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| 2010/01/01 |
| 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。 今年は去年休んだ分を取り戻す勢いで作品を描いていけたらと思っています。 作画の状態で時間がかかる回もあるとは思いますが、作品自体の骨格と方向性はすでに私の中で出来上がっていますので、 たゆまずに描いていけるよう努力したいと思います。 2010年が皆様にとって良い年になりますよう、御多幸をお祈りしております。 |
| 2009/12/26 |
| クリスマスにUP出来たら良かったのですが、昨日が仕事収めでその後スタッフと簡単な忘年会などやっていたもので すっかり日付が変わってしまいました。今年もとうとう終わってしまいますね、どうか来年もよろしくお願いします。 今回は休止が随分と長かったせいか(自分で言うのも何ですが)、情けないのですが、 正直なところ途中で自分が何の仕事をしているのかわからなくなった程です。 絵やストーリーを描くというより、とにかく文献の活字に埋もれていた一年でした。 でもお蔭で、漸く当時の人間関係とその相関図が鮮明になってきました。 この時代の状況は大変複雑である事はわかっていたのですが、複雑にならざるを得ない原因と理由がここに来て はっきりと見えてきて、私自身も何かやっと一息付ける状態になれました。 原さんにも様々な分野からの精査を行ってもらい、当然のことながら大変骨の折れる作業を強いる事となっていたのですが、 その甲斐あって、漸く当初からの難題であった壁をひとつ越えた感があります。 これで来年からやっと本格的に始動する事が出来そうです。 とは言いつつも、これからが正念場である事には変わりなく、この史料の山をどうやって整理しストーリーに織り込んでいくか 非常に頭の痛いところではあります。 読者の皆様には毎度の事ながら御迷惑をかけ通しで、本当に心苦しく思っておりますが、それでも、 自分にとってこれほど遣り甲斐のある仕事もないと思っておりますので、今後もどうか長い目で見守って頂けると有り難いです。 来年からは、これまで以上に気を引き締めて作品に取り組んでいけるよう、また出来る限り定期的に掲載出来るよう 努力致します。 それでは、皆様よいお年を。 Buon anno! Ci vediamo. |
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ところで、今年もイタリアの出版社、スターコミックスの方々が 我が家を訪れてくださいまして、ちょっとしたパーティーを催したのですが これはその時頂いたチェラミカ(ceramica:焼き物)です。 スターコミックスがあるペルージャの街は、陶器の街として有名で、 このように一点物でも注文すると焼いて頂けるとの事で、 見て御分かりと思いますがチェーザレのペン画です。 以前イタリアを訪れた際に、現地のファンのために描いた色紙用の絵を、 わざわざ焼き付けてくださった物ですが、画質が粗いのでわかりにくいと 思いますが、円の縁取りの外側はとても淡いブルーに白い紋様が 施されており大変美しいです。 大きさは25×25p、厚さが5o強、持つと結構ずっしりと重いです。 ちょうどイタリアへ行く前でかなり過密なスケジュール構成の中、 描いた物だったので実に雑なイラストとなってしまい、 我ながら悔いの残る物でしたが、たとえ拙い絵であっても、 世界に一点しかない物だと思うと、さすがに感慨深く大変嬉しかったです。 本当に素敵なクリスマスプレゼントをありがとうございました。 |
| 2009/11/28 |
| 相変わらず掲載が滞っている状態で、毎度の事ながら読者の皆様には御迷惑をおかけしております。 信憑性の高い場面から描きためているので、仕事場はまたもやパーツ原稿の山となっています。 一話目はほぼ完成しているものの、8巻の前半部分で未だ自信が持てず描きあぐねている箇所があり その精査に手間取っているような状態です。 それでも確実に前進はしていますので、もう少しだけ時間を頂ければと思っております。 ところで今回はちょっと話を変えて、今更ではありますが、イタリア語の表記について触れてみたいと思います。 イタリア語の日本語表記において、たとえば下記で都市の名前San・Gimignanoを以前はサン・ジャミアーノと 表記していましたが、これは正しく発音するとサン・ジミニャーノとなります。 これは、日本人の耳にとって聞き取りにくい二重母音(gna→ニャ)の要素が大きく影響していると思われるのですが、 日本人の耳は基本、日本語の特性から短母音を主に認識しているため(これは日常からくる慣れであると思います) サン・ジミニャーノがサン・ジャミアーノという風に聞き取れてしまい、また日本語として表現する際もつい簡潔な表現を 選択してしまう傾向から、このような表記になってしまうのではないかと思われます。 