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『極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU』 '03 オフィスアスク

製作:曽根晴美
監督:三池崇史
脚本:佐藤佐吉
出演:曽根英樹・哀川翔・吉野きみ佳・火野正平・冨田恵子・曽根晴美・川地民夫・木村進・間寛平・加藤雅也・小沢仁志・遠藤憲一・小沢和義・山口祥行・長門裕之・石橋蓮司・丹波哲郎


 これは怖い。そんじょそこらのホラー映画なんかよりも、この異常な映画の方が怖い。それはおそらく、訳の解らないものに対する恐怖とか、未知のものへ対する恐怖とか、そういう抽象的な恐怖であって、決して単純に説明出来る様なものではないのだろう。でも、そこに恐怖があるという事だけは間違いない。理由のない恐怖。対象のない恐怖。それは純粋すぎる恐怖。
 決して、馬鹿馬鹿しい映画などではない。物凄く真直ぐな、物凄く正統派なホラー映画だ。「三池崇史ってすんげえなぁ、ありえねー」みたいな、子供騙しの見せ物小屋を無理矢理楽しむ様な感覚で観てもらっては困る。そんなもんじゃなくて、真正面から観て恐怖を感じられる作品だ。少なくとも三池崇史の演出はそうなっている。お茶らける事も誤魔化す事もない。キャストの豪華さに頼る事もないし、勢いに任せる事もない。でも、異常な作品である事には違いない。

 物語はタイトルの通り、ヤクザが巻き込まれる恐怖。南(曽根英樹)は兄貴分の尾崎(哀川翔)を強く尊敬しているが、組長の指令により、名古屋に存在する“ヤクザ処理場”に尾崎を届けなくてはならなくなった。しかし、その途中、尾崎は失踪してしまう。尾崎を捜索し始める南を待っていたのは、それはそれは恐ろしい…。
 この作品の特筆すべき点は、最後の最後まで全く先が見えてこないところだ。確かに、そういう不安定さを持った作品はよくある。具体的な目的が見えないままにただ物語が進んで行く。時には時間軸すら失われる。でも、そういう作品の多くが、ラストシーンも訳が解らないものであり、つまり、作品そのものが訳が解らない、換言すれば、“意味がない”ものとなってしまっている。しかしながら、この『牛頭』はラストを物凄く綺麗な形でまとめ、何もかもが繋がる。それを観た瞬間のβ-エンドルフィンの放出量たるや、それはそれは測り知れないものだ。途中までは、なんとなく『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』のラインが思い出される作品だったが、ラストの締まりっぷりで、そういう印象が吹き飛んだ。「結局はそれだったのか。やっぱりこれはやくざ映画なんだ」っていう締まりっぷり。

 脚本そのものと、その表現(つまり演出)を楽しむべき、ごく普通の映画だ。脚本の異常さは勿論持ち合わせているが、そればかりが前面に押し出されてしまう訳ではない。異常ながらも物語を楽しむ事が出来るし、異常ながらもそれを必死に映像化している。だから、とてもノーマルな作品である。わざとらしさの様なものはほとんど感じない(でもおそらく三池監督はかなりわざとらしい演出をした筈)。
 ただ一点においてのみ、映画として普通ではない部分がある。それは、ヤクザ映画のメタフィジックスが挟み込まれる点だ。まあ、映画っていうものは多かれ少なかれそういう裏テーマが存在するものだから、これは普通な事ではあるんだけど、そのテーマの鉾先が“ヤクザ映画”であり、そして“三池崇史”である、という点が普通ではないのだ。あくまで表現としての自己内面の露出を行ってきた三池崇史が、この作品では自らの内面の解体にこそテーマを置いたのだ。具体的にそのテーマとは「ヤクザ映画の(三池崇史の)男根信仰」である。そして、それを紐解く手段がホラーであったのだ。
 恐怖をもって、ヤクザ映画(三池崇史の)真実を晒す、という目的を持ちながらも、真実が晒されるという事そのものの恐怖も描かれている。それは、ある種の本末転倒でもあるのだが、この作品で描かれる恐怖も真実も、結局のところ、脚本、つまり、物語を吟味する事でしか感じ取る事は出来ない訳であるから、決して映画としての形がなくなる事はない。観る者は、主人公と共に彷徨い続けて、そして、終着し、安心(快楽)を獲る。本当にシンプルに観られてこそ、理解される作品であるのだ。

『不動』とも『DOA』とも『オーディション』とも違う作品。面白い作品である事には違いないし、突出した要素を持っている事にも違いない。しかし、その要素というものが具体的な“このシーン”とかいうものではない。三池崇史らしいのだけど、最も三池崇史から遠い、そんな感じのものだ。三池崇史を三池崇史から観た映画、みたいな。
 三池崇史のパーソナリティはもちろん発揮されている。如何なく発揮されている。しかし、最終的に見えてくるものは、三池崇史の意志ではなく、解体された三池崇史の構成要素である。もし、先が読める様な物語であったら、三池崇史の意志ばかりが見えてきたのだろう、と思うと、なんとも不思議な作品だ。

 体系的の考えるのならば、これは三池崇史のメタフィジックスである。だから、絶対にその他の作品とは違ってくる。でも、そういう観点ではなく、素直に観てこそ最高の快楽が獲られる、という矛盾も孕んでいる。
 この作品に対する言及は、映画というメディア、映画という芸術そのものにまで拡大するのだ。兎に角、とんでもない作品。