOのプロジェクトや雑誌発行などに一役買っている。こうした援助はインドネシアの長期的な安定に寄与するだろうし、親米的な知識人を育てることができる。反イスラーム的なところばかりが目立つが、インドネシアなどではかなり戦略的にイスラームの味方を増やす努力もしている。これが中東でできないかねえ。こうした意味で、日本の援助はもっと政治的、戦略的でもいいと思う。

 


9月15日 オサマ・ディン・ラディンとインドネシア

NYのテロ。喜ぶパレスチナの子どもやら、追悼集会で祈る人たちや、「識者」のコメントなんかを二日ほどただただ眺めていたけど、ジャカルタのアメリカ大使館が一時閉鎖されたというニュースを見て、ふと急に思い出した。

ぼくがインドネシアにいた間にアメリカ大使館がインドネシア在住の自国民にテロの警告をだしたこと(8月10日だった)。ぼくが滞在中に近所でおこったジャカルタの爆弾テロの被疑者が捕まって、それがマレーシア人を含む国際イスラーム過激派だったこと。その被疑者が今話題のオサマ・ディン・ラディンとのつながりがあるのではないかという雑誌の特集が先週組まれていたこと。

やはりアメリカ政府は何らかの情報を事前に握っていた。一昨年のように大使館へのテロを警戒しており、インドネシア国内の過激派にも注意を払っていた。インドネシアのイスラーム過激派は爆弾テロに関与しているが、反米的な要素はなく今回のNYの事件とは直接の関係はない(もっとも、彼ら自身は一般的に反米・反西欧)。ただし彼らの一部はアフガニスタンとの関係があり、おそらく金も流れてきている。

周到に用意されたアメリカのテロは(ラディンかどうかはともかく)国際的なテロ組織の中枢部の明確な意志が働いているが、各地で散発的に起こっているそれはもっとルーズで、バラバラで、何かのリアクションとして起こることが多い。すべてを一まとめに考えるのは誤り。例えばアフガニスタンの誰それの命令ですべてのことが動いているわけではない。それでもやはり、緩やかな国際的なネットワークのようなものは存在していて、ルーズにしろ人や金や情報は流通している。