実は先達て、イタリア語に精通していらっしゃる方から、この事についてアドヴァイスを頂き、これを機に 今後は日本語的な発音から、よりイタリア語に近い発音の表記を心がけるよう、この場を借りて御知らせした次第です。 さらに補足で、「チェーザレ」4巻におけるチェスが出てくる場面でのイタリア語表記なのですが、 チェス=スカッコと表記されていますが、正しくはスカッキです。 これも当初悩んだ場面ではありましたが、イタリア語の特徴として名詞には単数、複数の表現方法があり scacco(単数)→scacchi(複数)というように語尾が変化します。 日本語ではこの単数形、複数形についての概念がないため、単純に単体である駒の名詞を取って当時は スカッコ(scacco)、とさせて頂いたのですが、しかし、実際ゲームをする場合は複数の駒を使うため、 スカッキ(scacchi)となるのが妥当であり、こちらの方がイタリア語としてはより正しい表現とも言えます。 因みに下の画像はイタリア語版「チェーザレ」4巻の場面ですが、御覧の通りイタリア語版ではスカッキ(scacchi)と 表記されています。 |
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これと同じ表現法でスパゲッティ(spaghetti)という単語がありますが、 スパゲッティも一本の麺だけでは素材のひとつにすぎず、これが複数集まって初めて食品として認識されるため spaghettoスパゲット(一本の麺)→spaghettiスパゲッティ(料理、または麺の束)と変化します。 まあ大概は料理として表現されますから、スパゲッティ(spaghetti)と呼ぶのが定番ではありますが。 日本人にとって、この単数複数、また、男性名詞、女性名詞等、名詞に性別がある事に やや戸惑いを覚えるイタリア語ではありますが、使い慣れてくるとこれも随分と合理的な面があり、 例えばamico(友人)ですが、 amico→アミーコ(男友達) amici→アミーチ(複数の男友達、または女性も含む混合の友人達) amica→アミーカ(女友達) amiche→アミーケ(複数の女友達) と、いった具合に変化し、 面白いのはこの事によって、一つの単語から対象が友人である事と、その人たちの性別、数、 個人か複数かが解かる仕組みとなっており、これはある意味便利な表現方法であるとも言えます。 逆を言えば女性が「誰に会いに行くの?」と問われてamicoと応えると、男友達=ボーイフレンド=恋人と連想されるため、 状況によっては諸刃の剣となる事もありますが、相手に知られたくない場合の対処法としては無難にamici (複数の男性、もしくは女性も含む友人達)とでも応えておけば大丈夫なのではないでしょうか。 ちょっと適当な感はありますが、まあ、これがイタリア流受け流しという奴です。 という訳で近況報告と簡単なイタリア語の説明でした。 では仕事頑張ります。 |
| 2009/10/18 |
| ご無沙汰しております。 「チェーザレ」再開のお知らせが中々出来ずに申し訳ありません。 今現在も教皇選に至るまでの各国各人の立場とその状況について、史料の洗い直しを延々とやっているのですが、 漸くその全貌が見えてきたところです。 これまで1492年の教皇選においては、金をばら撒いたことによるボルジアの一人勝ちのような印象が定着していましたが 内情はそのような単純なものではなく(この辺りは読者の皆様もすでに察しているのではと思いますが) 実際はボルジア同様、またはそれ以上に金品を使った一族も存在し、この時の教皇選は想像以上の大混戦だったと言えます。 その中でも、最もその行動が謎だったのが実はボルジアの政敵ローヴェレでした。 ローヴェレの教会での記録には所々空白の部分があり、これはその年に何も行動を起こしてない事を意味するのですが、 覇権を狙う者が何もせず手を拱いているはずもなく、これはその空白の年と同時期の大陸、特にイタリア半島の動向を重点的に 調べ照らし合わせると、面白い程にその謎が解けていき、また副産物のように関連してボルジア、メディチ リアーリオ、 この物語で核ともなる一族の相関図がさらにクリアに見えてきて、個人的にも十分楽しませて頂きました。 (ローヴェレには申し訳ないですが) 結果には全て理由があるという事なのでしょう。これ以上はネタバレとなるのでここでは控えておきますが、 ボルジアに限らず当時の(実は古今東西でもある)権力者達の政治上でのデスマッチは醜いながらも逞しく、 人間ならではの魅力が滲み出ているように思えます。 とは言え、出来れば自信を持って作画に移りたいので、もう少しだけ時間をかけ細部まで詰めていければと思っております。 実を言いますと、過去にも見切り発車で事を進めた事が何度かあり、その結果、総数にすると100枚ほどの出来上がった原稿を 掲載前に処分、描き直した経験があり、編集サイドもその時間と労力の損失から、今回の休載期間に関しては 寛大な処置を取ってくださっており、申し訳ないとは思いつつそれに甘えているような次第です。 