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『DEAD OR ALIVE FINAL』 '01 大映・東映ビデオ

監督:三池崇史
脚本:石川均 龍一朗 鴨義信
出演:哀川翔 竹内力 テレンス・イン ジョシー・ホー マリア・チェン 小室博義 リチャード・チェン


 これは大変な作品である。もし、この作品の監督が三池崇史ではなかったのであれば、中途半端な作品として酷評するに違いない。と言えるくらいにつまらない作品だ。また、前二作を観ているのであれば更にこの作品のつまらなさは浮き彫りになってくる。なんとも表現し難い哀しい気分にさせられたのは事実である。
 『DOA2』が僕にとってあまり面白く感じられなかったのは、『DOA1』の様な衝撃的なラストシーンがなかったからである。また、『DOA1』のラストがあまりに衝撃的であったからでもある。シリーズものの宿命ではあるのだが、やはり前作との比較はしてしまうのだ。『DOA2』は、落差があった。だからこそ、駄作に感じられてしまったのだ。
 しかし、この『DOA FINAL』を観終わった後では、『DOA2』が駄作ではなかったという事に気付いた。そして、『DOA1』が完璧な作品であったという事にも気付いた。
 ラストシーンだけを抽出してやれば、『DOA FINAL』のそれは『DOA1』にも匹敵するくらいに衝撃的であり、今までにないものである。僕の個人的な意見では、『DOA FINAL』のラストシーンの方がよっぽど物凄い。だがしかし、あのラストシーンだけが浮いてしまっている。そして、あのラストシーン(ラストに繋がる一連のシーン)だけに映画の主題が置かれていしまっているのだ。勿論、ラストだけが物凄い映画でも構わないであろう。でも、そのラストに必然性が無さ過ぎるのである。一切の脚本が不要に感じられる程に、ラストシーンだけが切り離されているのだ。『DOA1』では、その必然性があった。衝撃的なラストシーンが作品全体にマッチしていた。それが、全く感じられないから、『DOA FINAL』のラストシーンが生きてこないのである。

 等という作品に対する言及を拒否する程に明らかな作為のある作品だ。有りがちな物語に、淡白なアクション、義務的に消費される三池的ギミック。何もかもが中途半端である。『DOA1』や『FULL METAL 極道』や『不動』の破壊と創造を同時に行う様な圧倒的なエネルギーは感じられない。かといって、『殺し屋1』の様に、三池的なものを極力排除し、映画的に楽しめるレベルでもない。明らかに意図的だ。明らかに出し惜しみをしている。明らかにつまらない作品を作っている。
 これ程までに三池崇史を妄信するのも良くないのかも知れないが、三池的なギミックを詰め込むだけでも、十分に面白い作品に仕上がる事は証明済みである。でも、今回はそれを捨てたのだ。やはり、こちらとしては色々な意図を詮索してみたくなる、というものだ。

 発信者が受信者に追い付かれた瞬間、発信者は発信者ではなくなる。僕はそう思っている。特に、その情報交換に、「人間を楽しませる」という目的があるのであれば、発信者は受信者よりも前を走っていなければならない。そうでないと、何一つ新しいものは産まれやしないし、何より受信者には過去を遡る作業だけしか許されなくなる。発信者は常に新しいものを創り出さなければならないのだ。これは、発信者の義務である。
 三池崇史は完璧な発信者であろう。これまで、何度も驚かされ、何度も楽しまされた。それはまるで、娯楽というよりも発明を披露されているかの様な感覚だった。時に、先を行き過ぎて、理解されない事もあったのかも知れないが、それでも、少なくとも三池崇史の産み出すものが受信者の範疇にある事はなかった。
 そんな三池崇史が今現在最も重要度が高いであろうこの『DOA FINAL』で駄作を産み出した。否、駄作という表現は間違いだ。受信者の意図しない作品を産み出した。そう、三池崇史はやはり完璧な発信者なのである。余りにも解り易すぎる裏切りではあるが、三池崇史の考えは観客の範疇にはなかった。だから、『DOA FINAL』を観た僕は困惑するのだ。まだまだ三池崇史を理解出来ない。

 三池崇史の中で、今までの“三池的”なものは既に過去のものになってしまった、と考えれば、『殺し屋1』からの一連の流れを理解出来る様な気がする。つまり、「三池的裏切りに対する裏切り」だ。観客が期待する滅茶苦茶な映像を否定し、単純な映像を送りだす。或いは、更にその裏をかいて、子供騙しの領域に足を踏み入れる。兎に角、どんな形でも良いから、観客を裏切るのが三池崇史なのだ。三池崇史は常に破壊的なのである。
 この『DOA FINAL』は『DOA1』を破壊するべく産まれた作品ではなかろうか。この『FINAL』を観る前までは、『DOA2』がその役割を担っていたと思っていたのだが、それも見当違いだった。『2』は面白かったかも…、と僕は思ってしまったのだから。『2』は壊した振りだったのだ。まんまと騙された。

 何一つ僕の思う様に行かない三池崇史。だからこそ、辞められないし、信じてしまう。はっきり言ってしまえば、どうしようもなくつまらないこの『DOA FINAL』なのに、色々な思索を巡らされてしまう。僕は只々三池監督の掌の上で踊っているだけだ。
 この作品の後であれば、どんな作品が出てきても、無条件に裏切りを感じてしまいそうで怖い。ただ、三池的なものとその否定の繰り返しのパターン(『DOA1』→『DOA FINAL』のパターン)が続くのであれば、三池崇史の才能に底を感じてしまう事であろう。

 最後に一言。三池崇史にあまり興味が無い人はこの作品を観ないで下さい。