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『月刊百科』2004年10月号掲載

「インドネシアの大統領選挙とイスラーム主義」 見市建
修正前のドラフトです。引用はご遠慮下さい。
インドネシアはイスラーム世界の「極東」に位置する。しかし人口2億1千万人の9割近くがイスラーム教徒(ムスリム)であり、人口の上では世界最大ムスリム国である。これまでインドネシアのイスラーム研究においては地域特殊な側面が強調され、一般的にもインドネシア(あるいは東南アジア)のイスラームは「中東と違って穏健である」などと言われてきた。インドネシアのイスラームには確かにイスラーム化以前からの要素が強く残っているが、こうした事例は決して特殊ではない。イスラームは各地の伝統と融合し、相互に影響しあいながら世界に拡大してきた。例えばジャワ島ではインドネシア周辺地域へのイスラームの布教に活躍したといわれる九聖人(ワリソンゴ)の聖者廟への参拝者が絶えない。こうした伝統は前イスラーム的で、偶像崇拝を禁じたイスラームに反するという指摘もある。しかしこうした聖者崇拝はイスラーム世界のほとんどで見られる現象であり、その実践者たちはイスラーム法に照らして正当な行為であると考えている。
東南アジアが穏健で中東は過激という構図も誤りである。確かに教義的にはクルアーン(コーラン)の文面通りに厳格にイスラーム法を適用しようとする潮流はアラビア半島を中心としている。しかし過激あるいは「原理主義」という言葉が想定している暴力について考えれば、インドネシアのイスラームは暴力とは無縁ではない。近年の地域紛争や爆弾テロ事件だけを取り上げれば「中東からの影響によって暴力化した」といった単純な結論が導きだされかねないが、1940年代のオランダとの独立闘争、50年代のイスラーム国家樹立運動、60年代の共産党員粛清にイスラーム団体は深く関わり、それぞれにおいてジハードの名のもとに暴力が振われた。
拙著『インドネシア イスラーム主義のゆくえ』ではインドネシアのイスラームをめぐる暴力の問題を皮切りに、イスラーム化が進む政治と社会の実態を描き出すことに専念した。暴力的なイスラームは決して主流ではないが、目をそらすわけにはいかない。しかし暴力的で急進的なイスラームだけを見ていても当該社会や政治を分析することはできない。急進派を含めたイスラームを通してインドネシアの国家と社会がどのようなイデオロギーや規範によって成り立っているのか、それがどのように変化しているのかを明らかにしたつもりである。今年のインドネシアは選挙一色である。4月の議会選を皮切りに、7月5日には大統領選挙が行われたが、過半数を得た候補はおらず9月20日の決戦投票へと持ち越された。以下、拙著を脱稿したあとの展開も踏まえてイスラームと政治についての若干の分析を試みたい。
インドネシアでは1960年代から30余年にわたり続いたスハルト体制において政治勢力としてのイスラームは警戒され、厳しく規制されてきた。事実上の与党であるゴルカル(職能集団)が常に60%以上の票を得る翼賛的な体制が形成されていた。それが1998年のスハルト体制崩壊後の民主化により、イスラーム政党、出版などの活動の自由が極めて大きい国になった。
まず民主化後最初の1999年選挙では参加政党の約半数が「イスラーム系」政党であった。「系」を付けたのにはもちろん理由がある。イスラーム系政党は教育機関や宣教組織などの宗教団体を基盤とした政党であるが、イスラームを党の基本原則に掲げ、イスラーム法の適用とイスラーム国家化を目指す政党は少数派である。付け加えれば、議会制民主主義を「非イスラーム的」とみなして拒否する勢力はさらに少数派である。イスラーム系政党は「イスラームこそが真に民主的である」と唱える。
さて、「イスラーム系」政党のうち、最大の宗教団体であるナフダトゥル・ウラマーとムハマディヤを基盤とした政党(民族覚醒党、国民信託党)はいずれも「民族」「国民」を政党名に掲げた。この他に、スハルト体制期に唯一許されたイスラーム系野党の開発統一党、イスラーム法の適用を掲げ1960年に禁止されたマシュミ党の継承を目指す月星党、そして1970 Century;mso-hansi-font-family:Century'>年代後半以降に密かに拡大してきた学生の宗教運動を基盤とした正義党などが選挙に参加した。これらのイスラーム系政党の得票は全体の4割弱であり、闘争民主党とゴルカルが上位二党を占めた。ゴルカルはスハルト体制期から半減したものの、豊富な資金・人材があり、またスハルト体制期から引き続いてゴルカルを支持するイスラーム指導者や地域の有力者も少なくない。ゴルカルはイスラーム色の濃い地域でも一定の支持を集めた。
99年選挙で第一党となった闘争民主党は現大統領(2004年8月現在)のメガワティを党首とする。メガワティは初代大統領スカルノの娘であり、スハルト体制が倒れた「改革」の熱気の中で支持を集めた。有力政党の中ではこの闘争民主党のみがまったくイスラーム的なシンボルを使わなかった。非ムスリム、「身分証明書上のムスリム」と言われる名目上のムスリム、また宗教が政治に介入することに反対する人々もおり、彼らはイスラーム的なシンボルを政党が掲げることにそもそも抵抗感がある。選挙の直前に「闘争民主党の候補者の大半はキリスト教徒である」などのネガティブキャンペーンがなされたが、あまり効果はなかった。イスラーム的であるかよりも、改革の熱気とスカルノへの郷愁が上回ったのである。
では、2004年選挙はどうだったのであろうか。まず改革の熱気が去り、民主化への期待は失望へと変わった。中央でも地方でも汚職事件が頻発し、政治不信・政党不信が高まった。99 年に改革の期待を受けた諸政党は軒並み票を減らし、新党が躍進した。新党の民主党と福祉正義党は約7%を得票し、国会にそれぞれ約50議席を獲得した。このうち福祉正義党は99年に法定得票率2%を下回った正義党の後継政党である。前述のとおり正義党は1970年代後半以降の学生のイスラーム運動を基盤とする。イスラーム主義のイデオロギーに基づき、自ら「宣教政党」「幹部政党」を名乗っている。イスラームの法と倫理に基づく国家建設を目指しており、厳しい内部規律の下、積極的に幹部養成と党員拡大を行ってきた。このように書くと福祉正義党は危険な政党であるような印象を持たれるかもしれないが、彼らは暴力的な手段には反対しており、性急なイスラーム国家化にも賛成しない。4月の選挙では、イスラーム的シンボルは極力抑え、既成政党への不信感を利用し、汚職廃絶を訴えた。またイスラーム世界の連帯よりもインドネシアの将来を憂うアピールをした。あからさまなイスラーム主義の強調は選挙戦術として得策ではない。
しかし、「敬虔なムスリムであること」は政治家に必要な資質として多くのムスリムの有権者に認識されている。またイスラーム団体は巨大な票田を抱えており、特に大統領選挙においてはイスラーム的なアピールは不可欠である。初めての直接選挙となった今回は五組の正副大統領候補はいずれもイスラーム的シンボルを利用した。現職のメガワティは最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー議長のハシム・ムザディを副大統領候補に据えた。第一回投票で一位になったスシロ・バンバン・ユドヨノには対立陣営から「キリスト教徒である」「キリスト教化を推進する」といったネガティブキャンペーンが展開された。ユドヨノはメッカへの小巡礼を行ったり、敬虔なイスラームであることをアピールする本を出版した。またイスラーム系の月星党の支持を取り付けた(キリスト教地域では逆にユドヨノはイスラーム化を推進するとのネガティブキャンペーンが行われた)。決選投票はメガワティとユドヨノの一騎打ちであるが、第一回投票後の世論調査ではユドヨノ支持が6 割を超えている。ユドヨノは99年のメガワティがそうであったような改革への期待感を持たれている。また少なくとも非イスラーム的であるといったキャンペーンはうまくいっていない。
大統領選挙についてイスラームのフィルターを通していえることはここまでである。情勢が不利なメガワティは大臣職を餌にゴルカルや開発統一党などとの大連立を組んでユドヨノに対抗しようとしている。メガワティの巻き返しは各政党の組織がどの程度機能するかにかかっている。元軍人のユドヨノにも退役軍人らが組織的な支援をしている。政策的な違いはほとんどなく、候補者個人に対する有権者の評価と組織による動員の足し算と引き算で結果が決まる。




