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イスラーム世界紀行 〜調査旅行で出会った社会、人々について〜
タイ「最南部」へ 誤解を解くために
まともな紀行レポートを書く余裕がないので最近ブログに書いた文章へのリンクです。(2004.11.02)
温故知新 古きを訪ね新しきを知る :2003年11月−12月、2004年7月追記
爪哇暗転 いかに盗まれいかに旅を続けたか :2002年8月−9月
馬国比較的好天 マレーシア紀行 :2002年8月
パキスタンでインドネシアンの巻 :2002年3月 (途中で頓挫。。。)インドネシアの民主化におけるイスラーム社会運動の役割に関する調査」 真面目な出張報告書 :2001年7−8月
いつもどおりのジャカルタ Jakarta as usual... :2001年5−6月
チュニジア(+トルコ)イスラーム・レポート 「本当」のイスラームとは何か :2000年7−8月
イスラーム団体全国大会視察の巻 東ジャワのクディリ :1999年11月
インドネシア総選挙見学記 インドネシア民主化! :1999年6月
1分で読めるインドネシア(と日本)
2005年5月より、(ひとまず実験的に)ブログ形式で更新することにします。→こちらから
2000年4月〜2001年9月 2001年9月〜2002年12月
2003年 2004年1月〜10月
2005年
4月11日 ラトゥナ・サルンパエット講演会
ラトゥナさんはインドネシアの有名な演劇家(女性)で、国際交流基金の招きで現在来日している。先週、京都に来られていて、うちの研究所に寄られた。インドネシア人の留学生を急いで集めて話をしてもらい、夜は祇園の飲み屋さんで歓待させていただいた。
彼女の演劇のテーマはほとんどが社会的弱者であり、その悲劇を訴えかけ続けている。政治的に非常にセンシティブな事柄をひるまずに取り上げている。スハルト体制下では脅迫はもちろん、投獄されたこともある。お話しは歯切れがよいが、重厚。何より美しくて強い目。まっすぐに見られるとその迫力に圧倒されてしまう。
アチェの地震と津波被害にもいち早く行動を起こし、今回はそのアピール活動と日本の経験について学ぶために来日されている。明後日、東京で講演会をされるのでお時間のある方はぜひ足を運んでください。
●アチェ――軍事作戦と津波の二重苦のなかで ラトゥナ・サルンパエット講演会
日時:2005年4月13日(水)17:30〜
場所:上智大学中央図書館812号室(JR・地下鉄四ッ谷駅徒歩5分)
言語:インドネシア語(通訳あり)
主催:上智大学アジア文化研究所
4月1日 第二の地震のインパクト
3月28日にまたスマトラ沖で大きな地震があった。今回の震源は昨年末のそれより少し南のようであり、北スマトラ州に属するニアス島が大きな被害を受けている。被害の詳細については上にリンクしているNGOや報道機関のサイトを参照いただきたい。私がいえるのはインドネシアの政治や社会の文脈における影響といったことだけである。
第二の地震の2日前の3月26日は外国の援助機関の撤退期限であった。各国の軍隊は最後に残った自衛隊を含め撤退を終了し、NGOなどもアチェ滞在を延長するためには一定の審査を必要とされていた。政治的に非常にセンシティブなアチェに外国人が留まることを嫌うインドネシア政府の態度を反映したものであった。しかし第二の地震が発生したことにより、そうとも言ってられなくなった。
ニアス島はアチェからのアクセスは悪く、どちらかといえばその南東に位置する西スマトラからの文化的、経済的影響が大きい。地理的にも救援・復旧・復興支援の体制を大きく拡大せざるを得ないだろう。年末の津波による被害があまりに大きかったので麻痺してきそうだが、今回のマグニチュードも8.5、ニアス島とその周辺地域の犠牲者は数千人に上っている。海外からの支援も当面続けていく必要がある。
3月20日 アチェのウラマーとの対話
もう2月末のことになるが、インドネシアに行ったときに津波被害にあったアチェのウラマーと話をする機会があった。ウラマーとはイスラームの教師や法学者のことであり、まだ30歳代の彼はアチェに宗教学校をもっている。大都市の知識人の「開明的」な議論に慣れている参加者が多いセミナーで彼は少々保守的、あるいは「かたくな」といった印象であった。
彼は外国だけでなくインドネシア国内を含むアチェの外部からの援助や影響に懐疑心を持っていた。アチェ人の文化やアイデンティティ、「誇り」を極めて重要だと考えていた。例えば、孤児をアチェの外の学校や施設で預かることはアチェ人にとって恥ずかしいことであり、またアチェ人としてのアイデンティティを失いかねない。私や他の参加者が投げかける「この悲劇を宗教的にどう説明するのか」「被災者がこのような悲劇に神の加護や存在について疑問を持たないのか」といった質問をはねつけた。彼はアチェの人々がイスラームに疑問を持つことはないし、神への感謝には揺るぎないと断言した。私は思わず、しかし、と言葉を継ぎたくなる。一方ではトラウマを持つ人は少ないと彼は言うが、他方では(外部からの援助による)精神的なケアは必要だとも述べる。
必ずしも彼の説明に納得したわけではないのだが、一般の人の立場からは彼の宗教的なかたくなさや信仰の強さが臨床心理士などよりはるかに大きな助けになるのかもしれない。
