高祖寺住職 山根章道

秋鹿の「おもっつぁん」   高祖寺 奥の院 大日堂 修正会

 高祖寺(kousoji)奥の院(okunoin)大日堂(dainichi-dou)に真言宗(sinngonnsyu)修正会(syusyoue)として、あるいは「御頭(otou)」の名で古くより伝わるこの行事は、約60kgの餅米を使い、直径約1m、厚さ15cm、飾りを含めた重量約130kgという大きな餅を担ぎ、集落内を巡る勇壮な祭事であることから、この地では「おもっつぁん」と親しみを込めて呼ばれてきました。
 「おもっつぁん」とは、「大餅(oomochi)さん」が出雲地方の訛りで呼ばれたときの音写です。

 この行事の行われる集落は、島根県(shimane-ken)松江市(matsue-shi)秋鹿町(aika-chou)にあります。
 秋鹿町は宍道湖(shinjiko)北岸、島根半島 のほぼ中央に位置し、「秋鹿」の地名は、「出雲の国風土記(izumo-no-kuni-hudoki)」にも「秋鹿郡(aika-goori)」としてその名を記す、古代より続いている地域の中心付近にあたります。
 「秋鹿」という地名の由来については、「出雲の国風土記」によれば、この地の産土(ubusuna)が「秋鹿姫(aika-hime)」であることからとしるされています。
 この姫神を祭る鎮守が「秋鹿神社(aika-jinja)」であり、高祖寺と同集落にあります。

 「おもっつぁん」と同様の行事は、高祖寺に於いても他のお堂、数カ所で行われていますし、近隣の地域においても、真言宗寺院の修正会として行われていたり、寺院の年頭の祈願行事として行われていたりします。
 「御頭・御当・御祷(otou)」、または「おこない」などとも呼ばれ、年頭に当たり、餅を用いて五穀豊穣と無病息災などを祈る祈願行事であることが共通するこれらの行事は、島根半島中部に多く伝わっています。
 また、宍道湖の南側においても、八雲の星上寺、三刀屋の寿福寺など数カ所でも執り行われています。
 その中にあって秋鹿の「おもっつぁん」は、その餅の巨大さと、祭事の勇壮さは突出しており、「あいかのおもっつぁん(秋鹿の大餅さん)」としてその名が冠されたものと思われます。

大日堂です。
大日堂境内より霊峰大山(出雲富士)を臨む。
平成24年11月25日に竣工した新しい大日堂


 余談ですが、「おこない」と呼ばれる年頭の祭事は、この出雲地方だけではなく、滋賀県でも行われており、琵琶湖の湖北地方では特に多く執り行われているとのことです。
 この地域の「おこない」も比叡山の修正会と結びついた行事としてして伝わっているそうです。
 密教修法の修正会であること、大きな餅を用いること、餅の飾り方など当地域で行われているものと共通点が多く、離れた地域の祭事であるが故に興味を引かれます。

 「おもっつぁん」は、高度経済成長の時代、農村部からの人口流出などで担ぎ手が不足し、また共同体である「村」の考え方の変化や、伝統行事への関心の薄まりなどにより、昭和39年を最後に途絶えてしまいました。
 しかし、昭和53年に、伝統が失われていく危機感、技術が途絶えてしまうという危機感と、農村の誇りを取り戻すため、地域の有志の尽力と熱意により、高祖寺のある集落「本谷(hondani)」と、大日堂がある「井神谷(igami-tani)」の2つの集落からなる「御頭行事保存会(otougyouji-hozonkai)」が組織され、伝統の根幹を守りつつも、継続ができる形にして復活され、現在に守り継がれています。

 古くは、周辺集落を含め「頭(tou)」、または「当(tou)」とよばれる講が6つ組織され、6枚の大餅による「おもっつぁん」が行われていました。
 「頭(tou)」の代表者に当たる「頭屋(touya)」の一人は、肉食を絶つ、毎月28日の大日如来の縁日には海で潮を汲み、神葉とともにお堂に供えるなどの1年間の精進潔斎が義務づけられていました。
 大きな餅は「頭屋」でつかれ、下りてきた餅は次の年の「頭屋」へ下りました。

 現在は、「本谷本頭(hondani-hontou)」と「井神本頭(igami-hontou)」の2枚の大餅により行われ、大きな餅をつけるスペースのなくなった家屋の事情もあり、「頭屋」の制度を廃止して、各集落の保存会会長が代表を務め、集落の集会所において餅つき、餅を下ろすような形で行われています。

 「おもっつぁん」は、「旧正月」の「祈願行事」として「大きな餅」を小高い山の上にある「大日堂」に納め、数日後に「大餅下ろし」として堂内より担ぎ出し、集落を巡る祭事です。

 「祭事」であるならば、祈りの気持ちがあり、その気持ちを確固たるものとして表現するために、その所作が執り行われるというのが自然であり、祈りなくして祭事は存在し得ません。
 祈りの気持ちと、その所作は表裏一体であり、不可分の関係といえます。

 しかし、「おもっつぁん」については、さまざまに紹介をされてはいますが、「古式豊な・・・」的な漠然としたとらえ方のものとか、担ぎ出しの様子などからおもしろおかしく書かれているというものが多く、その「おこない」について、その祭事に込められた祈りの気持ちの現れとして合理的に説明している資料がありません。

 そこで、私なりに「おもっつぁん」の行事の紹介に合わせ、様式、所作などに込められた祈りの気持ちの表現を解き明かしていきたいと思います。


「御頭・おこないと修正会」(06年2月8日 日野西先生書簡より)

 「おもっつぁん」のような行事は、「御当(頭)の神事」(otou-no-shinji)といわれる行事に類する行事です。
 これらの行事は、正月に鎮守(氏神)をお祀りし、当番の交代がある行事です。
 「御当」の「当」は「当番」の「当」にあたります。

 (確かに「おもっつぁん」の「頭」のあった地域は、秋鹿神社の氏子の地域と重なり、別に宮のある浦地区と、別に御頭を行う町地区は除かれています。)

 奉納されるのは「お餅」です。
 この時、お餅は「掛餅(kakemochi)」といい、仏前、または神前に「掛ける」形で祀られます。

 他所においても同様の祭りはありますが、「おもっつぁん」ほどの大きな餅を用いるところは見ておりません。
 直径は1mちかくあっても、もっと薄いお餅を用います。

 お餅を掛けるにあたり、太いカズラが「おもっつぁん」では使われています。
 カズラを用いてお餅を掛けるという掛け方は、高野山(kouyasan)近く、奈良県野迫川村(nara-ken nosegawa-mura)の「おこない」でも用いられています。

 野迫川村での「おこない」では、お餅は信者(檀家)の数に切られ、各戸に平等に分けられます。
 神のお力を頂き、一年の幸運を祈るという意味があります。

 「御当」は「おこない」とよく似ていますが、「おこない」は仏教の「修正会」に由来する、民間の修正会です。
 正月に当たり、その年の幸運を祈る行事です。

 「おもっつぁん」は元々寺(仏教)とは関係のない行事です。
 後に加わったケースです。
 仏教(密教)には修正会の法則(hossoku)しかないので、この行法(gyoubou)を行います。
 ですので、「おもっつぁん」は「おこない」に類するものです。

 「修正会」そのものも、元来、仏教にはなかったもので、平安時代後期に、日本人が「正月」を大切に祀るので、真言宗や天台宗の僧たちによって作られた法要なのです。

「おもっつぁんといえば・・・」

 「おもっつぁん」といえば、古老の言い伝えとして、あるいは古老が語る行事の起源として伝わる有名な話しがあります。
 曰く・・・
 「高祖寺奥の院大日堂の本尊大日如来が、八雲の星上寺に出向き博打をしたそうな。
 その博打に大日如来が負けてしまい、その腹いせに星上寺に供えてあった大きな餅を持ち帰ったそうな。
 これが起源となり大餅行事は始まったそうな。
 だから、大餅は裏口から逃げるように走り去るのだそうな・・・」

