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『FULL METAL 極道』 '97 TJC

監督:三池崇史
脚本:江良至
出演:うじきつよし・田口トモロヲ・北村康・大杉漣・シーザー武志


 裏切られ殺された万年三下のヤクザが謎の科学者の手により最強の人造人間へと生まれ変わり復讐する。ロボコップと仁義なき戦いを掛け合わせた、正にVシネマらしい、正にB級の作品だ。しかし、只の際物に収まらないのは、やはり監督三池崇史の類い稀なる才能によるものなのだろうか。

 三池崇史は過剰である。『DEAD OR ALIVE』のオープニングとラスト。『アンドロメディア』のカオス。『オーディション』の不安。『極道黒社会 Rainy Dog』の雨。三池崇史には妥協という概念がない。
 落とし所を知っている監督であれば、拳銃で3、4発撃ち込んで人を殺す。しかし、三池はそれを許さない。徹底的に殺す。心臓を撃ち抜けば済むところなのに頭を切断してしまう。かといって、三池が映画を熟知していない訳ではないだろう。むしろ、映画を誰よりも深く理解しているのではないだろうか。三池は技術的に確立した及第点の作品を撮るつもりは更々なく、ただ観客が喜ぶもの、観客が度胆を抜かれるものを撮りたいのである。映画という夢世界の可能性を限界まで引き出したいのだ。だから、出し惜しみはしない。全てのシーンを徹底する。そして、三池の過剰な演出に観客は確実に魅せられて行く。
 この『FULL METAL 極道』でもそのオーバーディレクションは留まる事を知らない。主人公鋼(はがね)の絶対的な強さと心の弱さ。親友の裏切り。禁断の愛。そんなどこかで何度も観た事があるような設定でも、奇を衒う事なく過剰に演出する。確実性のあるフォーマットの中でも三池の過剰性は充分に発揮されているのだ。ちょっと間違えば吹き出してしまいそうな小道具なども三池の世界では妙に活き活きとしている。それは、ちょうどアメリカンコミックの世界のようでもある。アメコミの設定程、奇想天外なものなく、そこには子供騙しすれすれのギミックが沢山鏤められている。しかし、それらは確実に人々の好奇心をくすぐり、「夢」の部分を触発する。実際、アメコミの映画化はハリウッドで確実に成功する訳であり、正に娯楽の王道とも言えよう。そう、三池崇史は王道なのだ。三池崇史の作品はハリウッドの大作に匹敵するのだ。
 そう言えば、リドリー・スコット監督の『ブラックレイン』でバイクに乗った殺し屋松田優作が刀で頭を切り落とすシーンがある。子供の頃、このシーンを初めて観た時の衝撃を今でも覚えている。漠然とした映画の恐ろしさを味わった瞬間だ。そして、この『FULL METAL 極道』で鋼が行う虐殺。映画の恐ろしさを再認識すると共に、なんとも言えぬ高揚感を感じた。観客の為の映画を熟知した三池崇史に映画とは何たるかを教えられたかのようだ。
 最近のリドリー・スコットと言えば『ハンニバル』なのだろうが、この『ハンニバル』で描かれている異形の存在であるレクター博士のクラリスに対する純愛とヒーロー性は、『FULL METAL 極道』における主人公鋼のそれと符合する。これをリドリー・スコットと三池崇史の共通点として説明する事も出来なくもないが、多少の違和感を覚えざるを得ない。この符合は二人の監督の間にある共通の何かによるものではなく、むしろ映画と言うものの本質に依存するものなのではないだろうか。つまり、観客が求める映像を具現化した結果、似た作品が出来上がってしまったと言う事である。観客の集団無意識というものは確実に存在し、その無意識を映像化すれば観客が喜ぶ作品が出来上がる。映画の本質がその娯楽性にある事を考えれば、このような作品は無条件に賞賛されるべきである。『ハンニバル』の大ヒットはこれを証明した事になるであろう。そして、『FULL METAL 極道』もまたこれを証明する。三池崇史こそが映画監督なのだ。素直に楽しませてもらおうじゃないか。