| 『ドッペルゲンガー』 '02 『ドッペルゲンガー』製作委員会 監督:黒沢清 脚本:古澤健・黒沢清 出演:役所広司・永作博美・ユースケ・サンタマリア・柄本明・ダンカン・戸田昌宏・佐藤仁美・鈴木英介 これは自己と他者のあいだにある決定的な断絶を描く映画だった。 他者の目に映る自分自身ほど、自分が思う自分自身と懸け離れたものはない、ということ。もしかしたら、とんでもなく当たり前のことなのかも知れないけど、誰も気付かない、というか、誰もわざわざ言及しようとしないこと、さらに言い換えれば、とんでもなく稚拙なことを黒沢清は言おうとしているのではないだろうか。「ドッペルゲンガーに会う」ということは、そのとんでもなく稚拙なことに気付くということで、「ドッペルゲンガーに会うと死ぬ」ということは、他人との関係性を失うということなのではないだろうか。 自己と他者のあいだに存在する断絶は、自己の認識する自分と、他者の認識する自分との差違によって形成されるものであるが、それが存在するが故に自己と他者を区別できるわけであり、その区別があるが故に他者とのコミュニケーションというものが成立する。自己の認識する自分と他者の認識する自分との差違を自己内で消化できてしまうと、自己と他者の区別が不可能になり、一切のコミュニケーションが成立しなくなる。つまり、自己の存在そのものが消滅する。それは死である。 作品ないにおいて、分身が自己の認識する自分であり、早崎本人が他人の認識する自分である。永作が自分の弟のドッペルゲンガーに対して「あれは弟なんかじゃない」と言うのがそれを証明する。ドッペルゲンガーはその弟の本来の姿なのである。 コミュニケーションというものが不可欠である人間は、あくまでの他者に支配されて生きているということであり、他者の支配から解放された瞬間に人間は死に至る。ドッペルゲンガーが伝えるのはそういうことではなかろうか。 では、なぜドッペルゲンガーに会った早崎は死なないのか? ということになるのだが、そこに答えを出すのであれば、それは主人公だから。身も蓋もなくなってしまいました。ごめんなさい。 でも、エヴァでシンジ君とアスカがL.C.L.の海に還らなかったように、早崎と永作は最終的に生き残らなければならないわけであり、これはもう仕方ないことなのだ! エヴァを引き合いに出しちゃうくらいに、いかにも90年代以降的なテーマである。若しくは、ひきこもり以降と言っても良いかも知れない。それまで当たり前だと思われていたコミュニケーションの形式(在りし日の日本の姿、みたいなもの)が崩壊し、そこで「本来の姿に戻ろう!」という考え方ではなく、「コミュニケーションとはなんなのか」という考え方を持ち出すと、こういう作品になると思う。 そういう着想自体は、基本的に『アカルイミライ』と同様だと思う。現時点での自分(早崎、『アカルイミライ』のオダギリジョー)とその対極にある存在(本作では分身、『アカルイミライ』では浅野忠信)との関係性を、嫌悪や憧憬やその他諸々のあらゆる“遠慮のない”感情を通して描きながら、後者の消失を切っ掛けとして、自己があらぬ方向(=黒沢清ワールド)に発散して行く、というもの。その“あらぬ方向”というのは、再家族化(家族の破壊と再構築)という言葉で表せる。家族の破壊という行為そのものは、『ドッペルゲンガー』でも『アカルイミライ』でも対象(分身&浅野)によってなされ、そしてそれを切っ掛けとして、新しい家族が構成される。しかも機械をいじくりながらで。これもまた同じ構図。 でも、『アカルミライ』では新家族内でのジェネレーション・ギャップが物語を形成するのに対して、この『ドッペルゲンガー』ではその要素を排除し、あくまでも自己&他者というコミュニケーションの根本へと物語のフォーカスを持って行った。従って、『アカルイミライ』に比べるとより直接的かつ前進的な印象がある。 ただドッペルゲンガーを見ても驚かないような『バカ』として登場するユースケ・サンタマリアの存在がとても妙な感じで、このキャラクターは要するに自己と他者の境界線という概念をそもそも持ち合わせていないわけであり、それはつまりコミュニケーションという概念すらも否定する。そして、その男が作品の中でインディー・ジョーンズ化してしまい、そこにまた妙な象徴を感じてしまう。「監督と観客とのコミュニケーションの手段である映画というメディアにおいて、ハリウッド的エンターテインメント性はコミュニケーションを表現レベルにおいてのみ成立させ、思想やメッセージという側面においては極限まで希薄化させる」ってな感じの『作家主義的視点によるハリウッド批判』みたいなものを象徴するというかなんというか…。 でも、あのインディ・ジョーンズなシーンは間違いなく肯定的にしか観られないような、素晴らしい(素晴らしく馬鹿馬鹿しい)ものだったので、あくまでもその『作家主義的視点によるハリウッド批判』を更に批判するような、そういうものであるとは思う。というか、こんなことを考えてる人はほとんどいないんだろうけど。 というか、よくよく考えてみたら、この映画は単なるエンターテインメントだと思う。『アカルイミライ』まったくもってそれではなかったけど、これは単純に面白い作品だ。それこそ笑えるくらいに面白い作品。ここまでつらつらと書きなぐった、この妄想めいた主題みたいなものを描いてる箇所なんて、本当はないのかも知れない……。 |