 後に、さすがに博打はないだろう・・・問答ではないのか?といった説も登場しています。

 私が副住職として高祖寺に戻ってきた頃、昭和60年頃には、この話は秋鹿地内だけで語られていました。
 少なくとも、星上寺周辺ではこの話はされていなかったように思います。

 時が経ち、「おもっつぁん」も広く取り上げて頂く機会にも恵まれ、たくさんの方に知って頂くようになりました。
 ただ、それにつれ、星上寺周辺でもこの話が語られ始めました。

 私は、この話のおかげで、「おもっつぁん」を多くの方に知ってもらうことができたことを喜びましたが、同時に、「真実」ではない話しが、まことしやかに語り継がれ、「偽」が「真」に取って代わることは、伝統、或いは文化を引き継ぐことに大きな禍根を残すと考えました。
 ですので、私は「御頭行事保存会」の皆さんにも、そろそろ、この話をするのは止めましょうとお願いしています。

 この話が、起源ではないという理由を上げるとすれば、1年を通して精進潔斎が義務づけられる「御頭」の祈りに対する真摯さが、この話には微塵もないこと。
 また、行事の所作をこの話で全て説明できるわけでもないこと。
 この話は、宗教的な概念を持たない、しゃれっ気のある人が創作したお話であろうと想像できます。

 では、いつ頃このお話ができあがったのか・・・

 神仏とは元々、人々に福を授け、厄をはらう大いなる力を持ったもので、人間と対等ではなく、畏敬の念を持って相対する存在でした。
 例えば「笠地蔵」などの話しは端的であると思います。
 それに対して、「おもっつぁん」の話しは、大日如来が博打を打つという、仏が極めて人間くさいものとして扱われています。ここが大きなポイントだと考えます。

 このような仏を擬人化するような考え方は、江戸時代以前ではまずあり得ない考え方になると思います。

 それでは、仏を擬人化するような考え方はいつ頃生まれたのでしょうか。
 明治元年(1868)から明治4年に至る間に行われた、「神仏分離政策」による「廃仏毀釈」の頃以降であると思います。
 仏教を廃れさせようとした政策は、当時の僧侶や民衆の力により完遂はできませんでしたが、仏が擬人化できる考え方は生み出したのかもしれません。


「行事の目的」

 「おもっつぁん」の行事の目的は、大きな餅を山の上から集落に下ろすことにあります。
 この行事のクライマックスが、「大餅下ろし」であることからもこれは確かなことだと思われます。
 この行事は、大きな餅を下ろすために全ての「おこない」と祈りが捧げられているといえます。

 しかし、この行事に対する一般的なとらえ方は「大きな餅を大日堂に(大日如来に)奉納し・・・」というように語られています。
 大きなお餅を本尊様の前に「奉納」する行事としてとらえられているということになります。

 「奉納」の行事としてとらえると、大きなお餅は仏前、大日堂の場合であれば、本尊大日如来への「供物」ということになります。

「大日堂の大日如来が、星上山に博打に行き、そこで負けた腹いせにに、供えてあった大餅を持って帰った。」

 という、「言い伝え」とされている話でもすでに、「供えてあったもの」、仏前への「供物」として扱われています。

 「供物」とは、祈りの気持ちを形にして、神仏の前に供えるものです。お供えしきることにより祈りは完結されます。
 決して、お下がりを頂くことを目的とすることはあり得ません。

 すると、「おもっつぁん」の大餅は下ろすことを目的とされているにもかかわらず、下ろしてはならない「供物」として扱われているという矛盾が生じます。
 実は、この矛盾こそが「おもっつぁん」の様式に込められた祈りの気持ちを語る上での最大のポイントであると考えられるのですが、この矛盾について語られたことはなかったようです。

 「供物」をお供えして神仏に祈るという形は、極めて一般的であり、古くから伝わる、あまりに自然な行為なので、私たちは神前、仏前に存在するものに対しては「供物」であるという思いこみが外せないでいるように思います。
 しかし、「おもっつぁん」の大餅は、祭事の様式が示している通り、下ろすことを目的としていますので、「供物」ではないと考えなければなりません。

 「供物」でないのであれば何なのか。
 結論から言ってしまいますと、それは先祖の御霊を宿す「よりしろ」
であり、また生産を司る神、「太陽神=ご神体」であると考えています。

 先祖の御霊を「よりしろ」である大きなお餅に宿らせ、先祖の御霊を「太陽神」として再生させ、その御霊を我々の住む集落に下ろし、その御霊を食し、先祖と一体になることで祈りを完結する。
 それが「おもっつぁん」の目的であると私は考えているのです。

 このような先祖に対する儀礼は、神仏に供物を献じて祈りを捧げるという儀礼より古い形の儀礼であり、日本に伝わっている最も古い先祖崇拝儀礼の考え方の一つと言えると思います。

 「おもっつぁん」はこの先祖と一体となることを目的とした、先祖崇拝儀礼を基軸にして、「呪術的精霊信仰」、「巨大信仰」、「米作り文化の中での先祖に対する信仰」、「見立ての形式」といった原初的で私たちの心の底流に流れている信仰を、その祈りの力を増していくために、「魂魄」、「陰陽」といった山岳信仰(道教的・陰陽五行的)の考え方で宗教的理論付けを行い。さらに祈り確たるものとして、永続化を図るために仏教(密教)儀礼として完成されていった祭事であると私は考えています。

 このような、原初的な祈りから、道教的な祈り、そして仏教的な祈りという流れ、祈りの気持ちをより強く神仏に届けようとする信仰の変遷は、私たち日本人の辿ってきた信仰の変遷であり、「おもっつぁん」はその信仰変遷を具体的に示している祭事であるとも思います。

「正月」

 「おもっつぁん」は正月の行事です。
 「正月」といえば、鏡餅を飾り、お雑煮を食べる。というのが日本の古くからの習慣です。
 なぜ、鏡餅を飾り、お雑煮を食べるのでしょうか。
 実は、この答えこそが「おもっつぁん」の祈りの根幹であると考えます。

 古来、私たちが先祖の御霊と関わる時期が1年に4度あるとする考え方があります。

 春と秋のお彼岸、お盆、そしてお正月です。
 今では、お彼岸は仏教の「中道」や「彼岸」の思想と結びつき、お盆は「盂蘭盆」と結びついていますから仏教の儀礼と思われていますが、実はお彼岸と、盆・正月は仏教伝来以前より、日本で先祖崇拝儀礼として行われていたとの考え方があるのです。

 このお彼岸と盆・正月の儀礼は農耕と深く結びついた先祖崇拝の儀礼であり、お彼岸は春と秋で一対をなし、盆と正月で一対をなしています。お彼岸は先祖の元へお参りをする儀礼であり、盆・正月は先祖をお迎えする儀礼であることで対をなしているのです。
 そして、お正月と春の彼岸は「米」の儀礼であり、お盆と秋の彼岸は「麦」についての儀礼とも考えられます。

 お盆には、素麺を供えたり、麦わらを供えたりします。
 お盆は元々、先祖をお迎えして麦の収穫の感謝と次なる豊作を祈る儀礼であるとの考え方があります。
 今でもご先祖様を「迎え火」によりお迎えし、お盆を過ごし、「送り火」或いは「精霊流し」にて送るという行事は先祖迎えの儀礼が色濃く残っている証ととらえることもできます。

 この考え方を取れば、お盆と対をなす正月は、お餅をお供えすることでおわかりのように、先祖を迎えての米に対する収穫の感謝と、次なる豊作への祈りの儀礼ということになります。

 「おもっつぁん」が山の上から集落まで、お餅を下ろすことを目的とした正月の行事であることから、「おもっつぁん」は正月の先祖迎えの行事として差し支えないと思います。

 お米の収穫を感謝するため、先祖の御霊を「よりしろ」であるお餅に宿らせ、そして私たちの住む集落へ下りてきてもらうことで、先祖の御霊に集落の繁栄を見てもらい、そして先祖の御霊であるお餅を食し、先祖と一体となることで、無病息災になり、元気で過ごせるが故に耕作に励み五穀豊穣となり、豊になることにより天下が太平になる。
 これが、お正月の儀礼であり、お餅を食べる理由であり、「おもっつぁん」の祈りの根幹なのだと考えているのです。