年内には何とか再開したいと思っておりますが、読者の皆様にはもう少し辛抱をして頂く事になりそうです。 申し訳ありません。 ところで、すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、7巻で描かれているピサ大聖堂内部ですが、 実は2巻で描かれている物とは微妙に違っています。 これは、連載開始時には手元になかった1491年当時のピサ大聖堂の設計図面と記録文献を手に入れた事で、 7巻では出来るだけ、その復元を試みた結果によるものです。 ※2巻では後の建築であるバロック様式は省いているものの、全体的にはかなり細部をぼかし曖昧な状態で描いています。 当初はあれが限界でした。 現在では壁である場所が当時は空洞であったり、窓であった所が塞がれていたりと、 元々ピサ大聖堂内は複雑な構造をしているため、大半が一見して解かるほどの物ではないのですが、 一番の問題は大聖堂内陣と説教台の位置でした。 2巻では説教台は向かって左側に位置していますが、1491年当時、実は右側に設置されていたらしく、 この移動にも色々とエピソードがあるようなのですが、どちらにせよ後にピサ大聖堂で火災が起こった事により、 この当時の様相は、すでに昔の設計図と文献のみでしか解からないのが現状でした。 今更なんですが、実は正直なところ、私自身もそこまで拘って作画したい訳でもないのですが、 この当時の説教台はどうしても正面に向かって右奥になくてはならない事情があるのです。 その理由は聖職者と聖堂のシステムにあり、中世では当然今よりも聖職者と庶民との格差がはっきりしており 所謂ヒエラルキーという物なのですが、作中に描かれている場面でいうと、聖堂の側廊を挟んで奥の囲いのある座席部分は ミサなど式典の場合においては、聖職者しか足を踏み入れられない場所(平常時は自由に出入り可能)であり、 側廊を境に手前側が一般参列者が入場を許されていた場所でした。 当然、説教台も聖職者側に属していなければならない(その場に立つのは聖職者である)ため、 現在のように側廊手前、向かって左側(参列者側)には描けなかったのです。 大聖堂内陣も、当然今とは全く様子が違っているのですが、6巻の帯に使われたチェーザレが中央に立っている 大聖堂内の絵は、実はその製作過程で構造の間違いがわかり途中で作画を止めた物です。 帯の締め切り上、彩色を途中で止めた物を使わざる得なかったため、6巻帯の背景は下塗りの段階で止まっています。 どちらにせよこの絵は廃棄し、新たに描き直そうと思っていたところ、担当者が敢えてこのままでいきましょうと言ってくれたので (時間もなかったというのもありますが)、それも一興という事でそのまま彩色を続行し完成させたのが7巻のカラー扉です。 まあ、現代のピサ大聖堂に立つチェーザレという事で、これはこれなりに赴きあるかと・・・(苦笑) また降誕祭につきましては専門家のアドバイスを下に、ヨハネ・パウロU世の2000年の降誕祭の映像を参考とし 出来る限り500年前のミサの様子を再現してみました。 15世紀の降誕祭は、上記で書いたように聖職者と一般人との一線がはっきりしており、現在と違って 聖職者に触れるような事は一切禁じられていました。 作中でも描かれていたように降誕祭のミサの始まりは「キリエ」で他に{グロリア」「サンクトゥス」「アニュス・ディ」と続きますが、 この間、言葉という物は発せず全て歌で進行していきます。 そして聖職者達は所作の度に手を清め、合間合間で修道士が香を撒きます。 (映像、もしくは実際のミサに出席した事のある方はよく御存知だとは思いますが、鎖の先に香炉が付いている物を振り回し それによって祭壇の周囲に香が撒かれます。この辺りは昔も今もたいして変化はないようです) 私も、日本での降誕祭にしか参列した事がないので何とも言えないのですが、 イタリアでも、500年前の降誕祭を今現在も変わらずに再現している訳ではないので(※今は大変フレンドリーです)、 専門家も実際には誰にもわからないだろうとの事でした。とりあえずは作中での表現が今のところ限界ではあると思います。 大聖堂内陣の構造、及びハインリヒZ世の霊廟についての裏話は長くなりそうなので、またの機会ということで この辺で仕事に戻ります。 ではまた。 |
| 2009/08/23 |