3月7日 マレーシア国境で緊張
インドネシアのカリマンタン島はマレーシア側からいえばボルネオ島、ブルネイもこの島にある。このカリマンタン島沖の石油権益をめぐってマレーシアとインドネシアが対立している。事の発端はマレーシアの国営石油会社ペトロナスが2月16日に石油メジャーのシェルに権益の譲渡契約を結んだことにある。インドネシアは領海侵犯を主張し、戦艦を派遣、一気に緊張が高まった。国会では強硬論も飛び出しているが、ユドヨノ大統領はマレーシアとの友好関係を強調し、事態収拾に乗り出した。
それにしてもこういうことがあるとインドネシアのナショナリズムの高さがうかがえる。昨日は東京でとあるイスラーム系政党の関係者にあっていたのだが、彼らの関心も非常に高かった。あまりイスラームの要素ばかりを強調しすぎると間違う、と自省をこめつつ。
3月3日 アチェ支援と反米
米軍はすでにアチェから撤退しているが、始動は早く災害救援にたいへん有意義だったようである。すでに撤退が決まっている自衛隊、国際機関や多くのNGOも現地の人々に感謝されている。以前にも書いたがインドネシア国内のさまざまな団体も復旧のために派遣されている。中には「過激派」といわれてきたグループもあるが、特に大きな問題とはなっていない。同じ目的で来ているのだから反米的なイスラーム急進派もその場で対立したり攻撃することは考えにくい。
ただ国内の急進的なイスラーム系メディアは一様に欧米の開放的な文化がアチェに入ることに警戒心を示している。隔週8万部を自称している『サビリ』誌ではほぼ毎号アチェ特集で、最新号は「外国の文化がアチェを惑わせる」とのタイトルで、ワインボトルにアチェのモスクの写真が入っているカバーページである。彼ら急進派の存在を支えているのが反米・反シオニズムだから、こういう風になってしまうのだが、多くの人が外国に感謝しているなかでこういう主張をしても広く受け入れられるのは無理だろう。それでも「反米的である自分」を何としても維持していたい人たちもまた少なくないので、こういう言説が再生産されていくのである。
どちらにしろ、こういう雑誌は被災者の手元にはほとんど届かないだろう。アチェの人々の心理を考えた記事ではなく、またアチェの被災者は彼らのマーケットとして眼中に入っていないことだろう。
2月28日 ジョッキー
ジョッキーといっても競馬の騎手のことではない。ジャカルタでは通勤時間にビジネス街の大通りで「3 in 1」を実施している。すなわち渋滞解消のために、一定の時間内は3人以上乗車している車でないと通れない道があるのだ。そこで「3人目」の乗車者になることを商売にする「ジョッキー」が現れることになった。
ジャカルタではタクシーの移動が多い。タクシーは「3 in 1」の例外なので今まで一度もジョッキーの経験がなかったのだが、先日初めて乗せることになった。ホテルからのタクシーがなく、急ぎだったのでそれほど値段も変わらないと勧められてハイヤーで空港まで行った時のことだ。
「3 in 1」の通りから2つほど角を曲がったところにジョッキーたちは待機している。あまり近くだと警察に捕まってしまうからだ。ジョッキーはもちろんそれなりのリスクがある商売で、もちろん非合法なのでやはり貧しい人がなる。しかし車に乗らないような汚い身なりでは運転手も嫌がるし、警察にばれてしまう可能性もある。そこでみなそれなりに小ぎれいな格好をしている。私のハイヤーの運転手は髪をきれいに梳かしている子どものジョッキーを乗せた。「3 in 1」を過ぎて空港への高速道路の料金所手前まで行くと6000ルピアを掴ませて子どもを車から降ろした。大人だと1万ルピア要求することがあり、わざわざ子どもを選んだのだという。
1月27日 宗教と援助
アチェにはさまざまな援助が入っている。まさかアメリカ軍や自衛隊がアチェに駐留することになるとは想像もつかなかったとはアチェ専門家の友人の言葉である。インドネシア国軍は非常に嫌がっているがとにかくもそういうことになっている。基本的にアメリカや日本の援助は歓迎されているといえるだろう。対米観の改善も明らかだろう。
イスラーム政党の福祉正義党の動きは活発だ。彼らは学生運動出身の理想主義的なイスラーム主義者でそこそこラディカルなのだが、こういうときに最も真面目に働くのも彼らだ。理系出身者が多く医者も少なくないので実際に役にたつだろう。もっと急進的なマジェリス・ムジャヒディン(聖戦士評議会)も救援部隊を派遣している。爆弾テロの実行犯たちとの関係も取沙汰される彼らなので、一部では欧米人との関係も心配されているが、派遣されているのは少数であるし欧米人を誘拐殺害するような意図も実力もあるまい。
彼らが布教・宣教活動をすることに対する心配もある。福祉正義党はともかく、キリスト教徒もアメリカも敵にならない状況ではマジェリス・ムジャヒディンの影響力は限定されているように思う。彼らが勢力を拡大するためには「敵」が必要である。ただ、アメリカからキリスト教の急進派が援助に入り、孤児たちと引き受けるという報道があった。当のアメリカのワシントンポストが伝えたのでおそらく本当のことなのだろう。(他の地域はともかく)アチェの大半はイスラーム教徒である。宗教紛争を外部から持ち込むようなことは、とにかくやめて欲しいものだ。
1月18日 京都からアチェへ