 お正月の儀礼として先祖迎えの儀礼をすることはめっきり少なくなってしまいました。
 お盆やお彼岸ほど仏教行事と結びつかなかったがために、先祖をお迎えするという形式すら薄らいだのかもしれません。
 その中にあって、「おもっつぁん」は、大餅を奉納することなく、正月本来の先祖迎えの儀礼を厳然と残す、数少ない祭事でもあるのです。

「魂魄」

 「おもっつぁん」の大きなお餅は、先祖の御霊の「よりしろ」であると述べてきました。
 ここでは、先祖の御霊の概念について考えてみたいと思います。

 古来、御霊と生きているものとの関係の基本となる考え方は、「魂魄(kon-paku)」であると考えられていました。

 「魂(kon)」すなわち、魂(tamasii)と「魄(paku)」すなわち体との考え方です。
 人間は、分かれて存在していた「魂」と「魄」が結ばれることで生を受けており、死するということは、「魂」と「魄」が元通りに分かれるという考え方です。

 「魂」は雲のかかるような高い位置に存在し、「陰陽」では「陽」。
 「魄」は白骨のある低い位置に存在し、「陰陽」では「陰」。
 「魂魄」は本来、対極にあるものです。

 山岳修行に於いて、山々を巡るのは魂の浄化、あるいは魂の再生を目指しているのであり、禊(miso-gi)ぎとして海で身を清めるのは「魄」つまり体の浄化、再生を目指していることになります。

 「おもっつぁん」で、先祖の御霊を寄せる場所が大日堂のある山の上にあるのは「魂」の集う場所として考えれば必然です。
 また、祭事を執り行う人の身を清める場所が日本海であり、その証として耳に神葉を飾るというのは、「魄」を再生し、清らかな状態で御霊に携わるということとなります。

 「おもっつぁん」はこうした「魂魄」の概念が色濃く反映されているということも重要なポイントとしておかなければなりません。
 そして、「魂魄」の考え方を中心に祭事は進められているのです。

「おもっつぁんの様式」

 今まで、「おもっつぁん」はその様式の特異性から、その様式が不思議なものであるとはとらえられても、その様式を理論的に説明できる資料がないことは先にも述べました。

 このことにより、大きな餅を梁から落とし、裏口から担ぎ出し、足早に走り去る様子から、「餅を盗んで逃げる」という言い伝えまで生んでしまいました。

 しかし、「おもっつぁん」が農耕文化に由来する、「正月」に先祖の御霊を迎えて米の収穫を感謝し次の収穫を祈る、日本の原初的な行事であるとする視点に立てば、この「おもっつぁん」の特異な様式は、特異なものではなく、極めて単純で、しかも理解しやすく、明快な理論に裏付けされて執り行われているということがわかります。

 原初的な宗教儀礼といえば、「精霊信仰」があげられます。
 精霊、魂との交信は魂の発する音により行われたりします。
 「ポルターガイスト」現象のように「パチパチ」と音が出ることで、そこに精霊がいるとするような儀礼もその一つです。
 人工的に音を立てることで、精霊・魂と交信したと規定する「見立て」の儀礼もその一つといえます。

 あるいは精霊などが、ある一定の期間だけ、特定の儀礼をすることでこの世に存在し、特定の期間が過ぎると消えてしまうという考え方も「精霊信仰」の中にあると考えて良いと思います。

 精霊・魂とあい対する祭祀に於いては、魂に対しても人間の営みと同様の様式を行う儀礼、「見立て」もあります。
 仏前にお膳を供える、お地蔵様に前掛けをかける、こうした儀礼も精神世界に住む「もの」に対し、大切な「人」に対する行為と同様の形を表すことで気持ちを伝えていくという、「見立て」といえると思います。

 また、「御田植え神事」のように農耕所作を行い、祈願をするという行事も、祈りに「見立て」を用いている古い儀礼の形式であると思います。

 つまり、「おもっつぁん」が原初的な儀礼により行われているとすると、その儀礼の中に、「精霊信仰的」なものがあり、またその様式は「見立て」の行事ではないかと想像できます。

 「おもっつぁん」が先祖の御霊を「よりしろ」におろし、「再生」させる行事とするなら、その「再生」を「見立てる」儀式は、新たに先祖の御霊を、さらに太陽神を「生み出す」こと、つまり「出産」の見立ての儀式であると私は考えます。

 「おもっつぁん」を「出産」の見立てである儀礼と考えれば、その様式の全ては、不思議なものではなく、極めて合理的な、しかもリアルな出産の儀式として説明できるようになります。
 そうであるのなら、「おもっつぁん」は原初的な儀礼が、その様式が、変化や変質をすることなく、今に伝わっている奇跡的な行事であるといっても過言ではないと思います。

 各地で行われている「御頭行事(otou-gyouji)」が、「奉納」する行事になっている場合が多いことからも、逆説的に「おもっつぁん」の希少性が言えると思います。

 神仏に「奉納」をして祈る概念ができあがると、「奉納」してあるものを下ろしてしまうという考え方は成り立たなくなってしまいます。
 「奉納」をしない儀礼が存続し続けるためには、「奉納」をしない儀礼がそのままの儀礼として受け継がれてくるしかありません。
 儀礼が中断されてしまうと、それがある時期に復活したとしても、そこには「奉納」の概念ができあがってしまっており、「普通」に「奉納」される行事として執り行われることとなるでしょう。

 「おもっつぁん」は古くから伝わる行事であるとはいわれてきました。
 しかし、残念ながら、「おもっつぁん」にはいつから始められたという確たる文書などの物的証拠は残っていません。
 現在いわれている起源では、大日如来に奉る願文(江戸時代に書き写されている)の記載にによるところで、「弘仁八年(817年)」とされています。
 しかし、この年代には「奉納」の概念はすでに定着していたと考えられます。
 この時期に「おもっつぁん」が始まったとするなら、やはり大日如来の前に大きな餅をお供えする「奉納」行事となるはずです。
 そうでなければ、大日堂を使用することはできないと思います。

 「おもっつぁん」が現在に残す、「奉納」されない原初的な「見立て」の儀礼。
 この儀礼・様式こそが、「おもっつぁん」の古さを端的にに表していることになると思います。

 それでは「おもっつぁん」の儀礼を、原初的な儀礼、「見立て」として、さらに祈りの理論付けを、「魂魄」、「陰陽」の考え方として詳細に検証してみたいと思います。

「餅つき」

 「餅つき」は旧暦(太陰暦)の1月1日(元日)の午後に行われていました。
 現在は、旧暦の元日に当たる頃の二月の初めの日曜日(年によっては1月最後の日曜日)の午後に行われています。

 この日は午前中に講員各自が自宅にて沐浴をし、身を清め行事に当たります。
 特に、餅米を蒸す釜の火入れをする「男=代表者」は、日本海より汲まれた潮により身を清めた上で、或いは水垢離(mizu-gori)をして釜に神聖な火を入れ、その火により餅米を蒸すお湯を沸かします。

 釜には大きな蒸籠(seiro)が4段積まれ、餅米を蒸し上げます。
 餅米が蒸し上がるといよいよ餅つきの開始です。

 つき手たちは、日本海にて汲まれた潮で禊ぎをしている証として、耳に「神葉(jinba)」を挟みます。

 「おもっつぁん」の大きなお餅は、1俵(60kg)の餅米を、1斗(15kg)づつ4回に分けてつかれます。
 つき手は、4人一組で、ケヤキの大臼を囲み、ツバキで作られた棒状の「さし杵」で、かけ声をかけながら、2人ずつ交互に速い動作で杵を突き下ろして餅をつきます。
 「本谷本頭」では、杵先に餅が付かないようにと、絶妙のタイミングで4本の杵に水をつける「男」の手さばきが見事です。