| 「チェーザレ」7巻発売です。 随分と時間を要してしまいましたが、それだけの時間が必要だったとも言える巻となりました。 6巻までが地盤作りだとすると、7巻はそこに立つ主柱のような物だと思ってくだされば有り難いです。 この主柱が頑健であればあるほど、今後の作品の展望も変わってくるでしょう。 思えば5年前になりますが(下記で書いたイタリア取材から帰った直後です) 実はこの取材旅行で私は完全に絶望の淵に立たされていました。 思った以上に取材の成果が上がらなかったからです。 イタリアでのボルジア家の評価は、すでに日本に伝えられていた既存の情報程度の物でしかありませんでした。 ※その後、ある学者さんから言われて痛感した事があります。「イタリア人は中々本当の事を言わない」 まさしくその通りの状態でした。 とにかく教会側の史料だけでは、チェーザレその人の人間性を掘り下げるには程遠く、 このため、兼ねてからその存在は伺い知っていた元担当者の友人、ダンテ研究者である原さんに是非とも会って 話を聞くべきだと思い、その旨を現担当者に打診してもらったという訳です。 (この時がすでに連載開始二ヶ月前という今思えば冷や汗ものだったのですが) 原さんに御会いした時の私の第一声は 「時間がないので率直に御伺いします。教皇と皇帝どちらが強いですか?」 例えとして、カノッサの屈辱(完全に教科書レベル)を踏まえたものの、ほとんど子供の質問でした。 「これは一概にどちらが強いとは言えないのです」 と、それでも原さんは真摯な態度で応えてくださいました。 実際、この答えが現状では一番正しいものでした。 この段階で、実は原さん自体も教会側からの観点でしか、今の所は答えが出せないとの事で この事から皇帝側からの精査が必須であるとし、そのために原さんに確実な文献収集を頼む事となりました。 これは日本に殆ど資料が無い事から、過去にも書きましたが担当編集者が世界中の古書店を検索し その資料を探し出してくれた功績の御蔭です。 ※実際日本にも優れた研究者は確実に存在します、が、西洋史に関して日本国内での需要の低さから 出版という形にまで及ばないだけの話なのです。 本音を言いますと原さんの仰る事も実は大変難解で、まず同じ日本人でありながら通訳が必要と思われます(苦笑)。 元々イタリア語文献自体が、言葉の羅列であり独特な物があるので、慣れていないと日本人は混乱する怖れがあり、 これはイタリア人に文才がないというのではなく、元々白人社会ではディベート文化に表されているように、 まず話せる事が第一であり、第三者にどれだけ自分の思いを語って聞かせられるかで、 その人物の力量を測るという傾向があるからです。 このため、言い方は悪いですが、文章はメモのような散文に成りがちで、書き文字も速記の如く読みづらかったりします。 この表現方法は、ある意味イタリアの昔からの伝統と言えるのかもしれませんが、 平たく言いますと、現在の日本ではこのようなマニアックな物に興味を持つ者は、おそらく少数派であると思われ、 そのために、噛み砕いて説く必要性もなく、当然専門的で固い表現となり、ますます需要もなくなるという訳です。 また、こういった研究その物が学者の特許となるため、どうしても閉ざされた世界に成らざるを得ない部分もあり、 この辺りが、一般人と専門職の越えるに越えられない壁となっている原因の一つとも言えるでしょう。 そういう意味では、原さん自体があまり垣根を感じない、珍しいタイプの学者なのかもしれません。 そしてこの時より、手に入れた(後に膨大な量となる)史料を元に、原さんとの模索が始まるのですが、 手をつける端からさらに新たな模索が必要となり、当初月一連載だったものが、作画が完全に追いつかなくなり、 わずか半年あまりで中断、その後一年に渡っての休載という形になってしまいました。 読者の皆様には申し訳なかったのですが、この一年は私にとって本当に重要で充実した時間だったと思います。 正直カノッサの屈辱をここまで形として再現出来るとは、この頃は夢にも思っていませんでしたし、 全てはここから始まった事が、今回の7巻に集約されているのだと思います。 とは言え、所詮これらは全て私の推論です。 ハインリヒW世、グレゴリウスZ世、またハインリヒZ世、ダンテと、各々の年代と行動自体は史料を元に正確に描いていますが、 人間性その他は全て私の想像です。 ハインリヒW世が許しを受けて不適に笑ったかどうかなど、実は誰も知る由もありません。 ダンテがハインリヒZ世にミラノで会ったのも、後に辛辣な手紙を書いたのも、また、ハインリヒZ世がピサに赴き、 ウゴリーノの孫を救出、その後ローマでの戴冠式、フィレンツェとの戦争等、これらは全て文献で残っている事実ではありますが、 それに纏わるエピソードや人間性、関係性、またランディーノに言わせたダンテの裏の持論、 世界には二つの太陽有りきと謳いつつ、実は一元論こそが人としての本性であり、また宿望であるという理論も 私なりの勝手な見解にすぎません。 これに至った理由は、ダンテのフィレンツェ追放後の苦悩や、彼の残した手紙を読んでいるうちに、ダンテという人物が (あくまで個人の感想として)正面から理想論を語るような人間に思えなくなってきたからです。 当然ながら、ランディーノ教授を大司教邸に招き、一連の講義を受けるチェーザレという構図も全ては私の作り事です。 学者=皇帝派、聖職者=教皇派 この二人が腹を割って話し合えたかどうかなど、全くもって謎なのですが、 しかし、後のチェーザレの動向を鑑みるに、限りなく可能性のある話で有るとし、原さんの後押しもあって こうして思い切って形にさせて頂きました。 それ以前に、ランディーノはこの時ピサのサピエンツァ大学に現れている事になっていますが、 1491年の11月に、ランディーノがサピエンツァ大学ピサ校の教壇に立ったという記録は実はありません。 