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JANNI(日本インドネシアNGOネットワーク)ニューズレター49号掲載

「イスラーム主義政党」PKSの躍進は何を意味するのか

見市建(京都大学東南アジア研究所)


本稿では4月に行われた総選挙で大躍進した福祉正義党(PKS:Partai Keadilan Sejahtera、以下PKS)について、その設立の背景、政党のイデオロギーなどについてまず明らかにし、さらに選挙結果に分析を加えたい。PKSはイスラーム主義をイデオロギーとする政党である。他のイスラーム政党と異なり、1950年代までに存在したイスラーム団体を基盤に持たない。まず理解すべきことは、イスラーム主義がインドネシアにおいてどのように発生・浸透し、社会にどのような影響を与えているのかである。


選挙結果

まず簡単に選挙結果から確認してみよう。福祉正義党(PKS)の前身である正義党(PK:Partai Keadilan)は1999年選挙で1.3%を獲得、国会で7議席を得た(正義党は99年選挙で法定得票率に満たなかったために、PKSを新設して2004年選挙に臨んだ。以下、PKの表記に統一する)。それが2004年選挙では5倍以上の7.3%、45議席となった。PKに投票した人は832万人に上り、国民信託党(PAN:Partai Amanat Nasional)や月星党(PBB:Partai Bulan Bintang)を押さえて第6番目の得票であった(特殊な議席配分方法によって議席数ではPANを下回った)。驚異的だったのはジャカルタ特別州であり、22.8%を獲得して第一党に躍り出た。西ジャワ州のブカシ、デポック、スマトラ島のバンダアチェやパダン、メダン(いずれも市(kotamadya))、南カリマンタン州と北マルク州の3県でも第1位の得票を得た。州レベルでもナングロアチェダルサラーム、西スマトラ、西ジャワ、南カリマンタン、東カリマンタンで10%前後を獲得して上位に食い込んだ。全体的に都市部に強く、特にジャカルタと西ジャワ州の一部およびスマトラ島の都市部で多くの支持を拡大したが、全州で票を増やし、ムスリムが多数派のほとんどの州で前回選挙の数倍の勢力になった。ではPKはいかにしてその勢力を拡大したのだろうか。まずはPK設立に至るイスラーム主義運動の拡大から見ていこう。


学生のイスラーム主義運動

PKは1970年代後半から徐々に拡大してきた大学キャンパスにおける宗教運動(ダッワ・カンプス、Dakwa Kampus)の主流派を基盤としている。2004年の選挙結果から分かるように、50年代のマシュミ党[1]が強かった地域でより多くの支持を得ている。しかしPKの活動家たちにマシュミ党などを受け継いでいるという意識はなく、基本的にはスハルト体制下に形成された新しい社会集団である。

