論文要旨
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【要旨】
ジャカルタの大手書店やクアラルンプールのムスジド・インディア通りを訪れると、イスラームに関する膨大な書籍の山に出会う。その多くは明るいデザインが表紙を飾っており、必ずしも「宗教書」という重々しい印象を受けない。こうした出版物にはどのような種類があり、いつどこでどのような人々に読まれているのだろうか。そもそもいつ頃から多くの書籍が刊行されるようになったのか。果たしてそれまでのイスラーム出版物と根本的な違いがあるのだろうか。
出版物は市場を流通する「商品」であるがゆえに、生産者(著者や出版社)や流通経路(流通業者や書店)、消費者(読者)を比較的容易に知ることができる。いうまでもなく、出版物の研究は同時代のイスラーム思想や知識を知る上で欠かせない。生産者である著者や翻訳者、編集者はイスラーム思想や知識の源泉となる。多くは中東などで書かれたアラビア語の翻訳や注釈であるので、生産者は文化の仲介者の役割を果たす。もっとも、生産者は同時に「商売人」でもある。消費者のニーズによって生産物の内容も変わってくる。
東南アジアにおいて出版技術が紹介され、イスラーム出版物が出回り始めた19世紀から20世紀初頭にはイスラーム教育機関の教科書や一般向けの読み物として印刷されたキターブ(アラビア文字表記のイスラーム書籍)が流通し始めた。もっともこうした書籍も1000部以上の単位で印刷され広く販売されるようになったのは1960年代以降である。その頃にはすでにマレーシア語やインドネシア語の国語教育が拡大・定着し、ローマ字による表記が一般化しており、ローマ字によるイスラーム書籍も出回り始める。1980年代以降には爆発的にイスラームの書籍の市場が拡大し、イスラームについての書籍が一般書店において大きな位置を占めるようになった。ローマ字表記が圧倒的な主流となるが、イスラーム教育機関やウラマーによる一般向け宗教講座では依然としてキターブが使用されている。
東南アジアの主流(シャーフィイー派)のウラマーたちは中世以前にかかれたイスラーム法学(フィクフ)の古典を参照して法的な解釈や規範を導き出す。したがって多くのキターブがそうした古典の翻訳(perukunan)や注釈(sharh, hasyiah)であった。多くが中東のアラブ人によって書かれたものの輸入であるが、マッカに在住していた東南アジア出身のウラマーによる著作もある。そのなかにはマレー語などのジャウィも少なくない。中部ジャワ北岸や東ジャワのプサントレンでは19世紀末にはすでにアラビア語のテキストをジャワ語で解説する講義が行われていたが、それ以外のプサントレン、またマレー半島やカリマンタン島などではジャウィ表記のマレー語やジャワ語のテキストが使われていた。このため、ジャワ語よりもマレー語のジャウィによるキターブの方がより必要性が高かった。
こうしたキターブは主に東南アジア以外のマッカやイスタンブール、ボンベイなどで印刷されていた。20世紀初頭の段階で存在していたのは中東などで印刷されたキターブを売る書店であった。大半の書籍が中東から輸入されていたためか、イスラーム出版物を扱う書店や出版社のほとんどはアラブ人の商人によって設立された。東南アジアではパタニやバンドゥンなどで先駆的な出版社が設立された。1948年にはバンドゥン(西ジャワ)にアル=マアリフができている。1955年頃まではクルアーンの印刷が主であり、毎月1万部ほどが出荷された。その後、キターブや読み物など数百のタイトルのイスラーム書籍を発行している。宗教書は一般書のように大きな書店で売られるよりも村から村、家から家をまわる行商人によって売られた。設立者のバハルタハは1903年にヨルダン南部に生まれ、1924年にシンガポールに渡り、1930年にメダンでバティック商人としてインドネシアで商売を始めた。その後、チレボンのアブドゥラ・ビン・アフィフが経営する「カイロ書店」で働いたことをきっかけに出版の世界で働くことになり、1950年代にはキターブの売買やクルアーンの印刷販売を手がけていたという。1970年代後半には、これまでジャウィで出版されていたキターブもローマ字表記の書籍として一般の書店で売られるようになる。現在までキターブの出版元として有名なトハ・プートラ・スマランは1978年に『キファヤトゥル・アフヤル』を、ムナラ・クドゥスは1982年に『ファトウル・カリブ』のインドネシア語版(ローマ字表記)を出版している。
