書評: 『インドネシア農村社会の変容:スハルト村落開発政策の光と影』
(セロ・スマルジャン、ケンノン・ブリージール著、中村光男監訳、明石書店、2000年)
『地域研究スペクトラム』6号、112‐115頁、2001年。
本書は、スハルト「開発体制」下の村落で何が起こったのかを知るための格好の入門書である。原題は、Cultural Change in Rural Indonesia: Impact of Developmentであり、スラカルタ(中ジャワ州)のスブラス・マレット大学から出版された。翻訳は中村光男、青木武信、池田寛二、小國和子、奥野克巳、中村緋紗子、水上浩の各氏によって行われた。巻末に周到な索引と用語集があるほか、文中の専門用語もインドネシア語の表記と簡単な説明が挿入されており、初学者にも親切な体裁になっている。
本書は、1989年にインドネシアの3州(アチェ州、南スラウェシ州、ジョクジャカルタ特別州)で行われた村落調査に基づいている。調査は著名な社会学者であるセロ・スマルジャン博士(インドネシア社会科学財団理事長)を中心に、インドネシア人研究者によって行われた。それぞれの州のなかで比較的開発が進んだ村と遅れた村を対象に、「現地での直接観察、(個人ないし集団との)非構造化面接、ドキュメンタリー・リサーチおよび家族のケース・スタディ」(32頁)等の手法を駆使して収集したデータから、中央政府の村落開発プログラムが農村社会にいかなる社会的な影響をもたらしたかを比較検討している。農村の電化、新聞の普及、その他マスメディアの普及、識字率向上、家族福祉運動、家族計画、コメの増産(ビマス・プログラム)、村落協同組合の7つのプログラムが各章で検討され、最後の三章は各州の「家族プロフィール」に割かれている。
序章では、政府のプログラムを村落に適用するにあたって、住民の主体性が成功の鍵であり、計画の実施に責任を負う村落レベルの指導者たちの重要性が指摘される。「インドネシアの村落」と題された第2章では、スハルト体制下の地方行政において「一律」性が強調されたこと、またアダット(慣習法)と国家法の区分、村長職への任期制導入などが説明されるが、これらが村落開発プログラム実施において重要な制度的基礎となることが次第に明らかになる。
本書で繰り返し強調されるのが、村落のフォーマルならびにインフォーマルな指導者の役割の重要性である。マスメディアの普及や識字率向上、家族計画では、プログラム導入の当初インフォーマルな指導者である宗教教師の懸念や警戒が見られた。逆にいえば彼らの容認が「宗教的抵抗を取り除く上で鍵にな」り(142頁)、プログラムの実施に積極的に貢献することもあった。特にアチェでは宗教意識がきわめて高く、アダットの役割も大きかった(イスラーム法とアダットの関係については議論されていない)。いずれのプログラムにおいても村長の役割が重要だが、都市部に近い村落では公務員やその妻たちが活動の中核を担うこともある。彼らはユニフォームを着用し、非公式な権威をさらに作り出した(110頁)。
また組織化の問題に関しても幅広い目配りがなされている。多くのプログラムでは、実施のためのグループが村落レベルで組織された。コメの増産プログラムでは、農民は農事グループ(kelompok tani)からプログラムの目的とそれに伴う新しい農法、クレジットの取得などの情報を得た。こうしたグループは派遣された農業改良普及員と農民の間の「伝達装置」として機能した(160頁)。コメ増産プログラムは、村長の影響力のみが重要であったわけではないという意味でユニークであった。アチェのラワ村のように、交通の便が悪く改良普及員が村にアクセスできなくても、農事グループが自発的に組織された場合もある(192頁)。家族福祉運動においては女性が活動の中心になったが、プログラムの導入以前から下地になるような活動があれば、受け入れは簡単であった(104頁)。この点で、協同組合の事例は興味深い。