 餅つきのかけ声には、その「頭(tou)」によって違いがあります。
 「本谷本頭(honndani-hontou)」では「トラ コイ トラ コイ」とかけ声をかけています。
 「トラ コイ」とは「取ろうよ」という言葉の出雲方言である「トラコイ」であるといわれています。つまり「たくさんお米を取ろうよ、取りたいな」という意味合いであるといわれています。

 「井神本頭(igami-hontou)」では「ター ホイ ター ホイ」とかけ声をかけています。
 「ター ホイ」は「田 豊年」がなまったものといわれています。

 いずれのかけ声も五穀豊穣を祈るかけ声といわれています。

 一臼がつきあがると、新しいむしろの上に竹で編まれた、直径2尺7寸(約80cm)、高さ5寸(15cm)のかごの中に入れられ、平らにならされます。
 これを4度繰り返し、大きな餅がつき上がります。
 4度目の臼が竹かごの中に移され、ならされるとお餅は竹かごを超して一部が竹かごの外へはみ出します。
 このはみ出したお餅が多いほど縁起がよいとされています。

 餅つきが終わると、餅米を蒸していた釜のお湯で、大きな餅を「おもっつぁん」として仕立てるための「カズラ」を蒸し上げます。
 「カズラ」は蒸し上げて柔らかくしなければ使用することができません。
 特に、「カイノクチ」と呼ばれ、大日堂の梁にかけるための太い「カズラ」は、蒸し上げた後、石臼に巻いて固定し、形状を作ります。

 このように、餅つきの後も、飾り付けの準備などをします。
 そして終わる頃には日も落ち、夜になります。

 これが「餅つき」の一連の流れです。
 ここには、「魂魄」、「陰陽」の意識が強く反映されているようです。
 それでは検証してみましょう。

 まず、元日である1日は朔日(ついたち)です。
 「朔日」は「陰」である「月」すらも顔を出さない、「大陰=完全なる陰」の日です。

 大きなお餅は、「よりしろ」であり、「魄」であるとしてきました。
 「魄」は「陰」のものです。
 完全なる「よりしろ=魄」を作る儀式として執り行われる「餅つき」は
この日が「大陰」としての日であるということで、「陰」を揃えていくということが重要な理論付けになっています。
 さらにそれだけではなく、「餅つき」行事の随所に「陰」を揃えるということを意識して執り行われているように思います。

 神聖な「よりしろ」を作るのですから、身の清めは重要です。
 この清めにも「陰」が強く意識されています。
 身を清めるために、あえて日本海まで「潮汲み(shio-kumi)」に行くということは、「海」の水が重要視されているということです。
 「海」は山の陽に対した「陰」であり、「魄=陰」である「体」を再生し、清める場所こそが「海」と考えられ、やはり「陰」が強く意識されているように思います。

 また、餅のつき手である「男」も、女性が子孫を産み出すことにより、「生産」の意味を持ち、さらに「生産」は「太陽」に通じることから、「女性」を「陽」ととらえ、その対極にある「男性」を「力」の象徴として「陰」とすることで、「よりしろ=陰」と、それを作り出す「力=男=陰」で「陰」を揃えているように思います。

 餅米の量は1俵です。「1」は「大陰」の数です。
 この「1」という餅の大きさを決定する数も、完全なる「よりしろ=魄」を作る材料として完全なる「陰=大陰」としての数としてとらえることができると思います。

 お餅は4人で4度つくというように、「4」という数もあります。
 「4」は「小陰」の数であり、「陽より陰へ転化する」数です。
 お米は「生産するもの=陽」ですから、「陰」の「力=男」によって、「陽」より「4=小陰」の数を用い、「よりしろで」である「陰」へと転化させていると考えられます。さらに4度つくということにより、転化を万全にしているようにも考えられます。

 このような祈りを込めて、完全なる「よりしろ」の中心部分であり、「魄」の中核である大餅ができあがると考えます。

 数については単なる「偶然」であるとも考えられます。
 しかし、さし杵で餅をつく場合、可能な限り大勢でついた方が、効率としては優れています。
 餅の大きさにしても、巨大なものに対しての信仰であれば、さらに多くの餅米を使用しても良いでしょうし、逆に大きさの点から少なくすることもあり得ると思います。
 その中にあって、「数」が決められているということは、その「数」に対して気持ちを込めていると考える方が自然なのではないでしょうか。

 「陰」に対するこだわりが、「餅つき」の行事に貫かれているように感じるのです。
 しかし、まだここでは完璧な「よりしろ」としては完成を見ていません。
 完璧な「よりしろ」として姿を現すのは、大餅を上げる日まで待たなければならないのです。

餅つきの行われる会場(本谷公会所)です。
以前は頭屋で餅つきが行われていました。
餅米を蒸し上げる釜と蒸籠です。
15kgの餅米が一つの蒸籠で蒸されています。
大餅を作るための型枠です
蒸し上がった餅米を臼へ移します。
餅つきの様子です。
つき上がったお餅を型枠へ。
4回つき終わり、型枠へ流し込みます。
型からあふれる餅の量が多いほど縁起がいいとされます。
大餅がつき終わると、カズラを蒸します
蒸されているのは「カイノクチ」と呼ばれる部分になるカズラです。
大日堂の梁から吊される部分で、太いカズラが使われれます。
蒸し上げられたカズラは、曲げて「カイノクチ」に整形されます。
数日間このように固定して形を整えます。


「餅からみ」

 「餅からみ」は旧暦(太陰暦)の1月6日に行われていました。
 現在は、2月の第2土曜日、または第1土曜日に行われます。

 元日(旧暦)につきあげられたお餅は固まるまで寝かされます。
 「餅上げ」前日までには、餅の枠となっていた竹かごをノコギリで切りながら外しておきます。
 この竹かごを切り外す儀礼を「枠切り(waku-kiri)」といいます。

 「餅からみ」とは、「枠切り」を終えてた大餅を、「ハサミギ」という樫の木の棒で挟み、カズラで固定し、大日堂の梁につるせるように、文字通り「餅」を絡んで「おもっつぁん」の大餅に仕立てる作業です。

 「餅からみ」は午後から行われます。
 重量のある大餅を、揺るぎなく固定する技術は古来より営々と受け継がれ、伝承されたものです。
 また、飾り付けの技術も同様に受け継がれてきたものです。
 伝承された技術がなくては、この祭事を執り行うことはできません。

 昭和53年に復活した際、「もう少し復活が遅れていたら、技術の伝承ができず、復活させたくとも復活できなかったかもしれぬ。」と古老の方がおっしゃっておられことが印象に残っています。
 祭事とは、技術と精神が両立し、受け継がれなければ、継承していけないものであることを強く感じます。

 餅を絡むためには「カズラ」は非常に重要です。
 大餅を梁にかけるための太い「カイノクチ」、固定するための細いカズラ、さらには飾るための色の良いカズラ。
 「おもっつぁん」の餅のできを左右するのは、カズラといっても良いでしょう。

 カズラは毎年、講員が山に入り必要なカズラを調達します。
 カズラを調達するには、常にカズラのことを気にかけ、将来を見据えてカズラの育ちを待ち、その年に必要なカズラを見極めて切り出す。その繰り返しは大変なことです。
 通常、荒神様などの神木に巻いているカズラは切らないものなのですが、「おもっつぁん」で使用するカズラだけは、お守りを立てて切り出すことが許されていました。
 これも、カズラの調達が大変であることの表れなのかもしれません。

 しかし、カズラの調達が大変だからといって、カズラを人工物で代用することは、強度、材質、風合いからも難しいことです。

 秋鹿の近隣、島根半島でこのカズラが調達できるということは、豊かな里山があるということといえるのかもしれません。
 農耕と里山は日本の原風景といわれます。
 その中で伝えられてきた祭事、それが「おもっつぁん」なのだと思います。

 「おもっつぁん」のお餅は、夜までには絡み終え、筵にくるまれて臼の上に置かれ、「餅上げ」の時を待ちます。

 ここで「おもっつぁん」の餅の形について触れておきたいと思います。

 「おもっつぁん」のお餅は、「よりしろ」であるといってきました。
 「よりしろ」であるのならば、よりしろとしての「見立て」ができているのかを検証したいと思います。

 一つは、大餅の上に「ハナノキ」が付けてあります。
 「サカキ」、「ハナノキ」などは、そのもの自体が「よりしろ」として用いられる場合があります。
 このことをみても、大餅が「よりしろ」であると言えるとは思います。

