目次

『美・少女日記 Part1』 '01 テレビ東京

監督:今関あきよし
脚本:高橋ナツコ・野島瑞樹
出演:松浦亜弥


 独り芝居という名の奇行を繰り返す松浦亜弥が織り成す映像世界は、それはそれは透明感の強すぎる全くの異空間だ。そこには日常のシンボライズとしての「日記」など存在せず、寓話化された彼岸の日常のみが浮遊する。松浦亜弥という現実的な人間の投影は否定され、美少女のイコンとしての松浦が、色のない孤独な世界の中で、不安定で無垢なローティーンの生命を具象化する。
 そして、少女の自己完結性は、客体化され尽くした大人達の穢れを揶揄するかのように暴走する。
 美少女・松浦亜弥が齎すものは、彼女の魅力でもノスタルジーでもない。自己に対する罪悪感だ。相対化する対象のない孤独な彼女の絶対性は、正にその偶像性、つまり、アイドル性として表現出来るであろう。観る者はそのアイドル性によって自らを相対化し、どう足掻いてもイコンにはなり得ない自分に気付いてしまうのだ。しかし、画面の中の彼女は決してアイドルぶる訳ではなく、むしろただの普通の少女として振る舞う。それは、松浦亜弥が高ステージに存在するアイドルなのではなく、観る者と同一のステージに存在しているという事を意味しており、それを感じ取る事によって、観る者は自らの立場を見つめ直し、そして、相対化し、最後に絶望する。矮小な自分の存在に対する罪悪感に苛まれるのだ。イノセントは罪である。

 それにしても、何一つ面白くない。そして、理解出来ない。唯々松浦亜弥という象徴に押し潰されそうになるだけだ。不安だ。

 この作品の中に存在しているのは、現実世界でアイドルとして活躍する松浦亜弥ではない。あたかも等身大の松浦亜弥を描いているような演出ではあるのだが、ここにあるのはパラレルワールドであり、そこにいる松浦亜弥は実在しない。更に言えば、所謂「物語」ともまた違う。この作品の中の世界はフィクションの世界なのではなく、現実世界の裏返しであり、作品の非現実性を楽しむような類いの物ではない。美少女という存在に人間の生命を象徴させ、世界の異なる可能性を示したのがこの『美・少女日記』なのである。『美・少女日記』の中の松浦亜弥は「存在しない」のではなく、「存在したかも知れない」。
 この作品が、決して娯楽として成立していないのは、存在し得ない「現実」を描いているからであり、ここにあるものは虚構ではなく、紛れもなく現実である。しかし、その現実は存在しない。今、皆が生きているこの世界とはねじれの位置にある現実を描いてしまったのだ。そんな世界を誰が理解出来ようか。そんな世界に誰が共感出来ようか。

 例によって、今関あきよしお得意の少女偏愛的なお伽話なのかと思ったら大間違いである。この作品に『アイコ十六歳』のようなほろ苦い青春や『モーニング刑事。』的な娯楽としての完成度を求めてはいけない。ここにあるのは全くの異次元であり、この世界が齎すのは罪悪感と不安だけだ。

 この『美・少女日記』には、こんな感じの訳の分からない観念的な言葉達がお似合いだ。

--
 もはや、Vシネマだけを取り上げようとは思ってもいません。