逆を言えばこの時ピサには居なかった、もしくは来れなかったという記録もありませんので(あくまで今の所はですが) チェーザレとの会談も可能性としては全くない訳ではないのです。 とは言え、これらの事は、結局は私の創作にすぎない物ですので、どうか鵜呑みにはなさらないように(笑)。 ※今更なんですが、ラファエーレ・リアーリオにおいても、男色趣味を連想させるような描き方までしておりますが、 これも全くの創作であり、文献によるとラファエーレはかなりの美術愛好家で、特に彫刻に対して収集家とも言えるほどであった という資料(美術愛好家=男色趣味な訳など当然ないのですが、当時は彫像というと、その多くが男性の裸像であった事) から、このような人物像に仕立て上げてしまいました。色んな意味で申し訳ない。 要するに、心理描写においては全ては私の想像ではあるのですが、それでもひとつだけ絶対と言える事があります。 1491年、チェーザレは皇帝派の都市であったピサを訪れた事により、皇帝の威厳を目の当たりにせざるを得なかった という事です。 ローマで生まれ、枢機卿の父親の元で、聖職者として16歳まで純粋培養で育ったチェーザレが、この時 皇帝という存在に触れたのは完全に事実であり、それに伴い衝撃にも似た印象を受けたのは確かなはずなのです。 共和制、帝政、君主制、これらを理解せずには当時のチェーザレの立ち位置、心理状態も理解し辛い事でしょう。 8巻はこの主柱の補強と、次章への布石となる回になると思われます。 ここから先はミラノ、ヴェネツィア、シエナ、フランス、スペイン、そしてナポリ王国、加えてその矛先であるローマという、 大変厄介で複雑なパワーバランスが展開する事となり、今現在も原稿を前に頭を抱えているような状態ですが、 辛いながらもこの関係性は、やはり面白いです。 これ以降も、何とか形にしていけたらと思っておりますので、楽しみにしていてください。 モーニング掲載中も、編集部にたくさんの感想や応援を寄せて頂き有難うございました。 これを期に漫画を初めて手にしたという御年配の方から、西洋史に改めて興味を持つようになったという中学生まで、 実に様々な方が「チェーザレ」を楽しんで読んでいてくださると言う事を知り、大変嬉しく思っています。 また、メールでの応援も有難うございました。 常連の方や初めての方、中々返事を返す事が出来なくて申し訳なく思っておりますが、、これを励みにまた頑張ります。 ※因みにシエナの発音ですが、下記ではシエーナと書きましたが、 辞書でもそう表記されているので迷ってはいたのですが、やっぱりどうも違う気がしてシエナに直しました。 正確に発音するとシエィナという感じに聞こえるのですが、シエーナと書くと、どうも間延びしすぎに思えて、 敢えてシエナと言い切った方がベストなのではと言う事で、今後も(チェーザレ作中でも)シエナと表記させて頂く事にしました。 どうでもいいようで、どうでもよくない話でした。 |
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午前9時頃フィレンツェを出発、車で2時間ほどかけてシエナ(Sie'na)へ。 |
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昼前にシエナに到着。 この日は朝から曇っていて11月末という事もあり さすがに寒かったです。 |
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シエナの塔から街を見渡した状態です。 このあたりから空が明るくなってきて 撮影も少し楽になってきました。 左側にこの街のシンボルともいえる大聖堂が 見えています。 ここにある説教台もピサーノの作品です。 |
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カンポ広場です。 現在のパーリオ会場ですね。 シエナでは裸馬に乗っての競技(パーリオ)が 有名ですが、パーリオとは優勝旗を意味する物で この旗を巡って今も昔も熱い戦いが続いています。 |
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日頃の行いが良かったとは思いませんが、 見事に晴れました。 トスカーナの空の色です。 |
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このような抜け道や細い路地が至る所に あります。 地元の方は、こういった通路を近道としてフルに 活用していると思われますが 私は当然迷いました。 |
| フィレンツェへ戻る途中に立ち寄った、かつての城塞都市サン・ジミニャーノ。 (San・Gimignano) |
