過去ログ2008/12

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2008/12/26
今年もいよいよ終わってしまいますね。
毎年言っている事ではありますが、本当に一年経つのが早いです。
作品自体の進行は確実に遅いですが(苦笑)。連載再開は来年の三月を予定しております。

読者の方達からしてみれば「三ヶ月も先か」と思うところでしょうが、私にとっては「もう三ヶ月しかない」というのが本音です。
「チェーザレ」は、私はもちろんの事、すでに原さんの範疇も越えているため、最近では各分野の専門家の協力を
仰ぐようになりました。これに関しては仲介してくださった担当編集者及び編集部の尽力に心から感謝しております。
お蔭様で広範囲にわたって貴重な文献を知る事が出来、また昨今のインターネットのおかげで世界各国の書店、古書店から
その原書を入手する事が出来ました。本当にありがとうございました。
現在の私は、まさにウンベルト・エーコ作「薔薇の名前」の中のウィリアム修道士が書物の山を発見した時のような状態です。

これらの文献は、残念ながら日本での需要のなさから、国内での出版は望めない物ばかりですが、知りたい人間にとっては
垂涎の代物でして、当然これもまた各言語の専門家に翻訳をお願いしており、日本語で何不自由なく読める私は、
なんて贅沢なのだろうとつくづくそう思います。語学力は知識力を高めるのに有効だと、本当に痛感している今日この頃です。
またこういった書物を教えてくださる、高い見識を持ち合わせた学者、研究者の方達に出会う事が出来たのも、
本当に幸運だったとしか言いようがありません。
日本にもこういった学識の高い方々が確実に存在するのです。
ただ、こちら側が強く知りたいと思わない限り、その接点は永遠に得られないだろうというだけの話なのかもしれません。
※チェーザレも語学力に関してはかなりのレベルであった事から、高度な知識を持ち合わせていたであろう事が推測され、
  その見識の高さが後の彼の人生に大きな影響を与える事になると思うと、何とも言えない気持ちになります。

これらの方々の協力によって、点にすぎなかった数々の知識が、今では限りなく線に近い密度の物になりつつあります。
あとはこれを、整合性を踏まえつつどう調理するかという事なのですが、実にやりがいがあるものの、正直とてつもなく
困難な作業になりそうです。出来るならいっそ、レポートにまとめて提出してしまいたいくらいです(苦笑)。
来年もまた大変な年になりそうですが、どうか気長にお付き合いください。

今年一年、本当にいろんな方にお世話になりました。イタリアの友人、知人にも心よりお礼を言います。
ありがとうございました。来年もまたよろしくお願いします。
I miei migliori auguri per l'anno nuovo!




2008/11/25
6巻での不備をお詫びします。
Virtu'52でのミゲルとフランチェスコの会話において、チェーザレがパンプローナ司教に任命された時の事をミゲルが
一年前の事と言っていましたが、実際は作中の12月下旬の段階では三ヶ月前の9月が正しく、
これは私が年表を再度確認せずに、文献による「十五歳で任命」という記述を、そのまま単純に解釈し手間を省いて書いて
しまったがためのミスです。

事実チェーザレは、十五歳でパンプローナ司教に任命されてはいるのですが、
記録によると9月の12日に任命された事になっており、チェーザレの誕生日は9月の13日(もしくは14日)となっているため、
確かに十五歳ではあっても翌日(もしくは翌々日)に、すでに十六歳を迎える事になる訳でして、
ここを見落としていたのがそもそもの間違いでした。本当に申し訳ありません。