インドネシアにおいては、この1970年代後半にイスラーム書籍を専門とした出版社がまずバンドゥンで、その後1980年代にはジャカルタやジョグジャカルタなどで数多く設立された。バンドゥンの出版社プスタカとミザンはいずれも大学キャンパスにおける宗教運動の参加者たちによって設立された。1970年代後半から徐々に拡大した大学キャンパスにおける宗教運動(ダアワ・カンプス)はIAIN(国立イスラーム学院)よりも、一般の大学で顕著に広がった。特にプスタカの場合はこうした宗教運動の担い手を対象に中東のイスラーム国家論や政治理論、思想書などが出版された。他方で、ミザンの出版物はダアワ・カンプスに限らずイスラーム色を高めた都市のいわゆる新中間層をターゲットとしていた。アラビア語よりも英語からの翻訳が多く、神秘主義や宗教に関係のないノウハウ本も多く発行されている。英語からの翻訳は宗教書よりも、アメリカやヨーロッパの大学で訓練を受けた学者による研究書である。神秘主義についてはアル=ガザーリーの著作など従来のキターブがラテン文字で発行されているものも多い。とはいっても現代の都市新中間層が従来のように教団(タレカット)に参加するのではない。彼らにとっては神秘主義も生活に関するノウハウ本もそれほど区別されて読まれていないのではないだろうか。
イスラーム復興は学生や新中間層のみに拡がったわけではない。1980年代にジャカルタで設立された出版社であるグマ・インサニ・プレスやアル=カウサールの主力商品は大衆向けの読み物である。とくに、社会や家庭における女性の役割や性生活について書かれたものなど、女性について書かれた読み物は顕著に市場を拡大している。より包括的な調査が必要であるが、マレーシアでも大衆向けに書かれた生活規範に関する書籍が急速に拡大している印象がある。
新しい出版物の市場の拡大は東南アジアにおける経済発展と同時に進行してきたイスラーム復興のありようをよく示している。直線的に進んできたわけではないが、学生の宗教運動、新中間層、大衆の順に出版市場が拡大してきた。バンドゥンの2つの出版社がキャンパスにおける宗教運動の活動家たちという新しい担い手によって設立されたのも象徴的な出来事であった。しかしながら、イスラーム出版物の内容がこれまでとまったく違う新しいものであるかというと、そうとは限らない。かつてキターブとして発行されていた古典のラテン文字による出版も少なくなく、中東における最新の議論を翻訳・出版するという構造も基本的には同じである。重要なのはそれぞれの出版物が読まれる社会的文脈の変化である。また、バンドゥンのミザンを含め、上で名前を取り上げた4つの新興出版社のうち3つはアラブ系インドネシア人によって設立・経営されている。かつてのイスラーム書店兼出版社のノウハウや人脈が現在まで利用されているのである。ここでは論じきれないが、近年みられる社会現象としてのイスラーム復興、あるいは思想や政治運動としてのやイスラーム主義の来歴について考える上で、イスラーム出版物の推移が大きなヒントになるはずである。
【はじめに】
2001年9月11日にアメリカで起こった同時テロ事件以降の一連の報道において、一方ではアフガニスタンのタリバーンの女性への教育や就労に対する抑圧や偶像礼拝につながるテレビの禁止といった時代錯誤的な側面が強調され、他方ではウサーマ・ビン・ラーディンのメッセージが衛星テレビで流されたり、アル=カイダがテロの直前に株の空売りをして大もうけをしたりといった非常に「モダン」な、あるいは「ポストモダン」ですらあるような話が伝えられている。はたして「イスラム原理主義」は前近代的あるいは反近代的なのか、あるいは「近代」と共存しうるものなのだろうか。
