過去ログ2007/12

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2007/12/26
正直、忙しくて年末年始の挨拶がまともに出来そうにもありません。
下記の文章は今年の秋、イタリアへ向かう前に事前に受けていたインタビューの一部です。
日本語訳をUPさせて頂きました。
ほとんど丸投げ状態で申し訳ないですが、来年の掲載まで、よろしかったら暇つぶしにでも読んで頂けたらと思います。



――なぜ漫画を、描くようになったのですか?

漫画家を職業としたのは、プロフィールのところにもあるように本当に偶然なのですが、子供の頃から絵を描くのが
好きな方で、幼稚園くらいの頃には、写実的に描くという事を意識していたようなき気がします。
特に馬を描くのが好きで、馬の足の関節部分が独特な構成をしているという事を意識しながら描いていました。
頭の中に被写体を想像し、様々な部位から描いたりすると周囲の大人が驚いたりするので、面白がってそういう
描き方をよくやっていた、割と可愛げのない子供でした。
小学校の頃は、百科事典を見るのが大好きで、そこで西洋絵画と出会いました。
一番衝撃だったのがカラヴァッジョです。『バッコス』の絵を見て、どうしたらこんな風に透明なガラスと、その中の液体と、
果物、そして人間の肉体といった異なる質感の物を描き分けることが出来るのだろうと不思議で、よく眺めていました。


――お父様は日本の伝統芸能である能の観世流能楽師ですが、芸術家の娘という家庭環境の中で、
芸術文化に触れる機会も多かったでしょうか?

その影響はあったかもしれません。でも芸術といっても家の中にある物は殆どが日本の芸術でした。
日本の芸術というのは、基本的にデフォルメの文化ですよね。絵画の表現もそうだけど、例えば能の舞台背景の絵にしても、
表現がとても平面的で、木を描くときも構成、構図だけで魅せ、立体的には表現しない。木の形を一度象徴化してから描くと
いった技法を使っています。それと、子供の頃よく父親が能の面(おもて)を見せてくれたのですが、それは正面から見ると、
アルカイックな表情をしているのだけど、角度を変える事で笑っている顔や怒っている顔、泣いている顔と表情を変える。
ちょっとした陰影によって、全く違う表情に見えるんです。それ程の繊細さが日本の美術にはあって、本当に細かい微粒子の
ようなレベルでの表現をする訳です。そういう物に親しんでいたから逆に、西洋の絵画を見た時には本当に驚きで、
日本の物より力強く、これでもかというくらいリアルな表現、要するに非常にわかりやすい訳です。
陰と陽でいうなら、日本は陰で西洋は陽の美術なんです。それにとても惹かれました。だから私にとって西洋絵画の詰まった
百科事典は夢の世界だったんです。なので、子供の頃はあまり漫画は読みませんでした。
その後中学でミケランジェロの彫刻をデッサンして、人間は骨と筋肉でできているという事を意識させられました。
それは日本にはない文化だったのでとても惹かれて、西洋美術に傾倒していきました。
高校は美術専門の学校に進学し、そこで現代の芸術文化の基礎であるルネッサンスの美術を学びました。
卒業後は手に職をつけようと服飾の専門学校に通いました。そこに在学時、たまたま漫画雑誌に投稿した所、
とんとん拍子にデビューが決まり、そうこうするうちに今日に至っているという感じで。
だから当初、漫画は本当に生活するための職業選択の一つにすぎませんでした。


―― 影響を与えられた漫画家はいますか?また、漫画にかぎらず、影響を受けた芸術家は?どんな方ですか?

最初はカラヴァッジョの衝撃でしたが、後にギリシア・ローマ彫刻、そしてルネッサンス期の絵画に影響を受けました。
ミケランジェロ、ボッティチェリ、そして写実の最たる物とも言えるレオナルド・ダ・ヴィンチ。
高校ではとにかくギリシア・ローマ彫刻とルネッサンス絵画を観察しろと言われ、写真がない時代によくあそこまで写実的に
描けたな、という事実に脅威を感じましたね。


――観察と伺い思い出したのですが、惣領さんは登場人物のたちのキャラクターを造詣する際もその人物の歴史を徹底的に
調べて、プロファイリングされていますが、そういう意味でも理系というか、科学者のような視点をお持ちですね。

確かにあまり感覚的な人間ではないです。


――作家、芸術家というと日本ではどちらかというと感覚的な人というイメージで、
作品も感性で描くとよく言われていますが。

自分の場合、感性は後付です。まず基本の写実から始まって、徐々にデフォルメを加えていく感じで作業しています。
そのデフォルメにおいて、一番影響を受けたのは、北欧の挿絵画家のカイ・ニールセンなのですが、彼がまさにそうですね。
人間の体を描く際も、写実からそれを微妙に崩していき、それによってとても幻想的なデフォルメを試みている。
しかし、日本の漫画の中には、デフォルメだけで構成された物もあり、たまに面食らう事もありますが、でも、それはそれで
すでにデザインとして世界観が確立されていたりして、逆に感心する事もあります。
こういう状況を目の当たりにすると、私自身は感性が固いというか、写実的に描くということが厳格に体に染み付いていて、
それでデフォルメする範囲を、自ら狭めているような所があるなと、そう思う事もありますね。


――以前ボッティチェリの色が好きだとおっしゃっていましたが。

そうですね。ルネッサンスの華やかな色彩が好きです。ルネッサンスはバロックとは違って陰影を使った表現方法ではないし、
イメージで伝える技法を優先していましたから、よりデフォルメという象徴化があるんですよね。
ボッティチェッリの描く華やかな人物や、背景のモチーフはまさにそうだと思います。ルネッサンスの次に来るバロック美術では、
さらに写実が進み、そのためにやや生々しさが増して来ます。私としては、ルネッサンスの写実とデフォルメのバランスぐらいが、
性格的にあっていて好みですね。最近ではピントゥリッキオも気に入っています。ヴァティカンのボルジアの間の壁画を描いた
画家なのですが、あれを見ると彼は画家というより、現在でいう所のデザイナーに近い感性の持ち主だと感じます。


――日本の女性向けの漫画の現状について、特に所謂成人向け、猥褻な漫画が増えている傾向にある事に対するお考えを
お聞かせください。

一部の漫画に過度な性表現や性描写があるのは知っています。確かに行き過ぎた物に対して私自身も眉をひそめる時も
ありますが、しかし一方で、そういった物の需要があるのも事実な訳で、読者が求めている以上は、それは決して間違っている訳
ではなく、それもまた表現の自由なのだと思います。ただ、まだ親の保護下にあるような幼い子供に対して、そういった物を
軽く提供してしまう日本の環境には、非常に遺憾に思う所が大きいです。
子供は大人以上に刺激に対して敏感です。そういった子供に、いくら望んでいるからといって、刺激的な読み物を与えてしまう
のは、ドラッグ入りキャンディを与えているのと同じような物だと思います。
ただ、一方で出版業もビジネスである以上、売り上げを維持しなければならない事情という物があります。
近年の出版界の不況からいって背に腹は変えられないという現状もある訳で、それは漫画家も同様、それを描かなければ、
仕事を失ってしまうという事態に陥ってしまうケースもあるのです。
それでもやはり、今後の漫画業界の事を考えると、せめて提供の仕方は考え直した方がよいのかもしれません。
表紙はいかにも児童書のようでありながら、その表紙を開くと裸や性描写が延々と続く、親がその中身を判断し兼ねるような類の
本の作り方は、自重した方がよいのではないかとも思います。
そういった物に興味を持つのは、ある意味自然な事であり、否定的な見方は出来ませんが、しかしそれを決して肯定的には
受け取らない意識が、世の中には存在するのだという事を、自覚させる事も重要なのだと思います。


――今描かれている作品は、そういった漫画とは真逆の物だと思いますが、そうした少女漫画界の現在の状況も、
少女漫画誌から青年漫画誌へと活動の場を移された理由の一つですか?

一番の理由は、多様な人間を描きたいと思った事ですが、確かに少女漫画界の現状にもあるとは思います。
少女漫画はとにかく恋愛がテーマであり、恋愛以外には中々焦点を当てさせてくれないという、奇妙な制約があります。
もちろん青年誌にも、それなりの制約はあり、少女漫画出身という理由でなのか、青年誌でも恋愛物を要求されて、
それにはちょっと当惑した事もありましたね。
それから絵に関してですが、投稿作でデビューは決まったものの、それに際して、整った写実的な絵ならよいのだろうと思って
描いていたのですが、「君の絵は生々しくてとっつきにくい」と、いきなり駄目出しをされ、実物の人間のようで子供は
気持ち悪がるから、あまりリアルに描かないでくれと言われ、それよりもっと可愛らしく夢のある描き方を心がけるようにと
指導されました。当時はそれにとても驚いて、改めて他の少女漫画を買ってきて研究した事があります。
それで気づいたのが、私の描く人物は目が細くて小さいと。
少女漫画はとにかく目が大きくて、華奢できらびやかな世界観でしたから、それまでにあまりそういう細かい所まで気にして
いなかったもので、それからは顔の造作のデフォルメにかなり頭を悩ませました。人体も二度描き、三度描きしながら、
始めに写実的に描いた絵を微妙に崩していって、なんとか少女漫画な感じに仕立て上げていたような有様で、
当然通常の二倍、三倍の時間を要し、我ながら変な事をやっているなと思いながら描いていました。


――何故チェーザレと彼に纏わる物語に興味を持たれたのですか?

チェーザレを描きたいというよりは、元々ルネッサンスという時代を、いつか描いてみたいと思い続けていたんです。
西洋美術の基礎であり、最も華やかで美しかった時代、それを作品にしてみたかった。
ただ好きな時代であり、また芸術性の高い時代でもあったからこそ、簡単には手を出せないというジレンマもありました。
でも、二十数年漫画家を続けてきて、以前より自由に描けそうな環境に移ったので、思い切って取り掛かりました。
チェーザレに焦点を当てたのは、日本では小説などを通じて、この人物の名前は割と知られているけれども、その詳しい生涯に
ついては、あまり紹介されていなかったからです。
日本でもダークヒーローのように伝わっていて、でも一方ではマキァヴェッリの『君主論』で絶賛されている人でもあり、
そこがとにかく不思議でした。
でも、実を言うと私も、最初はチェーザレを誤解していました。
おそらく大半の日本人同様、私も彼を無神論者だと思っていて、中世の信仰が人間全てを規定していたあの時代に、
神は存在しないと発言したとしたら、それはかなり気骨な人間だったであろうと。
そう思ったのは、日本でこれまでに紹介されてきたチェーザレ像は、あたかも彼が反キリストか無神論者ではないのかと思われる
行動を取った人間であったように伝えられていたからです。
それが作品を描く事になり、監修の原さんから当時のヨーロッパの世界観についての話を聞くうちに、それらが全くの間違いで
あった事がわかり、これまで想像してきた人物像が見事に崩れ去ってしまったのです。
どうしよう、とんでもない人を選んでしまったと、この段階で実は大変後悔しました。


――チェーザレに関する評価は、欧米の専門家の間でも賛否両論、本当に極端ですね。

はい。でも調べれば調べるほど、私が想像していたよりはるかに、彼は逆風の中で生きていた事がわかってきたんです。
彼の障壁は大変大きく、常にそれと闘っていた事が、原さんが厳選してくれた文献から次々と判明していって、
逆に幸運だったのかもしれない、この人に焦点を合わせたのは正解だったのかもしれないと今では思っています。
彼を理想の君主と称える人もいれば、極悪非道の悪魔だと批判する人もいます。
特に彼の死後に行われた情報操作は凄まじく、それが現代でも影響しているのは事実で、日本で紹介されているエピソードには
後世に加えられた誇称がかなりあると思います。
もうひとつ、チェーザレについて私が描きやすかった理由は、彼がイタリアで活躍したスペイン人であったという事です。
イタリアにとって異邦人であるという立場は、日本人である私自身も同じであり、そういった意味で、気が楽だった感が
あるからです。
これがイタリアで活躍したイタリア人である、レオナルド・ダ・ヴィンチであったなら、またちょっと赴きが変わっていたと思います。
とは言え、ダ・ヴィンチも実は描いてみたかった人物である事には違いないのですが。


――イタリアの中の異邦人、そして庶子であるチェーザレ。前作の『ES』もそうでしたが、惣領さんの描かれる主人公は、
マイノリティの人間が多いですね。

そうですね。ですが彼らに共通しているのは、正論を言って本質をつきつめてしまうが故に、周囲から孤立しているマイノリティだと
思います。厄介だからと葬られていくタイプです。まさにチェーザレと彼の評価が、歩んできた道のりその物のような気がします。


――レオナルドもやはり庶子であり、絵画の完成度を追及するあまり、周囲と遊離していった人物でしたね。
彼も科学的な人間と言われていますが、チェーザレよりも彼の方が惣領さん御自身と性格的に近いのではないでしょうか?
だからこそ、やはり描きづらかったのではないかと思われるのですが?

何かを創造する人間は皆、彼のような部分を持ち合わせているのではないでしょうか?
彼は筋肉の構造を知るために、自ら死体の解剖をしたと言われていますが、冷静に観察する気持ちは理解できる気がします。
それと彼は完成させていない絵が多々ありますが、それに関してもある程度構築して、自分の中で納得いく結論が出たら、
それはそれで良かったのではないかとも思います。結局あとは時間の問題ですからね。時間さえかければ完成するのですから。
私もたまに頭の中で、それなりの場面が完成すると、それで満足してしまって、描く気が一気に失せてしまう瞬間があります。
もちろん、原稿は渡さなければならないので、描くんですけどね。(笑)
チェーザレの方が描きやすかった理由の一つとしては、彼の人生が波乱万丈で様々な事件があるという事ですね。
レオナルドは他人の事にはあまり興味がないんです。向き合っているのが自分の世界であり、絵の世界ですから。
でもチェーザレは他人が非常に係わってきますから、そこにドラマが展開する。
政治家と芸術家という世界観の違いだと思います。


――政治には元々興味がおありだったのですか?