またホアンについて、モーニング掲載時では年齢を十四歳と表示しましたが、これも実に難しい所であり、
ホアンに関しては誕生日の記録が残っていないため、実ははっきりと十五歳と言い切れない部分もあります。
 ※チェーザレの場合は幼い頃より教会職に付いていたため、その記録からかなり正確なアプローチが出来ると思われます。
ホアンが生まれたのは1476年とされており、チェーザレとは一歳違いであったことは確かなようなのですが、
現代ならば作中の12月下旬で、ほぼ十五歳という計算になるのですが、15世紀のこの当時は新年が3月中であったため、
(日にちは各都市で異なっていましたが)その幅が9月前後から3月中にまで及ぶ事から、
こちらは上記とは逆で単純に十五歳と書き辛くなり、また作中で父親ロドリーゴが兄チェーザレとホアンを比較をする際、
十四歳の設定の方がストーリー上わかりやすくもあり、(ロドリーゴは十四歳までのチェーザレしか見ていないので)
このため掲載時の段階で十四歳としたのですが、原さんとの話し合いで、ここは単純に一歳違いにしようという事になり、
1491年12月の段階で、ホアンは十五歳という事に改めさせて頂きました。

また従兄のシレンツィオですが、こちらも作中では1474年生まれの、チェーザレより一歳年上であると表記しましたが、
教皇庁の記録を元にした人物伝では、シレンツィオの生まれは1470年とされており、1475年生まれのチェーザレとの年齢差は
実は一歳から五歳まで幅があります。
これも迷ったのですが、最終的にはサチェルドーテ版による記録を優先させて頂きました
チェーザレとシレンツィオは、かなり仲が良かったらしく、よく一緒に行動していたとの記述から、
あまり歳の差を感じさせない印象が生じた事と、上記の人物伝の表記に度々誤りが見受けられる事から、
サチェルドーテ版による物を選択しました。

それから今更なのですが、ジュリア・ファルネーゼとオルシーノ・オルシーニの結婚については、
婚姻の取り決め自体は、1489年5月21日に結ばれており、その翌年1490年(作中の一年前)の5月9日にボルジア邸、
星の間で二人の結婚式がロドリーゴ・ボルジアによって挙げられたようです。



2008/11/11
単行本の再考も終わり、何とか「チェーザレ」6巻を今月発売出来る事となりました。
イタリア旅行や模擬戦の作画等で、5巻にかなり時間を取ってしまったため、6巻発売は年内は無理なのではないかと
正直諦めかけていたものの、ダメもとでアシスタント募集をしたところ意外にも早く即戦力になる方が見つかり、
何と言うか、まだ運には見放されていないという事なのかもしれません。

私の仕事場の作画スタッフは以前紹介したように、主に自然、建築物担当、貴金属や刺繍等細かい物担当、そして
背景の陰影+トーンワーク専門と三名いるのですが、それぞれ得意分野を生かして適材適所で仕上げてきたとはいえ、
皆オーバーワークであることには変わりなかったもので、新たにメンバーが加わって本当に助かっています。
しかも嬉しい事に、新しく参加してくださった方は、洋服等の質感、陰影効果に長けているため、私の負担も随分軽くなりました。
今までは服飾の細部の陰影は私が入れていたため、中々手が追いつけず毎回最後の仕上げでアシスタント全員を待たせる事に
なっていましたが、メンバーが充実した事でかなり効率は上がったと思われます。
それでも人物の髪の陰影等は自分で入れなくてはならず、意外とこれが一番厄介で結構ダメージでかいです(苦笑)。
当時は身分によって髪型や服装が分かれていたため、些細な事とはいえ手が抜けない箇所でもあるのですが、
地味に時間がかかるのがネックですね。

実はこの当時は色についても階級があり、作品自体はモノクロなのでわかり辛いですが、
この時代のヨーロッパでは藍色の染料が手に入り辛く、そのために藍、青、紫という色は大変貴重で、
そのために高貴な身分の人間のみが身に纏っていました。
 ※ヨーロッパ大陸にある染料では、灰色がかった水色を出すのが限界だったようで、この染料の元になっていたのは
   主に植物なのですが、時によっては昆虫なども使っていたようです。
6巻冒頭にカラーで登場するミゲルは、なめし皮の上着を着ているという設定のため、あのような配色を使いましたが、
西洋文化の服飾は動物の毛皮、皮等も防寒用として多用している所も特徴のひとつだと言えます。
日本でも幕末までは、武家と公家、町人、医者等、髪型や着物で身分をしっかりと提示していた時代がありましたが、
まあ、現在でも身なりがその人の身分証明となり得るケースは多いと思われます。