全世界で義援金を集める動きがかなり大きくなっている中で、日本の民間による義援金の額は非常に小さい(16日現在2350万ドル、アメリカの十分の一以下)。マスコミでは新潟の地震や兵庫県北部の台風など、昨年は被災者への義援金集めが相次いだのが理由だと分析されている。おそらくそれは大きな理由だが、より根本的にはきっと日本人がアチェを始めとする被災者にいまいち共感できていないからだと思う。インドネシアに深く関わってきた私ですら、実際に体験した神戸とアチェのニュースでは涙腺の緩みかたがぜんぜん違う。だから、ここに書いているわけである。そしてチャリティイベントみたいなのはとてもいいと思う。彼らの悲しみに少し心を寄せるために、悲しいだけじゃなくて楽しさや美しさについても知るために。
前置きが長くなったが、身近でチャリティの情報がいくつか入ってきたので紹介しておくことにする。
まず京都府国際センターのチャリティイベント。ここでは昨年一度講師をさせてもらったことがある。あのときの事務局や日本インドネシア友好協会の方々が動いてらっしゃるはずだ。インドネシアの舞踊に興味がある方、京都近郊在住者はぜひ。→詳細
私も話した「東南アジア理解講座」、その第一部でアチェのダンスを披露してくれたメックスさんが撮影したアチェの写真をポストカードにして販売し、義援金にすることになった。メックスさんを支援しているのは偶然にも彼の近所に住んでいる私の友人。彼女はインドネシアとまったく違うところでの知り合いだ。私も何かお手伝いをできればと思い、ひとまずウェブで紹介することにした。急造らしいけどキレイなサイト。
→メックスのサイト
→メックスを紹介した京都新聞の記事
1月12日 アチェへの支援
日本の自衛隊の先遣隊を含めアチェへの軍隊の派遣が本格化してきた。インドネシア政府はとくにアチェに外国の軍隊が来ることを非常に嫌がっているので3ヶ月に期間を区切った。3ヶ月で済めば何よりだが、州都のバンダアチェだけでもその復興には5年とか10年の単位で考えないといけないだろう。
インドネシア政府は反政府ゲリラの自由アチェ運動(GAM)の存在を強調(ないし誇張)しており、自衛隊が安全確保を要請したことや、援助活動をGAMが妨害しているなどとの報道がみられる。別にGAMがいいなどとはまったく思わないが、外国からの介入を唯一心配しているのはインドネシア国軍であり政府であることを踏まえた上で日本のマスコミの報道も注意深く読んでいく必要がある。
1月4日 アチェ:想像力を持つために(2)
1998年1月に私がバンダ・アチェを訪れたときに会った大学生たちは口々に「われらこそが本当のインドネシア人だ」と述べていた。すなわち日本の敗戦後に再植民地化を試みて戻ってきたオランダ軍との独立戦争においてアチェのみが敵を撃退しえたからであった。他の地方では退却しながらのゲリラ戦が戦われ、時代錯誤のオランダが国際社会に説得されることによって戦争は終わった。
アチェのインドネシアからの独立を求める勢力は少数であったが、1998年5月のスハルト大統領退陣以降にそれまでのインドネシア軍が殺戮した人々の遺骨が大量に見つかったことなどにより急速に独立機運が高まった。2000年頃にはおそらく大半のアチェに住むアチェ人が独立に賛同するような空気になっていた。現在まで山間部などではアチェ自由運動(GAM)のゲリラ部隊とインドネシア国軍の内戦状態が続いている。もっともアチェの人々みながGAMに賛同しているわけでもない。インドネシア国軍および中央政府に強い不信感を抱いていても、GAMのゲリラ活動や住民に対する態度への批判は多い。
昨日会ったアチェ人は多くの人々がアチェへ手を差しのべ募金活動や救援物資の送付がなされていることに感謝しつつ、この津波はアチェの人々のものの見方を変えるかもしれないと話してくれた。アチェ人はなんでも自分たちが一番であるような考え方を持っているが、今は自分たちの無力さを知り、さまざまな援助をしようとする外部の人たちがいることを身をもって感じている。彼は声明一つ発表しないスウェーデンに亡命しているGAMの代表者への批判も付け加えた。
地震と津波の被害者救済と復旧活動の対処の仕方によって今後のアチェに住む多くの人々のGAMや国軍、そして外国に対する見方もずいぶん変わるかもしれない。果たして元軍人のユドヨノ大統領はアチェの救援と復興において国軍をうまくコントロールできるのだろうか、これからの注目である。国際社会もこれまでアチェはインドネシア国内の問題として冷ややかな態度をとってきたが、しばらくはアチェに注目が集まり続けるだろう。この天災を近年泥沼化していたアチェの紛争を終わらせるチャンスだと見る人もいる。「災い転じて」というのにはあまりにも被害が大きすぎるのだが、とにかく前を向いていくしかあるまい。
1月1日 アチェ:想像力を持つために(1)
日本ではマレーシアやタイの観光地の映像がほとんどらしいので、現時点ですでに8万人の死者がでているといわれるアチェについて少し情報を提供しておくべきだと思って書いている。想像を絶する数字に感覚が麻痺する。昨日訪れた新聞社でも神戸の地震の死者は6万人だっけと聞かれて、思わず0の数をかぞえなおしてしまった。テレビや新聞で死体を見るのも普通になってしまった。