政治には割りと興味を持っている方だと思います。政治家を主人公にしたドラマや、過去におきた事件などの実録や再現ドラマ
などが、TVで放送されていると、時間を忘れて見入ってしまいますね。学生時代は小説家だと山崎豊子、
他に女性作家だと向田邦子、男性だと吉行淳之介、松本清張、太宰治などをよく読んでいました。


――ルッカを訪れる惣領ファン、漫画ファンの皆さんへメッセージをお願いします。

イタリア、ヨーロッパで日本の漫画という物が、文化として受け取って頂けているとしたら、これほど光栄な事はありません。
そして、イタリア、ヨーロッパを舞台にした本作が、その地でどのような評価を受けるのか、とても緊張すると共に大変楽しみでも
あります。歴史の調査も、物語の構成を練るのも、そして画を描くのも全て、これまでの何倍も労力を必要とする作品で、
そのために時間が掛かりますが、気長に見守って頂けると嬉しいです。

(2007年10月3日インタビュー)




2007/12/16
次回「チェーザレ」掲載は、来年1月10日発売のモーニング6号からという事になりそうです。
本当に毎回休載で申し訳ありません。
掲載出来ない代わりにというか、イタリアでの展示会用の描き下ろしカラーの途中で止めてしまった原稿をUPします。
(完成したもう一枚は、イタリアでの展示用として編集部へ渡してしまったので、今現在手元にありません)

たまたま作中で使わなかった、主要キャラクター達の表情のラフが残っていたので、それを元に一枚絵にしてみたのですが、
途中で配置が気に入らなくなり描きなおす事に。
(冷蔵庫の余り物で料理を作るように、お手軽にカラーを仕上げるつもりが、逆に時間を要してしまいました)
本編の原稿と同時進行だったので、どうやら詰めが甘かったようで、
本当はPCを使って作画すれば、もっと時間を有効に使えたのでしょうが、なぜか一枚絵で一発描きでないと
私自身ノリが悪く、結局それなりの時間を使わざるを得ないようです。
つくづくアナクロな人間だと思います。


※因みにこれは、下地の色を塗り始めた段階で、完成原稿の約3割り程度の状態です。
(何気に完成原稿よりこちらの方がレアかもしれません)


             






2007/12/08
お久しぶりです。いよいよ日本も冬本番になってきましたね。私はまた、いつも通り原稿に追われる毎日を送っています。

イタリアに行く前に、向こうでの展示用の描き下ろしカラー画稿に半月、ルッカイベントとイタリア取材のための準備を含めて

約二週間、合わせて一ヶ月強の時間のロスが、中々埋まらなくて、悪戦苦闘しています。

一応、来年の4月下旬に単行本5巻発売を目指してはいるのですが、中々思うように筆が動いてくれません。

年末年始で単行本5巻分、約十話を掲載する予定ではありますが、細部までの見直しと作画で、やはりかなりの時間を要し、

連続で十話掲載は状況からいってまず無理だと思われます。(申し訳ない)

休載を何度か挟みつつ掲載する事にはなりますが、単行本の発売予定には何とか間に合わせたいと思っていますので、

どうか御了承ください。

それからイタリアでのイベント内容、インタビュー及び取材旅行につきましては、目の前の原稿の目処がつき次第、

もう少し落ち着いた頃にでも御紹介できればと思っております。

とりあえず、あちらでのTV、新聞等のインタビューの中から、印象に残っている質問をいくつか上げますと、

「あなたの描く絵には、憂いが感じられるが、それは何処から来るのか?」という質問と、

「チェーザレ・ボルジアを日本の武将に例えるなら?」という質問が、私なりに興味深かったですね。

前者に対しては、「私自身、自分の絵についてよくわかっていないので上手く応えられないが、ただ私の性格には

悲観的な部分が多く、そういったメンタル面が作画に影響しているのかもしれない」

そして後者には「国も人種も思想も違うヨーロッパと日本では、一概に誰とは限定はできないが、

敢えて言うなら、上杉謙信と坂本竜馬の一部分、謙信の信念と竜馬の柔軟性とが垣間見える瞬間がある。(あくまで主観)

それでもやはり、チェーザレ・ボルジアはチェーザレ・ボルジアであって、彼以外の何者でもない」という応え方をしました。

イタリアでも最近ではルネッサンス時代の研究が盛んになっているようで、あちらでの研究者達の見解が私と同じ物であると

いう情報を聞けて何とも心強かったです。

因みにイタリアでは、チェーザレ・ボルジアの事は「ヴァレンティーノ公」と呼ぶのが通常でして、

何故タイトルを「ヴァレンティーノ公」にしなかったのか?と問われて、日本ではヴァレンティーノ公=チェーザレとは

あまり認識されていないという事と、またチェーザレという名前の中にガイオ・ジュリオ・チェーザレ(カエサル)の意も

含まれているという理由で、このタイトルに決めたと応えました。

※イタリアでは「チェーザレ」というと一般的にカエサルを連想する。


Allo staff di Star Comics, Kappa Edizioni, Lucca Comics,
e ancora al Signor Pera dello Studio Bibliografico Pera di Lucca:
un grazie di cuore per la vostra cortesia.
Sono inoltre felicissima di aver incontrato anche tutti voi,
miei cari fans, che siete accorsi fino a Lucca a vedermi.
Anche se per breve, sono stata molto contenta di condividere quei momenti con voi.
Mi dispiace tantissimo di non aver potuto regalare un mio autografo
a molti di coloro che sono venuti a incontrarmi, ma sono sicura
che un giorno ci rivredremo.
Ringrazio infine la Signora Susanna di Torino per il suo bellissimo regalo.
Mi dispiace di non aver La potuta incontrare. L'acquamarina che mi ha donato
e' la mia pietra preferita. La conservero con cura per tutta la vita.
Allora, un augurio di buona salte a tutti quanti e...
arrivederci a presto!

Infine,vorrei ringraziare il Signor Luca Toma per aver mi fatto da interprete.





2007/11/11
無事イタリアから戻って参りました。

ヨーロッパから戻ってくる度、日本の街並みが工場のように見えて、(主に東京の街ですが)

「ああ・・・またシステマティックな毎日が始まるんだな・・・」と、つい溜息をついてしまいます。

この光景を見る度に、日本は戦争で何もかも失い、古き良き物を全てかなぐり捨てて、経済に特化してきた国なのだと

思い知らされます。お蔭で物質的には大変豊かな国にはなりましたが、その反面、ゆっくり立ち止まって物事を考える事すら

許されない、そんな強迫観念に駆られるのが常になってしまったような気がします。

漫画もその経済から産み出された物かもしれないと、ふとそんな事を思う今日この頃です。

漫画は元はアメリカから輸入された文化でしたが、その形態は先人である漫画家達の努力と感性により切磋琢磨され、

今や日本独自の文化「MANGA」となった訳ですが、いつだったか外国の方に漫画をどのようなサイクルで仕上げているのかと

質問された事があり、週刊の場合は一週間毎に原稿を仕上げ、それを毎週読者アンケートで査定され、評判が悪ければ途中で

終了させられると伝えたら、それはどこの残酷物語だと驚愕された事があります。(笑)

日本では漫画の本質は芸術作品などではなく、あくまで数百円で取引される商品であり、定期的に確実に掲載されなければ

ならず、それもお客である読者にたまに酷評されたりする事もある訳で、そういった環境が今日の日本の漫画の水準を

引き上げたのも事実ですが、まあ過酷な事には間違いないでしょうね。よくも悪くも経済の賜物と言えるのかもしれません。

そして、片やイタリアですが、政府が国民に働きすぎるなという条例を出しているとの事で、

就業時間が終わっても、自分の仕事を切りのいい所まで続けていたりすると、同僚達から冷たい視線を浴びるらしく、

仕事よりも家族との関わりを大切にするように!というのが国民に対するイタリア政府の方針のようで、

面白いほどに日本と正反対で、思わず苦笑いしてしまいます。

(これも見方によっては実にシステマティックで、結局人間は組織でなくては生きてはいけない生き物なのでしょう)

これは、イタリアにはローマ帝国時代からの遺産があり、その文化のお蔭で観光客で潤い、経済に頼らなくても

十分成り立っていけるからなのかもしれません。

先程、私は日本は文化を捨て経済に特化したと書きましたが、今回イタリアへ行って改めて知った事は、

漫画がすでに日本の文化として認知され、受け入れられていると言う事でした。

それは私が思っている以上に真摯な物で、本当に熱烈な歓迎を受け正直驚きました。

講演会やサイン会、また雑誌、新聞のインタビューでは、とても深い質問を受け、その誠実なアプローチにはかえって私の方が

恐縮してしまう程でした。またこちら側の取材に関しては、大変協力的に接して頂き本当に有り難く思いました。

成熟した文化は秀逸な物ばかりでなく、ある意味弊害を生み出す事もあったりしますが、これからも表現の自由を損ねることなく、

より良い形で日本の漫画が、世界で受け入れられる事を心から願っております。

ここから先の報告は長くなりそうなので、また後日改めてお伝え出来ればと思いますが、

今回イタリアでこのような交流会を持てたのも、全ては日本の読者の支えがあってこそだと思っております。

出来ればいずれ日本国内でも、このような読者との交流の場が持てればと、私自身切望してやみません。

本当にありがとうございました。


Signore e signori, grazie per il vostro sforzo.
Molto lieta di conoscere voi tutti.
Alla prossima volta. Ciao!




2007/10/29
明日、イタリアに向かいます。

モーニング誌上でも発表しましたが、この度イタリアのルッカ・コミックスからの御招待で、現地でのイベントに参加する事に

なりました。

このイベントというのは、日本の漫画(単行本)が、イタリアの書店で販売されるようになった事の記念イベントとでも言いますか、

実を言うと、今までイタリアでは漫画本は書籍として分類されてなく、そのために駅の売店などで新聞や週刊誌と同じ扱いで

売られており、一般の書店では取り扱われてはいませんでした。

しかし、ルッカ・コミックスの関係者を始め、現地の日本の漫画を愛する方々の熱意によって、この11月からめでたく書籍として

書店で取り扱われる事となり、その皮切りに「チェーザレ」を販売して頂く事となりました。

それに際しての、今回の交流会という事で、現地のファンの方達と御会いできる事を、私も大変喜ばしく思っております。

これを機にイタリアで、日本の漫画という文化が良い方向で根付いて行ってくれる事を、心より願ってやみません。

(そう思うと多少責任のような物を感じ、軽く胃に痛みを覚えますが)

それでは原稿持参でイタリアに行って参ります。


デビューしたばかりの頃、東京のホテルでカンズメ状態になり、連載六話分を描いた記憶がありますが、

イタリアのホテルで原稿を描く日が来るとは、夢にも思っておりませんでした。



Ci vediamo presto!
Sono molto lieta di conoscere i fan italiani. Piacere.
Mi piace molto l'italia.





2007/10/20
「チェーザレ」四巻分の再考が何とか終わり、ちょっとだけ一息付いている所です。

今回は原さんと編集者二名に我が家へ来て頂き、頭を突き合わせながら半日かけて作業を行いました。

前回まではお互い個別に再考を行いながら、電話で連絡を取り合うような形を取っていたのですが、

(それで何とかなると思っていたもので)でもそれでは、どうしてもケアレスミスが出てしまうという事で、今回はこのような

形で作業を行う事に致しました。本当に皆様、ご苦労様でした。

再考といっても誤植等は当然のことながら、その大半は時間系列と登場人物達の続柄だったりしますが、

例えば日本語には「伯父」「叔父」という同じ意味でありながら、微妙に意味合いが違う単語があり、

「ラファエーレ・リアーリオの叔父のジローラモ」と書いた場合は、ラファエーレの親はジローラモにとって年上の兄弟と確定される

のですが、これがもし年下の兄弟からラファエーレが誕生しているなら、そこは伯父と書かなければならない訳でして、

ここが日本語(特に漢字の持つ意味合い)の難しい所で、こういった続柄に関しての単語は、詳細を極める事が出来る反面、

間違ったデータを表示する事にも成り得る、諸刃の要素を兼ね備えているという事です。

因みに今の段階でラファエーレ・リアーリオは、ジローラモ・リアーリアの姉にあたるヴィオランテから産まれた事になっているので

本編ではラファエーレにとってジローラモは叔父という続柄で確定させて頂きました。

こういった些細なようでいて実は重要な記述は、歴史物にとっては御座なりに出来ない要素でして、そのためには

執筆にはどうしてもある程度の時間を要してしまいます。

これは決して資料が不足しているという事ではなく、実を言うと資料自体は溢れるほどあるのですが、問題なのは

その大半が裏の取れない信憑性の低い物ばかりだという事なのです。

その数多くある資料の中から、その人物達の詳細データを割り出し、最も信憑性の高いと思われる物を厳選する事自体

大変な作業で、これは私を含め原さんは当然の事、担当編集者二名も本当に奔走しているような状態でして、

(とはいえ私は自宅で待機し届く資料を読み漁り、本編にとって最も適切と思われる物を選別していくだけですが)

こういった中から、焦点を絞った文献に標準を合わせて物語を構築していっているのですが、登場人物達の続柄、また

その年毎の所在場所、年齢等、こういった事を確定しながら作品を仕上げていくのは本当に骨の折れる作業です。

時間はかかるとは思いますが、読者の皆様には最後までお付き合いして頂ければ幸いと思います。

(気持ちは存命中に描き切るつもりですが)

とりあえず11月発売予定の四巻の最終工程が終わった事のお知らせでした。


※前回で触れたブリューゲルとラファエッロの絵画資料ですが、どの絵画が参考にされたかは掲載号を御覧になった方は

もうお分かりになったと思われます。

ブリューゲルは祭りの場面の参考に、(ブリューゲル(父)はルネッサンス末期に現れた画家ですが、晩年の庶民に焦点を当てた

作品は実にユーモラス且つ精密で興味深く、そのモチーフも人物像その物ではなく、あくまでも庶民の生活を主役にしています。

当時は貴族や権力者に依存する職人が大半でしたので、その中で庶民の生活を淡々と描き続けたブリューゲルは、

大変珍しいタイプの画家だったと思われます)

そして古代復興の台詞の場面では、ラファエッロの「アテナイの学堂」を参考にさせて頂きました。

ラファエッロ作「アテナイの学堂」はラファエッロの作品というよりは、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロといった、ルネッサンスの代表的な

芸術家達の集大成とも言える作品かもしれません。

人物達の重厚さと生命力はミケランジェロ、構図の美しさと繊細さはダ・ヴィンチ、そういった先人達の影響を反映しながらも、

ラファエッロらしい華やかさと官能的な美しさはちゃんと表現されているように思えます。

その華やかさと官能美も、かつての師匠ペルジーノ(ダ・ヴィンチとフィレンツェ時代、師匠であったヴェロッキオの工房で寝食を

共にしていた)からの伝授であったであろうと思われます。

因みに本編の古代の偉人達は、(画面手前に描かれている)

右からアルキメデス、ピタゴラス、プラトン、アリストテレス、ソクラテス、カエサル、左下ヒポクラテス、となっています。

どれも現存している彫像頭部を元に再現してみました。(アルキメデスのみ想像画より引用)