因みに、イタリア人は様式美に大変拘りを持つ国民性でして、この辺りはある意味保守的とも言えるほどで、
町並みにしても、派手な看板がその景観を壊すという理由から色が限定されており、
イタリア各地でのマクドナルドの看板は、大半が赤を使わず黒地に黄色(もしくはベージュ)といったシックな装いになっています。
とはいえ、イタリア人主流の憩いの場はバール(カフェ)ですので、マックの数自体も少ないですが。

まあ、ちょっとした近況報告と雑学でした。


2008/10/17
ようやく6巻分がまとまりました。何気に微妙な所で終わってしまいましたが、とりあえず11月には発売できそうです。
ここから先は大半の日本人にとってほぼ未知の世界となるかもしれません。

ラストに登場した聖職者の絵でよく見かける剃髪(トンスーラ)なのですが、
当時これは天上からの神の声を聞く際、頭髪が不浄の物として神様に失礼に当たると考えられていたため、
聖職者は全てこの剃髪を行っていたようです。

記述によると頭頂部付近を、指二本分の範囲で髪を剃るのですが、貴族階級の聖職者は実はそれほどまめに
その行為を行っていた訳ではなく、何かの大きな儀式の場合に(例えば今回の降誕祭ですが)
儀礼的に剃る、または刈り込んでいたようです。
※サチェルドーテ版での記述で、フェラーラ大使がチェーザレに会見した時の様子を書いた手紙に
 「チェーザレ様は平服をお召しになっており、ささやかな剃髪がなければ聖職者とはわからぬ風体であった」とあります。
というか、これを維持していく方が実は大変だったと思われます。何せすぐ髪は伸びてきますから。
これが平民出の修道士の立場で、熱狂的なキリスト教信者であったりすると、話は変わってくるのですが。
実際、地位も財産もない状態であれば、頼れるものは神様だけなので、真剣さの度合いが違います。
中には指二本分どころか広範囲にわたって剃り込んでいるような絵画も見かけるので、その心情たるは
現代の我々日本人には到底理解しがたいものがあります。

この剃髪は当時は床屋などいませんから、主に医者が取り行っていたようです。
何故医者かというと、刃物を扱うのは医者の役目となっていたからです。
アンジェロなどの一般市民の場合は、おそらく自分達で散発していたのではないかと思われますが、
使用人がいる家では、使用人に切ってもらっていたかもしれません。
※チェーザレの場合はお抱えの主治医がいますから、主治医が理髪師も兼ねていたと思われます。
また、当時の男性は長髪に髭のないスタイルが流行りだったようで、短髪に髭というスタイルが流行るのは16世紀になって
戦争が激化していった時代からです。
正直オシャレなどに気を使っている余裕がなくなっていったのでしょう。