 しかし、私はこの大餅の「形」に注目したいと思います。
 この形こそが昔の人々が考えていた「御霊」の形であり、「太陽神」の形だと考えたいのです。
 そう考えると、大餅の「よりしろ」としての「形」がより具体的なものであることがわかります。

 昔の人々が考えていた魂の姿とは、「中心が白く丸く光り輝くものであり、その周りに毛むくじゃらのようなものがまとわりついている。」
 正に、「おもっつぁん」の大餅の造形された「形」そのものではないでしょうか。
 しかも、この魂の形は「太陽」とも共通した形なのです。

 大餅は完全なる「形」、つまり完全なる「魂」の姿をしているのです。
 いえ、「魂」を入れる「よりしろ」として、完全なる形をしているのです。ですから、完全なる「陰」にこだわり、餅がつかれ、造形されていったのではないかと思うのです。

 餅を絡み終えた段階で、大餅は「完全なるよりしろ」となりました。
 そしてその姿を人目にさらさぬよう、筵で覆われて出発の時を待つのです。

「餅上げ」

 日が落ち、夜になると、いよいよそれぞれの大餅は大日堂へ向けて出発します。
 提灯、(古くは松明)を先頭に、暗い夜の山道を大日堂へ向け、講員交代で担ぎ上げられます。

 大餅が堂内に到着すると、「ヤァー」というかけ声とともに、堂内を本尊に向かって、前後に3度ねられます。
 その後、大餅は筵を解かれ、堂内の梁にかけられ、その姿を現します。
 そして、カズラの長さを切りそろえ、最終的に「形」が整えられます。

 現在は、本谷本頭と井神本頭の二枚の大餅が上がりますが、古くは六枚の大餅が上がっていました。
 先の二枚に加え、「井神別当(igami-bettou)」、「井神御祈(igami-oinori)」、「山中本頭(yamanaka-hontou)」、「本谷山中御祈(honndani-yamanaka-oinori)」という「頭」があり、そのお餅をかける堂内の場所も決められていました。

 大餅が上がると、それぞれに、大餅のできを賑やかに評定し、「餅上げ」は終わります。
 「奉納」の儀式は執り行われません。

 古来よりの6枚の大餅については、なぜ6枚なのかが定かではありませんでした。
 江戸時代の一時期には12枚のお餅が上がっていたとの話もありますが、天明の頃に建立されたとされる大日堂内に、大餅をかける場所は6枚分しかないところから、12枚の大餅がかけられたということはないのでないかと思われます。

 では、なぜ12枚説がでてきたのでしょうか。
 願文の中に「十二の歳」の祈願があります。十二年で一回りする暦のことで、全ての年、つまり過去から現在、未来までの五穀豊穣、無病息災、天下太平を祈願をしているのです。
 このことから考え、「6」は「12」の半数、だから、本来は12枚なのだが、その半数の6枚で行事を行うとの見解と想像します。
 この「12」という数は、どちらかというと仏教的によく使われる数のようにも思いますので、案外、当時のご住職の見解かもしれません。

 6つの集落から大餅を上げたために「6」なのではないかとの考え方もあります。
 しかし、上の「頭」を見て頂ければわかるように、かならずしも6つの集落から成り立っているわけでもなく、どちらかというと、あえて6枚という数にしているように思われます。

 では「6」をどう解釈すればよいのでしょうか。
 私は「五行」にそれを見たいと思います。
 五行では「6」は「大陰」の数です。
 「餅つき」のときに、完全なる「魄」にするために「陰」を揃えていました。この「陰」に対するこだわりが、「よりしろ」となる大餅の数にも「大陰」の数「6」を当て、「陰」を揃えて、完全なる「魄」を求めていると考えたいと思います。
 大餅を上げる日が6日。この「6」とも無縁ではないと考えます。

 この「餅上げ」の一連の流れが「見立て」行事の始まりとなります。

 私は「おもっつぁんの様式」のところで、「おもっつぁん」は「出産」の見立てであると考えているとしました。
 その見立てに従って検証したいと思います。

 出産の見立てとするのですから、「母体」の見立てと「子供」の見立てが必要です。
 「子供」の見立ては「よりしろ=魄」である大餅です。
 「母体」の見立ては大日堂本体です。大日堂は「母体」というより「子宮」の見立てであるといった方が正確かもしれません。

 完全なる「よりしろ=陰」である大餅(古くは「大陰」の数「6」)は、「大陰」の日の日が落ち、「陰」である夜になってから、つまり「陰」が揃うのを待ってから、「陰」である男たちに担がれ、母体(陽)である大日堂へと向かいます。

 大日堂へ到着すると、本尊大日如来正面(扉は閉めたまま)に向かって3度ねられます。
 正に「子宮着床」の見立てです。
 「陰」である「よりしろ=魄」は「陽」である母胎に抱かれ、また陰から陽への転化の数である「小陽=3」の祈りを込められ、堂内の梁にかけられることにより、陰陽が一体となり、「よりしろ」が御霊・太陽神に変わる時を待つのです。

 堂内の梁に掲げられた大餅は、まさしく完全なる「魄」となるわけですから、それぞれの大餅はより完全なる姿を求め、その姿を競います。そして、より完全を求めるが故に「評定」が始まるのです。

井神本頭の餅上げです。
日没後大日堂の境内へ担がれてきます。
堂入り直後です。
堂入りすると、大餅は3度堂内で練られます。
本谷本頭の餅上げです。
大餅の後ろ姿。
カズラの「シロフサ」を切って長さを整えます。
餅の裏から撮影しています。
シロフサが整うと評定が始まります。


「餅番」

 「餅上げ」が終わると、「餅下ろし」までの夜には「餅番」の当番が堂内に泊まり込み大餅の番をします。
 古くは、6日の夜、7日の夜の二晩でしたが、現在は「餅上げ」翌日が「餅下ろし」なので、一晩の泊まりです。

 節分の頃の最も寒い時期に、寒風が吹き込む堂内での泊まりは、電気ごたつを運び込める今でも大変です。

 「餅番」は、掲げられている大餅に「魔」がつくのを防ぐためともいわれています。
 伝承では、大餅や儀式、精進潔斎に不備があると「ヤッテサン」というキツネが現れ、大餅を持ち去るとのお話もあります。
 真偽はともかく、大餅は厳重に、そして大切に守られ、再生の時を待つのです。
 そして、無事に「餅下ろし」の日を迎えることができたということになれば、儀式、精進潔斎に不備はなかったという証明にもなるのです。

 ここで検証しておきたいのは、「餅番」の日数です。
 実際には、一晩泊まりでも行事の遂行は可能ですが、古くはあえて、二晩泊まりとし、8日に下ろすとしていた意味を考えたいと思います。

 これも「五行」で考えます。
 「餅上げ」の日は「陰」の「よりしろ」を上げるのですから、「大陰」の日である6日を選び、「陰」を揃えることで完全な「よりしろ」を作り上げました。
 「餅下ろし」の日は、「陰」である「よりしろ=大餅」が、「陽」である御霊・太陽神に転化をする日と考えます。
 陰から陽へ転化する「小陽」の数は「8」ですから、大餅を下ろす日を8日として設定しているのだと考えられます。

 つまり、「餅番」の二泊は「大陰」と「小陽」の祈りを込めた、「餅上げ」と「餅下ろし」の日にちの決め方によっていたと考えられます。

大日堂縁の下へも供物を供えます。
ヤッテサンに供える供物です。


「餅おろし」

 「餅下ろし」は旧暦(太陰暦)の1月8日に行われていました。
 現在は、2月の第2日曜日、または第1日曜日に行われます。
 古来、8日に「大餅下ろし」が行われていたのは、陰より陽への転化の日「小陽=8」の日であると先に述べました。
 いよいよ「よりしろ」は「御霊・太陽神」へと生まれ変わる日です。
 そして、出産の見立てがダイナミックに執り行われる日です。