2007/10/07
ようやく涼しくなり一息付いていたら、今度はうっかり風邪を引いてしまいそうな勢いで、相変わらず気の抜けない

毎日を送っております。

モーニング誌上でもお知らせしましたが、今回「チェーザレ」がイタリアで出版される事となり、関係者各位にこの場を借りて

心よりお礼申し上げます。

イタリアでの発売は去年より話自体は進んでいて、出版に際してのイタリア語翻訳について、結構頭を抱えていたのですが、

翻訳を担当してくださった方が、日本在住のイタリア人の方で非常に綺麗な日本語を話され、また漢字も達者に

使いこなされる方なので、原書のニュアンスを壊さぬようにと、大変気を配ってくださり、無事出版という形になりました。

本当に感謝しております。

日本語には敬語という表現方法があり(尊敬語・謙譲語・丁寧語)、世界の中でもここまで多様に言語を使い分ける民族も

そうそういないのではと思われます。「チェーザレ」の本編の中では、この敬語が乱れ飛んでいるため、大変御苦労なさったとは

思われますが(日本人の私でも使い分けで頭を抱える事がある)でもイタリア語は日本語に近いものがあったりしまして。

実はイタリア語には日本語同様敬語が存在します。

また大変面白いのが、一人称ニ人称三人称によって動詞も変化していくという物で、主語は伏せたまま動詞の変化で

誰の事を話しているか判断するという表現方法なのですが、これは慣れるまでかなり混乱します。

後、冠詞も実に数多く使い分けられており、単語を目にする度、毎回頭文字と語尾を慌てて確認する有様です。

何故ここまでイタリア語の表現が多様化したのかと言うと、歴史的に長きに渡り近隣国から侵略されたり、また自国も分裂を

繰り返していたため、言語の扱いに関して細心の注意を払うようになり、それで単刀直入ではなく暗号のような言い回しが

根付いたのではないかと言う事のようです。

因みに日本語の「久しぶり」や「とりあえず」といった言語はイタリア語にはなく、そのために日本語では「久しぶり」の一言で

済むところを、イタリア語では「長い間きみとは顔を合わせていなかったね」となるので、吹出しの大きさも今後は考慮しなければ

ならないかもしれません。とりあえず(この「とりあえず」もニュアンスで伝えようとするとかなり難しい。妥当なイタリア語表現は

「まず、最初に」とかでしょうか)今年に入ってからは、吹出しが日本語用のみに縦長くなるのを避けていたのですが、

まだまだ改善の余地はありそうです。恐るべしは日本語という事なのでしょう。

そういった微妙な差異が理解できるため、今回のイタリア語版「チェーザレ」の翻訳には、翻訳してくださった方の拘りが感じられ

この本がイタリアの読者にも上手く伝わればと心から願っております。

といった訳でVirtu32ですが、チェーザレが使い分けていたように、貴族と庶民では表現方法は著しく異なります

そうでなくともローマとトスカーナ地方ですから、同じイタリア半島でも理解は困難と思われ(日本でも地方、例えば九州の人間と

東北の人間では、スムーズに会話はできないはずで、それを補うために標準語という共通語が誕生しました)

そのために当時のイタリア半島では、イタリア独自の共通語(いわゆる日本での標準語と同じような物)が存在していまして

中世ヨーロッパの諸外国間での標準語に当たるのはラテン語でしたが、それとは別にイタリア半島の人間達は、通常この

共通語を使って会話していたようです。(このラテン語と共通語を理解できるのも、それなりの教育を受けた人間だけでした)

そこでキー・パーソンとなってくるのがアンジェロという訳です。

彼は本編ではかなり間の抜けた感じのキャラクターに思われていますが(私の描き方に難があるのかもしれませんが)

実は彼の役付けとして、トスカーナ地方の言語だけではなく、職人達の専門用語にも精通しており、さらにチェーザレ達貴族との

会話もこなしてしまう(つまりイタリアでの共通語にも長けている)本当は切れ者という事でして。

それは彼が育ったフィレンツェという土壌のお蔭なのですが、まあ今回それは置いといて。

(それはVirtu34を御覧になればわかるとは思います)

要するにアンジェロはチェーザレの通訳として成り立つ人間で、庶民と貴族、両方の状況を把握できる、ある意味大変重要な

キャラクターであると言う事なのです。

貴族の立場からだけでは到底描き切れる世界ではないので、このアンジェロというキャラクターの背後には当時の民心と

いう物が存在していると思って読んで頂けると幸いです。

蛇足でありますが、日本のコーヒーショップでは、カフェ・ラッテとカフェ・オ・レが同じ店で売られているらしいのですが

イタリア人はこの事に驚愕するそうです。(おそらくフランス人も)

カフェ・ラッテ(伊)もカフェ・オ・レ(仏)も、実は日本語に訳すと牛乳入りコーヒーで、同じ物がイタリア語とフランス語で

売られている、しかも値段が違っている、何故? という事らしいのですが、日本人の私にもその理由ははっきりと説明できずに

今日に至っております。

多分、おそらくなのですが、値段の違いは使用しているコーヒーの入れ方か、豆の種類等に違いがあるのかも・・・

などと適当な返答をするに留まっています。


※さらに蛇足で今更なのですが、思い出したので参考までに。

チェーザレの発音ですが、イタリア語読みする場合はチェにアクセントを付けて発音します。カエサルと同じアクセントですね。

日本語読みだと、フラットに呼ぶ方が発音しやすいので、ついそのように発音してしまいがちですが、

イタリア語読みを意識するならチェを強く発音するのがベストと思われます。

また二巻の巻末で触れたように、ボルジアもボルジャが正しいイタリア語発音で、これも何故かボルジアが日本では

定着していたため、ボルジアで統一させて頂きました。

因みに彼らの母国スペイン語発音では、ボルジアはボルハとなります。

日本=チェーザレ・ボルジア  イタリア=チェーザレ・ボルジャ  スペイン=セサル・ボルハ  という感じです。


※※※上記で名前の呼び方は、チェザーレも可なのではないかと書きましたが、これは完全に間違いのようです。

日本でたまにそう呼ばれている現象があるというだけで、正しくはチェーザレ(チェにアクセント)です。

フランス語発音だとセザールとなるので、その関連から誤解が生じたのかもしれません。

それから、当時のイタリア半島内で使われていた共通語についても追記させて頂きました。




2007/09/25
「チェーザレ」今週ようやく再開です。とは言っても四話だけですが。
今現在は5巻分の描き溜めに取り掛かっているものの、これがまた中々進まずで・・・。
でもまあ、やっと涼しくなり睡眠もまともに取れるようになって来たので、これからちょっと渇を入れていこうと思っております。
(冷房は苦手なもので、入れたとしても28度、就寝時にはエアコンを切るようにしていたので、今年はさすがにバテました)
それでも27日発売モーニング43号からの掲載四話で、ちょうど「チェーザレ」4巻分の原稿が溜まり、
来月はその再考を改めて行う事になりそうです。

相変わらず、ルネッサンス期の絵画を参考資料として扱っておりますが、ついつい資料に見入ってしまって、
気がつくと時間があっという間に過ぎ、その度に慌てて原稿に戻るような毎日です。
今回はブリューゲルとラファエッロの絵画を参考資料として使わせて頂きました。
どのあたりでその場面が登場するのか、またどの作品を参考にしたのか、そういった見方も面白いかもしれません。
まあ、楽しみにしていてください。



2007/09/07

やっと涼しくなってきましたね。と、言いたいところですが、関東地方は台風直撃だそうで、大事に至らない事を祈ります。

ところで「チェーザレ」掲載が9月13日と以前お知らせしましたが、実は9月27日に変更となりました。
楽しみに待っていてくれた読者の方々には、本当に残念なお知らせで申し訳ない。
単行本四巻発売を11月下旬に予定しているため、現段階で四巻分の原稿はすでに完成しているのですが、
出来るだけ雑誌掲載と単行本に差が出ないよう、また初版と再版の度にネームの変更、追加といった事のないよう、
多少時間をかけて再考したいという事ではないかと思います。本当に申し訳ありませんが、後三週間我慢してください。

そのお詫びという訳ではないのですが、ヴァティカンのボルジアの間の壁画をUPしてみました。
チェーザレの肖像画は、大半(ダ・ヴィンチの素描を除く)がチェーザレの死後に想像で描かれた物ばかりのようですが、
このボルジアの間の、ピントリッキオ作の壁画の中の人物は、限りなくチェーザレである可能性が高いと思われるので、
この機会に御紹介しようと思います。

アレッサンドロ六世と共に描かれているのは、ボルジアの四兄弟であるのは確かだと思われるのですが、
実際にはどれが誰と確定されている訳ではなく、ただ一番右の人物が他三人と違って武器を持っていないため、
兄弟の中で唯一聖職者であったチェーザレではないかと言う事のようです。
この時代の聖職者を描いた絵画は、各々の描かれ方によって宗教的な意味合いが含まれていたりするのですが、
そこの所はまだ調べがついていない状態なので、詳しい事がわかった際にまた御紹介できればと思っております。

一番下の絵は、同じくボルジアの間に描かれている物ですが、これもチェーザレではないかと思われている絵画です。
これも確証はなく、チェーザレあるいは弟のホアン、もしくはトルコの王子ジェームのいずれではないかと言われています。
実際、身に着けている衣装はトルコ風でジェーム王子の可能性も高いのですが、同じ場所にルクレツィアらしき人物も
描かれており、チェーザレ、ホアンどちらかであっても不思議ではないと思われます。
ただ、弟ホアンはガンディア公になってからは大半をガンディアで過ごしており、ローマにはあまり帰って来ていなかったようで、
(父、兄に対してかなりコンプレックスを抱いていた節がある)
そういった諸事情から、チェーザレをモデルにして描かれたという説も捨てきれない物があります。


写真撮影が天井を見上げる形で行われているため、仰ぎ見で絵に歪みが生じていますが、
左からロドリーゴ(アレッサンドロ六世)  中央上:長男ペドロ・ルイス  右:次男チェーザレ  右下:三男ホアン  中央下:四男ホフレ (ではないかと言われている。また長男ペドロ・ルイスはこの時すでに亡くなっているので、そのためか
それらしき人物と思われる絵は、顔がはっきりとわからない仕様に描かれている)
※窓からの自然光で右側が影になって多少見辛いです。




     

白馬に乗った騎士の絵ですが、実物よりコントラストを強めてUPしているため、この写真では髪の色が褐色のように
見えますが、実際はもっと明るい色で、ほぼ金髪のように
描かれています。
もしこれがチェーザレならチェーザレの髪は金色だったという事になるのですが、この時代での金髪は実は大きな意味合いが
ありまして、金色等の明るい色は光(神様)を連想させる物として、神々しいという事で大変好まれていたようです。
チェーザレの肖像画が悉く処分されたのは、もしかしたら髪の色に原因があったのでは?などと、
ついそんな穿った事まで考えてしまいます。(笑)
悪魔的であるという烙印を押されたチェーザレが、金色の髪では示しがつかなかったのではないかと。(とんでもなく推測です)

※この絵にも表れているように、ボルジアの間はイスラム様式に溢れ独特の雰囲気を漂わせています。
(ボルジア家というより、当時のスペインの御国柄が出ているのかもしれません)
機会があれば、ユリウス二世(ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)がミケランジェロに描かせたシスティーナ礼拝堂の壁画と比較して
見てみると大変面白いかもしれません。
画家としてのスキルからみるとミケランジェロに軍配があがりますが、個人的にはピントリッキオが好きですね。
色の使い方が実に独創的で、くどいように見えて軽快、散漫なようでいて一貫性があり、今風に言うならスタイリッシュとでも
言うのか、ある意味ボルジアを見事に表現しているように思えます。
私的には大変お洒落に見えて実に面白い画家だと思います。




2007/08/21
ようやくカラー原稿が一段落つきました。とはいえ、締め切りに追われているのは相変わらずですが。(苦笑)

それにしても、いつまでたっても暑いですね。

深夜から明け方にかけては、だいぶ涼しくなったものの、日中はまだまだこの暑さが続きそうな気配ですので、

皆様もどうか御自愛のほどを。

ところで、この場を借りて「チェーザレ」作中でのサピエンツァ大学の時間割について、今更ながら説明の補足をさせて頂きます。

あの時代の時間割という物についてなのですが、実は当時、原さんがかなり詳しく書かれた資料を探してきてくださっていて

内容的にもちょっと面白いものがあったので、改めてここで御紹介しようかと思います。

作中では授業の時間割については、アンジェロの受講するものだけをピックアップして描きましたが、

あの当時、深夜零時からの授業開始という記録も残っていて、実は現在の常識では考えられないような時間帯に

授業を行っていたようなのです。

何故そのような時間帯にわざわざ授業を行っていたのだろうと、その時は何気に疑問に思ったものの

結局はスルーしてしまっていたのですが(他にも調べなければならない事が山ほどあり、要するに時間がなかった)

最近になってふと思ったのが、実はこの時間割は主に夏に発動されていたのではないかという事です。

要するに暑さ対策というか、学問するなら快適な時間に限る、なんて理由だったのではないかと。(あくまで推測です)

ついこの間、知り合いのイタリア人の方に、イタリアでの夏の過ごし方について訊ねた所、やはり暑さが厳しいとイタリア人は

木陰などでのんびり過ごす事が多いらしく、(ヨーロッパは日本と違い湿気が少なく、日陰は涼しく過ごしやすい)

その結果夜が長くなるという訳で、(所謂夏時間という奴ですね)皆さん割りと夜遅くまで活動し、朝はゆっくりとしているそうです。

疲れていたり不快だったりすると、結局は効率が落ちてしまう訳だから無理はしない、今日出来なくても明日があるじゃないか、

というのがイタリア式夏の過ごし方らしいです。羨ましいほどに道理に適っていますね。

(ただし、飲食関係やサービス業についてらっしゃる方達は、さすがにそうは言ってられないらしい)

日本人の性なのか、私などは少々バテ気味でもとりあえず机にしがみ付いて、予想通り作業も進まず失意のうちに

仕事部屋を後にする、そんな事を繰り返してばかりで何とも悲しいものを感じてしまいます。(苦笑)

因みに、チェーザレ達の時代の夜遅くに行われていた授業は、結局は学生、教師、双方にとって不評だったようです。

理由は時間帯からいって、学生も教師も食事とワインで軽くいい気分になっている頃合なので、

言動はあやふやだわ居眠りはするわ、要するにまともな授業にはならなかったのではないかと言う事でした。

出来れば作中で、酔っ払いだらけの授業風景など描いてみたい気もしましたが、(笑)