今回ようやく登場したチェーザレの従兄、シレンツィオ・ホアンですが、
※この時期ボルジア一族には有名なホアンが三名いますので、混乱を避けるため作中では性格から受ける印象により
 シレンツィオ(静かなる)ホアンとさせていただきました。
この人も当時ピサ大学に籍を置いていた人物で、大変優秀で温厚な性格の方だったようです。
チェーザレとは大変仲が良かったようで(歳も近かったですし)記述には二人がよく一緒に出かけていた様子が記録されています。
残念ながら弟のホアンは本当に出来が悪かったようでして、ホアンが幼少期顧みられなかった一つの要因としては、
実はこのシレンツィオの存在があったからではないかと思われます。
つまり、ボルジア家は次世代の担い手をチェーザレとシレンツィオとして、この二人の育成に集中してしまった感があるからです。
それでもホアンは、ペドロ・ルイス亡き後ガンディア公を受け継ぎ、マリア・エンリケスとの間に跡継ぎを残している訳ですから、
ホームの維持としては十分に役割をまっとうしたとも言えます。
※ロドリーゴはかつて、叔父のカリストゥス三世政権が終わった段階で、実兄であった先代ペドロ・ルイスを失い
 孤軍奮闘を強いられた経験上から(先代ペドロ・ルイスは、当時のロドリーゴにとって、一族として心の拠り所ではありましたが、
 戦力としては全く使えず、自らも危殆にも瀕した経緯が有り)それを踏まえた上で、一族の基盤強化にかなり力を入れていたと
 思われます。

また一部で、ホアンがチェーザレにとって兄に当たるのではという説もありますが、この時代の貴族の家では
長男が家督を継ぎ、次男が聖職者になるのが慣例でしたので、幼い頃より聖職者としての教育を受けていたチェーザレは
確実に次男であったと思います。
長男ペドロ・ルイスが亡くなった事で、三男のホアンが跡目を継いだため、一部の文献で単純に次男であったから継いだ、もしくは
最初からガンディア公領を継いだとして、家督を継ぐ者=長男ホアン、聖職者となる者=次男チェーザレとして、
長男ペドロ・ルイスとホアンが混同されて解釈されたのではないかと思われます。
因みに、四男のホフレも当初は聖職者として教育されている事から、どうやら三男ホアンに関しては聖職者としての
適正が見受けられなかったのではないか(正直この聖職者になるためには相当の語学力と頭脳が要求される)
と推測されるのですが、結局のところ四男ホフレも後に還俗し、ナポリ王女と結婚しています。
この時も、実は最初にチェーザレがその結婚相手として望まれるのですが、ロドリーゴはチェーザレを聖職者のままにして、
まだ幼かった四男ホフレを還俗させ結婚させています。
こういった事から鑑みるに、ロドリーゴのチェーザレに対する期待というか執着というか、あくまでもチェーザレを聖職者とし、
枢機卿に据える覚悟というものが窺えます。

シレンツィオに関しては、彼は後にチェーザレにとって片腕とも言える頼もしい人物になるのですが、
とりあえずはミゲルの存在の方が物語上大きく、そのためにやや遅れての登場となってしまいました。
※連載当初から登場させてもよかったのですが、そうすると側近のミゲル、家庭教師のフランチェスコに加えて
 人物紹介だらけになる危険性があり、ドラギニャッツォとロベルトの退場を機に登場する事とさせて頂きました。

実を言うと(ネタばれになるかもですが)、ボルジア家は最初からこのシレンツィオを表舞台に出しておけば、
その後、波風立てずに権勢を誇れたかもしれなかったのです。
しかしロドリーゴ・ボルジアは、あくまで庶子であるチェーザレを政界の中枢に置こうとしています。
庶子に枢機卿(この段階で時期教皇の権利を取得した事となる)の称号を与えるという事は、
当時のキリスト教社会では考えられない衝撃だったと思われます。
その余波を覚悟した上で、それでもチェーザレを表舞台に出そうとした理由は、やはり我が子可愛さというか親の欲目というか、
まあそれ以上にチェーザレの資質の高さが大きかったのかもしれません。



今回また新たにボローニャのベンティヴォーリオ家と、シエナのピッコローミニ枢機卿という名が出てきましたが
教皇選を控えたこの時期、当然どの家も票獲得のために一族の誰かを、ヨーロッパ各地に遊説させていたと思われ、
そこでシレンツィオを、ボローニャへ派遣させていたという設定にしたのですが、
さすがにそのあたりの記録は残っていないもので、(というか、裏工作の証拠となるため残せない)
ここからは私と原さんの推論で構築した物となります。