ダッワ・カンプスの萌芽は1970年代初頭に始まったバンドゥン工科大学のサルマン・モスクにおける宗教運動であった。現在ではどこのキャンパスにもモスクがあるのは当たり前だが、サルマン・モスクは宗教的な家庭に育った教員や学生による自主的な活動によって72年に設立された。現在まで大学とは別の組織が運営している。サルマン・モスクは74年にイスラーム学生同盟(HMI:Himpunan Mahasiswa Islam)の全国ダッワ組織議長であったイマドゥディン・アブドゥル・ラヒムを中心に、エジプトのムスリム同胞団をモデルにした幹部の養成を始めた。

ムスリム同胞団はハサン・アル=バンナーによって1928年にエジプトで設立された組織である。多くのアラブ諸国に拡大し、インドネシアを含めたイスラーム主義運動のモデルとしてその思想や運動の方法論が参照されている。なおダッワ・カンプスやPKはムスリム同胞団を「モデル」にしているが、インドネシア独自の組織である。イスラーム主義運動は現行の政治や社会制度に対する強い不満を背景に、これらに代わるものとしてイスラーム的制度の導入が提起する。目の前で起こっている諸問題は政治・経済・社会制度や人々の生活が「十分にイスラーム的でないから」であると結論付けられる。イスラームは政治や経済など生活のすべてを包括するシステムと考えられ、ウンマ[2]の純化と強化、その拡大を至上課題とし、つまりはイスラームのダッワ(Ar.ダアワ、宣教)、究極的にはイスラーム法を施行する国家の樹立を目指す。こうした目的達成のために時に軍事的手段を採用する急進的な組織や集団も含まれる。

現在の急進派や武装闘争派イスラーム主義の系譜を辿ればほとんどがムスリム同胞団に行き着く。しかしムスリム同胞団の本質は暴力にあるのではない。この団体は同時に「穏健派」の運動や知識人を産み出している。ムスリム同胞団の指導者はウラマーよりも大卒のいわゆる近代的知識人であり、モスクの他に出版社や青年団体、スポーツクラブなどの諸社会団体を利用して労働者・職人・小商人・学生などの間に急速に拡大した。現代生活のすべての局面におけるイスラームの徹底化を主張し、イスラーム国家の建設とアラビア語の「アダーラ」(正義、公正)の実現を要求する。彼らはウンマの内側に生じた不公正、腐敗や堕落を排撃する。理念的には、個人、家庭、社会と段階を追ってイスラーム化を進めていくという考えをもっており、最終段階である国家のイスラーム化は社会のイスラーム化によって自然と達成されると想定されていた。

現在から見て、イラン革命、メッカ聖モスク占拠事件、そしてソ連のアフガニスタン侵攻が起こった1979年は世界にとって決定的に重要な年であった。特にイラン革命はイスラーム国家の樹立が実現可能であることを示し、世界中でイスラーム主義が拡大するきっかけになった。インドネシアにおいては、前年に学生運動が大規模な弾圧を受けており、政治運動が事実上不可能な状況であった。バンドゥン工科大学(ITB)はそうした弾圧がもっとも激しく、3カ月にわたり軍が駐屯した。イマドゥディン・アブドゥル・ラヒムは学生ストライキの首謀者として1年以上投獄された。ダッワ・カンプスの拡大は、学生の政治的自由の制限が強まると同時におこった。政治運動が許されない状況下で、宗教運動は学生たちに代替的な領域を提供したのである。

サルマン・モスクの宗教運動は、近隣の大学や高校からも参加者を募った。インドネシアに限らず、こうした大学を中心としたイスラーム主義運動では理系の学生が主体になることが多い。世俗的な環境で育ってきた理系の学生が、都会の大学というこれまでの家族や地域社会から切り離された場所において生きる指針を宗教、しかも科学技術を重視し社会における役割を理想主義的に追求するそれに惹かれていったことは想像に難くない。他方で、伝統的な宗教学校(プサントレン)で教育を受けた学生にとってはサルマン・モスクのようないわば「初心者向け」の宗教運動に足を向ける動機は希薄であった。79年に始まった「集中的イスラーム学習」は一般の学校教育のようにシステム化されていた。授業はアラビア語が使われることはあまりなく、インドネシア語によって教育が行われた。イスラームの基本的な教義や概念以外に個人としての道徳性、家族と社会の中における役割が重視された。サルマン・モスクに代表される学生の宗教運動はイスラームが社会や経済、あるいは政治を含む生活の全ての側面を規定することを強調した。従来、ムハマディヤが代表する近代主義イスラームとナフダトゥル・ウラマー(NU)が代表する伝統主義イスラームは、宗教教義や祈祷の仕方の相違などによって区別されてきた。しかし、サルマン・モスクではこうした相違は争点にされず、またスンナ派とシーア派の区別もとりわけ強調されなかった。細かい教義よりも、社会を分析し、アダーラを実現することが重要であった。