イスラーム研究をみわたせば、実はこうした問題提起はさほど目新しいものではない。そもそも、20世紀以降のイスラーム諸派を「伝統主義」や「近代主義」という基準で大きく区分するのはごく一般的である[1]。現代のいわゆる「イスラム原理主義」の台頭に対しては、例えば中村廣治郎は伝統主義と近代主義の延長上に「原理主義」をおいて、これを「闘う反近代」と規定している[2]。中村は「原理主義」に関するシカゴ大学で行われた「原理主義プロジェクト」の見解を踏襲している。このプロジェクトにおいては「原理主義」は世俗化や宗教の相対化に反抗するが、その反逆に際しては近代の技術や組織を十分に利用する極めて近代的な現象であるとの合意のもと、宗教横断的に比較研究がなされた[3]。臼杵陽はイスラームにおける近代とは、世俗化を前提としたヨーロッパ化および欧米のヘゲモニーに対する異議申し立てであり、「世界史の負の遺産」であるパレスチナ問題がイスラームのヘゲモニーからの「解放」のためのシンボルとなる構造を解説している[4]。
ではなぜイスラームとモダニティについて再び述べる必要があるのだろうか。端的にいえば、9.11以降の状況に東南アジアのイスラーム研究が明確に返答していないからである。
かつての東南アジア地域研究においてイスラームは外在的な、つまりは外からやってきた異質な要素として捉えられがちであった。イスラームは東南アジアの基層にある文化の上から覆い被さった薄皮のように考えられた。ジャワ文化に代表される土着の文化は固有の文化体系を持っており、イスラーム的文化体系とは区別された[5]。いわゆる伝統主義イスラームにおいてはこうした土着の文化とイスラームの混合や混同がなされていると考えられてきた。しかし1980年代以降、ホブズボウムらによってこれまで「伝統的」であると考えられてきたことが実は近代になって新たに創られたものである、という考え方が一般的になると、東南アジアの「イスラーム伝統」に関する研究も見直されるようになった[6]。
世界的なイスラーム復興現象の一部としての東南アジアのイスラームにも目が向けられたが、都市化と穏健な「新中間層」の台頭を背景として、民主的で近代的な「寛容なイスラーム」や「市民的イスラーム」の側面がクローズアップされた。他方で、宗教的な逸脱や他宗教に対して非寛容で暴力的なイスラーム勢力の存在は軽視された。暴力的なイスラーム勢力はしばしば政権に「ねつ造」されたり、体制側の道具として使われたりしたので、中東におけるイスラーム主義運動との連動という側面はあまり重要だと考えられていなかった[7]。したがって、中東からのイスラーム主義の政治思想や運動論の東南アジアへの浸透、および学生による宣教(ダッワ)活動にほとんどの外国人研究者が注意を払わなかった。
こうした状況下でいきなり「国際テロ組織の中心地」などと指摘されれば、東南アジア研究者は慌てるほかない。イスラームの大義のためであろうと積極的に暴力を使用することを容認する勢力は極めて少数派である。したがってことさらにイスラームの暴力性を強調するのは誤りである。しかしバリ島の事件を例に出すまでもなく、東南アジアのイスラームは「本質的に寛容」であるなどとは簡単にいうことはできない。筆者はテロの「犯人探し」をするつもりはないが、インドネシアにおけるイスラーム急進派や「イスラム原理主義」といわれる人たちの存在を少数の例外的存在として片づけるつもりもない。実際にインドネシアでは9.11以降、アメリカ国民への同情よりはむしろ(アフガニスタンへの報復攻撃を理由に)反米意識が急速に高まり、さらに翌2002年10月12日にはバリ島で欧米人を標的にしたと思われる爆弾テロ事件が起こった。バリ島の事件の首謀者ともいわれるアブ・バカール・バアシルはインドネシアにおいて異端視されているわけではなく、彼の入院先には政治家や宗教界の大物が見舞いに訪れている。
