| 『日本抗争列島 牙の如く』 '01 大映 監督:伊藤秀裕 原案・脚本:武知鎮典 出演:木村一八・小沢仁志・菅原文太・室田日出男・哀川翔・山田辰夫・岸本祐二・小林滋央・シーザー武志 広域組織の実子としてエリートの道を突き進む木村一八。九州の片田舎で貧乏ヤクザを率いる小沢仁志。この立場の全く異なる二人の極道が繰り広げる凄惨な殺し合いなのだが、「サラブレッドVS叩き上げ」という解り易い図式はこの中にない。ここにあるのは、生まれながらにして殺し屋、真の武闘派極道である二人にしか解り合う事の出来ない「生きる」そして「殺す」という概念の形なのだ。善も悪も、敵も味方もない、殺して生きる道なのだ。 物語は木村一八を中心に始まる。この男を中心とした群集劇の様相を呈している。観る者は誰しもがこのエリートヤクザに感情移入し、この男のサヴァイヴを望む事であろう。そして、“敵”である小沢仁志の死を望む。 しかし、物語が中盤に移行するに連れ、なにやら雲行きが怪しくなってくる。画面に登場するのは木村ではなく小沢ばかり。そして、いつしか、自らの「生」を謳歌する小沢に木村の影を感じ、同調し、二人を重ね合わせてしまうのだ。ここで、気が付く。この二人は双子なのだと。生きる為に殺し、殺す為に生きる。殺し屋という常人には想像もつかない世界に身を置く二人を全く同じものとして認識し、そして、ある種の憧憬を寄せるのだ。 敵も味方もない筈だった殺し屋だけの世界は、生にしがみつこうとする常人によって終結を余儀無くされ、双子は互いに死を与え合う事となり、世界も常軌に復帰する。これ程までに、物語の終末を喜ばしく思わなかった事はない。僕にとっての狂気であるこの双子をいついつまでも眺めていたかった。 東映実録路線の登場によってそれまでの仁侠映画に終止符が打たれ、より人間臭い極道達が織り成す穢れきった仁侠道こそが主流となった。筋を通す事が必須である筈の仁侠という社会なのに、誰一人筋を通す人間がいなかったりもした。しかし、その「現実感」こそが実録路線のヒットの要因でもあり、また、時代劇的な勧善懲悪を否定するところが、実録路線の存在意義でもあった。それは単に暴力的な描写についてだけではない。例えば、女に対する扱いについても言える事である。 現在のヤクザ映画は実録路線の影響を確実に受けている筈である。ところが、それも暴力的な描写についてが殆どであり、人物の描き方については、何故か実録路線以前の鶴田浩二や高倉健の時代の様に、様式美的な勧善懲悪が復活している。主人公は絶対に裏切る事はないし、女を犯す事もない。どんな事があっても筋を通す。 この『日本抗争列島 牙の如く』も様式美的な物語であったし、三人目の位置で物語を壊す事も出来たであろう哀川翔ですら、義理に生きた。更に言えば、その他の登場人物の中にも裏切りを見せる者はいなかったし、女を犯す者もいなかった。物足りない。人間が美しすぎる。 勿論、この様な美しさが悪いとまでは言わないし、この美しさを期待している側面もある。しかし、やはり物足りないのだ。『仁義なき戦い』シリーズ山守・槇原ラインの様な決定的な穢さを持った人間を知ってしまっている観客にとっては物足りないのだ。 仁侠映画は人間ドラマである。観客にそのパーソナリティーを完全に見破られてしまう様なキャラクターばかりで物語が構成されたのならば、全てが予想通りに運んでしまい、その作品が面白くなる筈はない。観客は理解出来ない程に未完成で人間臭いキャラクターを望んでいる。 この作品における二人の主人公は、生まれながらにしての殺し屋という点では、観客の理解の範疇を超える者であったが、そのベクトルは人間臭さではなく寓話の方向へと向いている。そして、予想通りの終末によって、作品の全てが寓話へと変換された。もし、信じられない様なラスト・シーンが用意されていたのであれば、ヤクザ映画の新しい方向性が見えたのかも知れない。 |