「寺迎え」

 昼過ぎ、講員の代表が高祖寺の住職を迎えに行くところから始まります。
 お寺では、御神酒とタクアン、梅干しを準備して待ち受けています。
 迎えにきた代表は、御神酒で身を清め、住職とともに大日堂へ歩いて向かいます。

昼頃代表が住職の迎えに来ます。
講員は御神酒で清めます。タクアンと梅干しが添えられます。


「座敷」

 大日堂に住職が到着すると、いよいよ「大餅下ろし」の祭事が執り行われることとなります。

 古くは、「大餅下ろし」の後に仏教所作の祈願である「後座敷(ato-zashiki)」として祭事が執り行われていましたが、昭和53年に復活した際、「大餅下ろし」の前に行う「前座敷(mae-zasiki)」に変更されました。

 まず、大日堂の中に、畳を敷き、大日如来の厨子を開扉し、祈願ができるように準備をします。

 まず、「座敷」では本尊である大日如来に対し「御頭次第(otou-shidai)」に則って修法(仏に対する儀礼)がなされます。
 真言宗の密教修法ですから、本尊である大日如来はもとより、曼荼羅世界の全ての仏に対して祈願がなされます。
 この祈願の時に「供物」が定義されています。
 祈願文には
「大豆花米香華灯明 雲海を擬して供養を致すものなり
 本尊納受し 諸尊哀愍したまえ 云々」
 このことから、「供物」は大日如来の前に供えてある「大豆・花米(
daizu-hanayone)」であることがわかります。
 大餅は供物として定義されていないことがここでもわかると思います。

 また、この「供物」による供養は、如来・菩薩の仏はもとより、仏法を守護する諸天(以上・仏)、天王(道教神)、天照大神、八幡大菩薩、春日明神、杵築大明神(出雲大社)、佐多大明神(佐多神社)、当所神祇姫御所(秋鹿神社)、その他の神祇眷属、総じて日本国中大小の神祇(以上・日本の神々)、この世のもの、あの世のもの(精霊)、全てに届くと祈ります。

 この祈りの順序と広がりは、私たち日本人の辿ってきた原初的な祈りから、道教的な祈り、そして仏教的な祈りという信仰の変遷の逆順であるように思われます。

座敷を執り行う前です。
飯台とウツギで作った箸が準備されます。
本尊前の供物の様子です。
下に立てかけてあるのが牛王串です。


「願文 (牛王打 gouou-da)」

 御頭次第では、仏への供養の後、この祭事の祈りを宣言し、祈りを確かなものとするための「願文(gan-mon)」の諷誦(huju=読み上げ)が行われます。
 この「願文」の時に特徴的な所作が出てきます。

 本尊の前で祈願をする「座敷」の際、講員は住職を中に入れ、「凵(kon)」字に囲むように「飯台(han-dai)」を並べ、2本の「ウツギ」の木(箸と呼ぶ)を持ち、座ってお参りをします。

 住職が「願文」を読み上げ、「祈るところ よって くだんのごとし」
と宣すると、座っていた一同は、ウツギでバチバチと飯台を叩きます。
 「願文」の間、祈願を宣するたびに数回これは繰り返されます。
 この所作を「牛王打(gouou-da)」といいます。

 今まで、この所作については「鳥追い」の行事であると伝えられてきました。
 近隣寺院の御頭次第に、この所作が「鳥追いなり」と記されていることによりそう伝えられてきたようです。

 「鳥追い行事」もやはり年頭に当たり、鳥やモグラなどを追い払って豊作を祈願する行事です。
 「おもっつぁん」も五穀豊穣を祈願する祭事ですから、「鳥追い行事」が、その祭事の中にあっても良いとは思います。
 しかし、一般的に「鳥追い行事」は、音を立てて集落を回るものが多く、「おもっつぁん」のように願文諷誦をしている堂内で、座して行うものとは異なるように思います。

 また、「家内十二の歳息災延命 云々 この祈りは間違いありません。」と宣言をするのですが、その後に、「鳥追い」では、祈りの整合性ということからも疑問が残ります。

 そこで私は「鳥追い」ではないと考えました。
 私は、御霊よりの祈りに対する「返事」であると思うのです。

 まず「牛王(go-ou)」について考えてみたいと思います。

 「牛王宝印(goou-houin)」の押してある護符は、山岳信仰より修験道につながる寺院、例えば大峰山などで始まったと伝えられています。

 「牛王」の成り立ちには諸説があって、確定はされていないようですが、例えば、牛の体内にある胆嚢などの「玉=胆石」、あるいは「毛玉」などは古来、万病の薬、あるいは不老長寿の薬であるとされ、そのことからその玉を「如意宝珠(nyoi-housyu)」の意味として「牛玉(goou)」としたという説があり、その「玉」、或いは「毛」を入れた印肉で押した印を「牛玉宝印(goou-houin)」と呼ぶともいわれています。

 また、「生土(ubusuna=土地神)」と書かれていた護符を誤写した(縦書きで二つの文字をひっつけてみて下さい)との説もあります。

 「おもっつぁん」では、祭事の後に餅とともに配られ、田畑に立てて土地神に豊穣を祈る、ウツギに「宝印」と書いた紙(護符)挟んだ串があり、「牛王串(goou-gushi)」とよんでいます。
 「牛王串」は「座敷」の時に講員の家の数だけ大日如来の前に供えられ、住職より加持を受け、祈念されます。
 「おもっつぁん」では、「牛王串」は「土地神=生土」に捧げられているものと考えられますので、「生土信仰」ととらえることができます。

 「牛王打」とは、ウツギ(打つ木)で作られた「牛王(串)=土地神」により音を立てるのですから、そこから出た音は「生土の声」の見立てだと考えます。

 また、バチバチといった音(声)の出る場所は、ご飯を食べるための台「飯台」でもあります。ご飯を載せる台は「穀霊(kokurei)」の御座所とも考えられます。
 そこから出た音は「穀霊の声」の見立てと考えることもできます。

 土地神である「生土の声」と、その土地より生産が繰り返される「穀霊の声」の両者の「声=返答」を聞く見立ての所作といえるように思います。

 この「牛王打」は祈りの言葉が間違いのないものであることに対する、穀霊、土生よりの返事であり、その返事を受けることができるからこそ、この祭事の祈りが成就すると考えます。

 大日堂では、飯台を叩き音を出しますが、その他の御頭では、お堂の壁や戸を叩きます。
 いずれも、お堂が鳴動して、精霊の声、返事を聞き取っている、原初的な、ポルターガイストの見立ての名残という考え方もできると思います。

 「餅番」の時の「ヤッテサン」もそうですが、この「精霊」の返事も、行っている祭事が「完全なものであり、それが間違いないと確認する」という強い願いが働いているように思います。

 また、「牛王串」を使うということは、修験道との繋がりが深いということでもあります。
 修験道の元である山岳信仰は道教の影響を強く受けており、「おもっつぁん」に見える「陰陽」、「五行」の理論付けは、山岳修験道の強い影響を思わせます。
 その山岳修験道と真言密教とも強い繋がりがあることはご承知の通りです。
 島根半島の尾根筋に、天台宗や真言宗の密教系といわれる寺院が多いことともこの祭事と無縁ではないと思います。

 願文にて「先矩(senku)にまかせて=以前より行われていた通り」と祈願するということを考えても、仏教的な儀式以前の「形」がそこに存在していたことを想像させます。

願文を読み上げ、牛王打をしているところです。
ウツギの箸で飯台を叩きます。


「願文 氏名読み上げ」

 「願文」では、祈願者の氏名を読み上げるのが常です。
 仏前に、誰が、どのような祈りををしているかを声に出して宣言することで、その抽象的な祈りの気持ちを、明らかな「形」とするために「願文」は読み上げられています。

 「おもっつぁん」では、この祈願者の氏名の読み上げについても特徴的です。
 通常であれば、吉岡さんであったり、加藤さんであったりそれぞれの方に名字がありますので、「吉岡の何某(なにがし)」、「加藤の何某(なにがし)」というような読み上げをします。
 しかし、「おもっつぁん」にあっては、それが吉岡さんであっても、加藤さんであっても、誰であっても「藤原(hujiwara)の何某(なにがし)」と読み上げます。