州都のバンダアチェには一度だけ、1998年の1月に訪れたことがある。中心部にはオランダ植民地時代に建てられた立派なモスクがあり、一本の川に沿って生活用水用の小さな水路が整備され、道路と水田、住宅が広がっている。ところどころに人口や生活規模を考慮すると少々大きすぎるモスクが点在している。私にとってはこれまでインドネシアで訪れたなかで最も美しい町として記憶に残っている。川はたしか天井川で、すなわち地表より川面の方が高いところにあったから津波の被害は余計にひどいことになったのだろう。町は壊滅状態で、電話なども通じないので新聞記者は東海岸のロクマスマウェから記事を発信しているという。手元には去年の選挙統計しかないのだが、バンダアチェ市で投票した人は12万人あまり、州全体では210万人ほどが選挙に参加している。人口はその倍ぐらいだろうか。内陸の山間部はあまり地震に関係ないと思われる。
バンダアチェには空港があるが(空港は無事だったようだ、まだ定期便が飛んでいる)、私は北スマトラ州の州都200万都市のメダンから深夜バスでバンダアチェに入った。バスでは偶然日本人の二十歳ぐらいの男と西洋人の少し年長の男二人組と一緒だった。彼はアチェの西海岸にサーフィンに行くといっており、ボードを持参していた。西海岸は今回の地震の震源地に最も近いところである。アチェの西海岸は非常にアクセスの悪いところで、バンダアチェから小さなバンに乗り換えて行くしかない。『地球の歩き方』などにはまったく情報がないところだ。地震から一週間経つが、西海岸はほぼ完全に孤立している。孤立している地域の被害者の数はまったく把握できてないはずだ。
2004年
12月31日 地震とテレビ(2)
ニュースチャンネルのMetroTVだけが義援金だけでなく、ボランティアの募集や必要な物資について具体的な情報を流している。このテレビ局のオーナーがアチェ出身でゴルカル党の大統領候補にもなったスルヤ・パロであることが大きな理由だ。パロ自身がしょっちゅうテレビにでてくるのが玉に瑕だが致し方あるまい。
大手新聞社に行ったので、死者や不明者のリストなど具体的な情報を流すべきだとの意見を伝えてきたのだが「日本と違って個人の命が大切にされてないからね」ともうどうしようもない答えが返ってきた。そこまで開き直られてしまうと言い返しようがない。この新聞の今日の一面の下半分は行方不明になっていたこの新聞社の現地特派員のエピソードに費やされているはずだ。この特派員は昨日ようやく見つかり、右目が膿んでひどいケガをしているが妻子が不明のままなので被災地から脱出することを断ったという。彼はスラバヤの本社に一度来ただけだが、記者たちは一様に彼のことをひどく心配していた。
現地のメディアでは決して流れないが、NGOのメーリングリストでは援助で入ろうとした外国人が国軍に止めれて金を請求されただとか、アチェのゲリラの掃討作戦は続いているといった情報も流れてきている。
昨夜ここまで書いて寝たのだが、なんか変な夢をみていまいちな大晦日の朝に更新です。今年はなんだか個人的にもとんでもない年でした。本年もたいへんお世話になりました。
12月26日 地震とテレビ
インド洋の地震による津波で両岸のインドネシア、タイ、スリランカ、インドで大きな被害がでているようだ。津波というのは恐ろしい。頭では分かっていても普段スリランカやインドを「両岸」などと考えてみたこともない。
私は今ジャカルタにいるので揺れを感じるどころか地震があったというニュースもホテルでBBCを見て知った。インドネシアのテレビ局はニュースチャンネル以外は地震の速報も流れず、通常の番組を続けている。選挙のときは速報がずっと流れているから能力がないわけではない。実際、ニュースの時間には生中継をしているチャンネルもある。インドネシアは地震が少なくなく、島国だけに津波の被害は大きい。要は放送局も視聴者も興味がないのだろう。ほとんどが中央から遠く離れた「辺境」の出来事なのだ。私はキリスト教徒でもイスラーム教徒でもないが、クリスマスや断食明けの宗教番組をあれだけ熱心に放送したり、宗教間の対立には熱くなるのなら少しは同胞の被害に心を寄せたらどうなのだろうか、そう思わずにいられない。
12月7日 ライオンエアの墜落
先週インドネシアの国内線のライオンエア社の飛行機が墜落した。インドネシアの飛行機会社は1997年の経済危機以降相次いで経営危機に陥ったのだが、その後は逆に新規参入が絶えず過当競争気味である。運賃もかなり値下げされ、電車とほとんど変わらなくなっている。墜落したライオンエア社に私は一度しか乗ったことがないのだが、スリットがかなり入ったチャイナドレスを着ている若くて美人のスチュワーデスに驚喜してしまった。いつも利用している国営のガルーダインドネシア社では到底考えられない「サービス」に自由競争のすばらしさを感じたのであった。
日本でも国内各社の値下げ競争が進んだが、台湾やタイなどの格安飛行機会社は日本市場を睨んでおりこれからますます競争は激しくなるだろう。今月末には大阪ーバリ間にバリを本社とするエアーパラダイス社が参入する。機内のメークアップ教室など女性向けのさまざまなサーヴィスを用意しているとのことである。
値下げ競争が今回の事故の直接の原因になったかどうかは分からない。基本的には選択肢が増え、価格が安くなることは歓迎だが、ものがものだけに安全にはとにかく気を遣ってほしいものだ。飛行機には安心して乗れるのが何よりなのだから。
11月18日 人権活動家の死