正直そんな余裕もなく、エピソード的にも本分から逸脱しているため割愛させて頂きました。

当時の授業内容は作中でも描いた様に、法学部の場合はディスプターチオ(討論)で行われていたようなのですが、

実際どのような状態だったのかは皆目見当つかずで、色々と考えた末、ダンテの「神曲」をテーマに現在の法廷劇のような形で

再現しました。

これは、たまたま原さんがダンテの研究者であった事と、地獄篇三十三歌の舞台がピサの街であったという偶然から

引用する事にさせて頂きました。

最初は軽い思いつきで提案したのですが、原さん曰く

「ベストな選択です。「神曲」の講義をするのなら、是非ランディーノを登場させないといけませんね」

「誰ですか?それ」

「ご存知ないのですか?ダンテ研究の第一人者クリストーフォロ・ランディーノですよ」

知るわけがない。

という訳で、クリストーフォロ・ランディーノの当時の状況の資料と肖像画を探す事となり(探し当てたのは担当編集者)

さらに改めて「神曲」を読む羽目となり(地獄篇三十三歌のみ)

そんなこんなの繰り返しで当初もらった半年の休みが、最終的には一年になってしまったという訳でした。

思えば、この辺りから原さんと私の暴走が始まったのかもしれませんね。

要するに、サピエンツァ大学の資料を筆頭に、それに関連した記述を芋づる式に次々と探っていったら、

その探し当てた様々な文献等が、実は暴走するほど面白かったという事なのだろうと思います。


※7/15でお知らせしたピサ(フィレンツェ)の新年の日付ですが、4月からと書きましたが、厳密に言うと3月25日からがピサでの
 正式な新年となります。またこれはフィレンツェでの年の数え方なのですが、当時ピサはフィレンツェの統治下にあったため、
 サピエンツァ大学の名簿にはフィレンツェと同様の日付で履歴が記されていました。



2007/08/15
今年も終戦記念日を迎えました。

気がつくと、私の中でも戦争(第二次世界大戦)という物が、日々風化していっています。

思えば当時イタリアは日本の同盟国でしたね。

三年前取材で訪れたピサの街の、アルノ河の橋全てが連合軍の空爆で破壊されたという話を思い出していました。

あの時も、戦争は日本だけに爪痕を遺していたのではないのだと言う事を、改めてを思い知らされた記憶があります。

と、言っても私は戦争体験者ではありません。

私の中にある戦争の記憶は、戦争体験者であった両親の話による物で、この時期になると毎年必ず当時の

戦中、戦後の日本の話を聞かされたものでした。

それでも広島、長崎の原爆投下の状況についての具体的な話を聞かされたのは、私が中学に上がってからの事だった

と思います。(私の年齢的な事に対する配慮からだったと思われます)

ここからの話は、主に私と私の父の会話での思い出となりますが、多少表現に過激なものがあるため

そういった事に拒否反応を示す方は、お読みにならない事をお薦めします。


昭和46年の5月だったと思います。私は中学一年になったばかりで、その日の夜9時過ぎたあたりでした。

居間でTVを観ていた私の元に父がやってきて、唐突に

「おまえ、死体見たいか?」と訊いて来たので、「人間の?」と訊き返したら「そうだ」と応えるので

ちょっと考えてから「うん」と返事しました。深く考えた返事ではなく条件反射のような感じだったと思います。

「じゃあ、付いて来い」と言われ、そのまま家を出て父の単車の後ろに乗り、近所の河川敷まで出かけました。

河川敷に近付くにつれ、周囲が異様な状況である事に私は多少不安を覚えましたが、

父はそんな事にはお構いなしに、「この先の陸橋で人が二人特急列車に飛び込んだ。心中らしい」

そう言うと、単車を止めて後ろの荷台から降りた私の手を引き、人だかりの中にどんどんと進んでいきました。

(今夜はやけに外がうるさいと思っていたら、原因はこの事件のせいでした)

河川敷の土手の付近まで行くと、そこには警官が何人かいて野次馬を整理していたのですが、

父はそのうちの警官一人に声をかけ「悪いけどもう一度通してくれ。今度は娘も一緒だ」と言い、それに対して

その警官は「え?お嬢さんですか?いいんですか?」と父に念を押し、それに対して父は

「いいんだ、教育だ。この子はまだ死体を見た事がない」そう言い

警官は戸惑っていましたが、父が引かないので結局「私は責任持てませんよ?」と言いつつ、

土手の最前列へと連れていってくれました。

(後から聞いたのですが、この警官は父(観世流能楽師)のお弟子さんだったため、融通を利かせてくれたそうです。

昭和40年代の日本は、まだこういった強引さが罷り通る時代でもありました)

そこから見えたのは、川のすぐそばあたりにビニールシートが敷かれており、その上に人間らしき塊が積み重なって

置かれている状況でした。(周囲ではまだ遺体の回収が続いていました)

夜でしたので、そこにはサーチライトが当てられており、遺体の全ては白く発光していました。

列車にはねられた際、バラバラになった遺体は下の川に落ち、そのために血は全部流されてしまっていて

警察が川から引き上げ回収を始めた頃には、このように真っ白になってしまっていたようでした。

(今思えば、血まみれの状態だったら、父は私をここへは連れてこなかったのではないかという気がします。

おそらく、それ以前に警官が通さなかったでしょう)

まだ子供であった私はここに来るまで、まるでお化け屋敷にでも行くような気持ちでいたのですが、(不謹慎ですが)

実際に目にすると、なんだかとても寂しい気分になった記憶があります。

帰り道、父は私に「あれ(死体)、どうだった?」と訊いてきました。

「物になってたね」と応えると

「だろう?」 「人間はいずれ皆死ぬけど、あれはいかんな。他人に迷惑かけたらいかんだろ」

そう言うと父は急に話題を変え

「おまえ、広島と長崎に原爆落ちたの知ってるだろ?」と訊いてきました。

「うん、学校で教わった」

「長崎に落とされた時、俺は小倉にいたんだが、あれ本当は小倉に落とされる事になってたの知ってたか?」

「そうなの?」

「あの日、小倉は曇ってて、それで長崎に変更されたんだ」

「あの日、小倉の上空が晴れてたら、俺もおまえも今ここにはおらんな」

「ほんとだね」

そんな会話をしながら家にたどり着くと、母が鬼のように怒っていました。

こんな時間に父と私が家から消えてしまっていたので、まさかと思ったらしく(母は父の性格をよく把握していたもので)

そのまさかが本当だったため、そこからは父と母の激しい口論が始まってしまいました。

「娘にそんな物を見せるなんて、どうかしてる」

「これも教育だ」

「何が教育ですか」

と言ったような両親の、子供に対する教育方針と意見の対立が、その後夜遅くまで続いていました。

多少乱暴な気もしますが、人によっては眉をひそめるような行為でも、それが父なりの教育だったのでしょう。


昭和20年8月、父は当時福岡県小倉市の予科練で出兵を待っている若い兵士でした。

東京、大阪など日本の主要都市が米軍に空爆され沖縄が占領され、まさに本土決戦を覚悟していた時だったそうです。

6日に広島に新型爆弾が落とされたという報告が入り、その状況の詳細もわからないまま、

9日に長崎にも同じ物が落とされ情報が錯綜する中、父達若い兵士は長崎へと向かうことになりました。

長崎が壊滅状態だったため、負傷した生存者を福岡の病院まで搬送するためです。

長崎の中心部に近づくにつれ、父達はその状況に息を呑んだそうです。

長崎は瓦礫と死体の山で、それは今までに見た事のない光景だったそうです。

その中にも辛うじて生存していた人達を救済にきたものの、被爆者は体中火傷で皮がめくれ、そのために

支えてあげたくとも触ると悲鳴をあげるので、ただトラックへ誘導する事しか出来なかったそうです。

福岡に着くまでトラックの中からは、ずっと泣き声が聞こえていたそうで、それでも何をしてあげられる訳でもなく

福岡に着いたときには、数名はすでに死体になっていたそうです。

その間父達若い兵士は、休憩時間に食事を取っては食べた物を嘔吐するを繰り返すしかなかったそうです。

この時父は日本の終末を覚悟したそうです。


昭和46年の心中事件には後日談があり、事件のあった次の日私が学校へ行くと、学校でもこの話で持ちきりでした。

仲のいい友人達に、実は昨夜その現場に行ったのだという事を話すと、友人達は驚き興奮し挙句の果てに放課後

そこへ連れて行ってくれと言い出したのです。行ってももう死体はないよ、と言ったのですが

それでもいいからとせがむので、気乗りはしなかったものの皆で向かう事となりました。

河川敷に降りその場所に近づくに従って、異様な臭いが漂ってきました。

「これ何の臭い?」と友人が訊ねるので「もしかしたら昨夜の死体の一部が残っているのかもしれない」と応えたら

皆黙り込んでしまい、そしてさらに進んで行くと、その先にかなりの数の犬が集まっている光景が見えてきました。

ちょうどその時、その中の一匹がこちらへ小走りに向かってきたのですが、その犬の口には昨夜回収しきれなかった

遺体の残骸であると思われる物が銜えられており、それを確認したとたん友人達は悲鳴を上げ逃げ出してしまいました。

私は先へ進む訳にも行かず、その犬が通り過ぎるまでそこで棒立ちになっていたのですが、友人達が戻ってくる気配が

なかったので、結局皆の所へと引き返しました。友人達の中の一人は泣いていました。

その友人の気持ちが落ち着いた所で皆帰路についたのですが、帰り道私は父が見たという長崎の光景を想像していました。

「こんなものではなかったんだろうな」 思いつくのはその程度の事でした。


毎年この時期になると我が家では、自然と戦争の話になりました。

当時の子供の親は大半が戦争体験者だったため、どの家庭でも戦中戦後の話は聞かされていたと思います。

「別府の上空をB-29が飛んでいくのを見た時、なんて綺麗な爆撃機なんだろうって思った」母の戦争の記憶です。

「銀色の機体が太陽の光でキラキラしててね、米軍の爆撃機は本当に綺麗だった」

母の住んでいた別府は世界有数の温泉都市だったため、米軍の攻撃対象地区から外されていました。

米軍の空爆を受けていた父の住む小倉とは、全くの別世界に住んでいたと言っていいでしょう。

「馬鹿野郎、そのB-29は小倉の工場を空爆するためにやって来てたんだ。小倉は火の海だった」

「大分市の工場も空爆されたけど、あれは怖かった。別府市まで響いてきたあの爆撃の音は一生忘れられない。

あの時は本当に米軍が怖かったけど、でも戦争が終わって別府に進駐してきたアメリカ兵は優しかったので驚いた。

アメリカさんは紳士だった」

「ピカドン(原子爆弾)落とすような連中のどこが紳士だ」

「じゃあお父さん、日本軍の真珠湾攻撃、あれはどうだったの?」少し知恵をつけてきた私が生意気な事を言うと父は

「ありゃあ日本が悪いな。だが日本にはもう奇襲しかなかったんだ」 「でもピカドンは駄目だ。あれは駄目だ」

父は昭和57年8月4日に55歳で亡くなりました。 今思うと、父は日本の昭和という時代の生き証人でした。

戦争の真っ只中にいた父と、それを第三者的に見つめていられた幸運な母と、戦争を全く知らない私と

温度差が微妙に違う親子の会話は、いつも堂々巡りとなりましたが、最後は決まって父が私に向かって言う

この言葉で締め括られました。

「おまえは幸せだ」  本当にそう思います。


戦没者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。




2007/08/03
相変わらず作画に追われて心身疲弊の毎日を送っています。
冷房が苦手なため、なるだけエアコンには頼らず、風を入れ通気をよくして仕事していたのですが、
さすがに今日から冷房を入れました。
原稿には乾いた空気が良好なのですが、体にはどうも具合が良くないらしく、特に右腕が重くならないように保温用にニットを
巻いて作画しています。(冬用の靴下の先端をカットした物に、利き腕を突っ込んでいるだけなのですが)

ところで、それとは関係ない話ですが、先日知り合いの漫画家さんから作画に使っている道具について、
かなり真面目に聞かれまして(NHKで放送された作画風景を観ての事らしい)
私自身はあまり気にしていなかったのですが、もし割りと気になる事なのであればと、この場を借りて御説明しようかと思います。
(興味のない方は読み飛ばしてしまってください)

私の原稿は背景も人物も全てサインペン(PIGMA0.05〜 0.1使用)で描いているのですが、
(通常はGペンと呼ばれているペン先に、黒インクをつけて描いている漫画家さんの方が多いのではないのかと思われますが、
よそ様の事情は私も最近はよくわかりません)
0.05のペンを使っての線がかなり細く見えるらしく、実際使ってみたところ同じような線が出なかったと言われ、
ちょっと自分なりに考えてみたのですが、多分線の入れ方のスピードによる物ではないのかと。
サインペンの場合はゆっくり引くと、単調でそれなりの太さの線が引けるのですが、要所要所でスピードをつけると
かなり細い線が引けたりします。
この要領でやると集中線やベタフラ等もそれなりに形になったりするので、私が効果をやる時は殆どサインペンでやっています。
(アシさんは丸ペンを使ってやっていますが、やはり丸ペンの方が圧倒的に綺麗ですね。私が効果をやるときは時間的にかなり
押してる時のみなので:苦笑)
服やら体の部分は大半が0.1を使用していますが、頭部は0.05使用で、スピードを緩めたり速めたりしつつ描いています。
わかりやすく言うと習字のような感じでしょうか。溜めてはねる、の繰り返しですね。
あとは加減しながら、なぞり描きというか、二重三重に線を重複させて微調整しています。体部分も0.1で同じような仕様で
描いています。

かれこれ二十年ほど前、連載を月刊と週刊でかけもちしなければならなくなった時に、作画時間短縮のために仕方なく
使い始めたサインペンですが、利点はとにかく縦横無尽にインクの擦れを気にせず描き殴れるという所ですかね。
本当なら仕事量を抑え、もっと時間をかけて描けば良かっただけの話なのですが、これがどうにも断れ切れず、
よくニュースで断りきれずに品物を売りつけられてしまったお年寄りの話とか出てきますが、皆さん口を揃えて仰るのが
「どんなに断っても帰ってくれなかった」と言う事なのですが、今思うとかなりそれに似た状況だったような気がします。
(表現悪いですが)
何気に当時は、締め切り厳守でそれなりに原稿アップしていましたので、依頼しやすい作家だったのかもしれません。
(仮にもプロとしての第一条件は締め切り厳守という事でして)
まあそれと似たような感じでして、じゃあ強気で追い返せばいいじゃないかとお思いでしょうが、何せ編集部との折り合いが
ライフライン確保の自営業であるため強気になる事も出きず、そのために作画へのコスト削減という結果になってしまったと
いう訳です。
その折にもとりあえず、時間短縮のためにサインペンで描いていいかと編集に尋ねたら、それは線が死ぬから止めてくれと
言われまして(鬼かと思いました)
仕方ないので内緒でサインペンに持ち替えて作画して渡していたのですが、何も苦情を言ってこなかったので結局そのまま
描き続けて今日に至っています。
(まあ死ぬだの生きるだの、そういうレベルの線ではなかったという事かもしれません)