 この秋鹿の地域に於いて、古くから「藤原」の姓を名乗る「家」はありません。
 「おもっつぁん」の祭事の時にのみ「藤原」の姓を名乗っているのです。
 また、江戸時代において名字を名乗ることの許されていないものであっても、この祈願の際には「藤原の何某(なにがし)」と読み上げられていたようです。
 これは願文に藤原の姓が記載されていることによりわかります。

 つまり、「おもっつぁん」では古くより、あえて「藤原」の姓で読み上げるように伝えられているものと思われます。

 「藤原」の姓といえば、「藤原氏」を連想します。
 藤原氏といえば、仏教を強く推進した家柄として有名です。
 「藤原」の姓を名乗るということは、仏教を推進し、守護してきた一族であると宣言することになります。
 つまり、「藤原の一族なのですから、仏に対して忠誠を誓った一族なのですから、仏である本尊大日如来よ、加護と息災延命、さらにはこの祭事に込められた全ての祈りを聞き届け、強めてください。」
 このような祈りが込められているのではないかと想像します。

 近隣の寺院の御頭においては、願文の読み上げの時、「物部(mononobe)の何某(なにがし)」と読み上げるところもあります。
 物部氏といえば、藤原氏に対向して旧来の信仰を守ろうとした一族であると知られています。
 「御頭」を祈願する際、この物部の姓を名乗ることに、いかに仏教行事の形をとっていたとしても、「旧来より伝わる、先祖の御霊に対する信仰心を捨ててはいません。」というような気骨を感じてしまいます。

 「御頭」行事としては共通の祭事であるにもかかわらず、願文の氏名読み上げにおいて、仏教をめぐり対立した藤原氏と物部氏が混在しているというのは興味のあるところです。
 このことからも「御頭」という祭事が、仏教以外の儀礼と、仏教の儀礼の合わさったものと考えることができますし、そのことにより、仏教以外の儀礼は、仏教伝来以前より続いていたものと推察することができるように思います。

 「おもっつぁん」の願文の特徴的な「牛王打」、「氏名読み上げ」の部分が示しているのは、仏教的な儀礼の中に、この祭事本来の原初的な祈りを盛り込んだものなのかもしれません。


「カズラ締め」

 「前座敷」が終わると、大日如来の前にあった祈願をするための、しつらえは全て片づけられ、大日如来の厨子の扉は閉められ、お堂の隅に積み上げられた畳の上に住職は座します。

 堂内が片づき、準備が整うと、堂内の梁にかけてある大餅は、いったん全て下ろされます。
 旧来は6枚の大餅でしたが、現在は2枚の大餅です。

 下ろされた大餅は、「カイノクチ」を上にして直立させて、前後に「エイヤー エイ エイヤー エイ」と「采振り(zaihuri)」の「采」に合わせて揺すられます。

 この所作を「カズラ締め」と呼びます。

 「大餅下ろし」の本番に備え、カズラに緩みがないかを点検し、緩みを締め直す所作とされています。

 「見立て」による検証をしたいと思います。
 この祭事は、「出産」の見立てであると述べてきました。
 「餅上げ」により生命の「よりしろ」は子宮に着床し、「餅番」の夜を経て、いよいよ「餅おろし」の日が出産の日となります。

 この見立てにたてば、梁からいったん下ろされて、揺すられる大餅は、「胎児の胎動」であると見立てることができると思います。

 「よりしろ」である大餅に、いよいよ生まれ出ずる準備が始まりました。

座敷が終わると、
住職は堂の角の畳が積み上げられた場所に移動します。
カズラ締めの様子。
大餅を立て、エイ、ヤー、エイとかけ声をかけ
大餅を前後に揺すります。


「稽古荷ない」

 「カズラ締め」が終わると、餅は担がれます。
 そして、堂内を縦横にねられます。
 現在は2枚のお餅でねられるのですが、それでも四間四面(約7m四方)の大日堂内の迫力は大変なものです。
 これが6枚のお餅でなされたとすると、迫力を超えて、危険をはらむようにも思われます。
 危険をはらむという一面からも、精進潔斎は重要なことと思われます。

 こうして、大餅が堂内をねる所作を「稽古荷ない(keiko-ninai)」と呼びます。
 「稽古」とは文字通りであり、「荷ない」とは「かつぐ」という意味です。
 出雲方言では、「担ぐ」ことを「荷なう」といいます。

 「大餅下ろし」本番に備え、カズラがうまく締まっており、担ぐに耐えうるかどうかを、大餅にも、担ぎ手にも試す所作とされています。

 「稽古荷ない」が終わると、大餅はふたたび堂内の梁にかけられます。

 「見立て」による検証をしたいと思います。
 「カズラ締め」を「胎動」と見立てたのですから、堂内をねる所作は、「陣痛」です。
 「子宮」と見立てた堂内を激しく動くことで、出産を促す。
 「よりしろ」である大餅は出産準備が整ったことを「陣痛」をもって知らせるのです。
 そして陣痛の波がおさまると、「よりしろ」は出産の時を待つのです。

稽古担いの様子です。
大餅は堂内を縦横に練られます。


「大餅下ろし」

 「稽古荷ない」が終わり、大餅が堂内の梁にかけなおされると、担ぎ手たちは大日堂の周辺で、大餅下ろし本番に備えて、耳に「神葉」を挟み、肌子を羽織るなど、身支度を調えます。

 身支度が調うと、担ぎ手一同は大日堂参道の下手、石段の下の所定の場所に整列します。
 一同が揃うと、整列したまま大日堂へ参道を歩いて進み、堂内に入って、大餅の前(厨子の中の大日如来の前)で「合掌・礼拝」をします。

 「餅おろし」の時に童子を堂内に招き入れる役である、裃(kamishimo)をつけた「代官(daikan)」は、それぞれの「頭」より1名が当たり、「合掌・礼拝」の号令をかけます。
 その後、代官たちは堂内の角に座している住職の前に行き、「大餅下ろし」の始まりを告げます。
 この代官の挨拶が終わると、担ぎ手一同は整列した場所へと戻ります。
代官を先頭に合掌・礼拝を行います。
代官は住職に大餅下ろしの始まりを告げます。


 大餅を下ろす順番は年により変わり、その順番を代官たちが確認した後、先番の頭より大餅下ろしが始まります。

 「大餅下ろし」は童子の走り込みから始まります。
 代官は扇で手招きをして合図を送ると、赤・青・白の「だんだら模様」の肌子を着た童子が、「ワーーー」といいながら、大日堂正面から走り込み、裏へ抜け、お堂の外を正面に回り、担ぎ手が整列している場所へと戻ります。

 童子が所定の位置に戻ると、童子、采振り、担ぎ手の順に大日堂正面から大餅に向かい走り込みます。
 担ぎ手は、諸手を挙げ、上半身裸になり、やはり「ワー」と大声を上げながら堂内に入ります。

 童子は大日如来御厨子の前の前机に登り、大餅の裏に回って大餅を押す動作をすると、大餅は梁から外され、堂内の床に「ドスン」落とされます。

 落とされた大餅を、担ぎ手は素早く担ぎ、「エンヤー サッコイ」とかけ声をかけながら、童子、采振りに続いて大日堂の裏より担ぎ出し、集落へと走り去ります。

 これが一連の「餅下ろし」の所作です。
 この所作が、順番に従って大餅の数だけ繰り返されます。

 この一連の流れを「見立て」に従って検証したいと思います。

「童子の走り込み」
 まず、童子の堂内への走り込みです。
 古来より、子供は汚れなきものであり、命の象徴ともとらえられてきました。
 神聖な命である童子が、「ワー」と声を上げて走り込むのは、「産声」だと思います。