先月ムニールという人権活動家が死去した。スハルト体制の終盤から政治的な暴力に対して勇気ある告発をしてきた人物だ。シンガポールからオランダへ向けて飛んだ航空機のなかで嘔吐し、死亡した。オランダで行われた司法解剖の結果、毒殺であったことが判明した。インドネシアは割と暗殺の少ない国だと思っていたのだが、ムニールの死によって、ワヒド政権時のロパ司法長官の死も暗殺であったのではないかと連想してしまった。ロパも、もうずいぶん昔の話だがスブハンというイスラーム活動家もかつて1970年代にサウジアラビアで謎の死を遂げている。海外に行ったときの方が暗殺がやりやすいのだろうか。
10月22日 ユドヨノ新政権誕生
スシロ・バンバン・ユドヨノ新大統領の就任式が行われ、内閣も発表された。メガワティ前大統領は就任式への出席を拒否したが、これはあまり心配することはないだろう。対決姿勢を明確にしたというよりは、メガワティ個人が敗北を受け入れることができないのであろうと推測する。
内閣については、経済閣僚の人選でイスラーム系政党が反発を示したが大統領は応じなかった。経済閣僚にはIMF(国際通貨基金)などがいたためである。いくつかのイスラーム系政党は「ナショナリスティック」な主張をしており、貧困層への「搾取」が懸念される自由市場や外国資本をかなり感情的に非難している。しかしマクロ経済の安定は重要である。少なくとも日本の企業や政府にとっては大統領が反発に応じなかったことは評価できるだろう。ただ、政治的配慮から異なる立場の経済閣僚も入閣しており、一貫性がないとの批判もある。
国民の「新風」angin segarへの期待感から圧倒的な支持を受けて誕生したユドヨノ政権であるから、その期待を裏切るようだと支持の低下もまた早いだろう。ユドヨノに失望すると、政治不信は深まり、民主化自体すら脅かしかねない。汚職の「撲滅」とまではいわないが、低下に少しは成果を見せることと、何より経済の立て直しがまず重要だろう。
10月15日 断食月の風景 〜メッセージの伝え方〜
断食月が始まった。中部ジャワのソロにいるのだが、今日は金曜礼拝がある上に、断食初日、他にも色々不運と不手際が重なって、「調査に飛び回る」といったカッコイイ感じからはほど遠い。今日は一件だけインタビューに行っただけだ。
それでも現地にこないと分からないことがたくさんある。断食の前日にあるお祭りや習慣、テレビの特別番組、断食バージョンのCMなどから、イスラームをめぐるインドネシア社会の変化を観察することができる。
よく分からないこともある。中部ジャワでは断食の前に水浴びをして体を清める習慣があるという。それであちこちのプールはごった返した。私が泊まっているホテルもそのためにプールが一杯だというのだが、断食が始まっても一杯だし、遊んでいるようにしか見えないのだが・・・。
さて、またテレビの話題で恐縮だが、本題に入ろう。
最近インドネシアでは、ナシードと言われるイスラームの歌がちょっとしたブームになっている。イスラームの歌といってもほとんど日本のアカペラブームと同じ内容、同じタイミングである。服装と歌詞が違う程度である。このブームはおそらくマレーシアの方が早くて(おそらくエジプトから)、マレーシアのグループがインドネシアでも売れていたりする。ナシードの流行はここ数年のことなのだが、断食月のテレビ番組にここまで組み込まれたのは今年が初めてではないだろうか。
昨夜はTV7で、ナシードコンテストが中継されていた。イスラーム教師などの審査員が日本の物まね番組のように10点満点で採点して、コメントする。アラビア語の発音について注文がついたりしていた。今夜はINDOSIARというチャンネルで「インドネシア・ナシード・フェスティバル」。こちらはもっとポップな感じで、マイケル・ジャクソンの"Heal the World"が歌われたり、曲もアカペラだけでなく、ラップを入れたりと幅広い。
CMも断食バージョンのものが多くなる。特に食べ物のCMは断食明けにどうぞ、という類のものが増える。マクドの店員もこの時期はベールを着用する。
バンドゥンのマクドで。
印象に残ったのがタバコ会社のコマーシャル。断食中は喫煙もだめなのでタバコを吸うシーンはでてこない。バイクで一人旅をしている若者。道すがらベンツが彼の顔に泥水を飛ばしながら追い抜いて行った。断食が明け、彼はバイクを止めてナツメヤシの実と水を口にする(注:すぐにご飯を食べると体に悪いので、まずドライフルーツなどを食べる)。お祈りをしていると、さきほどのベンツのおじさんたちが彼のナツメヤシの実を勝手に食べて去っていく。お祈りの後、気づいた彼は驚いた顔をして去っていくベンツを眺める。そこに字幕がでる。
Sejauhmana kesabaran kita. われわれの我慢はどれほどのものだろうか。
断食月にはお説教がたくさんあって、恵まれない人への気遣いや、平和を訴える内容も多い。何か相手に不当なことをされたときにも耐えること、それが敬虔なイスラーム教徒としてするべきことである。そのようにこのタバコのCMは伝えている。きれい事に聞こえるかもしれないが、各地で起こっている紛争を止めるにはそうした我慢をまずすることに尽きるんじゃないかと思う。寛容さを唱える宗教者が被害者になったときにも相手を許せるかどうか。そこで怒ってキレちゃえば、やっぱり宗教は平和への力にはならない。
(10/17修正)
10月12日 断食月を前にして