少数の急進派であっても近代化、あるいは都市化やグローバル化といった状況の圏外に逃れているわけではなく、むしろ実際におこっていることはその逆である。つまり彼らは現在のインドネシアの状況に拘束された存在であり、インドネシア社会の都市化、グローバル化に対して立ち表れた社会全体の「再イスラーム化」の一部なのである。そこで、さまざまな潮流が存在するインドネシアにおけるイスラーム急進派の位置、さらに現代イスラーム世界におけるインドネシアの位置を、近代化や都市化、グローバル化の文脈から捉え直してみようというのが本稿の目的である。すなわち、イスラームにおけるモダニティについて何か新しい議論をするというよりは、これらの概念をキーワードに具体的な人物や運動の描写を通して、現代インドネシア社会におけるイスラームとモダニティの多様な関係について観察することを目的としている。
なお、本稿ではテロなど暴力行為を想起させる否定的な意味合いが強く誤解を受けやすい「イスラム原理主義」という用語を分析概念として使用せず、さらに分析対象を現代のイスラームに限定し、「イスラーム主義」という概念を使用することにする[8]。またモダニティ(近代性)については、政教分離を前提とした国民国家や議会制民主主義、工業化と都市化に伴う合理主義、また個人主義や人権といったイデオロギーを指標とする。
[1] ここでいう伝統主義とは法解釈にあたって、10世紀頃までに積み上げられてきた四法学派による「伝統」を重視する立場である。「伝統」には、例えば死者への祈祷など見方によってはイスラームの教義に反する行為が含まれる。これに対して、クルアーン(コーラン)とハディース(ムハンマドの言行録)の「純粋な」教義に回帰し、こうした「異端的逸脱(ビドア)」を排除しようという改革運動が繰り返し興ってきた。近代主義イスラームはこうした改革主義の一部であり、伝統主義による法学派への盲従(タクリード)を批判し、クルアーンとハディースに回帰し、近代的諸価値を認めた上で理性によって法解釈(イジュティハード)をする点で近代特有の現象である。
[2] 中村廣治郎『イスラームと近代』岩波書店、1997年。
[3] “Introduction: The Fundamentalism Project: A User’s Guide,” Martin E. Marty and R. Scott Appleby (eds.), Fundamentalism Observed, The Fundamentalism Project, Chicago and London: The University of Chicago Press, 1991.
[4] 臼杵陽『イスラムの近代を読みなおす』毎日新聞社、2001年。この他日本語では以下を参照のこと。大塚和夫『近代・イスラームの人類学』東京大学出版会、2000年。
[5] Cliford Geertz, The Religion of Java, Chicago: The University of Chicago Press, 1960.
[6] とくにインドネシアにおけるイスラームと「伝統」の関係を整理した論考として以下を参照。Martin van Bruinessen, “Traditions for Future: The Reconstruction of Traditionalist Discourse within NU,” in Greg Fealy and Greg Barton (ed.), Nahdlatul Ulama, Traditional Islam and Modernity in Indonesia, Clayton: Monash Asia Institute, 1996, pp. 163-189.
[7] 以下はその典型的な例である。Robert Hefner, Civil Islam: Muslims and Democratization in Indonesia, Princeton: Princeton University Press, 2000. Douglas E. Ramage, Politics in Indonesia: Democracy, Islam and the Ideology of Tolerance, London and New York: Routledge, 1995.