まず直接ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ=イル・モーロ(弟のアスカーニオ・スフォルツァ枢機卿はボルジアの対抗馬であり、
またスフォルツァ支持票を複数持っているため、この両家の談合は周囲にかなりの警戒を与える)にアプローチさせるのは、
さすがに迂闊すぎるのではないかと言う事になり、
また、シエナ攻略は定説から行けばチェーザレのエピソードとなるため、ここも外しました。
※これも実は本当にチェーザレがシエナに行っていたかどうか、現段階で確証はありませんが
 1492年の教皇選を控えた時期に訪れた可能性は高いはずで、実際、教皇選の知らせをチェーザレはピサではなく
 シエナで受けたという記録が残っています。
シエナはピサ、フィレンツェと共にトスカーナ地方を代表する都市であり、現在でも三都市は車で2時間以内で行き来できる場所に
あるので、ここを訪れないという事はまずなかったであろうと思われます。

結果選んだのがスフォルツァ家の娘(ペーザロの分家の庶子)を妻にしているボローニャのジョヴァンニ・ベンティヴォーリオ
なのですが、ベンティヴォーリオはボルジアの政敵ローヴェレとは犬猿の仲で、しかもメディチ家縁りの一族であったため、
シレンツィオの身の危険も少ない上に、余計な詮索が周囲に及びにくい範囲であったと思われます。
まあ何かと味方につけていて損のないベンティヴォーリオ家ではありますが、直接的に関わってくるのは教皇選以降でしょうね。

因みにスフォルツァ家の本拠地はミラノで、当主はルドヴィーコ・スフォルツァ(この時の軍師はレオナルド・ダ・ヴィンチ))
その弟がアスカーニオ・スフォルツァ枢機卿でアスカーニオはローマに住んでいたはずです。
※ヴァティカンのあるローマは日本でいうなら現在の東京永田町みたいなものですかね。
分家にペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァ、作中でも触れたフォルリのカテリーナ・スフォルツァがいますが、
カテリーナと本家のルドヴィーコは叔父と姪の間柄となります。
この二人は後のチェーザレ、ルクレツィア兄妹と深く関わってくるので、すでに御存知の方もいらっしゃると思います。

ローヴェレ、スフォルツァ、オルシーニに関しては、まだまだ説明不足で申し訳ないのですが、
チェーザレを描くに当たっては、かかせない登場人物達とはいえ、これらの外堀を埋めようとすると、主人公のチェーザレが
しばらく出番がなくなってしまいそうな勢いなので、さすがに回避しています。
(これが三者三様の狸親父でして、個人的には中々面白い物があるとは思うのですが)
上記の三人(家)は作中では今の所かなり端折って説明させて頂いておりますが、これからも頻繁に出てくる名前なので
まあ、追々と隙を見つけては紹介していく事となると思います。



何と言うか、本家やら分家やら名前が入り乱れて、読者に関しては御苦労様としか言いようがありません。
脳の活性化には一役かっているとは思うのですが、だからと言って知っているから何?という世界でもあります。
まあ憶えてしまえば結構楽しめるのですが、物好きだと思われるのは必至でしょうね。
これは人種、宗教に加えて、共和制と君主制という異なった政治形態が共存する大陸に、人文主義(ルネッサンス)という
一大ムーブメントが巻き起こった、決して単純明快ではない時代の人物達のお話でもあります。
日本で(実は欧米でも)、この時代が今まで一般的にあまり取り上げられなかった理由は、こういった複雑極まりない
世界観のために、説明する方もされる方も、それ相当のエネルギーを要求されるからかもしれません。

要は、一般的に海という物を知っていれば良い訳で、深海を知る必要はないのです。
この気圧に耐えられるかどうかで、今後読者も選ぶ事となりそうです。
それ以前に私自身が押し潰されそうではありますが・・・まあ、仕方ないですね。描ける所まで描くだけです。