今日は200人以上の死者を出したバリ島のテロ事件から2周年である。テレビニュースではバリ事件で家族を亡くした人や生存者に対するインタビューが放映されていた。テロ事件はいわゆる「イスラーム過激派」が起こした。アメリカや西洋の国家や文化に対する恨みを抱く人が観光客の殺害を意図して爆弾を仕掛けた。
イスラーム社会は今週末(インドネシアでは15日)から断食月を迎える。一ヶ月の間、イスラーム教徒は日中食事を取らないことを義務づけられる。インドネシアでは断食月を迎える特別テレビ番組が放映されている。いま、私の目の前のテレビでは、生放送で人気説教師が数千人を前にして涙を流しながら神への祈りを捧げている。彼はイスラームの寛容性と倫理観を訴えている。ハンサムで現代人に合った明快なメッセージを発するので、テレビで大人気である(拙著第4章参照 m(_ _)m)。
これから一ヶ月、さまざまな特別番組が放映される。イスラームのメッセージ〜その倫理観や社会の一体性の強調〜は様々な方法で伝えられる。人気説教師の祈祷が終わって、今度は人気歌手がイスラーム的(と見なされる)な格好をしてラブソングを歌っている。
多くのイスラーム教徒にとって一年一度の断食月を迎えることと、バリ事件はまったく別次元のことであろう。何か考えるとすれば、大切な断食月をテロなどで汚してほしくない、ということではないだろうか。
インドネシア・リンク 〜時間を超えて、目で耳で舌で味わん〜
楽やっぱ楽しんでなんぼでしょ。
ジャカルタの天気 up!
Yahoo!のお天気ページ。熱帯なんていうけど日本の方がよっぽど暑いぞ!
地図マニアには堪えられないページ。ボルブドゥール遺跡、スラカルタを探してみよう!
私の好きなインドネシア up!
インドネシア有力紙の記事が日本語で読める。地方情報もアリ。ぼくがいたスラカルタ情報も若干、写真多し
インドネシアの絣 up!
日本たばこ(JT)が過去に主催した展覧会。これなかなかいいですよ。布好きな人どうぞ。
warintok up!
日本で楽しむインドネシア、というすばらしいコンセプト。テレビ番組、お店、イベント情報など盛りだくさん!
大阪・本町のインドネシア料理店。長堀から移転してゴージャスに。家具店も経営
日本人とインドネシア人ご夫妻のイスラームの帽子屋さん。写真のサンプルが楽しい。
KIRA-KIRA 15menit new!
「15分くらい」という意味です。インドネシアの概説、レストランガイドなど。
知ディープでワイドな情報収集に
インドネシア関連のリンクが最も充実
日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI) new! インドネシアの人権、環境、開発などの問題に関するNGO。私も賛助会員です。 インドネシア民主化支援ネットワーク(NINJA) インドネシアの主に人権問題をテーマとしたNGO。 現地日本人による日刊紙。毎日のトップニュースが日本語で読める。
在住日本人による現地情報。「よろず掲示板」はかなり有名、盛り上がっています。
ジョグジャカルタにあるストリートチルドレンのための組織、英語あり
私の所属学会、国別のリンクも便利
超大学のイスラーム研究者が集まるHP。2001年度で終了。
熱帯雨林の情報をハードコアにお伝えします。元同僚の加藤さんが運営。
私の所属機関です。学術誌『東南アジア研究』のダウンロードが可能。
インドネシア統計局 new! インドネシア政府の統計局のサイト。人口や経済など様々な統計が手に入ります。 めこん new! 東南アジア専門の出版社。いい本がたくさんあります。 華人経済研究所 new! 援助の現場に関わりながら東南アジアの華人研究をされているnaitoさんの研究所です
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仕事場 研究業績一覧
現在の所属機関<京都大学東南アジア研究所>へ
論文 / 雑誌記事・報告書 / 発表レジュメ
一般向けには<雑誌記事・報告書>が読みやすいでしょう。
なお、PDFファイルで公開している文章を除き、ウェッブ掲載の文章は「ドラフト」であり、実際に印刷されたものとは異なる場合があります。
引用する場合は必ず印刷されたものを利用して下さい。手に入りにくい雑誌等についてはご連絡ください。
単行本
『インドネシア イスラーム主義のゆくえ』 平凡社 2004年。
論文
* 「出版物からみた20世紀東南アジアのイスラーム」 『上智アジア学』 [要旨]、20、2003年3月。
* 「インドネシアにおけるイスラーム主義とモダニティの交錯」 『地域研究論集』 [はじめに]、5−2、2003年3月。
* 「インドネシアにおけるイスラーム左派と知識人ネットワーク」 [要旨のみ] [本文] 『東南アジア研究』、2002年6月。PDFファイル
* 「民主化期におけるイスラーム主義の台頭:インドネシアのダーワ・カンプスと正義党」 [要旨] 日本比較政治学会年報 『宗教と政党〜比較の中のイスラーム』、早稲田大学出版会、2002年6月。
* 「インドネシアにおけるイスラーム左派:そのイデオロギーとネットワーク」 神戸大学博士論文(政治学)、2001年12月提出。
第1回「井植記念アジア太平洋研究奨励賞」受賞* "Kiri Islam, Jaringan Intelektual dan Partai Politik: Sebuah Catatan Awal," Tashwirul Afkar, 10, 2001, pp.155-169.
