| 『修羅がゆく』 '95 東映 脚本・監督:和泉聖治 原作:川辺優・山口正人(劇画) 出演:哀川翔・大和武士・松田勝・菅原文太・萩原流行 記念碑的作品『仁義なき戦い』の冒頭のシーン。混沌とした闇市の中、土居組愚連隊隊長若杉(梅宮辰夫)は、土居組のシマを荒らしていた上田(伊吹吾郎)の左腕を日本刀で斬り落とす。 全てがここから始まった。 僕にとってのヤクザ映画の原体験はこのシーンに集約される。日本刀で腕を斬り落とす。これこそがヤクザの恐ろしさであり、厳しさなのだ。想像することすら難しい過酷な世界に生きる侠達に、現実化出来ない僕の中の暴力性は駆り立てられ、その夢の世界へ没頭する。理想とは、現実化出来ないもの。僕の中の理想がこのヤクザ映画の中に存在するのだ。 親殺しの濡れ衣を着せられ、大阪から横浜へと逃亡していた本郷組。本郷組組長本郷(哀川翔)の潜伏していた宿に殴り込む岸田組組長伊能(萩原流行)の手下達。本郷は兵隊共をバッタバッタと斬り倒す。兵隊の手首をいとも簡単に斬り落とす。 正に、平成の仁義なき戦い。後に13作にも渡る大サーガへと拡がる『修羅がゆく』シリーズの歴史的第一作である。物語を完結させずに、歴史の切り取りで終わらせるところなどは、正にサーガと呼ぶに相応しく、拡がる世界に期待せざるを得ない。 確かに、サーガの第一作目としては十分すぎる出来である。しかし、一本の作品としては、残念だが消化不良に終わっている。キャラクター紹介、背景紹介に徹底するあまり、ヤクザ映画のコアである義理・人情・裏切り・復讐という部分が蔑ろにされてしまい、それを期待してヤクザ映画を観る者は拍子抜けしてしまう。 物語としては確かに失敗だったかも知れないが、登場人物達のキャラクターは既に確立されている。究極の悪玉・萩原流行、最後の狂犬・大和武士、そして、真の仁侠、時代の革命児・哀川翔。これだけの狂った人間を集めれば、それはそれは狂った作品が出来上がるに決まっている。ところが、この一作目ではその類い稀なるタレントが物語の中で活き活きと動き回る事が出来ずに、唯々衝突する。必然性の希薄なストーリーは人物の個性を消化する事が出来ない。それぞれのキャラクターの強さが物語を喰ってしまったのだ。 しかし、このキャラクターは二作目以降、華麗なるフュージョンを見せる事となる。そして、拡がる世界は更なるタレントを飲み込み、サーガは完成されて行くのだ。 さあ、コマは揃った。とんでもない闘いが始まるぞ。 |