| 『囁く怨霊』 '01 アートポート 監督:渋谷和行 脚本:新田隆男 出演:三輪ひとみ・堀越のり・日向なおこ・児島美ゆき・五代高之 『トイレの花子さん』や『学校の怪談』といった都市伝説を扱った日本のホラー作品がブームとなったのは、1995年辺りからの話。これらの作品は突然変異的にブームになった訳ではなく、正に都市伝説的、つまり、世代を超えて、小学生達の間で実しやかに囁かれ続けた「恐い話」が、全国的に拡がり、遂にはオーラルコミュニケーションからマスコミュニケーションへとそのメディアが移行した結果なのである。 やはり、このようなブームが成立してしまう日本という国の文化(この場合では、映画を指している)は、アメリカ的なエンターテインメント志向とは一線を画するものであり、特にこのホラー映画というジャンルではその傾向が色濃く出ている。 アメリカ的とは、つまり、キリスト教的である、と言っても過言ではないだろう。キリスト教文化圏でのホラー映画は、キリスト教の倫理観の上に成り立っているものが多く、その構造は「人間対非人間」に集約される。また、同時に「生きている人間対死んでいるもの」という構造も多用される。これらの対立構造の示すところは、人間という存在の絶対化と、人間以外の存在の人間に対する服従の正当性だ。常に人間こそが正しく、神は人間の側に立つものであり、悪魔は非人間の象徴であり、それは絶対に人間に対して禍いを齎すものである、という単純な構造なのだ。そして、その構造が個人的な感情に左右されるケースは少なく、「生きている人間」という大きな集団の“善”こそが謳われている。 一方、日本のホラー映画では、その構造が大きく異なる。分かり易い例は「四谷怪談」であり、そこにあるのは私怨であって、決して宗教的な倫理観ではない。非人間が人間という存在全体と対立する事は少なく、あくまで個人的な感情に因る物語が展開されるのだ。ここでは、「人間対非人間」の構造は否定され、「個人対個人」の構造が存在する。そして、その個人の一方が非人間、もしくは、死んでいる人間である。日本の場合、パラダイムとして共有された倫理観の下にホラーが成立するのではないのだ。 私怨によって成り立っている日本のホラーは、民俗伝承的な寓話の切り取りという側面が強い。その物語が登場人物以外の人間に影響する事も無いし、それが何かの象徴となる事も無い。観客は他人の恐怖、他人の感情を傍観する事しか許されないのである。 この『囁く怨霊』も私怨によって構成されたホラー映画だ。「幽霊」という「個人」に悩まされる登場人物達は、余りにも可哀相だが、所詮他人事だ。僕はただ傍観するしか無い。 いや、本当はそんなことはどうでも良くって、主人公の三輪ひとみがとても素晴らしくて、とても好きだ、大好きだ。 参考:三輪ひとみオフィシャルサイト(本人作成) |