* 「インドネシアにおける『イスラーム市民社会論』の二大潮流」 [序] 『国際協力論集』(神戸大学)、8-2、2000年11月。
* 「ポスト・アブドゥルラフマン・ワヒド体制への継続と変化:東ジャワ・クディリにおける第30回ナフダトゥル・ウラマー大会より」 [要約・目次・はじめに] 『アジア経済』41-5、2000年5月。
*修士論文は「ナフダトゥル・ウラマーの社会活動〜スハルト体制下におけるイスラーム思想の革新と行動」(未発表)。スハルト体制のイスラーム勢力をめぐる社会的・政治的な変動を概観し、そうした状況にどう思想的にまた行動で対処したかを論じた。とくにナフダトゥル・ウラマーという宗教団体に焦点をあて、これがNGOなど他の社会勢力と水平的なネットワーク(市民社会?)を自覚的につくっていることに注目した。従来都市部だけが注目されてきた経済発展による新中間層の成長とイスラーム復興、これがジャワの農村部を中心としたナフダトゥル・ウラマーにも及び、新たな社会運動の形態を生み出していることを示した。
雑誌記事/報告書
* 「インドネシアの都市中間層にとってのイスラーム:バンドゥンにおける出版事情から」 『創文』 (創文社)、2004年11月号。 forthcoming!
* 「『イスラーム主義政党』福祉正義党の躍進は何を意味するのか」 『JANNIニュースレター』、49号、2004年。
* 「インドネシアの大統領選挙とイスラーム主義」 『月刊百科』 (平凡社)、2004年10月号。 new!
<要約>本稿では4月に行われた総選挙で大躍進した福祉正義党について、その設立の背景、政党のイデオロギーなどについてまず明らかにし、さらに選挙結果に分析を加えたい。福祉正義党はイスラーム主義をイデオロギーとする政党である。他のイスラーム政党と異なり、1950年代までに存在したイスラーム団体を基盤に持たない。まず理解すべきことは、イスラーム主義がインドネシアにおいてどのように発生・浸透し、社会にどのような影響を与えているのかである。
* 「イスラームと政治 −急進派の位置づけ−」 (平成15年度 財務省委嘱調査 「インドネシアの構造改革と日本の援助政策」) PDFファイル
* 「イスラーム過激派を理解するために−インドネシアにおける911事件への対応から」(平成13年度 外務省委託研究「開発と社会的安定―アジアのイスラムを念頭において」) PDFファイル
* 「世界のイスラームDインドネシア 数千人規模の反米デモが起きた理由」 [本文ドラフト] 『外交フォーラム』 特集:イスラームを理解するために、2002年2月号、62−66頁。 一般向けに易しく書いたものです。
* 「インドネシアの民主化におけるイスラーム社会運動の役割に関する調査」 [報告書] 2001年7月24日〜8月16日のインドネシア出張の報告書。* 「国際シンポジウム ムスリム社会のダイナミズム」 [報告書] 国際会議の参加報告書。
* 「書評: 『インドネシア農村社会の変容:スハルト村落開発政策の光と影』」 [本文] 『地域研究スペクトラム』、6号、112‐115頁、2001年3月。
* 「『味の素事件』の背景」 [本文ドラフト] 『世界』、2001年3月号。
* 「NGOあらかると〜LKiS」 [本文] 『インドネシア・ニュースレター』 30号(1999.3)
発表
* 「インドネシアにおけるイスラーム主義と国民統合の行方」 (東南アジア史学会、於東京大学 2004.6.13)
本発表の目的は、現代インドネシアにおける政治イデオロギーとしてのイスラームと国家の成り立ちがいかに関係しているかを明らかにすることである。具体的には、第一に1970年代以降イスラーム世界全体で見られたイスラーム主義がインドネシアにおいてどのように浸透したのかを明らかにし、第二にそれがスハルト体制後の国民統合にどのような影響を及ぼしているのかを検討する。* 「インドネシアにおけるイスラーム主義と民主化」 (イスラーム地域研究第2班研究会、於上智大学 2002.1.26)
本発表ではまずインドネシアにおけるイスラーム主義の来歴を明らかにする。2001年のバリ島爆弾テロ事件以降、ジャマーア・イスラミヤ(JI)に代表される武装闘争派のイスラーム主義に注目が集まっている。JIは「国際的テロ組織」といわれるが、地域の歴史と深く関わっている。他方でJIは70年代以降インドネシアに浸透してきたイスラーム主義の多様な形態の一部であり、その存在を少数の例外と片づけるわけにはいかない。したがって、本発表ではまず1940年代から西ジャワなど数カ所でイスラーム国家樹立を目指して武力闘争を展開したダルル・イスラーム運動や、政党政治に参加し合法的活動を行ってきたマシュミ党から現代のイスラーム主義への歴史的な継承を辿る。またどのように「グローバル」なイスラーム主義がインドネシアに浸透し、それがどのような現実の運動を伴っているのかを明らかにする。すなわち70年代以降、大学キャンパスを中心に拡大してきた新しいイスラーム主義運動に、ダルル・イスラーム運動やマシュミ党を継承する諸運動が結びついたのが現在インドネシアで台頭しているイスラーム主義運動である。
