| 『凶気の桜』 '02 『凶気の桜』製作委員会 監督:薗田賢次 脚本:丸山昇一 出演:窪塚洋介 ・原田芳雄・江口洋介 ・高橋マリ子・RIKIYA・須藤元気・成瀬正孝・峰岸徹・菅田俊・本田博太郎 暴力には必ずそこに至るだけの理由が必要である。その理由を描いてこそ、暴力を振るう側の視点で暴力を描く事が出来る。暴力に至る理由が描かれていないのならば、観客にとってその暴力は恐怖として認識される。従って、暴力を振るわれる側の視点ででしか暴力を描く事が出来ない。 この作品の決定的な欠陥は、暴力に至る理由付けを明確にしていないところだ。確かに“イデオロギー”或いは“ナショナリズム”というキーワードで暴力を正当化してはいる。しかし、それが成立するのも残念ながらテロリズムにおいてのみである。明確な対象を据えた暴力には、因果関係が必須だ。この作品では明確な対象(渋谷の街にいる若者達)に対する暴力を描いているにも関わらず、その理由付けがほとんどされていない。この“ネオ・トージョー”の三人組が、得体も知れないモンスターやシリアル・キラーであれば、ホラー映画として『凶気の桜』を捉える事が出来たのだが、残念ながら彼等三人も単なる渋谷の若者に過ぎない。無駄な暴力描写が暴力という美学を傷つけてしまった。 この作品に、右傾化する若者達に対する揶揄を含んだ斜視を向ける事は間違いである。窪塚君は悪くない。だって、そもそも映画ってものは荒唐無稽であるべきだし、訳が解らないくらいでちょうどいいものなのだ。そして、それをわざとやっているよりも、本気でやっている方が面白いのも自明であろう。だから、この作品の“イデオロギー”は決して笑われる様なものではなく、充分に面白いものだと思う。ただ、映画としては未熟である事には違いない。 未熟である理由は、先程述べた暴力の理由付けを描いていない点。ステーキ屋で下品に騒ぎまくり、周りに迷惑をかけいるのにお構いなしの若者達にネオ・トージョーが鉄拳制裁を加えるシーンがあるのだが、これにはかなりスカッとさせられる。それはやはり暴力に至る経緯を明確に描き、ロジカルな思考の下に暴力を認識出来るからであろう。しかし、その他の路上で行われる暴力に関しては、ロジカルに捉えられる事が出来ないので、観ていて胸くそが悪くなってくる。残念な事に「適当にヤクザ映画を真似てみました」っていうくらいの雰囲気なのだ。そんなもの、ヤクザ映画じゃねえよ。ヤクザは理由があるから戦争するんだよ。 そして、この作品が未熟な次の理由は、窪塚君があまり強そうに見えない点だ。これは窪塚君だけではなくて、その他全員に言える事なのだが、アクションが全然出来ていない。力強く殴る事こそが最高の暴力である、という大前提を全く理解していない。あんな痩せ細った体でどんなに良い角度でパンチを入れられても効かないだろう。RIKIYAならぬ力也のパンチをもっとよく勉強しなさい。 そして、未熟な理由その3。それは、ヤクザが余りにも弱々しく描かれている点だ。物語は結局ヤクザに若者達が利用されている、という方向へ向かっていうのに、肝心のヤクザの強烈さが全然描かれない。まぁ親分クラスの落ち着きっぷりは良いとしよう。でも、若頭クラスの血の気をもっと描かないと。菅田俊がチョロッと出ているのだけど、台詞もないし立ち回りもない。これじゃぁ、ダメ。狂ったヤクザを出しあげないと、主人公達がヤクザに利用されている事への説明が出来ない。単に、若者は馬鹿だ、で済ませても良いのなら、それでもいいんだろうけど、それじゃぁ主人公達が余りにも可哀想だ。イデオロギーもクソもあったもんじゃないよ。描きたい事がしっかりとあるんだから、もっとちゃんと全てを説明しないと。 あと、ついでに。窪塚君が木の上の方から飛び下り、敵にキックを入れるのを見た子供が「V3(仮面ライダーの)だ!」と言うシーンがある。この飛び下りるシーンで窪塚君は唐突にV3になる。まぁ、それは良い。でも、子供に「V3」だなんていう古すぎる発想をさせてはいけない。「アギトだ!」もしくは「クウガだ!」が正解。で、それに対して窪塚君が「V3だよ!」と叫ぶ。 更に、音楽に演歌を積極的に使って欲しかった。 窪塚君の右傾化を小馬鹿にするのは、全くもって寒々しい。そういう事ではなくて、映画的なディテールが問題となる作品だ。違う監督で、違う方法で撮ったのであれば、もっと右傾化が強かったとしても、笑う事などある訳もなく、充分に楽しめる作品であった筈だ。 |