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シエナを出て車で1時間ほどの距離にある街 サン・ジミニャーノです。 午後3時をすぎた辺りだったと思うのですが 晩秋というか初冬というか、12月目前だったため 陽が落ちるのが早く、すでに薄暗いです。 |
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サン・ジミニャーノは塔の街と言われるほど 街の至る所に塔が立っています。 昔はかなりの数の塔があったそうなのですが、 今では十数本が現存しているだけとの事。 最初は見張りのためや敵に石を落としたり等、 戦争用に造られていたのですが、 何故か過剰にその高さを競うようになり、 そのために増築を規制され、 その数も減っていったそうです。 面白い街です。 |
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サン・ジミニャーノの路地裏。 思わず中世にタイムスリップしたような気分に なります。 |
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目に付くと、どこでも入って行って写真を 撮り出すため、同行した編集とガイドさんは いつもこの状態で待たされていました。 ここは古い街並みが今でもしっかりと残っていて 取材するには最適な街でしたね。 ただ、どこの街でも昔と著しく違うのは窓ですね。 昔はもっと小さく数も少なかったと思われます。 |
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街はずれにある、かつての城壁跡です。 階段は狭く急で、特に降りる時が怖かったですね。 |
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街の高台から見たトスカーナの風景です。 |
| そして夕闇迫るフィレンツェ(Fire'nze)に無事帰還。 | |
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ようやくフィレンツェに到着。 フィレンツェの街を一望できる ミケランジェロ広場より撮影。 |
| 2009/07/03 |
| 7巻の帯用のカラーがさっきようやく出来上がりました。 すでに単行本用のページは描き終っているものの、再考にどれだけ時間が掛かるかまだ見込みがつかず、 当初予定していた7/23より1〜2週間程、発売日が遅れそうです。 なるだけ不備がないよう、もう少しだけ時間を掛けさせて頂きたく思います。申し訳ありません。 |
| 2009/05/23 |
| ランディーノ教授の講義がまだまだ続いている最中ですが、皆さん如何お過ごしでしょうか。 インフルエンザが流行っているとの事で、体調管理にはくれぐれも御注意ください。 ちょっと、この場で訂正というより御説明なのですが、教皇の敬称についてモーニング今週号(25号)においては 猊下を使っておりますが、「チェーザレ」単行本3巻において聖下という敬称が出てきているため、次号26号では、 聖下という形で表現されると事となりました。 が、しかし、私個人としては猊下として今まで認識していたため、この辺りで多少の行き違いが発生してしまいました。 申し訳ありません。 3巻での場面、チェーザレの教皇に謁見する際のシーンですが、このシーンは元々、史実に記されている訳ではなく、 完全に私の創作なため(ただし任命式として何らかの形式はあったはずで) そこで最も相応しい言葉をチェーザレに言わせるために、ラテン語文献から原さんに選んでもらったのが作中のあの言葉であり、 これは原文であったラテン語を直訳したため、そこでは聖下という敬称になってしまいました。 これに倣うと作中での教皇の敬称は聖下となってしまうのですが、 一般的な日本語では天皇に対しての聖上という敬称はあるものの、聖下という言葉は存在しない(しかし間違いではなく 教皇に対して聖下という敬称も実際使われている)ため、大変微妙な言葉ではありましたが、とりあえず私個人の見解として、 猊下を選択させてもらっていました。 ここら辺は、私、原さん、編集の意思疎通が上手くはかれていなかったとしか言いようがありませんが、 決して手を抜いていた訳ではなく、三者とも本当に毎日が激務でありまして、完全に振り返る余裕がありませんでした。 ※そうでなくともローマ建国からの構成にしたものですから、神曲の翻訳の最終段階にはいっている原さんに、 さらに大変な監修をさせてしまって、それは大変申し訳なく思っています。 この件については今後単行本にする際、 猊下で統一か、聖下で統一か。 または口語体では猊下を選択し、あのラテン語による詩文の箇所だけ聖下とするか、再検討させて頂きたく思います。 混乱させてしまい大変申し訳ありませんでした。 また、再開後のローマ建国よりの回は、ローマ史に詳しい方には、かなりゆるい説明となってしまいましたが、 これは二元論の元となった、皇帝権と教皇権の起源と経緯についての前振りにすぎないため、 敢えてこのような展開とさせて頂きました。 