発表者自身の論文を含めた既存研究が指摘する第一の点を確認したうえで、本発表で特に取り上げるのは第二のイスラーム主義と現代インドネシアの国民統合イデオロギーとの関わりである。スハルト体制下では建国五原則パンチャシラ(の第一項)による宗教多元的な国民統合が公的なイデオロギーとして採用され、イスラームは公認宗教の一つに過ぎなかった。他方のイスラーム主義はイスラームを政治的イデオロギーとして採用し、イスラーム共同体(ウンマ)の発展と拡大、イスラームに基づく社会統合を希求する。本発表ではスハルト体制下におけるイスラーム主義の拡大を概観するとともに、(政治実践的な関係を踏まえた上で)政治的な言説を分析することによってそれがどのように国民統合の論理と対抗ないしは融合してきたのかを明らかにする。さらにスハルト体制が崩壊した98年以降に顕在化しているイスラーム主義運動を具体的事例、すなわち大学キャンパスの運動を基盤に結成され2004年選挙で大躍進した福祉正義党、県や州レベルのイスラーム法執行運動など、によって示す。そして98年以降の国民統合の原理がいかなる変質を遂げ、結論として、それが従来のインドネシア政治の理解枠組みにどのような変更を迫っているのかを明らかにする。* "Emergence of Islamic Left? : Involvement of Young Nahdlatul Ulama in Social Movements in Indonesia" [報告書、英語序章]、(イスラーム地域研究第2班 国際ワークショップ「イスラーム地域における民衆と民衆運動」、於京都外国語大学 2000.11.25-26)
* 「インドネシア民主化におけるナフダトゥル・ウラマーの戦略」 [報告書] 研究会「イスラーム復興―南アジアと東南アジアから」、於京都大学 2000.3.25)
* 「インドネシアにおけるイスラームと社会開発・民主主義」 [報告書] (イスラーム地域研究第2班研究会、於上智大学 2000.2.26)
* 「99年総選挙における『イスラーム政党』の動向」 [レジュメ] (インドネシア総選挙報告会、於京都大学 1999.7.3)
ところで インドネシアってどんな国? 〜ちょいくど、ちょいなが
人口2億人(世界4位)、島の数約1万3千、西から東までほぼアメリカ大陸・ヨーロッパが入るぐらいの大きさ。宗教はイスラームが80%以上。実は世界最高のイスラーム人口を誇る。キリスト教約10%、ヒンズー教(バリ島に集中)、仏教が若干。世界遺産ボルブドゥール遺跡(仏教)、プランバナン遺跡(ヒンズー)がある。歴史的に言えば仏教・ヒンズー文化のあと、イスラーム・西洋キリスト教がやってきた。日本も実はそうだけど様々な文化・宗教がそれぞれ緊張感をはらみつつも基本的には共存している。その多様性が魅力であり、難しさでもある。アメリカ合衆国がそうであるようにこの国を一つに保つというのは非常に大きなプロジェクトだといえる。ウルルンなんとかというテレビ番組にでてくる「未開」の地から全館冷房のジャカルタの高層ビル街まで新旧混在で、ここにもおもしろさと難しさがある。オランウータン(インドネシア語・マレー語で「森の人」)のいる森の横で衛星放送を見ているなんて状況がある。日本の多くのメーカーはインドネシアを重要な市場と考えているだろうし、石油など資源の供給源として不可欠な存在でもある。日本が太平洋戦争で占領したのも資源供給のためだったといわれている。1945年まで3年半の日本軍政支配を受け、初代スカルノ大統領の第三夫人は日本人(そう、あの「世界のデビ夫人」だ!)。インドネシアにくると日本でまったく縁のなかった退役軍人のおじいさんたちとなぜかよく会う。ものすごい辺鄙な島に日本軍の痕跡がある。ここまで来て一体何がしたかったんだ?!と思ってしまう。下の写真のおばちゃんの黄色いカバンはどう流れたか日本の幼稚園児の中古品。援助物資なのか、とんでもないところで日本の中学の体操服をきているおじさんに出会ったりする。「田中」とかゼッケンまでついてたり。いろんなモノから海を超えたつながりが考えるのも楽しい。
スマトラ島サモシールの葬式でどぶろくを売るおばちゃん
ぼくが一年住んでいたのはジャワ島(Java=英語、Jawa=インドネシア語)の真ん中にあるスラカルタ(ソロ)という町。王宮があって、ガムラン、ジャワ舞踊、ワヤン・クリット(影絵劇)などジャワ文化の中心地。観光地だがちょっと地味なので静かなところだ。ジャワ人は外面の美しさと内面の深さ、ぶっちゃけていえばウラで何を考えているかわからん、という日本人(京都人?)にも共通するような規範をもっている。同じインドネシアでもスマトラ島のバッタク人は粗っぽいが情に厚いまったく正反対の性格(九州人?)をしているといわれる。
(1999年4月)
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