| 『修羅がゆく13/完結篇』 '00 東映 監督:小澤啓一 脚本:井上鉄勇 原作:川辺優・山口正人(劇画) 出演:哀川翔・小西博之・松田優・大和武士・渡辺裕之・安岡力也・萩原流行 和泉聖治監督で始まった『修羅がゆく』シリーズも第六作の『修羅がゆく6/東北激闘篇』より監督を小澤啓一にバトンタッチし、そして、遂にこの第十三作目にて完結。当初は平成の『仁義なき戦い』と呼ばれる事の多かったこのシリーズであるが、結果として、全くベクトルの異なるものとなった。この完結篇のラストシーンは正に仁義シリーズとの違いをまざまざと見せつけるかのようだ。 仁義シリーズの根底には“実録”というキーワードが常に存在し、物語の中に潜む過剰な人間臭さがその魅力であり、また鼻に付く部分でもある。虚構の中のヒーロー性や勧善懲悪を善しとしない“実録”というキーワードが、フィクションの成立を拒むのである。しかし、全てが真実であるはずもなく、フィクションとノンフィクションの間に産まれる軋轢がシリーズ全体のバランスを崩すのだ。思い通りに行かない物語に心地よい裏切りを感じ取る事も出来るのだが、同時に苛立ちも感じてしまう。 一方、この『修羅がゆく』シリーズは完全なフィクションであり、解り易いヒーロー性と勧善懲悪のみによって構成される、とても安心感のある作品群だ。そして、かつての東映実録路線の方法論を表現方法の領域においてのみ採用し、バイオレントなアクション描写がアクセントとして効果を為している。ともすれば単なるマンネリズムに陥るかも知れない世界観なのだが、過剰な表現がそれを阻止しているのだ。 予定調和の世界を永遠に続かせる事が出来ないのは当たり前である。いつか終わりが来るのだ。そして、その終わりがこのシリーズ十三作目『修羅がゆく13/完結篇』である。 『仁義なき戦い』五部作の完結篇のラストシーンは、物語の終決を意味するものではなかった。シリーズ全体のやり方である物語の切り取りそのままであった。その後の展開を期待する事も勿論可能であったが、第四作の頂上決戦が本来の完結篇であったという事を考えると、どこか無理矢理な印象を覚えてしまう事も確かだ。つまり、仁義シリーズは終わっていないのであり、終決を拒否したのだ。 『修羅がゆく』シリーズは違う。元々「伊能の命(タマ)を取る」という物語の目的が明確化されており、それの実現で物語を決着させる事が出来た。そして、この完結篇にて、その目的をとんでもなく過剰な表現で果たしたのだ。いつまでも続けられたであろう心地よい予定調和を放棄してまでも、決着の道を選んだ事には大きな評価を与えるべきであろう。あのラストシーンを眼にすれば、全てを納得できるはずだ。 勿論、本郷は伊能の命(タマ)を取った。誰ひとり救われない絶望的で壮絶なラストシーンを観る為だけに全十三作の大サーガを観てきた僕は、満足以上の喜びを獲た。 |