80年代中頃までには、インドネシア大学(UI)、ガジャマダ大学(UGM)、ボゴール農業大学(IPB)などで学生の宗教運動が顕在化した。ダッワ・カンプスは学生の宗教教育や、幹部の養成といった活動をする緩やかな集団を形成していた。宗教を教える人材や環境に恵まれた都市部の大学では数百人から数千人規模の宗教運動が発展した。90年代に入ると、こうした集団は大学の公式なダッワ・カンプス組織(LDK:Lembaga Dakwa Kampus)によって制度化された。90年代初頭はインドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI:Ikatan Cendekiawan Muslimin Indonesia)が設立されるなど、スハルト体制がイスラーム勢力に接近しはじめた時期であり、国内政治の状況も追い風となった。

1998年の学生運動とPKの結成

スハルト体制の弾圧による学生運動の挫折から、キャンパスにおける宗教運動が盛んになったわけだが、学生たちは97年後半の経済危機による反体制運動の高まりに乗じて再び議会および街頭の政治の世界に復帰した。ダッワ・カンプスの諸組織も運動に参加した。98年3月末には東ジャワのマラン・ムハマディヤ大学において全国69のLDKが集まりムスリム学生行動連盟(KAMMI:Kesatuan Aksi Mahasiswa Muslim Indonesia)の結成が決められ、反体制学生運動の波に乗った。スハルト大統領が5月21日に辞任、ハビビ副大統領が昇格すると政治的な自由化がなされ、翌年に選挙が行われることが決められた。PKはそれまでダッワ・カンプスに関わってきた宗教指導者や教員、学生などによって7月に結成された。アラビア語の「アダーラ」を語源とするインドネシア語「クアディラン(Keadailan、正義)」が党名に採用された。


PKの幹部は30歳代後半から40歳代前半が大半であり、他の政党に比べて格段に若かった。ダッワ・カンプスに関わってきた人物の他、指導者層には中東への留学経験者やイスラーム・アラブ研究大学出身者が多く含まれた。党首のヒダヤット・ヌルワヒド(1960年生まれ)は中ジャワ州クラテン県出身であり、プサントレン・ゴントール、国立イスラーム学院ジャカルタ校を経て、サウジ・アラビアで修士号を取得している。たびたびNUの家庭出身者であることを自ら述べており、NUの諸伝統に敵対的でないことを強調している。サウジ・アラビア留学は明らかにヒダヤット・ヌルワヒドのPKの指導者としての正統性にプラスになっている。つまりアラビア語およびイスラームの知識において優位であることの一つの証になっている。スハルト体制期から宗教教育を目的とした財団を運営していたというが、ダッワ・カンプスの狭いサークルでしか知られていなかった。党首になってからマスメディアの露出も増え、中東の「アル=ジャジーラ」テレビに出演したことが大きく宣伝された。既存の政治家に比較すると腰が低く、誰にでも実直に接する。しかし、9・11事件について問うと「理路整然」とアメリカの陰謀論を唱える。


イスラーム主義「穏健派」の思想

PKは「市民社会」の建設を理想として掲げているが、西洋的な市民社会論とは異なりイスラーム史の中にその原型を求める「マシャラカット・マダニ」(Masyarakat Madani)という訳語を採用している。マシャラカット・マダニは、預言者ムハンマドがマディーナで建設したイスラーム教団都市国家を理想的な「国家=社会」とする。ムハンマドがマディーナを統一する際に異教徒を含む諸集団との合意事項をまとめた「マディーナ憲章」を論拠としている。ムハンマドは異教徒にも信仰の自由を認めたことから、イスラームが多元性を容認する根拠としてヌルホリス・マジドやマレーシアのアンワール・イブラヒムなどが提唱してきた。PKは訳語として英語の「シビル・ソサエティー」(Civil Society)も併記し、政府からの自律性や軍政と対立する文民政治の意義を強調している。

PKにとって最も重要なのはあくまで「ダッワであり、宗教儀礼だけでなくイスラームに実質性を持たすこと」である。宗教的な道徳心をもつ知識人の社会的責任を重視し、イスラームが生活のあらゆる面における答えを提供するとの考えを持っている。このため彼らはウンマのために戦わなければならないが、PKは行動規範の一つとして「中庸」を挙げている。