[8]前述の原理主義プロジェクトのように、宗教横断的な比較研究をおこなう上では原理主義という概念は有効だろう。しかしイスラームに研究対象を限定した場合は原理主義という言葉によってむしろ見えなくなるものの方が大きい。原理主義という概念について議論を整理したものとして以下を参照のこと。臼杵陽『原理主義』岩波書店、1999年。
「民主化期におけるイスラーム主義の台頭:インドネシアのダーワ・カンプスと正義党」日本比較政治学会編『現代の宗教と政党−比較のなかのイスラーム』日本比較政治学会年報第四号、早稲田大学出版部、2002年、97‐129頁。
【要旨】
本論文はインドネシアのスハルト体制崩壊後に顕著になったイスラーム政治運動の台頭に注目して、インドネシアのイスラームを比較政治的に分析したものである。インドネシアのイスラームは国内の政治や文化の文脈で分類され、説明されることがほとんどであった。こうした研究は、他地域の研究者には閉じられており、またしばしばインドネシア研究者自身をインドネシアに閉じこめてしまうことになった。もちろん地域の事情を深く知ることは、当該地域でおこっていることを知るために重要なことであるる。本論文の実際の記述もインドネシアにおけるイスラーム主義の台頭にいたる歴史的な文脈およびその現代政治における意義に重点が置かれている。しかし、何がインドネシアに特殊で何が普遍的な現象なのかを見失わないために、さらに他国で同時進行的に起こっている出来事との比較を可能にするために二つの軸をたてた。第一に国家が政策の決定権や公式イデオロギーを独占している状況が崩れ、それらが自由な競争に晒されるという「民主化」の時期における政党政治に注目し、第二にイスラーム世界全体に1970年代後半以降にみられる「イスラーム主義」台頭のインドネシアにおける展開を比較の視点を持ち込みながら分析をした。
イスラーム主義とは、「近代化」における世俗的な開発モデルの失敗、道徳的精神的な喪失感や閉塞感を背景に1970年代以降イスラーム世界全体で起こった「現代におけるイスラーム文明の再確立」を目指す政治的イデオロギーである。イスラーム共同体(ウンマ)の強化と拡大を至上課題とし、つまりはイスラームの宣教とイスラーム法の実行、究極的にはイスラーム法を施行するイスラーム国家の設立を目指す。エジプトのサイード・クトゥブやパキスタンのマウドゥディーなどによってこうした考え方が示され、組織的な活動が行われた。特に1979年のイラン革命以後、イスラーム世界全体にイスラーム主義が拡大した。インドネシアもその例外ではなく、大学キャンパスの宗教運動(ダーワ・カンプス)を中心にイスラーム主義が紹介され、他地域の運動を参考にして同様の組織が形成された。そして1998年のスハルト体制崩壊ともに正義党が結成され、本格的に政治活動をはじめるようになったのである。本論文はこの学生による宗教運動がいかにして拡大し、正義党の結成に至ったか、そしてこのイスラーム主義の台頭がインドネシアの民主化にどのような影響をもたらすのかを分析したものである。
構成は以下のようである。まずインドネシアにおけるイスラーム主義の系譜をたどり、さらに国家との関係からダーワ・カンプスの形成と正義党結党までに至る経緯を概観する。ダーワ・カンプスは政治的に閉塞的な状況下における学生運動の代替的な活動であった。1970年代にスハルト体制の支配が確立し、国家の社会に対する介入が強まった時期にその萌芽が現れている。ダーワ・カンプスは大学を超えるインフォーマルなネットワーク形成を行い、正義党は1950年代に存在した諸政党とは直接の関係がない政党としては唯一1999年の総選挙で100万票以上を獲得した。スハルト時代に築かれたパトロネージではなく、特定のイデオロギーに基づき、水平的な人的・組織的なネットワークを持つ新しい政治主体を形成することに成功したのである。
後半では、正義党とダーワ・カンプスの宗教と政治に対する考え方を考察することによって、インドネシアにおけるイスラーム主義の特徴と民主化における意義を明らかにした。大学を中心としたイスラーム主義は、スハルト体制下では大学周辺で知的な活動や社会活動に特化し、「新秩序」の崩壊に伴う民主化とともに政党として現れた。国家から自律的な存在(「市民社会」)であることを潔しとした彼らの間では民主主義や文民政権、暴力を使わないことが規範となっている。宗教を実社会に役立てようとする理想と、合理的な組織運営を特徴とした。
