| 『OLの愛汁 ラブジュース』 '99 国映 監督:田尻裕司 脚本:武田浩介 出演:久保田あづみ・佐藤幹雄・林由美香・澤山雄史・コマツユカ 28歳のOLと20歳の大学生のごくごく日常的なラブストーリー。映画的、劇的な展開は一切なく、単調に単純にセックスの日々が繰り広げられる。日常的であるので、セックスは夜中。日常的であるので、セックスは部屋で行われる。ともすれば、観る者の性生活ともダブってしまうくらいに日常的で、自分の秘め事を覗かれているような恥ずかしさすらを感じる。 何に対しても冷静であろうとし、「俺は人間関係のリセットボタンを持っている」なんて事をも口走ってしまう厭世的な若い男に入れ込み、奉仕を繰り返す年増女。そんな図式の上に成り立っている作品。表面だけをなぞれば、「どんな事でもしてくれる都合の良い女」にも見えるが、本当のところはその逆なのだろう。そもそもが、ここに描かれる女性の描写が監督、或いは、脚本家という男性の視点によるものであるから、決して女性の本音ではない。男性が感じる女性の心理をここに表現しているだけであり、女性そのものでは有り得ない。 まぁ映画であればどんな作品でもそういう要素はあるのだが、映画的なフィクション性によって、それを忘れる事が出来る。しかし、この作品は過剰なまでの日常性を持ち合わせているが故に、登場人物の言動があたかもリアリティーの上に成立しているかの様な錯覚に陥る。だから、年増女は愛に飢えた都合の良い女に見え、若い男の恥ずかし気もない厭世も現実味を帯びる。でも、それはやっぱり錯覚でしかなく、あくまで制作者の主観でしかない、願望にも近い表現でしかない。 「セックスする時に泣きそうな顔をする男が愛おしくて抱き締めたくなる」という台詞とか、アナルを執拗に攻め手コキで発射させるとか、そういうある種の母性的な愛情表現が、そのまま年増女の魅力であるかの様に描かれる。しかし、それがおそらく幾らかの打算の上に行われる行為であろう事が多少なりとも伝わってくる。それがこの作品の隙でもあり魅力でもあると思う。あくまで日常的に展開されつつも、それが虚構である事がなんとなく描かれてしまっている。決して作為的な表現ではなく、日常的であるからこそ、日常的な猜疑心が観る者にも産まれるのだ。 だから、そういう意味でも、年増女が若い男よりも優位でないと困る。それが真理でないと、この現実が、この日常が、余りにも平等ではなくなるのだ。それは、単純に男性優位という不平等ではなくて、表現者こそが世界の真実を描く、という不平等でもある。表現者が日常こそを描くのであれば、彼等の存在意義を見い出す事は難しすぎる。それを支持すると、生きる事こそが真の表現となり、故意の表現行動全てが否定される事となる。表現は非日常である必要があるのだ。だから、この作品における日常は完璧な嘘である必要があるのだ。 映画が日常的であってはいけないのは、日常を描くのに現実を超える事が出来ないからだと思う。現実より面白い日常などない。 この作品は映画という非日常をギリギリまで現実という日常に近付けている。だからこそ、観る者に羞恥を与え、猜疑心を産ませる。そして、観る者はこの作品に対して、「映画は嘘だ」という回答を出すのだ。そうしないと表現と観る者の関係性は破綻する。 こんな雰囲気で、幾つもの矛盾を自らに感じながらも、どうにかこうに頑張って解釈するのがこの作品なんだと思う。現実と映画の距離感が一瞬でも崩れそうになった事で、この作品の衝撃度は相当なものだ。 |