PKやKAMMIは国民国家インドネシアを軽視しているわけではない。パンチャシラは色褪せたものの、インドネシアの「国民的国家的統一」のイデオロギーは依然として強力であり「反インドネシア」的態度は決して見せない。もっとも国民統合の原理はもはやパンチャシラではない。「ウンマの一体性こそが民族の一体性のための最も重要な里程標」であり、PKは「ウンマと民族の一体性の枠内においてダッワと正義の執行」を行う。ウンマの一体性が国民国家に優先されるのであり、イスラーム世界の連帯がつねに強調される。9・11後のアメリカによるアフガニスタンおよびイラク攻撃への抗議デモにおけるPKの動員は他の政党や団体を圧倒した。すべてのデモは規律正しく行われ、警察と衝突したり暴動に発展したりするようなことは起きていない。

PKはインドネシアの国民国家体制を容認し、武力闘争を望ましい手段とは考えない。現状ではダッワが最優先され、イスラーム的な諸制度の導入こそが現実的な戦略である。中庸や穏健性を強調する立場から理想とするイスラーム国家像が語られることは稀である。しかし最終的な目的はカリフが統治するイスラーム国家であることは変わりない。アッラーが唯一最高の権力者であり、人間はその代理人(カリフ)である。人間はアッラーの代理人としてイスラーム法を履行せねばならず、民主主義はその履行の責任を果たすための方法である。しかし民主主義の「普遍性」は積極的に認められる。民主主義は大衆による意見表明を可能にし、政府に対するコントロールを可能にする制度であり、議会の重要性が強調されている。ここが武装闘争を行う急進派と大きく違うところである。

もっとも暴力が本質的に反イスラーム的であると考えられているわけではない。キリスト教徒との紛争が続いている中スラウェシ州ポソではPK支持者の民兵組織が紛争に関わっていると言われている。北スラウェシ州支部は東チモールなどにおける著しい人権侵害に関わりイスラーム急進派との密接な関係も噂されるウィラント元国軍司令官を大統領候補としての支持をいち早く表明した。大統領選に関してはアミン・ライスを支持する勢力もあり、「PKSの分裂か」と一時マスコミを騒がしたが中央執行部が「特定候補を支持しない」との公式決定を行い収束した。躍進の理由と今後の見通し 2004年選挙におけるPKS躍進の理由はまず既成政党への不信感であろう。汚職が改善する兆しはなく、むしろ新たに選ばれた政治家たちの公金横領事件が頻発した。ほとんどの政党が評判を落とすなかでPKだけは「規律正しい」イメージを維持することに成功した。さらに、既存の社会基盤に頼っていた大政党とは違って、PKは新たな幹部養成を続けていた。選挙キャンペーンではPKが究極的な目標とするイスラーム国家の建設やイスラーム法の適用は強調されず、汚職の撲滅を訴える戦略が成功した。地方における支持拡大は党員の浸透とともに、それぞれの地方の事情に応じた選挙対策を取ったからであろう。ジャワではジャワ語の横断幕を使い、南スラウェシでは地元出身のハビビを大統領候補に掲げた。選挙キャンペーンにはヴェールを着用していない女性も多数参加していたという。

急進派との関係などPKには憂慮すべき点がある。しかしPKが議会内に存在する意義は極めて大きい。現状の議会制民主主義制度が維持される限りにおいて、PKがこの制度自体を否定することはないだろう。少なくともPK中央執行部は慎重に急進派との距離を保っている。むしろ「敬虔だが穏健」であることを強調することによって支持者を獲得している。2004年選挙における人気を維持しようと思えば、イスラーム主義を前面に出すわけにはいかず、汚職撲滅を推進しなければならないのである。今後は国会活動ともに、ジャカルタ特別州議会など「与党」になった場面における議会運営が注目される。


[1] マシュミ党は日本軍が軍政への協力を確保するためにムハマディヤとNUを中心として結成した同名の連絡組織なり独立後にイスラーム勢力を代表する政党として結成された。イスラーム同盟とNUが脱退してそれぞれ独自の政党を作った。現在のインドネシアでマシュミといえば、この52年以降のマシュミ党を指し、近代主義イスラームを代表する政党とみなされている。スカルノの共産党接近に反発し西スマトラに樹立された「インドネシア革命共和国政府」に関与して1960年に非合法化された。

[2] イスラーム共同体。現在の国境を超えたイスラーム世界全体を一人のカリフ(神の代理人)がイスラーム法に基づいて統治することが理想とされる。