因みに友人にも再確認されたのですが、サインペンの場合消しゴムで下絵を消すと線が薄れてしまうらしく、
その対処法として参考になるかどうかわかりませんが、
うちでの場合は、ペンが入っていても原稿を長時間放置しておいたりするので、平均で二日以上は時間経過するため
インクが紙に染み込んでいるのか、もしくはペンを重複させているため定着がいいのか、
問題はインクの定着具合なのだとは思いますが、どちらにせよ下絵自体は鉛筆(B)でかなり薄めに描いています。
下絵をかなりしっかり入れる方は、鉛筆の粒子でコーティングされてインクのノリが悪くなるという可能性もありますね。

しかし、ここまでコスト削減(いちいちインクをつけずに済む)で描いている割には、本当に作画に時間がかかります。
描いても描いてもコマの中が埋まらない。
(最近はデータ収集のおかげでようやく背景もこなれてきたのですが、当時の生活風景というか、風俗を想定して描くのは
相変わらず難儀である事には変わりないです)
物描きとしては作画の質を取るか量を取るか、かなり辛い所でもあるのですが、要はバランスなのかもしれません。
描き込めばいいと言う訳ではないですが、今現在はこのバランスかなり崩壊しているなあ・・・。

とりあえず作画での参考になればという報告でした。

※今までPC二台使っていたのですが、不具合が多くなった事で一台にしたものの、
その際にメールの一部が誤作動で消去されてしまいました。
時間が出来た際には気分転換も兼ねて返事等を書いていたのですが、(かなり滞ってはおりますが)
消去されてしまったかもしれない方には本当に申し訳なく思います。
メールは全てに目を通していますので安心してください。この場を借りてお詫びとお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。



2007/07/15
「チェーザレ」掲載号が決まりましたので、お伝えします。

前回掲載は8月になると告知致しましたが、雑誌上の都合で9月13日からという事になりました。

掲載を楽しみにしていた方達には、本当に申し訳なく思いますが、もう暫くお待ちください。

9月13日から掲載予定の4話分は、すでに出来上がりつつあるのですが、問題は8月から作画に入る(入らないといけない)

単行本5巻の収録分です。

5巻収録分は、11月から再開予定しているのですが、一応年末年始を挟んで一気に10話分を掲載し来年の春には5巻を出す、

という流れで進行中です。(10話いけるといいのですが・・・)

この10話分がなんとか年内までに描き切れれば、かなりましなペースになってくるのではと、希望的観測な見方をしています。

とりあえずは次回掲載用のカラー原稿に着手しつつ、4巻収録分の再考をやる事になりそうです。

今回は3巻でのようなミスがないよう、編集共々かなり慎重に検討したいと思っております。

内容的にどうしても文字が多くなってしまう作品でして、写植の方にも大変な負担をかけているような有様ですが

(文字数が通常の5倍なのだそうです)それでも前向きに取り組んでいただいて大変有り難く思っております。

※3巻重版分では老コジモ=父→祖父への修正と共に、サピエンツァ大学の学生名簿の記録にも注釈を付けさせて頂きました。

注釈を付ける事を、原さんは迷っていたようなのですが(画面が文字だらけになってしまうため)

史実としては当然の事ですので、絵よりも事実を優先すべきと思い、これに関しては追記させて頂きました。

問題箇所は、この学生名簿のチェーザレの教皇庁書記長任命時の年代なのですが、ラテン語表記は1482年となっていますが、

これは実際残っている名簿を、そのまま写植によって再現したものです。

日本語訳では1483年になっていますが、その理由は、地域での新年の時差というものが関係しており、

この当時のピサは4月から新年が始まる事になっていたらしく(中世では各地によって新年が異なっていた)

要するにチェーザレが書記長に任命されたのが3月だったため、ピサの名簿には1482年3月任命となり、

現在(当時のローマ)では、1483年3月任命という事になるという訳です。

つまり、チェーザレは実際には1483年3月7歳(9月生まれなので、この段階ではまだ7歳)で教皇庁書記長を

任命されている訳でして、教皇庁では数え年で記録されているため8歳となっており、そのため作中でもチェーザレは

8歳で書記長になったと表現しています。

あの名簿はピサの教会で職員が手書きで作成しているため、当然の事ながら1482年3月となる訳でして、

実際の名簿を写し描きしても良かったのですが、架空の人物のアンジェロの設定を名簿に表記しなければならず、

履歴を設定、それをラテン語表記にし、写し描く時間を短縮する事と、何らかのミスがあった場合(何せ架空設定ですので)

訂正しやすいという理由から、写植で打たせて頂きました。

とりあえず原版の文字に一番近いフォントを選んだのですが、いずれ余裕が出来れば手書きで描き直せればと思っております。

初版を手に入れた方には、本当不備ばかりで申し訳ない。今後も精進します。

そして新たに登場したマキァヴェッリ。(勘のいい方はすでに1巻からお気付きになっていたと思われますが)

このマキァヴェッリの設定も、今更ながらですが創作です。

マキァヴェッリについては、かなり調査したのですが(これは原さんが随分と骨を折ってくださいました)

1491〜2年の記録が全く見つからず、今現在では空白の2年間となっており、そのため逆に空白である事に乗じて、

メディチの密偵としてピサ、サピエンツァ大学に潜入させました。

この時期、マキァヴェッリの従兄のフランチェスコ・ネッリが、大学名簿の記録からサピエンツァ大学に通っていた事が

判明しているのですが、何故かニッコロ・マキァヴェッリの記録が全く残っておらず、(因みにマキァヴェッリの弟はドメニコ会に

入会しており、このあたりの経緯は、関連性として必要であれば作中で触れるかもしれません)

マキァヴェッリ本人は、かなりの学力を持っていたはずなので(ラテン語を話せた)、それにも拘らず大学に在籍していなかった

というのも実に不思議な話で、穿った見方をするなら、作為的な何かがあったのではないかと推測する事もできるのです。

そういった「かもしれなかった」を今回も活用し、敢えてマキァヴェッリを「チェーザレ」作中にこのような形で登場させました。

今現在も、原稿作成と同時進行でデータ収集はしているのですが、歴史の記録には「絶対」と言い切れる物がないのが


実は現実でして、それはその時々の事を記録していくのが、その時代の生身の人間であり、そこに何らかの政治上の都合やら

圧力やら私情やらが作用する事で、その事実は微妙に歪められる事も有り得ると言うことなのです。

ただ、その時代の当の本人が書いた手紙を目にした時、今はいないその人間の心情が垣間見れる瞬間があります。

実はチェーザレの残した手紙の中には、チェーザレが聖職者であった事を誇りに思っていた事が伺える部分があったりします。

(いくつかの伝記の中には、聖職者より教皇軍司令長官に魅力を感じていた、という記述もあったりしますが)

1506年にチェーザレがナヴァーラ王に宛てた手紙には、自身の事を「元パンプローナ司教」と称しており、

この事からチェーザレが、過去色々な役職に就いた中で、枢機卿でもなく教皇軍司令長官でもなく、

パンプローナ司教であった事を誇示しているという事が大変興味深く、

(作中でも触れましたが、パンプローナはスペインで唯一イスラムに侵略を許さなかった地です)

また、このスペインの特別な地の司教の座を、息子のチェーザレに与えさせた父親ロドリーゴの思い入れなど、

こういった事柄から鑑みると、この親子の信仰心と、故郷スペインに対する執心が見えてくるような気がするのです。

1507年、チェーザレが戦死する事となるナヴァーラ王国ヴィアナでの戦いは、大変重要な戦いでありボルジア家にとっては、

反撃の開始とも言えるものだったため、ボルジアの統領であったチェーザレの死は、ボルジア一族にとっても大変な痛手となる訳ですが、

この段階でチェーザレ自身は、自分の代で思い描いていた未来図を完成させられるとは当然思っていなかったと思います。

現状からいって、それなりの知識を持っている者であれば、無理である事を十分悟っていたと思われるからです。

(ここで言うチェーザレが思い描いた未来図についても、いずれ捕捉しなければならない時が来ると思いますが)

こうして見ると、チェーザレの真の不幸は、後継者がいなかったという事かもしれません。

カエサルにはオクタウィアヌスという後継者がいましたが、チェーザレの場合、死後に誰も彼の意志を継ぐことが出来ず、

マキァヴェッリも、チェーザレを君主の理想像として奮起するものの、志半ばにして隠遁生活へと追いやられてしまいます。

(そのお蔭で「君主論」が世に誕生する事となるのですが)

それにしても、今後ここに到達するまでいったいどれくらいの時間を費やすのか・・・。

実は私にも想像がつかなかったりします。

2007/07/01
暑くなってきましたね。今年の夏は酷暑になるらしいとの事、皆様もどうか体調にはお気をつけ下さい。

私の仕事は室内での作業が殆どなもので、直射日光による熱中症等の心配はないのですが

ただ長時間のデスクワークで、エコノミー症候群のような症状に陥る事があり、先日も胃の上部と背中の痛みが増してきたので、

さすがに医者に行き診てもらったところ、食道炎を起こしていたらしく(胃潰瘍とかでなくてホッとしたのですが)

原因は前かがみの姿勢を長時間続け過ぎていた為との事でした。

ここ数年、資料を読むか原稿を描くか、要するに四六時中机にしがみついていた為、背中側の胃と食道の繋ぎ目が

伸び切ってしまい、それで胃酸が上がりやすくなって食道が炎症を起こしていたのだそうです。

(通常、胃と食道の接合部分は巾着袋の口のように窄まっていて、胃液が上がらないようになっているらしい)

さらに運動不足で腹筋と背筋が衰えてきて、背筋を伸ばす事が出来なくなっていたので、そのため胃が圧迫され、

なおさら胃酸が上がりやすくなり痛みが増していたのだそうです。自己管理能力の無さと言う事で、さすがに反省しました。

全ては健全な身体からという事ですね。

最近は一日最低でも1キロは歩くように心がけ、お蔭で体調も随分回復致しました。

だからという訳ではないのですが、もしかしたら4話分だけ8月中に掲載できるかもしれません。

というか掲載しないと4巻分が完成しないので(4巻発売を11月に予定しているので)、今確実にその方向性で原稿を

描き溜めている所です。とりあえず人事を尽くします。

さて、「チェーザレ」については前回、歴史的見解の表現の難しさについてお話しましたが、

西洋史となると、我々東洋人とは人種、文化、風土、様式、信仰、全てが異なっているため中々理解し辛い面があり、

私自身も学生時代、世界史を専攻しながらグレゴリウス一世あたりで投げ出した口でした。(はやっ!)

途中からは、年代ごとに人名やら国やら革命やらを、記号の如く暗記していったような有様で、それも試験のための

一時凌ぎに過ぎず決して蓄積される事のない記憶でした。

日本の学校(高等学校まで)の教育が、歴史に造詣を深めるものではなく、単に暗記術のポテンシャルを高める訓練のような物

と言えるので(正直データ量からいって仕方のない事なのですが)、しかしそんな中にも歴史に興味を抱き探究心を刺激され、

その道の専門家になられる方達はいらっしゃる訳で、その中の一人が現在「チェーザレ」の監修にあたってもらっている

原さんなのだと思います。

私は世界史に挫折した人間でしたが、ぎりぎりルネッサンス時代に明るかったのは、美術史を学んでいたお蔭でした。

(美大の付属高校だったため三年間美術を専門にとりあえず学んだ)

美術においては、ギリシア美術、ルネッサンス美術が基礎とされており、まずは写実主義について徹底的に学習させられる

訳なのですが、カリキュラムには技術(デッサン及び、二学年からは彫塑、油絵、日本画、デザインの専攻に分かれる)の他に

美術史という教科があり、それはまず伝達のための記号のような絵(象形)から始まり、写実的な絵画(ルネッサンス)へと

絵師の技術が進化し、その後写真が普及した事によって写実的な絵画から、人の手ならではの心象的な絵画(いわゆる印象派)

へと移行、さらに現在の現代アートへと変貌していく様を、歴史的背景と共に学んでいく物でした。

(※大雑把にまとめるとこのような流れです)

技術においては、何はともあれ美術の基本は写実で、それを踏まえた上で自分なりにデフォルメし個性を表現しろ、

というような事を学んだ訳ですが、当時の私にはハードルが高すぎて、結局ここでも写実(ルネッサンス)の段階で投げ出して

しまった口でして、彫塑や油絵ではなくデザインを専攻したのも、実はその後ろ向きの態度の現われだったのかもしれません。

それだけルネッサンス美術はかなり衝撃的だったのでしょう。

この時代には、気後れしつつも当時からとても興味があり、その関連として改めて時代背景を調べたような次第でした。

取っ掛かりは、やはりダ・ヴィンチだったと思います。

元々ダ・ヴィンチは中学生の頃、某放送局でイタリア放送協会制作の「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」を観て以来、

ずっと興味を持っていた人物で、その影響からルネッサンス時代への造詣が深まっていったような気がします。

学習への気勢とは、やはり第一に興味を持つ事なのだろうと思います。

チェーザレについては、その当時の段階では、ダ・ヴィンチが関わった変わった名前の軍人といった程度しか記憶がなく、

後にマキァヴェッリの「君主論」のモデルになった政治家として再認識させられるに至り、さらに後に悪徳という名の

代表選手のような表現の数々を目の当たりにする事になる訳でして。

よもや彼について作品を描くことになろうとは、正直その時は露とも思っておりませんでした。

調べれば調べるほど、この時代に生きた人間達が、いかに興味深く魅力的であったか、今更ながら思い知らされる毎日です。

西洋史も美術も、学生時代にギブアップした見事なまでのヘタレな私が、この時代を漫画という形で描ける現状に、

今は本当に感謝しています。

時の流れとは有り難いものです。高校時代の私だったら、どんなに魅力的な史実であったとしても、そこに到達する前に

簡単に投げ出していたに違いないでしょうから。(笑)