全てはこれあってのルネサンス(古代復興)です。ヨーロッパの歴史は根深く根強いのです。 それから改宗者についての表現ですが、とりあえずマラーノという表現が定番であったという事でマラーノを使わせて頂きました。 イタリア語ではconvertito(コンヴェルティート)となり、マラーノは蔑称であり差別用語なのですが、 この当時に差別用語の概念があったとは思えませんし、正直言いますと差別が当たり前の世界でもあったため、 逆に配慮がある方が違和感を生んでしまうと思われ、敢えてマラーノを使わせて頂きました。 ※日本でも、差別用語に対して配慮を要するようになったのは、実は昭和の中期頃からでした。 最近は西洋史に詳しい方ほど( どうやら内情が透けて見えるらしく) 「いや〜大変ですね〜・・・」と、この作品に対して労いの言葉をかけてくれるようになりました。 「日本のパンは柔らかくて口当たりが良い、それに比べてパーネ・トスカーナは硬くて味も香りもそっけない。 だが、噛み応えがあり何故か癖になる。」 そう評して頂いて思わず声を上げて笑ってしまいました。当然嬉しくてです。(笑) 私もパーネ・トスカーナ大好きです。あれほどワインにあうパンは他にはないと思っております。 |
| 2009/05/08 |
| いよいよ再開です。読む側にとっては苦労を強いる展開の連続になると思われます。 チェーザレの存在をすでに知っていた方達の中には、チェーザレを軍人、武将として捕らえている方も多いでしょうが、 彼の本質は政治家です。 まず、この時代の政治を理解しなければ、チェーザレ・ボルジアという人物を理解する事も難しいでしょう。 野球を心から楽しむためには、野球のルールを知らなければならないのと同じように。 この時代の人間にとって神は絶対の存在でした。 今から五百年もの前の話です。この世界は神が創ったものであり、天動説が正論で海の先は滝であり、さらに進むと 奈落の底に落ちてしまうという事が本気で信じられていたのです。 誰もが神様から愛されたいと願う、チェーザレもそういった時代の人間でした。 神の恩恵を利用する人間はいたとしても、神そのものを利用しようなどと思う人間は皆無であったと思います。 これこそがこの時代の法なのです。 たまに無神論者という言葉を耳にすることがありますが、この無神論であるという事がどれだけ難しいか 考えてみた事がおありでしょうか? 親しい者が危機にさらされていると知れば、例えばその相手が遭難、もしくは海外で行方がわからなくなった時、 大半の人間は神様にその身の安全を願うのではないのでしょうか。 些細な所では受験の際の合格祈願なども顕著な例ですね。 まさに苦しい時の神頼みという精神です。 気休めとはわかっていても、自然と何かに対して祈ってしまうのが人の常です。 無神論者とは、こういった心的現象を一切排除して生きていくという事です。 不信心といわれる我々日本人でさえ、神社の鳥居を見れば何気に神妙になり、それに対して破壊行為をしようなどという者は そうそういないと思われます。 日本人は不信心というより多神論者であり、節操なく神様と付き合う事のできる、ある意味(良い意味で)合理的な民族ある、 というような気がします。 どこか不信心に思えるのは、神様にすがる、そして感謝する事はあっても、謝る事がないからかもしれません。 西洋の宗教でいう所の懺悔です。 欧米の方達は、自身の悪い心、悪事をした事をとにかく神様に謝ります。 それはやはり天国を信じているからに他ならないでしょう。 現代では、特に日本では法律によって人は裁かれ許されるため、なかなかこの発想には至らないと思いますが、 ただ「チェーザレ」における世界観は、この精神論を踏まえた上で読み進めないと今後のチェーザレの行った事や 試みた政策を理解する事は難しいと思われます。 こういったアプローチを願っていた読者には十分楽しめる作品になるとは思いますが、 英雄伝や独裁者の顛末等の話を期待していた読者には、実に退屈で堅苦しい話にしか思えないでしょう。 読者によっては、翻訳されている既存のチェーザレの伝聞の方が、より価値があると言えるのかもしれません。 |
| 2009/04/17 |
| 報告が遅れてすみません。来週「チェーザレ」掲載されます。 それではまた。 |
| 2009/03/31 |
| 疲労困憊しつつも着実に進んでいます。 作画、ネームで試行錯誤してはいるものの、漸く3話分は確定しました。 まだまだ先がありますが、一番懸念されていたところを抜けてちょっとほっとしています。 これで少しは制作スピードが上がればいいのですが、とにかくやるだけやってみます。 因みに、最近癒しとしてよく星座の写真を眺めています。 個人的には彼岸花星雲とか好きですね。 ※決して向こう側の世界がちらついてるとかの意味ではないので御安心ください。 |
| 2009/03/03 |