2008/09/27
またもや休載を挟んでの掲載となってしまいました。申し訳ありません。
残り二話を10月中旬までに掲載し、その後は速攻、単行本発売の準備ですかね。
何とか11月には6巻が発売出来るように頑張りたいと思います。

文藝春秋から送られてきた「クレア・トラベラー」を、今頃になってゆっくり見ているような有様です。
記事を見て何だかとても懐かしくなりました。
もう4年程前になりますか、この頃はまだ原さんとも知り合っていなく、兎に角資料集めに奔走していた頃で、
文藝春秋の石橋さんは、どうやら当時の私の足取りを辿って取材をしてきたらしく、写真を見ているだけで、
あの場所のあの辺りで、しかもあんな格好で撮ったのかと、想像すると思わず笑みがこぼれてしまいます。
しかし、やはりプロの仕事というか、クレア・トラベラーさんの高画質な写真には感心せざるを得ません。
やはり再度一眼レフを購入するか・・・などとつい思ってしまいました。
学生時代にデザイン科でのカリキュラムで、とりあえず撮影から現像までの課程は教えてもらってはいるのですが、
何せ昔の事ですし、とにかく一眼レフの扱いは難しい・・・くらいしか記憶に残っていません(笑)。

それから補足なのですが、私の場合のみで説明しますと、ピサ大学内部の写真撮影等、当時は大学関係者などに交渉し
了承を得てから撮影した物を使っていますので、もしこれから現地へ行かれるという方は
写真撮影の場合、一般的な観光スポット以外の場所ではちゃんと許可を取ってからの撮影を心がけて頂ければと思います。
実際イタリアでは、一般的な観光スポットでも撮影不可な所は多いので、これも要注意ではあるのですが、
観光で稼いでいるイタリアにとっては、建築物その物に肖像権が発生するので、写真撮影にはそれなりの配慮が必要です。
私も当初はこれで随分苦労しましたが、スケッチならOKという所が多かったので、とりあえず絵心がある事に感謝した次第です。

またちょっと前に世間で騒がれていた落書きですが、実はこの落書きはイタリア各地、至るところでお目にかかります。
しかもいろんな言語で書かれていて、その数も非常に多いです。
イタリア政府は情報流出には厳しいのですが、こういった道徳的な事には実は緩い所がありまして、
その理由としては、厳しく規制をする事で観光客の足が遠のく危険性があるため、どうしても厳しく出来ないというのが
実情なのだろうと思われます。
旅行に行く際(国外でも国内でも)、それが感動を得るための旅なのか、自分の痕跡を残すための旅なのか、
僭越ながらもう一度よく考え頂ければと思います。
後者であれば、それは後から来る者の感動を奪う旅でもあるという事なのです。



2008/09/01
とうとう9月、本当に早いですね。
今年の夏は豪雨やオリンピックやらで、世間はいろんな意味で大変だったような気がしますが、
私にとっては仕事部屋の中だけの生活が続いているので、豪雨も猛暑も知らないまま時間が過ぎていっています。
病院へ数回通った以外は、今年になってから一度しか外出していない事に気付き、さすがに自嘲している今日この頃です。

さて連載再開ですが、今週からとりあえず6話を掲載予定しております。
今現在も作画中ではありますが、何とかこれを上げて単行本6巻分を纏めたいところです。

これは編集とも話し合った結果なのですが、この先の内容がかなり専門的な物となっているため、単行本の流れから鑑みると
どうも切りが悪いという事で(次の単行本発売までにかなり間が空くため:申し訳ない)
単行本6巻は9話分で一巻という事にさせて頂きました。
なのでこれさえ上げられれば年内に、無事6巻が出せるのではないかと思っております。


