| 『富江 最終章 〜禁断の果実〜』 '02 大映・アートポート 監督:中原俊 脚本:藤岡美暢 原作:伊藤潤二 出演:安藤希・宮崎あおい・國村隼・藤本由佳・二宮綾香・太田千晶・渡辺哲 最終章なのだが、全然終わっていないところが富江らしい。それとも、「とりあえず伊藤潤二ものは(映画にしてもおもしろくならないから)これでお終いにしよう」という意味での最終章? 富江と言えば、化け物(富江)と化け物の魅力に吸い込まれて、抜け出せなくなる馬鹿な男の子、という様式美的な図式が思い起こされる。美しさというものは、自分勝手で我が儘で生意気な化け物までをも愛情の対象にさせてしまう。そんな愛情の罪悪をグロテスクに描くものである筈だ。しかし、この最終章は全く異なる。愛情よりも優位な観念が登場する。 一見、『富江レズ版』であり、富江に入れ込む若い男の子を宮崎あおいに変換しただけの様にも思える。しかし、宮崎あおいは富江が化け物であるという事実に気付き、そして殺す。 一方、宮崎あおいの父(國村隼)も25年来の富江への愛情を露にするが、富江の悪意ある我が儘が自分が守るべき現実という領域を侵し始めると、富江を捨て去り、現実を選択する。 この二つの富江に対する造反の理由付けが、共に“現実”という人間がしがみつくべき存在である、という事が最も作品『富江』らしくない。富江の魅力は現実を簡単に捨て去らせる程に悪魔的である筈なのに、この作品で富江に絡む者達は、絶対に現実を捨てない。「富江は化け物だから」と見下す程だ。富江を真っ向から否定している。 そして、この富江に関わる二人の現実は、特に“家族”という単位に依存したものである事が特徴的だ。この作品の中では愛情よりも家族の方がおそらく優位にあるのであろう。特に、娘に同じ名前をつける程に富江を欲していた父が、いとも簡単に娘を選択する辺りは、観客に対する気持ちの良い裏切りである。 もうひとつ感じた事は、男と女の違い。前作までの若い男は簡単に現実を捨て、美しさを追い求めたが、今作の女(宮崎あおい)は、「育てる事が出来ない」というあまりにも現実的な理由で美しさ(富江)を捨てる。それは観客に最大限の嫌悪を与える富江に対する反逆であり、爽快感すらも漂う。宮崎あおいのその「育てる事が出来ない」という台詞を聞いた瞬間、男のロマンチズムと矮小さを同時に認識させられた。 と、まぁ、つまりは、富江を否定した『富江 最終章』だ。どうせ死なない富江だし、終わる事の許されない物語であるのだから、最終章の方法論としては正解だったと思う。 |