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『ポルノスター』 '98 リトル・モア

脚本・監督:豊田利晃
出演:千原浩史・鬼丸・緒沢凛・広田レオナ・杉本哲太・麿赤児


 フィジーに行きたい。フィジーに行って、グランド・サマー・オブ・ラヴを体験したい。最初で最後の朝日をこの目に焼き付けたい。
 緒沢凛演じるアリスがこんな欲望を吐露した瞬間に、この映画はラスト・シーンを迎えるべきであった。このシーンの後、一時間近く延々と続く暴力描写ははっきり言って、意味がない。ラスト・シーンになるべく撮られたはずのシーンが際限なく繰り返されるだけだ。後半の失速感と言ったら、目を覆わんばかりのものだった。

 ヤクザを無意味に憎む狂った若者やヤクザを信用しないヤクザ予備軍、そして、余りにも日常的な渋谷という街。これらの題材は確かに面白い。また、主演の千原浩史と鬼丸もこの世界観に驚く程にハマっている。決してつまらないという烙印を押されるべき作品ではない。しかし、この作品が初監督作品となる豊田利晃監督に対して、100分間の緊張の持続を求める事は無理な話であり、物語の収束から遠ざかるばかりで、終着点を探し求める様な後半30分は、観る者に心配を与える程であった。どことなく、初々しさを感じる様な演出は、着眼点を変えれば楽しめるものでもあるのだが、実際問題としての素人臭さは拭えない。惜しい、という表現こそがしっくりくるものだ。
 例えば、寺山修司の『田園に死す』や、或いは、堤幸彦の『ケイゾク/映画』のように、後半部分を非現実的な白昼夢の世界に割く事で、全体のバランスを意図的に狂わせる作品もある。これらの作品では、観終わった時の印象が完全に後半部分のカオスに対する印象に置き換えられ、予想を裏切られる快感の様な感情を残す効果がある。また、物語を放棄する事によって、作品としての“面白さ”が有耶無耶にされる。解り易さを持った“不可解さ”は、解り易い結果を産み出すのであり、それは意図的であるに違いない。
 この『ポルノスター』では、後半部分に白昼夢を持ち出す事なく、正面から物語の収束に向かったのではあるが、広げた風呂敷を畳み込む事が出来ず仕舞いで、単なる暴力描写に依存した。前半部分でも十二分に描かれていた暴力をわざわざ反復する事に、それ程の面白味を感じる事が出来なかった。また、中途半端に挿入される幻想的なシーンにも、必然性が感じられないのは当たり前で、かといって、解り易さを持った“不可解さ”でもなかった。
 この後半の無駄は、裏を返せば、全てのシーンで物語を終焉させる事が出来たという事でもあり、その点を考えれば、確かに全てのシーンが妙に象徴的であった。しかし、そんなシーンの連続だと、本当のラスト・シーンのインパクトが薄れる事は間違いなく、観終わった後には物足りなさだけが浮き彫りになってしまう。

 フィジーに行きたい。フィジーに行って、グランド・サマー・オブ・ラヴを体験したい。最初で最後の朝日をこの目に焼き付けたい。
 やはり、このセリフ程の象徴的な言葉やシーンは最後まで登場しなかった。この映画は100分間も必要無い。60分で十分だ。