それから私の作品の関連事項として、9月1日、今日なのですが (※すみません、9日ではなく1日でした)
文藝春秋から発売される「クレア・トラベラー」という雑誌で、トスカーナのチェーザレの足跡を辿るという企画で
私の作品の取材場所となった所を御紹介させて頂きました。
定番の名所とはちょっと赴きが違ってはおりますが、「チェーザレ」を読んで頂いている方にとっては、
ある意味楽しみな企画なのではないかと思われます。

編集長の石橋さんには、随分とマニアックな事ばかりお伝えしてしまい、当初はやや引かれていたのではとも思ったのですが、
石橋さん自身、とても拘りを持っていらっしゃる方ですので、大変熱心に取り組んで頂き本当に感謝しております。
(取材旅行には出来るなら同行させて頂きたいくらいでした:笑)
コメントに関しては、残念ながら私自身は時間の取りようがなく、結果原さんに丸投げしてしまいましたが、
その方がより詳しく当時の状況が伝わると思われますので、コアなファンの方にとっては喜ばしい事と思います。

連載当初、日本にはルネッサンス期の専門書という物がほとんど見当たらず、世界中(主にヨーロッパ)の書店、古本屋から
該当する物を取り寄せては翻訳するという作業を繰り返していましたが、
(伊、西、仏、英語と言語も様々な上、優先する箇所から順に訳しているため、未だに全てを翻訳しきれていない状態です)
最近何気にヨーロッパ中世について、興味を持つ読者の方が増えてきたのか(それに呼応してか)、
国内にも関連の専門書を取り扱う書店が増えてきおり、お蔭で本当に調べやすくなり助かっている反面、
逆に細部にまで手が回るようになり、何だかさらに自分の首を絞めているような気もします。




2008/08/08
またもや小休止となってしまい申し訳ないです。
今の段階で1話分と3分の1までは出来上がっているのですが、再開までに3話分は描き溜めしないとやばいですね。
目標としては何とか年内に単行本6巻を出すつもりではいるのですが、去年イタリアへの取材旅行した(準備も含め)
一ヶ月間がどうしても埋まらず苦労しています。
でもルッカ、ピサ、シエナ、フィレンツェ、特にルッカにはどうしても行かなければならなかったので、
ルッカコミックのイベントは、ある意味奇跡と言って良い程の好機でありました。

何故ルッカにそこまで拘っていたかというと、実はルッカという街は500年前から殆ど地形を変えていない、
イタリアでも数少ない古都の一つで、ルネッサンス時代の通りを再現するには最高のロケハン場所だったのです。
ローマ、フィレンツェ、ピサは都市の開発が進み、現在では大半の通りが区画整理され広くなってしまっています。
しかし、ルッカは500年前から(建物の外観等は大半リニューアルされているものの)通りだけはそのままの状態で
現存しているという、本当に稀少なかつての要塞都市なのです。

500年前の通りとは、とにかくクモの巣のように入り組んで狭いのが特徴で、一番広い通りで当時の馬車が離合できる程度
のものだったと思われます。
その理由は、敵に攻め込まれた時に大群が押し寄せてくるのを回避するため(いわゆる桶狭間の戦い状態)なのですが、
今まではそういった文献を元に、ピサやフィレンツェの通りを強引に狭くし、建物の嵩も下げ、櫓としての塔を随所に配置、
なるだけ通りを曲がりくねらせ先の見通しが悪いような造りに仕立てていました。
(これも戦争におけるための仕様のひとつで、時代時代で街の有り方や形状には理由と必然性があるという事なのでしょう)
当初から(今現在もですが)街の描き方に随分と苦労させられていたので、ルッカの街を実際に歩いた時は本当に感動し、
また文献を元に描いてきた物とほぼ同じ状況である事が確認できて大変嬉しかったです。
※古地図と当時の絵画のお蔭でもあります。

