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『光の雨』 '01 シー・アイ・エー エルクインフィニティ 衛星劇場

監督:高橋伴明
脚本:青島武
原作:立松和平
出演:萩原聖人・裕木奈江・山本太郎・池内万作・鳥羽潤・小嶺麗奈・川越美和・塩見三省・大杉漣・高橋かおり・金山一彦・大柴邦彦・一條俊


 一九七二年に起きた連合赤軍事件、初の映画化である。「総括」という名の集団リンチ・殺人事件(法的には確かに殺人である。しかし、彼等にとっての『総括』が倫理的に正しかったのかどうか、それは単なる殺人だったのか、という問題はまた別の話である)が主な題材であり、勿論かつての若松孝二の様な革命万歳賛歌ではない。
 映画の作りは多少複雑だ。立松和平の『光の雨』を映画化しようとする現在の人々の物語と、劇中劇の形を執る事件の物語が融合している。フィクションとドキュメンタリーが別の時間軸で同時進行しているのだ。
 もし、原作を単純に映画化していたのならば、それこそイデオロギーに対する作家の姿勢が如実に表現されてしまうだろう。それはそれで観客にとっても一向に構わない事なのだが、高橋伴明はそれを善しとしなかった。
 『映画芸術』2001年秋号にて、「なぜ原作をそのままやらなかったのか」という問いに対して、高橋伴明は「若い世代とコミット出来る、接点を持てる。過去の話でも同時代性が必要」と答えている。つまり、この作品は決して文学的範疇にある芸術作品ではなく、確実にメッセージを伝えるべき作品、或いは、議題となるべきテーマを提示する作品なのだ。従って、作品どうこうを語られる事は、監督の意図するところではなく、寧ろ、題材そのもの、つまり、連合赤軍事件、総括、そして、学生運動、全共闘というものについて語るべきなのだ。

 では、僕の意見を述べる。
 僕個人的には、共産主義というものをある程度は理解出来る思想であると感じている。確かに、理想主義的すぎるもので、楽観主義以外の何ものでもないかも知れないが、実際に共産主義が軌道に乗ったのであれば、戦争のない世界が実現されるであろう。勿論、世界中の人間が、他人の幸福を平等に願う善人でなければならないのだが。
 そして、その理想郷の実現の手段としての「革命」というものもある程度は理解出来る。階層的な構造を崩す為には、暴力的な手段が必要となるのも確かだ。権力の集中が結果的に格差を産み出す事も確かであり、その権力に抗わない事には社会の変革は実現されない。権力に立ち向かえる手段は、金と暴力である。しかし、金は共産主義の原理に根本的に背くものであり、それ以前に、学生に資本を獲る術はない。短絡的に暴力という手段を選ぶのも仕方の無い事だ。
 思想というものは、どんなものであってもそれなりの正当性を持ち合わせている。共産主義であろうが民族主義であろうが資本主義であろうがどれも同位である。しかし、それらの思想がいざ社会で採用されるとなると、問題となるのが所謂“倫理”というものだ。思想の為に犠牲を産んでも構わないものか、革命の為に死ぬ事は正しい事か、人間という存在に格差があって然るべきか…。
 実際、これらの問題は常に議論されている訳だが、決して簡単に答えの出るものではなく、常に偉い人の意見が採用されたり、最大公約数的な意見が採用されたりするものだ。また、勿論、時代によってそれらの答えは変化し、普遍的に正しい事などない。だからこそ、議論され続けるし、この『光の雨』の様な映画が作られるのだ。

 僕がこの作品内で描かれている「総括」を眼にして思った事は、「前衛とは未熟である」という事だ。前衛であるという事は確かに若者にとってのステイタスにも成り得るし、社会に対する影響力も持つ。そして、何よりその先にある理想が輝かしく見える。しかし、裏を返せば、まだ出てきたばかりでソフィスティケイテッドされていないからこそ、前衛と呼ばれる訳であり、それは単なる未成熟で不確かな思想であるという事でもある。勿論、それ故に若者が前衛に惹かれるのでもあろうが、若者はそこに気付いていない。否、意図的に無視しているのだろうか。とにかく、前衛を正当化する事に必死になるのだ。従って、その思想の正当性を掘り起こすに連れ、色々な穴が見えてきてしまい、初期条件では体制に向けられている前衛にとっての仮想敵は、徐々に自己へと転換されて行く。そして、自己内の矛盾を打ち消すべく、内ゲバが始まるのだ。前衛の持つエゴである。余りに幼稚なエゴだ。
 「総括」そのものが発生したメカニズムは意外と簡単であろう。単なる幼稚なエゴなのだから。コミュニティーを閉鎖する事でパラダイムの絶対性が過剰に強化した結果だ。個人主義が多数派を占める現在の人々にとっては理解に苦しむものだ。しかし、前時代的なムラ社会の中にあった七十年代の若者にとっては、自然だったのかも知れない。ましてや、その先にある美しき理想郷を見据えているのだから、当たり前の事だったのかも知れない。
 また、依存対象を求めて入信する、現在のカルトとはそのシステムが多少異なる。連合赤軍は決してコミュニケーションの場ではなく、やはり革命の為の組織だったのだ。正当性を保つ為に、殺人の様な行為が行われた、という点では同様だが、入り口としての機能が全く異なる。「革命」というキーワードはとても重い。それがお節介だったとしても。

 殺人という行為は否定するが、革命そのものには賛同出来る、というのが僕の本音だ。そして、前衛を妄信しない確実な判断力を持つ事が過ちを犯さない為に必要な事なのではないだろうか。倫理的な話では問題は解決しない。その思想を信じても大丈夫なのか、そこに矛盾はないのだろうか、それを判断する事こそが大切だと思った。


 最後に、ちょっとだけ映画のお話。
 入り組んだ作品の構造は、確かに思想性をぼやけさせる効果を持っていた。観客に意見を強制させない為の有効な手段であっただろう。演出もシンプルで、娯楽性は乏しい。暴力描写も多くあるが、そこに意識を捕られる事もない。とてもニュートラルなテンションで観る事が出来た。映画としては確かに物足りないかも知れない。
 『鬼畜大宴会』は完全に思想を掛け離した。今年封切りの『突入せよ! 「あさま山荘」事件』はおそらく偽善的なヒーローものになりそうだ。そして、この『光る雨』は事実を示し、観客に意見を求めた。さあ、残るは長谷川和彦が撮るであろう連合赤軍だ。一体どうなる事だろう。物凄い事になりそうな……。