協同組合は一見「ゴトン・ロヨン」と呼ばれる伝統的な相互扶助システムと適合するように思われるが、ゴトン・ロヨンが村落の社会的なコントロールを目的とするのに対して、協同組合は経済的なニーズに基づかなければならず、両者は必ずしも相容れるものではない。社会的に連帯してきた共同体が経済的な志向を持つためには根本的な変化が必要であり、より開発の進んだ村ではそうした文化変容が見られるという(243頁) 。また、村民によって協同組合と銀行が「国民の父親」たる政府の制度と感じられた場合、ローン返済の義務感は薄くなり、プログラムは失敗する。反対にジョクジャカルタのグルボサリ村では、村民によって政府の制度外で自発的に協同組合が設立され、成功を収めた(230-232頁)。
開発のもたらす変化についても、本書は多くの知見を授けてくれる。政府主導の開発プログラムは、さまざまな文化的・社会的な変容を村落にもたらした。電化とテレビの普及は、村落に外来の文化をもたらし慣習による支配を弱める一方で、夜中でも人々がモスクや屋台に集まることを可能した。これによって近隣・集落の集団意識が高まり、イスラーム化の促進にも貢献したという指摘は興味深い。家族福祉運動は、女性が公の場所に進出するきっかけとなった。これらの影響は、プログラムの実施過程を通して描写されている。
「家族プロフィール」の回答においては、変化に対する村民自身の肯定的・否定的な意見が表明されている。若者のモラル低下が憂慮される一方で、世代や性別を超えたより自由な意見の交換を肯定的に評価する意見が存在する。政府プログラムが村長一族など一部の村民のみの利益になっていると、かなり直接的な批判も浴びせる者もあれば、「貧しい農民ではあるが・・・裕福な人々に嫉妬心をいだくこともない。またよき村民としてその義務を怠ったことがない」などと「優等生」的な回答をする人物もいる。さらには、政府プログラムの存在すら知らない者も決して少なくはない。多様な階層を代表する、こうしたさまざまな発言に、ジェームス・スコットが『弱者の武器』で試みたような現象学的なアプローチを適用することによって、村内の権力関係を分析することも可能になるだろう。
「家族プロフィール」で惜しむべきは、回答者がすべて男性で、かつ高齢者が大多数であることである。個人ではなく家族のプロフィールを描き出すために男性の世帯主が、村の変化を知るために高齢者が選択されたことは理解できるが、女性や若い世代から見た別の「家族プロフィール」もあるはずである。女性の役割の変化とプログラム実施における重要性が本書のいたるところで強調されているだけに、なおさらそう思える。
また、政治を研究する評者にとっては、政府プログラムの実施と政党組織の関係がほとんど描かれていないことも残念であった。唯一、家族福祉運動において、選挙前にゴルカルが料理器具を提供したことが記述されている(104頁)が、その他のプログラムにおいてもより緊密な結びつきがあったと思われる。もっとも、英語で出版されたとはいえ、本書がインドネシア国内でスハルト体制下に出された事情を考慮すれば、政治的な支配構造について体系的な調査報告を行っていないのは止むを得ないことであろう。むしろ、そうした制約下で、地域の事情を軽視した政府の一律的な開発プログラムの押し付けに対して、ときに厳しく批判しつつ、開発の成果を正当に評価しようとの誠実な態度を著者が貫いていることを高く評価したい。
最後に、著者は「日本語版のためのまえがき」のなかで、昨今の経済危機とその影響にも触れている。通貨危機による困難を強調しながらも、村落社会の強い社会的安定性が維持されたことを指摘し、「伝統的な都市と農村の間の社会経済的格差は、村落社会に有利になるような転換点に達するかもしれない」との見通しを示している。著者が触れていないアチェ州の独立をめぐる動きとあわせ、スハルト後のインドネシア村落の行方を判断するにはまだ数年かかるだろう。80歳を超えた著者セロ・スマルジャン氏自身も関与している地方分権プロジェクトの行方にも注目したい。