 童子が「命の象徴」として「よりしろ」である大餅に「命」を吹き込むのです。
 「命・魂(陽)」である童子が「表(陽)」より堂内に入り、「よりしろ・魄(陰)」に対して「魂(陽)」を吹き込む。
 この「童子の走り込み」により、「よりしろ」である大餅が「陰陽」の合わさった、「再生」できる「生きた」ものになると考えます。

「童子」が着ている、だんだら模様の肌子、この「だんだら模様」については、その始まりと、その意味合いがわかりません。

代官は日の丸の扇子で童子を招きます。
童子はかけ声とともに勢いよく堂内に走り込みます。
「担ぎ手の走り込み」
 担ぎ手は、耳に神葉を挟み、上半身裸になり、諸手を挙げて堂内に走り込みます。
 この担ぎ手の出で立ちは、「禊ぎを受けた清らかな力の象徴」と思われます。
 これから携わる「よりしろ=完全なる陰」に対し、それに等しいだけの「海・力=完全なる陰」であると考えます。

 堂内に駆け込むと童子は大餅の裏に回り込み、大餅を押します。
 今度は「陽」である童子が、大餅の裏「陰」に回り込み、「陽」を吹き込みます。これにより、「よりしろ」である大餅は完全に「陰陽」が一体になった「命あるよりしろ」となりました。

 「命あるよりしろ」は梁から落とされると、すぐに「担ぎ手」に担がれ、大日堂裏より外へ出ます。
 裏から外へ出る。「陰」から「陽」へ転化する。
 この時のために、「小陽」である8日が選ばれたのだと思います。

 「堂内=内=陰」で命を受けて「陰陽」一体となった「よりしろ」は「裏=陰」の口より、「外界=陽」へと飛び出します。
 「陰=魄」であったものが、「陽=魂」へ転化するのですから、「陰」の口より出でるのです。つまり「裏」から出なければならないのです。
 また、見立てからも、出産と見立てるのですから、「口」より出でることはありません。
 これが、裏口から大餅を担ぎ出す理由だと思います。

 元々「完全な陰」であった「よりしろ=魄」は「陰の口=裏口」を通って外界へと出た瞬間に「魂=太陽神」へと転化します。
 そして、「太陽神」となった「よりしろ」が出た外界は「日中=陽」の時であり、太陽は中点付近にあります。「完全なる陽」の世界に出るのです。

 こうして、完全なる潔斎をし、完全なる「オコナイ」をして、そのなるべき時を待ち、「完全なる陽=魂」が誕生しました。
 この出産の儀礼により、先祖の御霊は再生し、生産の神である太陽神がこの世に誕生したのです。

童子、采振りを先頭に堂内に走り込みます。
童子は餅の裏に回り、餅を押す所作をすると、
大餅は梁から落とされます。
大餅は担がれて堂の裏より表へと走り出します。


「荷なう」
 大餅を担ぐのは6人一組の、上半身裸の「男」です。
 大餅の構造上、全ての肩に均等に荷重がかかるわけではありませんし、利き肩で担げるとも限りません。
 後ろにつく一人は、カズラ(シロフサという)を引くことで、坂を下る際のブレーキの役もはたします。

 大餅を担ぐのは「男」だけです。女性は担ぎません。
 この理由についても「陰陽」で説明ができます。

 大餅は「太陽神」と見立てました。太陽神は「天の恵み」の象徴であり、生産の神であり、女神です。陰陽では「陽」です。
 対して担ぐのは男性です。力の象徴であり「陰」です。

 作物は、「天の恵み(陽)」だけで採れるものではなく、また「労働=力(陰)」だけで採れるものではありません。
 五穀の豊穣とは、天の恵みと、勤勉な耕作があって初めて達成されるものなのです。

 「おもっつぁん」の大餅を男性だけが担ぐのは、「陰陽」が一体となり五穀を実らせるということを象徴しているからだと考えます。

大餅は担がれて堂を一回りします。


「走り去る」
 大日堂の裏から出た大餅は、「エンヤー サッコイ」のかけ声とともに、担ぎ手が交代しながら集落へと駆け下りていきます。

 「エンヤー」のかけ声は、気合いであり、「サッコイ」は「さぁこい」であるといわれています。
 再生した御霊・太陽神を山から下ろす、集落に迎えるわけですから、御霊に対して「さぁ来い」と呼びかけているのではないかと考えます。

 「大餅下ろし」のかなり古い頃には、代官はおらず、大餅は次々に下ろされていたそうです。
 先番の大餅は、後番の大餅に追い越されぬよう、後番の大餅は、先番の大餅を追い抜くよう、速さを競って駆けたといわれます。
 後番が先番を追い越すことは縁起の良いこととされたそうです。

 このことから、大餅が走り去るときの速さがいかに重要であるかがわかります。
 大餅は速く移動しなくてはならないのです。

 それは、その大餅が「先祖の御霊」であり、「太陽神」だからです。
 原初的な「魂」の考えでは、その「魂」の移動速度は人知を越えた速度であると考えられていたそうです。

 大餅を「太陽神」と見立てているのですから、大餅は可能な限り速く移動しなければならなかったのです。

 このことから考えると、「おもっつぁん」の大餅の大きさは、巨大なものへの信仰と、速く移動させることとのバランスから生まれた大きさなのかもしれません。

 いかに移動速度が大切であるとはいっても、重量のある大餅を競わせるのはかなり危険な行為です。
 そこで、ある時から「代官」の職を置き、大餅の通過点の目印を通過した時点で、次の餅下ろしにかかるという決まりを設けたのだそうです。
 代官の着ているものが、裃に袴という中世風であるのは、代官の職がそのころに置かれたからなのかもしれません。



「集落を巡る」
 大日堂より山を駆け下りてきた大餅は、集落に入ると所々でお祝いの接待を受け、休憩を取りながら集落を巡ります。
 そして、旧来は次の「頭屋」へと戻りますが、現在は集会所へと戻ります。

 山を下りてきた「先祖の御霊」であり「太陽神=生産の神」である大餅に、村の繁栄を報告しているのです。
 先祖迎えの儀礼として、重要な点だと思います。

「餅の切り分け」
 戻ってきた大餅は、「カイノクチ」や「ハサミギ」、カズラである「シロフサ」などを解かれます。
 そして、大餅に墨壺で墨を打ち、厳密に均等に、鎌や押し切りを使って切り分けられます。

 大餅は、講員各家の先祖の御霊である「魂」なのですから、それを分ける際に大小や過不足があってはならないのです。
 また、大餅を講員以外の人に切り分けないのも、講員各家の先祖の御霊であるからです。自らの家のご先祖様が、よその人に食されては困ります。

 こうして切り分けられた「餅」は「直会(naorai)」の後、「牛王串」ともに配られます。

 直会もたけなわになると、「頭渡し(tou-watashi)」の儀式が執り行われます。
 前の頭屋から次の頭屋へと引き継ぎをする儀式です。
 新旧の頭屋が御神酒をあけた後、杯が回され、輪切りにした生の大根と盛られた塩を載せたお膳が回ります。

 こうして直会も進み、「餅下ろし」はお開きとなります。
 しかし、「おもっつぁん」の祭事はまだお開きとはなっていません。

 各家に持ち帰られた「餅」は、家族、親族によって食されます。
 これで、先祖の御霊(陽)が、今を生きる人々の体の中(陰)に入り、陰陽一体となって「命」となるのです。
 そして、頂いた「命」のおかげを受けて、無病息災、息災延命となり、元気で働けるらこそ、天の恵みを受けて五穀豊穣となり、豊になるからこそ国家が安穏であり、天下が太平となるのです。

 先祖から受け継いできた「稲」より米の恵みを受け、その恵みから次の恵みへと繋がっていく。
 そして、自然と、暦の循環の中で、感謝と祈りも循環していく。
 こうした循環の中で「おもっつぁん」に込められた祈りが、遠い昔から今に伝えられ、伝統として、文化として、その姿を大きく変えることなく守られてきた意義は、決して小さいものではないと思います。
 こうして、「おもっつぁん」への祈りが続いていく限り、「おもっつぁん」にお開きはないのかもしれません。

大餅は墨付けをされ、厳密に切り分けられます。
鎌を用いて切り分けます。




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