正義党は既存政党に比較して、宗教教義や社会勢力の違いに基づく党派性に乏しく、党の方針を声明で頻繁に表明するなど透明性が高い。少なくとも既存の政治勢力に比較してより「民主的」な組織運営が行っているといえるだろう。正義党は時に排他的であり、暴力的なイスラーム主義者との関係も考えられる。しかしイスラーム主義が民主化に逆行するような暴力がインドネシアに横行する理由ではない。インドネシアの民主化における最重要な課題は、平和的に政党政治や法律の枠内で紛争を解決するというゲームのルールを整えていくこと、特にエリート間における規範の確立であり、正義党はこうした制度化に寄与しうるのである。
「インドネシアにおけるイスラーム左派と知識人ネットワーク」『東南アジア研究』40−1、2002年、42‐73頁。
【要旨】
本論文では、1990年代以降インドネシアにおいて、学生を中心に登場してきた「イスラーム左派」に焦点を当てた。イスラーム左派は既成のイスラーム団体史の中には収まらないため、新しいアプローチが必要であった。彼らを歴史的な都市知識人の系譜に位置づけ、さらにイデオロギーという視点を持ち込んだ。すなわち、体制側のヘゲモニー下におけるイスラーム知識人のイデオロギー的な抵抗、あるいはスハルト体制崩壊後はヘゲモニーを争うイデオロギーの一つと捉えた。素材の新しさだけではなく、これまでのイスラーム研究とは一線を画すアプローチを試みた。
20世紀初頭以降のインドネシア政治は、イスラーム勢力(サントリ)とジャワ色の強い世俗的ナショナリスト(アバンガンとプリヤイ)との争いを軸に考えられてきた。前者は究極的にはインドネシアをイスラーム法を施行するイスラーム国家にすることを求め、後者は国家五原則のパンチャシラを基礎にイスラームと他の宗教を対等に扱った。スカルノとスハルトが大統領を務めた40年以上の間、後者の世俗的ナショナリストが優位な状況が続いた。スハルト体制でこの傾向は強まり、パンチャシラを基礎としたナショナリズムが独占的な地位(ヘゲモニー)を握った。しかし、このヘゲモニーは崩れた。それでは代替する論理は何か。イスラーム主義と左派思想は代替的なイデオロギーとしてもっとも有力なのである。
イスラーム左派は世俗的な左派と連携したり、その中で活動したりする。しかし、「イスラームであること」を肯定的に捉え、自らの運動をイスラーム的な規範で正当化する。イスラーム左派の歴史的重要性はまさにここにある。彼らは西欧の構造主義的な、あるいは「ポストモダン」なイスラーム学を導入することで、イスラームの聖典の権威をラディカルに問い、転じて土着的大衆的な伝統を正当化する。また、イスラームは国家権力から分離されるべきだと考え、したがって他宗教や世俗の勢力とも広く手を結び、また喜捨などに見られる「社会主義的な」精神を社会の変革に活かしていこうとする。
イスラーム左派はさらに政治的に重要なインプリケーションを含んでいる。それは「存在しないことになっている左派」の復権の可能性である。インドネシアにおいては、1965年9月30日のクーデター未遂事件をきっかけに数十万人の党員やそれと疑われた人々が虐殺された。共産主義はタブーとなり、インドネシア社会党の再興すらも許されなかった。しかし、アジアで最初に共産党が結成されたインドネシアにおいて左派伝統は死滅したわけではない。労働者や農民、学生の運動にはスハルト体制下でも左派的色合いを持つものが存在し、またインテリにおける西欧左派とくに社会民主主義者の影響は脈々と続いている。前述のように、スハルト体制が崩壊すると多くの「左派本」が出版された。政党が自由化されれば、こうした「旧左派」も少なくともいずれかの政党を支持するという形で政治システムの中に再登場してくる。
本論文の構成は以下のようである。まずイスラーム左派とはどういう人物を指し、どういう思想と活動の背景を持つのかを概観し、さらに数人の中心的な活動家を取り上げることで具体的なイスラーム左派の肖像を描き出した。彼らに共通するのは宗教を含む権威への懐疑と政治的経済的な平等主義である。イスラーム左派の肖像を描くにあたっては、彼らを取り囲む人的・組織的なネットワークに注目した。すなわち、彼らは独立前後から存在する都市知識人ネットワークの系譜に位置づけられる。思想的には、西欧の社会民主主義、第三世界で発展したカトリックやイスラームの解放の神学、西欧の手法を用いた北アフリカ出身者による現代イスラーム学、その論拠であるポスト構造主義であった。このうち最後の二つは1990年代のイスラーム左派に特徴的であった。