それにしても、三十一年という短い生涯だったにも関わらず、よくぞここまでと言えるほど、

波乱に富んだ人生を歩んだチェーザレです。

人物そのものは間違いなく面白い。問題はそれを描ききれるかどうかなのでしょう。

本編のチェーザレはまだ十六歳、賢いながらも政治の中枢からは程遠い所にいる、まだまだほんの子供です。

単行本にすると6巻あたりまで、学生時代のチェーザレを通して時代背景の基礎知識編が続くと思われます。

激動の1492年開始まで、描かねばならない事が山積状態です。

とにかく今は時間が欲しい。


2007/06/06
残念ながら9話目、間に合いませんでした。申し訳ない。

何とかなるかと思ったのですが、やはり作画が間に合いませんでした。

読者の皆様、そして編集部にも、毎度ながら御迷惑をかけ本当に申し訳なく思っております。

現在掲載中のピサ編から、今後のシエナ編、コンクラーベ(教皇選挙)編、スポレート(教皇領要塞都市)編までは

ほぼ私の中では出来上がっているのですが、実はここからが難関というか、監修の原さんとのバトルが展開される訳でして。

バトルといっても喧嘩ではなく(笑)、矯正という形の微調整が施される訳なのですが、

例えば作品に登場するラファエーレ・リアーリオ。まずこの敬称が問題で、

読者にとっては、単純にラファエーレ様とすれば、実は最もわかりやすい表現になるのですが

学者である原さんの立場から鑑みると、これがただの様では片付けられない要因でして。

ラファエーレ一人に、リアーリオ枢機卿、ピサ大司教様 ラファエーレ猊下(げいか) 、ラファエーレ殿

といった様々な呼び方がある訳ですが、これは状況や相対する人間との力関係、階級によって変わります。

リアーリオの役職としては枢機卿で、ピサでの大司教でもあるので、ピサ市民にとっては大司教様と呼ぶのが

妥当であり、リアーリオ自身を呼びかける際はラファエーレ猊下というのが相応しい。

簡単に言うとこういう事なのですが、これは原さんの見解が100%正しく、作中には色々な階級の人間が登場してきますので

呼び方は状況と人によって変化していきます。

ところが、これを読む時には一読者の視点になる訳で、つまり読み手にとっては

符号としてのデータが多すぎるという問題が生じてしまいます。

学者である原さんから見れば、だからそれが何?という事なのですが

これが漫画描きの立場の辛いところで、私にしてみると読者の混乱ぶりがとてもよく伺えるのです。

まあ、学術書レベルを読みこなしている読者なら、何の問題もなく逆に甘いと思われるくらいかもしれませんが。(苦笑)

(因みに閣下ですが、閣下は猊下より格下の敬称になり、作中では次期枢機卿という候補生のような意味合いです)

要するにこういった諸事情の妥協策を見つけ出し、出来るだけわかりやすく、また漫画の場合写植の文字数との兼ね合いも

ありますから、これを考慮した上での話し合いが現在まで繰り返されてきたという訳です。

8話目(6/14発売Virtu30)でも、楽師が登場するシーンで

(15世紀の段階では現代のような楽譜は存在せず、楽師は耳で音階を覚え、それを継承していくのが常とされていました)

音楽が流れる表現として音符を使ったら「いえいえ、この時代に音符は存在しません」と原さんが炸裂。

これにはさすがに大爆笑してしまいました。(失礼しました:笑)

この時代には、確かに音符は存在してはいないのですが、ここでの音符は擬音の役割を担う記号であり

いわゆる漫画ならではの手法だと、説明し納得してもらったような次第です。

他に表現方法は無いかと一応色々やってはみたのですが、ルネッサンス時代のあのおっとりとした優雅な感じが、

私の能力の無さからなのか、どうも上手く表現しきれず、結果定番通りの音符で軽く濁しただけに終わってしまいました。

全て些細な事と言えばそこまでなのですが、逆にこの原さんの学者ならではの見解があるからこそ、

信頼でき安心して物語を構築していけるのだと、つくづく思う今日この頃です。

まあ、このような事は今では日常化しているので、対した問題ではないのですが

最大の問題は宗教に関する事かもしれません。

正直これは、この作品にとって切っても切れない最大のテーマとなりつつあります。

宗教に関しては、私が現代人で日本で生まれ、信仰というものについての教育がなされていないため、

大変認識が甘く、この点は情けないのですが、今でも勉強中というような有様です。

チェーザレや父親ロドリーゴに対して、よく神をも畏れぬといった例えや無神論者であるという表現がありますが

彼らは実際、十分神を畏れ敬っていたと思われます。

それは当時の彼ら(現在の欧米人にも当てはまる)の世界観が、全て神様を中心に考えられていたからです。

この世界も人間も、神によって全てが創られた訳であり、その神に愛される事で自らの存在意義を感じることになるのです。

神の存在を否定する事は、自分自身の存在を否定する事になるため、まずそのような思考にはなり得ないのです。

(これを我々日本人の価値観で推し量ると、欧米諸国の方達に対して非礼にあたる可能性があるので、この辺は気をつけるに

越したことはないと思われます)

極論をいうと、人を殺すのもそこに使命を感じてさえいれば、それは神の意志という事にもなりかねない、という事なのでしょう。

この当時の人間の意識を理解し同調するのに、私自身がまだまだ時間を要するようで

文字や絵の視覚からくるイメージは、非常に直接的で強く、それによって色々な意味で危険性を生む場合もあり

これは原さんも同様、慎重なスタンスを取っている状態です。


正直、編集部的には難しい事は抜きにして、もっと娯楽性の高い読み物として展開して欲しかったようなのですが

(所詮、漫画です:苦笑)

突き詰めるとこうなったというか、言い方は悪いですが、これは原さんと私とで悪ノリしてしまった結果と言わざるを得ません。

何だかんだで、結局お互いの首を絞めている事にもなっているのですが。

まあ、打ち切り覚悟で始めた事ですので、ここまで続いてきた事こそ奇跡かもしれません。

(担当編集者は当初、次の受け入れ先の雑誌の事まで考えていてくれたらしい:笑)

これは担当編集者の熱意と、編集部の理解と忍耐あっての事だと思います。

歴史と政治に興味のない方には、面白さの欠片も感じられないお話かもしれません。漫画として考えるとどうなのかと

私自身も疑問に思うところもありますが、それでも今の所頭を下げつつ描き続ける事しかないという状態です。

そして何よりも、現在まで継続出来ている一番の理由は、時間が掛かっても単行本を待ち続けていてくれた読者の存在

だったと思います。本当に読者に救われた作品としか言いようがないです。

それから予想外(失礼な言い方かもしれませんが)だったのが、書店の対応でした。

正直一般的に考えて、売れる見込みは殆どないと思っていた本に対して、大変な後押しをして頂き

驚きと共に感謝の念を覚えずにはいられませんでした。販売員さんの尽力には心からお礼を申し上げたいです。

本当に皆様のお蔭あっての今日だと痛感する毎日です。

ありがとうございました。

そしてまた休載です。本当にごめんなさい。(結局、長い言い訳でした)

夏に再開予定しています。


2007/05/17
何気に暑くなってきましたね。不安定な気候が続いていますが、この分だと原稿に追われているうちに
梅雨へと突入しそうな気配です。

私はというと、只今8話目を描いている真っ最中でして、今回は本当なら掲載はこの8話までと思っていたのですが、物語上の
切れの良さから、この後9話目まで描き切ってしまおうと思っております。
何のアクシデントもなく進行出来れば、多分いけるのではないかと思います。というか何とかします。(苦笑)


今回はルネッサンス時代の女性の立場について、ちょっと触れてみようかと思います。
(ちょうど妹ルクレツィアが登場している事でもありますし)

この時代の女性は(この時代に限らずですが)、当然の事ながら男尊女卑の状況に置かれ、自由意志など皆無の状態でした。
女性の価値は、政略結婚の道具であると共に、とにかく子供を生む事で、当時の貴族の勢力は、同じ姓を持つ人間の頭数に
比例するものでした。
この当時、ローマで最大の勢力を誇っていたのは、作中にも出てくるオルシーニ家でした。
オルシーニ家は、ボルジア家ほど突出した人間はいませんでしたが、分家を含め相当数のオルシーニ姓の人間がいたようで、
そのために誰かが倒れても、代わりがいくらでも存在するという、人海戦術的な力を持っている一族でした。

ロドリーゴ・ボルジアが聖職者にありながら、チェーザレ達をジョヴァンノッツァに産ませた事を、好色として扱っている文献が
ありますが、これはボルジア家の当主であったロドリーゴの兄、ペドロ・ルイスが亡くなってしまっているため、勢力拡大のために
枢機卿のロドリーゴが、子供を儲けるしかなかったという背景もあり、(それでもロドリーゴ自体かなりの伊達男だったようで、
若い頃は女性には苦労しなかった、今で言う所のモテ男だったそうです)
兎にも角にも当時の権勢は、血族の頭数で決まるような状態でした。
その血族を増やす為に、女性は大変重要な存在で、そのために結婚前の名家の子女は滅多に外には出さず、
大半が屋敷に隔離されているような状態で、遊ぶのも中庭等で散策する程度、たまに馬、または馬車で外出といった具合で、
優雅なようでいて実は軟禁状態という有様でした。
結局女は政治の道具であり、人権など無いも同然の時代でありました。

そして作中に登場するジュリア・ファルネーゼ。
女性が冷遇されていたこの時代で、彼女も女ならではの力量を発揮させた、特筆すべき女性でした。
彼女は自分の女としての魅力を存分に活かし、当主である父親を失い没落しそうだったファルネーゼ家を、
見事に立て直した強い女でありました。
ファルネーゼ家の後継者である兄アレッサンドロを、後にロドリーゴの力を借りて枢機卿に任命させ、最終的にはこの兄
アレッサンドロが、教皇にまで上り詰める訳ですから、たいした妹(女)だったと思います。

チェーザレの妹ルクレツィアは、この幼馴染のジュリアを女性としての先輩、お手本と見ていた訳でして、
要するにこの時代の女性の最優先は、実家の肉親だったという事です。
嫁いだ先で自分の立場を優勢にするのは、実家の権勢以外ないのです。
実家が没落しようものなら忽ち自らの価値をも失い、どういう目に会うかわからなくなるのですから。
貴族の家に生まれた女にとって、一番大事だったのは夫ではなく血の繋がった男達、父親、男兄弟でした。
女性が虐げられていた時代でありながらも、女である事を武器に、したたかに生きていた女達は確実に存在していました。
現代の女性は強くなったと言われていますが、人権というシステムが機能していなかった、この時代の女性の強さは、
実に半端ないような気がします。

因みにチェーザレ、ルクレツィア兄妹を教育していたアドリアーナ・デル・ミラ。
彼女は、正確にはロドリーゴの従姉の娘にあたる存在だったようで
(家系図がかなり入り組んでいて、今現在において続柄は明確ではない)
彼女もオルシーニ家に嫁ぎながら、結局はボルジア家を優先したボルジアの女でした。


2007/04/22
単行本「チェーザレ」3巻、無事発売されます。と、言いたい所ですが、全然無事でないお知らせをしなければなりません。
3巻終盤、フランチェスコがメディチ家の家系について語るシーンがあるのですが、
「ロレンツォ様の父上、老コジモ」という箇所です。実は老コジモの正しい続柄は祖父です。

その箇所は、最初は父親ピエロとしていたのですが、その後の会話にロレンツォの息子、同名のピエロの名が出てくるため、
読者が混乱するのでは?という配慮からピエロ(父)→老コジモ(祖父)に変えたものの、
祖父という続柄の変更を見落としていました。
単純にして大いなるミスです。申し訳ない。
ドラギニャッツオ自体が架空の人物のため、位置づけが曖昧になってしまいました。
すでに単行本化してしまったため、初版本を手に入れる方には本当に申し訳なく思います。
この場でお詫び、訂正させて頂きます。

因みに2巻でのダ・ヴィンチとチェーザレの会話でミラノの騎馬像について語る場面がありますが、
そこで騎馬像→騎馬隊となっている箇所がありますが、この場合は単なる誤植です。重ね重ね申し訳ない。
それなりにチェックしていたつもりでしたが、見落としが後を絶たず・・・いや今後も気を引き締め、出来ればミスのない
仕上がりにしていきたいと思います。


単行本も3巻になり、登場人物の内面に、より深く触れなければならなくなってきました。
サチェルドーテは学術書のため、チェーザレに纏わる膨大なデータを収集してあるものの、そこにはチェーザレ自身の性格に
ついての描写等は殆どなく、それを想像させる物は、チェーザレと関わった人物達の書簡から分析するほかありません。

学生時代は、主にジョヴァンニの側近がジョヴァンニの父親ロレンツォに宛てた手紙と、チェーザレの家庭教師が
チェーザレの父親ロドリーゴに宛てた手紙の内容からの推測した物で構築しました。
チェーザレが枢機卿になった18歳以降では、フェラーラの駐ヴァティカン大使が、フェラーラ宮廷に宛てた手紙で
垣間見る事が出来ます。
その中の一文で、大使はチェーザレを「明るく陽気で快活な御性分でありながら、謙遜する事も大いに知っておられる方」と
褒め称えています。この謙遜という表現に、当のサチェルドーテも、信じ難いと驚愕してはいますが(笑)、
ロドリーゴはチェーザレを徹底的に教育したようで、こういった処世術と優雅さは、当然の如く身に着けていたのかもしれません。

チェーザレに限らず、今後登場する妹ルクレツィア等、ここからの人物描写はサチェルドーテ、その他の資料本から
私が解釈した物による色合いが濃くなっていくと思われます。
楽しいながらも繊細な作業が続くと思われますが、今後も再考だけは念入りに!という事を肝に銘じて、
とりあえずお詫びと訂正のお知らせでした。



ついでに前々回で、チェーザレの伯父ペドロ・ルイスについての表記ですが、あの段階までは優れた軍人と言う事に
なっていましたが、詳しく調べてみたところ、実は全く軍事的才能のなかった人のようでして、この段階では弟のロドリーゴの
采配でボルジア家は成り立っていたようです。
サチェルドーテ以外の文献で、優れた軍人という説が定着していたもので、それを鵜呑みにしてしまいました。申し訳ない。
どうやらチェーザレの兄ペドロ・ルイスと、名前が同じだったため、混同されたのではないかと思われます。

チェーザレの兄ペドロ・ルイスは、これは完全に英雄視されるほどの武人で、スペイン本国でも人気の高かった人物でした。
ロドリーゴとジョヴァンノッツァ(愛称ヴァノッツァ)の5人の子供達の中で、長男ペドロ・ルイス 次男チェーザレ 長女ルクレツィア 
この3人はかなり出来の良い子供だったようです。
他の愛人との間にも子供はいたみたいですが、どれも関係は希薄で、もっとも長く蜜月が続き、殆ど妻と言ってよいほどの
立場にあった女性は、結局この3人を産んだジョヴァンノッツァでした。