| 3月になってしまいました。連載再開日のお知らせがまだ出来ず申し訳ないです。 六話分までは、ストーリーとしては出来上がっているものの、要所要所で不明瞭な点があり、また 今更になって知らされる事実等もあって、描き直しを繰り返しつつ再構成しているような有様です。 とりあえず確定した(これ以上は追究のしようが無い)箇所から仕上げていってはいるものの、 原稿としては未だ歯抜けのような状態で、完全に出来上がるまでにもう少し時間がかかりそうです。 本当に読者の方には申し訳なく思っております。また編集部にも御迷惑をかけっぱなしで、我ながら本当に不甲斐無く思います。 おそらく今回のシリーズ(7、8巻)が、「チェーザレ」序章部分の総括となるでしょう。 今後のチェーザレの生き方、方向性を暗示させる回として、敢えて時間をかけ慎重に描き上げたいと思っております。 正直なところ、ここまでくるともう読者のためではなく、ただ自分が満足するためだけに描いているのかもしれません。 すみません。 |
| 2009/02/02 |
| 更新が滞っていて申し訳ないです。とりあえず元気でやっています。 先日、我が家で担当者二名と原さんを交えて、7巻で使用する参考資料を改めて整理し直していたのですが、 効率を上げるため、重要事項もしくは参考写真だけをピックアップしてコピーを取り、全員が見やすいように我が家のリビングに、 これらを敷き詰め、各項目ごとに確認、区分.。夜9時頃から開始して夜中の3時にようやく終了しました。 改めてよく集めたものだと、最後に四人で溜息をつき苦笑いをしてしまいました。 実は、100%これが正しいという文献はこの世に存在しません。一冊にまとめられた文献の中身は玉石混合であるのが常です。 ボルジアが隆盛を極めたこの時代の代表的な伝記作家、グイッチャルディーニの文献も、当時の時代背景の考察としては可なの ですが、ボルジア家に関する事は、グイッチャルディーニが反ボルジア政権側の伝記作家であった事から、公平な視点で 綴られているとは思い難く、結果、本作品「チェーザレ」においては大半を不可とさせて頂きました。 また同時期の教皇庁書記官ブルカルド、これもボルジア政権時の書記官ではあったものの、アレクサンデル6世(ロドリーゴ)の 死後、ピウス3世(政権時約一ヶ月)、政敵ユリウス2世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)へと移行し、各政権下でも書記官を 務めているため、記述を捏造された可能性があり、そこでこれも一部を除き不可の対象にさせて頂きました。 ※実際、ローヴェレの記録にはかなり人為的な部分が見受けられ、これは同時期の関係者及び係わった国の記録を見れば、 どちらが嘘をついているか簡単にわかってしまうのですが、ローヴェレはイタリア人の、しかもローマ(ヴァティカン根拠地)出身の 教皇でしたので、不名誉な経歴は後世に残したくないという、教皇庁側の配慮もあったのではないかと思われます。 逆に教皇庁でのロドリーゴ・ボルジアの記録には、後の別の教皇の悪行を、すでにこの世にいないロドリーゴの行った事だと 記されていたりで、とにかく都合の悪い事はボルジアのせいにしておけ、という風潮が未だに存在しているのも確かです。 それから、面白い所でヴァザーリの著書ですが、これはルネサンス期の職人達の仕上げた作品、制作過程について実に細かく 記されているものの、この職人達の生没年に関しては、かなりいい加減でして、まだ生きているにも関わらず 死亡とされている職人も何人かいたりします。 おそらくヴァザーリの興味の対象が職人そのものではなく、作品の制作過程により多く注がれているからなのかもしれません。 このように、文献にもそれぞれの作家の性質や、当時の立場というものが現れていて、平行して読んでいくと実に面白く、 感慨深いものがあります。 「チェーザレ」での骨格となっているサチェルドーテの文献も、多少あやふやな箇所はあるものの、それでも実に緻密に淡々と チェーザレに纏わるデータが綴られており、その文章からは真摯な職人気質のようなものが感じ取れます。 サチェルドーテがこのように公平な立場で文献をまとめられたのは、サチェルドーテ自身に政治的関与がなく、 純粋に研究者であった事が大きな要因だと思われます。 このサチェルドーテ版を元に、各文献の最も正確であると思われる箇所を見つけ出し補完していく事は、正直根気の要るもので なかなか辛い作業ですが、それでも一つ一つの謎が解け、筋道が通っていく様は実に爽快なものがあります。 一番の問題は、この爽快感をどうやって作品に反映させるか、という事なのでしょう。 と、いう訳で仕事に戻ります。それではまた。 ※「Nume'ro TOKYO」3月号で、「チェーザレ」制作に関してのインタビューを受けました。 興味のある方は御覧になってみてください。 |
| 2009/01/01 |
| 明けましておめでとうございます。 旧年中は読者の皆様、また関係者各位には大変お世話、御迷惑をおかけしました。 今年も何卒宜しくお願いします。 何気に、去年暮れから引きずっている風邪がなかなか治らず喉が痛いです。 皆様もどうか御自愛のほどを。 今年一年が良い年でありますように。 |