| 『アナーキー・インじゃぱんすけ 見られてイク女』 '99 国映・新東宝 脚本・監督:瀬々敬久 出演:佐野和宏・佐々木ユメカ・いずみゆきこ・沢田夏子・奈賀毬子・佐藤幹雄・港雄一・諏訪太朗・下元史郎 やっぱり瀬々敬久監督作品は中途半端だ。ピンク映画としてのエロスはそれなりに、一般映画としてのエンターテインメントもそれなりに、作家性もそれなりに。監督の自己満足的な印象がないところが唯一の救いなのだろうが、それでもやっぱり中途半端である。「個性がないのが個性だよ」と言われている様な。 まあ、三池崇史や東映実録路線の様な過剰さを好む僕が、瀬々敬久の一歩引いたシニカルさの様なものをあまり好きになれないのは、仕方ないっちゃあ仕方ない。なんて事を言ったらお終いなのだが。 この作品のテーマをおそらく「大人になれない大人」、つまり、アダルトチルドレン、そして、親子の愛だ。しかも、その親子の愛というものが、昔ながらのそれではなく、自分(親)に対する正当化の為の愛情であり、正に子供じみた我が儘の表れとしての愛情なのだ。とても解り易い。世紀末的な家族の肖像画である。 この作品に登場する大人の全てが、真っ当な生き方をしていない。「真っ当な生き方」とは何か、と問われてしまえば、話は終わってしまうのだが、少なくともこの登場人物達は、セックスとクスリと金の事しか考えていない。その願望の為だったら犯罪だって犯すし、体だって売る。でも、なぜか努力もする。 例えば、子供はゲームで友だちに勝つ為に一生懸命練習する。一方、“普通の”大人は「所詮ゲームでしょ」と練習などしないで諦める。ところが、この作品に登場する大人達は、友人達との稚拙な勝負(ソープ代を賭けた卓球)に勝つ為に一生懸命練習するのだ。単なる子供である。ガキである。 そんな大人達の楽しそうなお遊びの中に、真剣さやら創造性やらが感じられれば良かったのだが、残念な事に単なる“馬鹿馬鹿しさ”しか感じられなかった。そして、いつしかそこには「大人になれない大人」に対するアイロニーが産まれ、全ての大人達は“愚”と化してしまう。妙に大人びた子供だけが勝者であるかの様な感覚。 瀬々敬久は善くも悪くも現代的な監督だ。過去の作品達を上手にリミックスし、オタク的楽しみを取り入れる。更に、映画と自分との距離感を過剰に気にし、自らが作品に取り込まれる事を絶対的に回避する。真剣ではない事を善しとする。 僕が瀬々作品に今一つ心を入れる事が出来ないのは、これが理由だと思う。描きたいテーマや監督の意図はそれなりに伝わってくるのだが、情熱は伝わってこない。伝わってこないと言うよりも、「情熱を伝えないようにしている」という事が伝わってきてしまう。僕が観たいのは監督の熱い情熱なのに! 映画が大好きな僕の知人が「瀬々監督は真面目すぎる」と言っていた。僕は、その意見に全く賛同する。瀬々敬久は映画監督になろうとしているのだ。映画を撮ろうとし過ぎているのだ。映画とかそういうものを忘れて、単なる表現者になれば良いのに。自分の全てを曝け出せば良いのに。 |