※長男ペドロ・ルイスの母親は、確実にジョヴァンノッツァという記述は、実は今の所出てきていないのですが、
逆に誰であったかという記述も残っておらず、完全に不明のまま今日に至っています。
ただペドロ・ルイスが生まれた1463年頃には、ロドリーゴはすでにジョヴァンノッツァと出会っており、恋仲になっていたようで、
この出会いの場がマントヴァ、もしくはリニャーノだったのではないかと言われています。
(一説にはローマの女性とも言われていますが、家系の出身はロンバルディア地方だったらしく、
マントヴァはロンバルディア地方の都市のひとつにあたります)。
それから推測すると、マントヴァかリニャーノで出会った二人の間に、ペドロ・ルイスが生まれていてもおかしくはなく、
この後ロドリーゴはローマで着々と地位を築いてゆくため、多忙な日々を送っており、ジョヴァンノッツァとはこの間
隔たりがあったようで(記録が残っていない)、おそらくローマでの基盤を造った上で、ジョヴァンノッツァとペドロ・ルイスを
手元に呼んだのではないかという推測も出来るのです。
そう考えると長男のペドロ・ルイスと、次男のチェーザレの年の差が12歳も離れているのも妙に納得がいき、
またチェーザレ以降の子供達を、ジョヴァンノッツァが割りと高齢で産んでいる事に、何気に合点がいくような気もします。
(チェーザレはジョヴァンノッツァが33歳の時の子供)
そういった記録からの推測により、作中では5人の子供は全てジョヴァンノッツァの子供であるとしました。


蛇足ですが、ロドリーゴはこの頼りない兄を決して見限ることもなく、兄弟仲は大変良かったそうです。
叔父が教皇カリストゥス3世になりスペイン、ヴァレンシア(ハティバ)から招喚されたペドロ・ルイス、ロドリーゴ兄弟でした。
(因みにロドリーゴはこの時イタリアのボローニャ大学に在籍中でした)
異国であるローマで、頼りになるのは肉親の叔父と兄弟だけという状況下で
(そうでなくとも外国人教皇のブレーンには風当たりが強い)
兄弟がお互いを支え、頼りにするのも当たり前の事だったと思われます。
このチェーザレにとっての伯父ペドロ・ルイスの死も、一応病死(熱病)という事になっていますが、
事の真相はまだ掴めていません。


2007/04/15
ようやく連載再開です、本当にお待たせしました。
とりあえず今回は8話分掲載する事になりましたが、もしかしたら9話までになるかもしれません。
ストーリー上9話までの方が、切りが良いと自分なりにそう思っているだけなのですが。
出来ればもっとサクサク進めていきたいというのが本音ですが、絵が荒れるのではと担当編集が危惧するほど、実は大雑把な
所のある性格でして・・・。
ネーム練るのは好きなのですが、作画になるとテンションが下がり気味になります。
背景を描くのは好きな方なんですが、人物はどうも苦手で・・・。顔のパーツやら表情やら、生物の中でも人間は難しいですね。
漫画描きが今更何を言っているのかと怒られそうですが・・・。
とりあえず、現在6話分までは出来上がっているので、あと3話何とか頑張りたいと思います。

それから告知遅れましたが17日の深夜、NHK、BS放送「マンガのゲンバ」という番組で「チェーザレ」の紹介をして頂く事に
なりました。
取材の際、制作秘話なるものを聞かせてくださいと言われたのですが、今思うと大半が泣き言ばかりだったような気がします。

例えば、アンジェロがピサの街の状況を知らされる場面で、当初地図を見るエピソードを用意していたのですが
(その方が読者にもダイレクトに伝わるため)ところが、よくよく考えると当時では、地図は軍事上の重要機密であり、
軍人でもない一般人のアンジェロが目にするなど、まず有り得ないと言う事になりまして。
嘘でもいいから強引に見せるかどうか、編集とギリギリまで相談したのですが、どうにも納得いかず、結局は締め切り三日前だと
いうのに、エピソードを変更する事にしてしまい、違う方向性を考えるはめに。
結果的に、大学内にある小物でジオラマを造って、街の様子を再現しようと思いつき(うちの現場でもスタッフに街の様子を
説明する際によくやっていた方法でしたので)とりあえず、それで行こうという事になり、ところが今度は使う小物の詳細が
わからない。
そこで深夜にも関わらず、リストアップした当時の小物を、原さんに確認のためファックスで送り、確認を得た上でそれらを
資料写真や絵画から探すという有様。
同じ用途の物でも15世紀以前に絞らなければならないため、今度は選んだ小物の資料を、またもや原さんにファックスで送り
確認を取るという繰り返し。明け方までスタッフ共々大騒ぎしたものの、結局は2ページ落としてしまいました。(編集部には
本当に御迷惑をおかけしました、申し訳ございません:泣)
と、いった具合に連載開始当時の苦労話を数々話したのですが、編集でどう扱われているのかは全くわかりません。
情けない話しか出てこなくて、取材スタッフも当惑気味であったのは記憶にありますが。(笑)
正直あまり観て頂きたくないと言うのが本音ですが、こういうのを後の祭りと言うのでしょうね。(苦笑)
まあ、興味のある方はどうぞ御覧になってみてください。


2007/03/10
速攻の更新です。
「チェーザレ」3巻まで見直してて、気になりつつも中々説明しきれていなかった事を、この場を借りて説明させて頂こうかと
思いまして。
登場人物の名前についてなのですが、実はこの作中に出てくる名前、ジョヴァンニ率が非常に高く、
メディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチはもうご存知かと思われますが、
チェーザレの実弟ホアン(作中ではスペイン語読みのホアンで統一しておりますが)実はイタリア読みだとジョヴァンニなんです。
当初メディチ家のジョヴァンニと混同してしまうので、スペイン読みのホアンでいこうと決めたのはいいのですが、
今度はボルジア一族にホアンがザクザクいまして・・・。

2巻に登場しているサヴィオがその一人のホアンなのですが、主要人物としてのホアンがまだあと二人程控えておりまして
巻末でその説明に触れられたらよかったのですが、何せ日本人の私達とは民族的に文化も習慣も違う世界観なので
説明しなければならない事が山積みになってしまい、このような場で補足させて頂く事にしました。(本当に申し訳ない)

何故このようにホアン(ジョヴァンニ)だらけになってしまうかと言うと、ヨーロッパでは子供の名前を聖人から取って名付ける
習慣がありまして、言ってみればどの家にもホアン(ジョヴァンニ)が必ず一人はいるというような状態なんですね。
そこで各ホアンに、こちらサイドで勝手に通称を付けさせて頂いたという訳です。

ホアン・イル・サヴィオ=賢明なるホアン(ロドリーゴ・ボルジアの従兄弟)=サヴィオ

ホアン・イル・シレンツィオ=寡黙なるホアン(チェーザレの従兄弟)=シレンツィオ

といった具合に混乱を避けるため、このように命名させて頂きました。
あとフランチェスコという名もたくさんいまして。(苦笑)
まあ、登場の度に都合よくこちらで通称を用意させて頂く事になると思いますが、あくまでもこの作品の中での呼び名であると
御理解ください。

このような事を、作品外で説明しなければならないと言うのが、また何とも情けないのですが、
今の所これ以外打つ手無しの状態でして、結果このような形で御報告&御説明までと思った次第です。(今更ですが・・・)
チェーザレの実弟ホアンはおそらくホアンそのままでいく予定です。
因みにボルジア家の長男ペドロ・ルイスはこの作品では今の所ペドロ・ルイスで統一しています。
ペドロ・ルイス=スペイン読み ピエル・ルイジ=イタリア読み となっているのですが、今まで日本で紹介されていた
翻訳本によってペドロ・ルイスが一般化されていたため、今の段階ではペドロ・ルイスという事にしております。
2巻でロレンツォ・デ・メディチが、チェーザレの兄ペドロ・ルイスの名を出しているシーンがありますが、
ロレンツォはイタリア人ですが、作中ではスペイン読みのペドロ・ルイスにさせて頂きました。
実は、このペドロ・ルイスもボルジア家には、二人有名な人物がいまして、

父ロドリーゴの兄ペドロ・ルイスと、息子チェーザレの兄ペドロ・ルイスです。

要するにチェーザレにとって伯父ペドロ・ルイスと、兄ペドロ・ルイスがいる事になるのですが、
この二人は作中ではすでに故人となっているので、呼び名についてはまだ明確に分けておりません。
(後にまた、わかり辛い状況に陥るかもしれませんが)
チェーザレのもう一人の弟ホフレもスペイン読みでホフレ、イタリア読みはゴフレットとなっていまして、
これに関しては今のところ、重複する人物が見あたらないのでそのままホフレで行こうと思っています。
内容をわかりやすくするため、出来るだけ数を抑え目に必要不可欠な人物を優先して登場させているつもりなのですが、
何せ群像劇ですので、いつ何時、誰が登場する事になるかは予測不可能でして、
その時はそれなりの対応をしなければと思っております。
それにしても、説明のつもりで書いているのですが、同じ名前がこれだけ乱れ飛ぶと、逆に余計頭が混乱してしまう方も
いるかもしれませんね・・・。
そうでなくても、ややこしいカタカナ名前で、人物が中々覚えられないという御意見をよく耳にするもので、
本当に厄介で申し訳ない。

ところで、先ほどヨーロッパでは男の子が生まれると、聖人から名前を取るのが慣例になっていると書きましたが
私自身、ちょっと不思議に思っているのがチェーザレの名前です。
兄ピペドロ・ルイス(ピエル・ルイジ)、弟ホアン、ホフレ、この三人は聖人から取っているはずなのですが、
チェーザレだけは聖人ではなく皇帝から名前を取っています。
これに関しては詳細はまだわかってない状態でして、チェーザレが生まれたのがローマの地だったから
父ロドリーゴがそれに因んで皇帝の名を付けたのだろうか・・・とか、
それともただのやっつけだったのか(笑)とか、正直憶測の域を脱しておりません。
家督を継ぐ長男は軍人、次男は聖職者というのが当時の貴族の家庭での決まり事となっていたので、
次男のチェーザレの名に聖人からではなく皇帝からというのは、割と珍しい付け方だったのではないかと思われるのですが、
真意の程はどうなのでしょう。
詳しい方がいらっしゃったら是非御一報ください。(苦笑)

それから長男のペドロ・ルイスの名は、ロドリーゴが敬愛していたロドリーゴの実兄ペドロ・ルイス(生前は教皇庁司令長官で
あった)にあやかって付けた名だと言われています。因みにチェーザレの兄ペドロ・ルイスはとても優れた軍人だったそうです。
チェーザレの軍人気質はこの兄から受け継いだ物かもしれません。
1463年生まれの兄ペドロ・ルイスは、チェーザレが10歳の時、対イスラム戦で華々しく活躍し、スペイン国内で
その名を上げました。
レコンキスタに貢献し、その褒賞としてガンディアの公領を与えられたこの実兄の武勇伝は、当時幼かったチェーザレに
かなりの影響を与えたと思われます。

蛇足ですが、ミゲルの場合はスペイン読みでミゲル、イタリア読みはミケーレ。
ミケロットはイタリア読みの愛称みたいなものですが、Michelotto 意味としては偉大なるミカエル。
敬意の意味を込めて呼ばれていたと思われます。
ミケーレは天使(ミカエル)の意ですね。

※上記で名前の読み方について触れましたが、ペドロ・ルイスについては
ペドロ・ルイス=スペイン読み、ピエル・ルイジ=イタリア読みが正解で、表記が逆になっていました。申し訳ない。
この場を借りて訂正及び、お詫びさせて頂きます。御指摘ありがとうございました。
因みにイタリア語では本来ピエロなのですが、後ろのルイジがあるため発音上ピエルとなるそうです。


2007/03/08
いよいよ3月ですね。お蔭様で「チェーザレ」3巻収録分の再考もなんとか終わり、無事4月23日に発売する事となりました。
モーニング誌上での掲載は4月の12日から再開の予定です。随分長く待たせてしまって(毎度の事ながら)申し訳ない。

多分待っている読者の方は、ようやくかと思っていらっしゃるかもですが、私の方は「やばっ、もう3月・・・」といった感じで(苦笑)
相変わらず仕事に追われている毎日です。
ここの所、私事でバタバタとしてしまいして、多少作画の進行が滞っておりましたが、何とか遅れを取り戻そうと
気を取り直している所です。最悪でも8話までは掲載できるとは思うのですが、まあ12話掲載出来るよう祈っててください。

何故12話に拘っているかというと、それは12話でちょうど4巻分がまとまるからなのですが、
さっさと仕上げてしまいたいものの中々そうも行かず、毎度の事ながら予定は未定なのかと頭を抱えるばかり・・・。


2007/02/19
唐突ですが、仕事の合間に息抜きの意味を兼ねて映画を何本か観ました。
その中の一本、ウディ・アレン監督の「マッチポイント」がなかなか興味深く、結構楽しめました。
この映画の「マッチポイント」とは、テニスの試合での大詰めを意味しているのですが、しかしこの作品は
スポ根映画ではありません。人間ドラマです。
人生でいうところの勝ち負けを、テニスの試合運びになぞらえているのだと思いますが、人生とはスポーツの勝敗のように
分かり易いものではないのだと、しみじみ思わせるそんな作品でした。
ウディ・アレン、あの年齢でまだこういった感性を持ち続けているんだなあと、感心してしまいました。

それからシェークスピア原作の「ヴェニスの商人」。
これは去年観た作品ですが、これも大変印象深い映画でした。
はるか昔、某放送局でイギリスBBC製作の同作品のTVドラマを観た記憶があり、私はこの作品を長い間喜劇の範疇として
捕らえていたのですが、2005年に作られたこの映画を観るとそういう思いが根底から覆されてしまいます。
ヴェニスの商人=金貸しシャイロックが、ユダヤ人であると言う事に限りなく焦点を当てた作品に仕上がっていまして、
宗教というものの歴史の重さを再認識させられます。
このユダヤ人シャイロックに扮しているのは、アル・パチーノです。
終盤のアル・パチーノの演技には思わず胸が痛くなります。
アル・パチーノは自ら望んでなのか、こういうマイノリティ度が高く難しい役をよく演じているように感じます。
聞いた話では彼はシェークスピア劇の舞台俳優としても有名らしく、そういった面を考えると
このシャイロック役を揚々として演じていたのではないでしょうか。
背景もとてもよくルネッサンス期が再現されていて美しかったです。

