| 『回路』 '01 大映・日本テレビ放送網・博報堂・IMAGICA 脚本・監督:黒沢清 出演:加藤晴彦・麻生久美子・小雪・有坂来瞳・松尾政寿・武田真治・風吹ジュン・菅田俊・哀川翔・役所広司 雑誌『広告批評』の二千一年五月号・特集「日本映画を面白くする7人 PART2」のインタビューにおいて、黒沢清は「もうこれ(回路)で、しばらくこのジャンルから遠ざかりたい」と発言している。確かにこの『回路』は、これまで黒沢清が撮ってきたホラー映画とは一線を画するものとなっている。確かに「集大成」という言葉が似合う。しかし、だからと言って、それまでの作品のテーマを引き摺っている訳ではなく、むしろ黒沢清の作品群の中では異彩を放っているのがこの『回路』だ。 以前、『囁く怨霊』というVシネマ作品のレビューでも述べたのだが、日本のホラー作品の多くは、私怨によって成立している。従って、その恐怖が関係者以外に降り掛かる事もなく、ましてや、その恐怖が人類全体に拡がる事などなかった。キリスト教を代表とする宗教的な倫理観が日本においては根付いていないという事実、そして、その倫理観から齎される人間(生)対悪魔(死)という構造が成立しないという事実から、人類に危機を齎す霊的存在を認める事が出来なかったのである。 しかし、この『回路』では、その前提を覆す。しかも、そこに宗教的な倫理観を持ち出した訳ではなく、あくまで日本の社会に照らし合わせて。ここには私怨も存在しないが、倫理観も存在しない。今までにない恐怖と絶望がここにあるのだ。 言うなれば、黒沢清の持つ「死」に対する恐怖のみによって構成されるこの人類の危機。この余りにもエゴイスティックな恐怖は、体験した事のない不安を与えるに十分である。誰かがこの作品を指して「デイ・オブ・ザ・デッドのようだ」と称していた。確かにその通りである。しかし、『デイ・オブ・ザ・デッド』を日本という特殊な舞台で成立させたという点において、この『回路』にはそれ以上の恐怖を感じる。それは、あってはならない事が起きてしまう事に対する恐怖のようなものなのか。 恐怖や死の扱いだけではなく、演出においてもこの『回路』は集大成と言える作品である。例えば、幽霊であろう存在の表現。どちらかと言えば、幽霊は曖昧な存在である。その存在そのものも曖昧であれば、その姿も曖昧であるはずだ。しかし、この作品の中で描かれる幽霊は決して曖昧ではなく、はっきりと存在している。そして、はっきりと消滅する。それはまるで、デジタル化された 0/1 で表現された幽霊であるかのように。そして、その幽霊の媒介となるインターネットとの関連を大きく示唆するのだ。 また、VFX を駆使した幽霊も登場するのだが、こちらは何故だかぼんやりとしている。デジタルで処理された幽霊が曖昧で、実存するであろう幽霊の方が曖昧ではないというこのパラドックスに、得体の知れない“何か”を感じざるを得ない。 この『回路』は黒沢清が初めて描いた本物のホラー作品であるかのような気がする。恐怖とは、「死」である、という根源的なテーマを描いたのだ。そして、「死」は全人類に対して平等であるという事を伝えている。この作品は“私怨”で構成される物語ではなく、“恐怖”を描いた一つの世界なのだ。 |