最後に、インドネシア全体のイスラーム化という状況下におけるイスラーム左派の歴史的な意義を議論した。すなわちスハルト体制下のインドネシア社会においては、草の根レベルのイスラーム化およびイスラーム復興が浸透した。国家はイスラーム政治勢力を骨抜きにしたが、社会規範としてのイスラームの振興は奨励した。かつては敬虔なムスリムは「危険人物」のレッテルを貼られるおそれがあったが、現在では逆にイスラームを熱心に信仰することがよいことであるというイデオロギーが定着した。インドネシアにはもはや世俗主義者は事実上存在しない。ジャワの伝統を規範とするという「アバンガン」であっても、イスラーム的な正統化をときに必要とするのである。イスラーム左派は精神性や土着的要素の強いイスラームを擁護する。土着の文化をイスラームの立場から擁護する運動はこれまで皆無であり、これこそがイスラーム左派の現代的な存在意義なのである。
インドネシアの民主化におけるイスラーム社会運動の役割に関する調査
報告
25日間のインドネシア出張は重要な政治日程と重なった。30年以上続いたスハルト体制崩壊後の「民主化移行期」インドネシアにおけるイスラーム政党と社会運動の役割について見聞する絶好のタイミングであった。
7月23日にアブドゥルラフマン・ワヒド大統領が非常事態宣言を発令したが、国軍・警察の支持を得られず、その日のうちに国民協議会特別会が開催され、ワヒドは解任、メガワティ・スカルノプトリ副大統領が大統領に昇格した。翌24日にジャカルタに到着した報告者はまずワヒドが大統領になるまで15年間議長を務めたナフダトゥル・ウラマー(以下NU)の関係者と、非常事態宣言に支持を表明したNGO・学生運動関係者を中心にインタビューをした。1999年のワヒド大統領選出においては、ワヒドの民族覚醒党以外に、イスラーム諸政党(開発統一党、月星党、国民信託党、正義党)がワヒドを支持した。今回はこのイスラーム諸政党がワヒド降ろしの急先鋒となった。ワヒド政権の二年間、大統領のイスラエルとの外交関係やマルクス・共産主義を禁止する国民協議会決定の破棄などをめぐってイスラーム主義者はワヒドへの反発を強めた。他方で、NGOやキリスト教徒知識人と良好な関係にあったワヒドの後継者たるNUの青年層は、左派の学生運動とともに大統領を支持する側にまわった。(もっとも大統領解任へ事態が向かった直接の理由はワヒドによる各政党出身の大臣の解任とその反発であった。)
スハルト体制は公定のナショナリズム(パンチャシラ)を各政治・社会団体に押しつけ、言論・思想の自由を許さなかった。しかし上からのナショナリズムのヘゲモニーが崩れると、新たなイデオロギー探しが始まった。この3年間で、最も有力な代替的なイデオロギーたるイスラーム主義と左派の出版物は書店にあふれている。さらに「イスラーム左派」や、地域主義とも混合したイスラーム法適用運動が台頭し、複雑な状況になっている。報告者は出版物を収集するとともにそれぞれの活動家や出版社に対する調査を行った。インドネシアの民主化の長期的な見通しを立てるにおいて、かかせない作業であると考えたからである。
まずイスラーム主義であるが、スハルト体制下で禁止されていた雑誌『サビリ』は隔週8万部の売り上げを記録している。『サビリ』は書店では手に入らず、露店やモスクの周りで売られているが、インドネシアで発行されているすべての雑誌の中で少女向けの『ガディス』誌に次ぐ驚異的な売り上げである。『サビリ』の成功にあやかって同様の雑誌が数多く発行されている。中には今まで考えられなかった『イスラーム国家Darul Islam』と題する雑誌もある。