元々、ユダヤ教はキリスト教より戒律が厳しく、当然の如く金儲けは悪しき事であると教えられている訳ですが、
それでも金貸しをやるしかなかった理由は、彼らにとって一番の保険はお金しかなかったからです。
エルサレム滅亡後、ユダヤ人は流浪の民となりました。
どの土地にも根付く事を許されなかった彼らにとって、家土地は政治的情勢が変われば即没収となる訳でして、
そうなると身軽に持って逃げられる財産はお金しかなかったのです。
そのためにユダヤ人の職業も制限され、金貸しの他に、医者、薬屋等という人間の生活に必要不可欠で、またカトリックに
敬遠される職業ばかりに限定されてしまいました。
医者や薬屋が敬遠されたのは、人の体を切ったり縫ったり、薬を調合して飲ませたりと、そういう行為が人為的で自然に
反しているという理由からなのでしょう。人の命を救っているのにも関わらず、なんとも皮肉な結果です。
(ダ・ヴィンチが非難され疎まれた原因のひとつは、人体を解剖したり、それをスケッチしたりと、そういった行為が
神をも畏れぬ行為であったからだと言われています)
薬屋といえば、かのメディチ家もかつては薬屋でしたね。
その後、銀行を開業する事になるのですが、敬虔なカトリックであったローヴェレ家とは対立、
反面、カトリックでありながら他宗教に寛容だったボルジア家とは蜜月状態、
こんな状況も相まって、ついつい余計な憶測をしてしまいがちですが、史実上、確固たる記録も証拠も見つかっていないのが
現状ですので、これ以上は言及しようがありません。
実は、こういった背景を踏まえた上で、「チェーザレ」作中のジョヴァンニの人間像を作り上げたもので、
何だかえらくビビリなキャラになってしまって、史実上のジョヴァンニには大変申し訳なく思う今日この頃です。

上記の二本は作品の質も高く、私的にお薦めできる作品なのですが、ここから先の作品は軽く流して頂ければ幸いです。
あまりの衝撃に、つい独り言を言いたくなっただけとお受け取りください。

知人の薦めで観てしまったベルギー映画なのですが(確かベルギーだったはず・・・あまりの衝撃に詳細見るの忘れました)
その名も「変態村」。
邦題、やっつけにも程があるだろうと、突っ込みしつつ鑑賞したのですが、観終わった後は、ああ・・このタイトルしかないかも・・・
と、妙に納得してしまいました。因みにR指定のホラー映画です。
もしかしたら、これがいわゆる衝撃を笑撃と変換出来うる作品なのでは?と、しばらくの間そんなくだらない事を、
かなり真面目に考えてしまいました。
映像的にはヨーロッパ特有の陰影が全編に出ていて、雰囲気は決して悪くありません。が、しかし、私的にはとても他人に
薦めする気にはなれない作品です。もし仮にうっかりレンタルしてしまった際には、
特典で収録されている短編も是非ご覧になってください。毒を食らわば皿までも、という奴です。

この作品を観てふと思い浮かんだのが、B級ホラーの金字塔、「死霊の盆踊り」です。
これも同様、お薦めする勇気のない映画です。あまりのくだらなさに脱力します。その脱力っぷりがある意味爽快なのですが、
なんというか、上記の「マッチポイント」に例えて言うなら、映画も勝敗じゃないのだなあ、と・・・。
駄作中の駄作も、気合というか本気というか、ポリシー持って作れば人の心(私個人に限りですが)に感銘?のようなものを
与えるのかしれない・・・とか、そんな感慨につい耽ってしまいました。

この近況報告も何気にくだらなかったですね、申し訳ない。


2007/02/04
2007年もすでに2月。私は未だにカラー原稿やってるような有様です。
本編を同時進行しながらなので、時間が掛かるのは仕方ないのですが、前回でも述べたようにやはり服にはかなり梃子摺って
います。

ルネッサンス時代の服装は専門的に言うとAラインとでも言うのでしょうか、(フォルムがアルファベットのAの形に見える洋服)
裁断自体は直線的でシンプルな型なのですが、何が厄介かと言うと布の織り方や染め方、それに施した刺繍等なんですね。
カラー用の衣装に今回はゴッツォリとギルランダイオの絵画を参考にしているのですが、どちらも衣装の刺繍が凄まじく
ゴッツォリの方は割りと有名な絵画で、メディチ・リッカルディ宮殿にある「東方三博士の礼拝」に描かれている物なのですが、
それを司教用に仕立て変え全体に刺繍らしき物を施してみたものの、想像の範囲であったとはいえ、やはり紙面に向かう度に
軽く鬱入ります。
これを描いたゴッツォリも凄まじいですが、実際のこの当時の豪華な刺繍を縫い取りしたお針子の腕にも驚かされます。
特権階級ならではの、このような豪華な衣装はそういった職人達の手によって作られていったのでしょう。
これはもう職人というより芸術家の域に到達していると思われます。
繊維は保存が効かないため現存していないのがなんとも残念なのですが、しかしこのように絵画の中にその姿を残し、
現代人である私達の目に触れているわけで、当時の職人達のスキルと気合いにほぼ脱帽状態の毎日です。

しかしながら、私が今参考としてよく目を通している資料、これが中世の絵画に見られる装束に焦点を当てた結構レアな
画集なのですが、この「東方三博士の礼拝」の作者がベノッツォ・ゴッツォリではなくメロッツォ・ダ・フォルリと表記されており
「あらら、画家の名前間違えてる」と、つい最近気がついたような有様で・・・。
この画集、イタリアの書店で買ったイタリア人編集による物なのですが、これだけの素晴らしい芸術品を数多く所蔵している国の
人間であるにも関わらず、随分無頓着な事をするものだと、ちょっと苦笑いしてしまいました。
これって芸術品を抱えすぎて麻痺してるって事なんでしょうか。
そういえばローマに滞在中、ホテルの近くにパンテオンがあり、よくパンテオン前で待ち合わせとかやりましたけど、
パンテオンの中にはラファエロの墓もあったりするんですよね。
しかし実際のパンテオン前は東京でいうなら渋谷駅前といった感じで、結構皆さん待ち合わせ場所として活用してるようでして、
とにかくイタリアはとんでもない物が日常の中に雑然と溶け込んでいて、こればかりはさすがに圧倒されると言うか、
それ通り越して呆れてしまうというか。

・・・といったように、カラー原稿で鬱になっていた私を気遣ってか(おそらく不安になったと思われる)担当編集者と原さんが
打ち合わせを兼ねて、我が家で当時のイタリア風手料理を再現して食してみようと激励に来てくれたのですが、
そこで教えてもらったのがパスタ(マッケローニ)の茹で方です。
イタリアでは沸騰したお湯に塩をほぼ海水くらいになるまで入れ、それからオリーブオイルを少々垂らして茹でるのだそうです。
そうする事でパスタ自体に味が染みて、湯切りしたあとは山菜と香辛料を混ぜ合わせるだけでOKなのだそうで、
茹で方はやや固めでした。
調理用に乾燥トマトとかも差し入れして頂いたのですが、当時ではまだトマトはヨーロッパに存在していない物でしたので、
食卓は赤味を帯びた物はほとんど無かったと思われ、当然ピッツァもまだ存在しておりませんでした。
16世紀後半に新大陸から持ち込まれたトマトは、当初その赤い色から毒であると誤認され、鑑賞用の植物として扱われて
いました。後に、おそらくですが、毒薬として利用しようとし幾多の精製を繰り返すうちに、これは毒ではなく美味であると、
ある日ある時ある人が気づいたのでしょう。
これによってトマトは、今日イタリア料理には欠かせない食材になったという訳です。

因みに当時は、水自体が衛生上あまり信用できず、飲み水は一度煮沸して冷ましてから飲むようにしていましたが、
中々保存が効かず、そのために飲料水としてワインが常用されていたと思われます。
アルコール分があるため水よりずっと保存が効いて安心できる飲み物、それがワインでした。
ワインと聞いて今の感覚だと当時の人間は皆酒豪だったのでは?と誤解してしまいそうですが、当時のワインは現在のとは違い
あまり醸成させていませんでしたから(水代わりにしていたくらいなので必要以上に寝かせている時間もなかったと思います)
実際のアルコール度数は5度程度だったと思われます。現在でいう所のビールと同じですね。
今の時代のワインでいうなら、ボジョレーヌーヴォがわかりやすい例えかもしれません。

当時ビールもあったようなのですが、やはり砂糖が貴重品の時代ですから甘味のあるワインの方が人気だったようで、
ヨーロッパ人にとっては葡萄は本当に生活になくてはならない果物だったようです。


2007/01/14
正月気分もようやく抜けてきた今日この頃です。
仕事始めに色画稿の下絵を描いているものの、だらだらとして中々拍車がかからないのが現状です。
元々スロースターターな性分なため、いずれ腕も暖まって一気に仕上げるであろうと希望的観測の元、日々筆を動かしている
ような次第です。

カラーで思い出したのですが、モーニング48号の扉絵(2巻の帯にも使用)で描いたイラストで、チェーザレが上段から
鷲掴みにしようとしている、天使の手の中の光る物体について、あれは何だろう?と思った方もいらっしゃるかと思います。
あれはオステンソーリオといってカトリックのミサの際に使用する物で、イタリア語の綴りはostensorio
直訳すると聖体掲示台となるのですが、我々日本人にはピンときませんよね。
あれの中にはミサの際、主の肉に見立てたラスクのような食べ物が保管され、信者に与える仕様になっているのですが、
要するにオステンソーリオとはイエスの象徴、御本尊のような物なんですね。
チェーザレの場合はキャラクターから鑑みて、あのような暴挙に出ていますが、もしあれを目の前に差し出されるような事が
あったとしても、どうか真似なさらないように。教会関係者からマジで怒られますから。(笑)

「チェーザレ」を描くにあたり、色々な絵画や教会に纏わる資料に目を通している毎日ですが
「なんだ?こりゃ」というような代物をよく目にします。
そのつど原先生に電話して確認を取るのが常なのですが(毎度うるさくてすみません)
実の所、一番苦労しているのがルネッサンスの服装です。
衣類はさすがに保存がきかず、現存している物は男女問わず皆無の状態でして、サヴォナローラが着ていたとされる僧衣が
残されている程度というのが実情です。
結果、絵画から読み取るしかない有様なのですが、これで判断できる事と言うとアンダーウェアとして大半の人間が上着の下に
白いシャツを着ているのがわかっており、素材は麻、絹と思われ、階級または季節によって素材は変わるのかもしれませんが
形状は同じで首、手首で巾着のように紐で絞って体系に合わせていたようです。
スペインの服装はすでにボタンなどを使用していてわかりやすいのですが、多分包み(くるみ)ボタンにフック状のボタンホールを
あつらえていたと思われます。

まあ問題なのはフィオレンティーナですね。
この時期ではボタンで服の開閉をするに至っておらず、紐で服を閉じていく方式を取っていたと思われ
袖などは付け袖というやり方で袖自体が取り外し可能な状態になっており、装着の際に体に合わせて紐を絞っていってたのでは
ないかと思われます。紐の部分は現在でいう所の編み上げブーツの様式とでも言いましょうか。
上着も首周りに調整可能な切れ目と紐が通されていて頭からすっぽり被った後、絞って調節するといった具合になっていたと
思われます。
本当ならこのディテールまで描くべきなのでしょうが、さすがにそこまで拘っていると鬱になりそうだったので割愛させて
いただきました。(苦笑)
因みに靴(ブーツ)も実は編み上げなんですね。正確に描くとブーツの内側に踝の下あたりまで切れ目があり
目立たないように紐が通されており、おそらく足を通した後に微調整しつつ締めていき、上部で紐を結び折り曲げて隠す
といった仕様なのでしょう。
靴は当然、動物の皮で出来ており、日本と違い家の中でも外でも石畳の生活ですから、消耗度も激しかったと思われます。
ダヴィンチが弟子サライに支給した靴の数が年間24足だったらしく、ひと月につき2足が消耗されていったと考えれば
その消耗度の高さが伺われると思います。

しかし何故フィオレンティーナに代表される、やたらと布がかさばる様な服装が当時の流行だったのかと疑問に思う方も
いらっしゃると思われますが。(かく言う私も疑問に思っているのですが)
思うにローマ帝国からの名残(トーガなどにみられる衣装)の感覚と、ヴァティカンを保有しているため、聖職者のファッションが
上流であるという美意識からなのか、どちらにせよ見た目にはあまり機能的には見えません。

作中の1491年はルネッサンス前期でまだイタリア半島が平和な時期でしたから、戦争に明け暮れて機能的にならざるを
得なかったスペインとは文化も含めて真逆であったと思われます。
スペインの服装はイスラムからの流れではありますが、あのような形になったのは、元々乗馬に適した格好を模索するうちに
辿り着いた結果です。(乗馬といっても戦闘用の騎馬兵としてですが)

しかし当時では、やはりヴァティカンが最大のブランドであり、教会職につく事がエリートであったのは間違いなく
その中枢であったイタリア半島はヨーロッパ人の憧れの的だったと思われます。
チェーザレは15歳でパンプローナ司教に任命されましたが、当時のパンプローナ司教の年間の支給額が1万2千ドゥカート
現在の日本円にして約15億円。(単純換算なので当時と現在の貨幣価値としての判断はしかねますが、当時の教会職での
支給最低額が2千ドゥカート程で、日本円にして約2億5千万円だそうなので、パンプローナという都市での司教の地位は
教会職の中でもかなり格上の役職だったようです)
そしてチェーザレが7歳当時(1483年3月に任命されたので9月生まれのチェーザレはこの時まだ7歳、数え年では8歳です)
の教皇庁書記長の段階で、最低でも5千ドゥカートは支給されていたのではないかと思われ、少なく見積もっても6億円。

7歳児の一年のお小遣いが6億。その後15〜16歳の現時点で15億が追加され、毎年彼の口座に振り込まれていた訳でして。
考えるだけで卒倒しそうになりますが・・・、とんでもないエリートですね。さらに役職が追加される度に金額は加算されていって
いたはずなので、16歳当時での年間所得の内訳は相当な額になっていたと思われます。
開いた口が塞がらないとはこういう事を言うのだなと一頻り・・・

チェーザレの父親アレッサンドロ6世が亡くなった際、チェーザレは病床からミゲルに父親の財産を集めさせていますが
父アレッサンドロ6世の分とチェーザレ自身の財産(還俗した段階で教会から支給されていたお金は、すでにチェーザレの
私物となっていたので、教会に没収される事は免れたと思われます)
この段階で合わせていったいどれだけの財産があったのかは想像がつきません。


2007/01/01
あけましておめでとうございます。
旧年中は連載、単行本発売に関して読者の皆様には御心配、御迷惑をおかけし大変申し訳ございませんでした。
どうか今年もよろしくお願いします。

年末はぎりぎりまで作画の仕事に追われていましたが、さすがに31日はゆく年をゆっくりと堪能させていただきました。
とはいえ、ただTVを見ていただけなんですけどね。(苦笑)
しかし今年はチャンネル切り替えに忙しい年末でした。紅白とK−1とフィギュアを落ち着きなく行ったり来たり。
結局2006年の締めくくりに目に焼きついたのがDJOZMAのステージと桜庭の耳から血・・・だけって。

2007年もどうかよい年でありますように。



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