他方で左派の出版物のインパクトも大きい。実際、2001年5月にはイスラーム主義者を中心に、左派系の出版物を回収・焼却するという運動がおこった。チェ・ゲバラやマルクス、レーニンなどに加え国内のタン・マラカなどの社会主義・共産主義者に関するものが目立つ。特にインドネシア共産党(PKI)員であったタン・マラカの著作『MADILOG』(物質主義、弁証法と論理学)は1年あまりで2万冊を超える売り上げを記録していた。チェ・ゲバラはTシャツが売れるなどいわばファッション化したが、南米カトリックの「解放の神学」やグラムシ、デリダなど比較的「地味」な思想を紹介する本も短期間でそれぞれ初版の二千部程度は売り上げており、学生やNGO活動家に幅広い左派思想への関心が見られる。特徴的なのは左派が反宗教的ではなく、むしろイスラームと相容れることを強調する書籍が少なくないことである。タン・マラカのイスラーム性を強調した『MADILOGの中に見られるイスラーム』や、PKI党員ハッサン・リードの自伝『共産主義ムスリム』といった本が発行されている。後者はNUの青年グループによって出版されたが、彼らの一部は1965年の共産党虐殺の被害者家族と和解の運動を始めており、寛容なイスラームの言説を広める大衆向けの冊子を毎週金曜日の集団礼拝向けに4万5千部発行している。
またイスラーム主義者と見られていた学生団体HMI-MPO(注)は共産主義者とも言われる民主人民党(PRD)と『宗教的社会主義:第四の道?』と題する本を発行した(アンソニー・ギデンズの『第三の道』=社民主義に由来)。明らかにイスラーム主義的な『イマームの噴水percikan Imam』誌でも労働者の特集が組まれていた。同誌は「もしイスラーム共同体が労働者に宣教(ダーワ)をしたくなければ、他の勢力の利益になる間違いを犯す」と巻頭に記し、あからさまに左派に対抗する姿勢を示している。少なくとも後者は左派の台頭へ警戒感を示して、イスラーム主義による大衆動員の必要性を訴えている。
南スラウェシ州では5つのプサントレン(イスラーム学校)の他、二つのイスラーム系NGO、さらにイスラーム法執行準備委員会(KPPSI)を訪問した。KPPSIは南スラウェシ州にイスラーム法を執行させるべく運動を展開しており、すでに州議会の全会派の賛成を得て国会に要望を提出している。プサントレンのウラマー(宗教教師)を含め、個別のインタビューではイスラーム関係者でも必ずしもイスラーム法執行について意見は一致しておらず、むしろ刑法の厳罰化や個人の領域と思われることまで宗教が介入することへの反発も大きい。しかし、スハルト体制後の地方分権化の流れの中で、イスラーム法執行は南スラウェシ州の「特別州」化と一つのセットになっており、地方主義や新たな利権の発生も睨んだエリートの支持を得ているようである。またイスラーム法の執行に反対することは反イスラームやPKIの汚名を負うことにもなりかねないので表だった反対はない。
私見では、1950年代以降これまで社会的分裂を彩ってきたアリランと呼ばれる政治・社会・宗教的潮流を越えて、特定のイデオロギーを持つ政党が新しい集合意識を作り出していくことが、民主化の定着に欠かせない歩みである。その点で、イスラーム主義者はすでに一定の成功を収めている。1980年代前半からエジプトのムスリム同胞団をモデルに拡大してきた学生の宗教運動は1998年にムスリム学生行動連盟(KAMMI)として組織化、1999年選挙に参加した正義党は140万以上の票を獲得した。NU青年層を中心とした「イスラーム左派」は都市部では「世俗的」と見られがちな左派学生運動やNGOかなりの部分を占めている。イスラーム主義者のような組織化はなされていないが一部では新たな政党設立の動きもある。NUは東ジャワを中心にした団体であるし、正義党支持者でもジャカルタ周辺部を中心としたジャワ島の都市部に限られている。いずれにしろ、大学やNGOに限らない「大衆」や、ジャワ島外にこうした運動をいかに浸透させていくかが、長期的な民主化の趨勢を左右するだろう。なお、メガワティが大統領に就任した翌日から、左派の学生運動やNUに対する軍や警察の介入が頻発した。紛争解決を議会や明確な法的な枠組みのなかで解決することが民主化定着の条件であることは言うまでもない。
(注):HMI-MPOとは、インドネシア最大のイスラーム系学生団体HMI(インドネシア学生同盟)から分裂した組織。1983年以降、スハルト体制が国家五原則「パンチャシラ」をすべての政治・社会団体の「組織原則」として採用するよう強要し、HMIがこれを受諾したことに反対して分裂した。MPOとは「組織救済委員会Majelis Penyelamat Organisasi」の略称。1950年代のマシュミ党の後継者を自称する月星党幹部の庇護を受けている。