因みにモーニング35号に登場したピサの広場は、現在のピサ、カヴァリエーリ広場の500年前の再現です。
現在Palazzo dell'Orologio(時計館)が立っている場所に飢餓の塔があったようで、おそらく土台の部分はそのままで、
当時は二つの塔が立っていた可能性があり、向かって右側が飢餓の塔だったと推測されます。
その後、当時飢餓の塔であった上部が取り外され、嵩を下げ隣ににあった低目の塔と合体され現在の状態になったのでは
ないかと思われます。


それから今更なのですが、作中での葡萄酒は全てワインと明記しておりますが、実はイタリア語にするとvino(ビノ)が正しく、
連載当初、どう表記するか悩んだものの、日本ではワインがすでに外来語として定着していた事と、ヨーロッパ各国で
呼び名が違うため、逆に混乱させないようにと、敢えてワイン(英語)で表現する事にさせて頂きました。
※フランス語=vin ドイツ語=wein ポルトガル語=vinho スペイン語はイタリアと同じくvinoです。

狭義でいうところ、当時は葡萄果汁を発酵させたものをvinoと呼んでおり、幅広くワインと呼ばれる物となるのはまだ先の話で、
語源はラテン語のvinum(葡萄を発酵させたもの)から来ているようです。

ところで、作中でチェーザレ、ミゲル達が16歳にも関わらず宴会でvinoを飲んでいる事を「未成年でありながら」などと
無粋な事は言わないで下さいね(笑)。
500年前のヨーロッパと現在の日本の状況を同じ視点で捉えるのは不毛だと思われますので。
とは言え、知り合いのイタリア人(男性)は4歳の頃からvinoを飲んでいたそうです。
当然水で薄めたものを飲料水として親が与えていたそうなのですが、思えばポリフェノールも含まれていて、
某炭酸飲料を飲むよりは確実に体には良いのではと思います。




2008/07/09
すみません、訂正です。
公式の発表が間違っていたようで、連載再開は7/24発売の34号からが正しいようです。
さらに一週間お待たせする事になり、本当に申し訳ありません。
一日でも早く読者の皆様にお届けしたいとは思いつつ、私的には一週間伸びた事で逆にほっとしているのが本音です。
現段階では教皇選あたりまでを想定しつつ、前後確認しながら試行錯誤で描いているような有様ですが、
進行途中で新たに見つかる文献等もあり(当然作画にも時間がかる、または描き直しの繰り返しですが)
また骨格となっているサチェルドーテ版も、イタリア語の古語の記述、ラテン語、スペイン語等による手紙の翻訳が大変難解で
誤訳のないよう慎重に行っているため、正直中々ペースを上げて描く事が出来ない状態が続いています。

因みに今更ながらですが、オルシーノ・オルシーニについての補足で( 作中では少年時代に登場していますが)
現在まで、オルシーノは隻眼であったというのが有力説ではあるのですが、実は斜視であったのではないかという説もあり、
また隻眼であったとしても左右どちらの目に障害があったのか、いつの段階で隻眼になったのか、
現状ではまだ定かではないため、登場シーンにおいての明確な表現は敢えて避けさせて頂きました。

それからフランス人のジャン・バリュー枢機卿の甥であるジャン・バリュー、ピエール・バリュー兄弟ですが、
この両名も作中の1491年の段階でピサ大学に在学しており、この時の兄弟の後見人はジュリアーノ・ローヴェレでした。
(おそらく教皇選を見越してピサ攻略のために、ローヴェレの特使という役割を担った上での在学だったのではないかと思われる)
そして同年に亡くなった叔父のバリュー枢機卿、彼は生前かなりの武力派として名の通った人だったらしく、
ボルジアの政敵ジュリアーノ・ローヴェレとは随分馬が合ったようで、揃ってボルジアのバッシングを激しく行っており、
それはボルジア家がユダヤ贔屓であった事と、貿易によって財を成していた事に起因していたようです。
これはキリスト教信者が異教徒を認めたり、また聖職者でありながら商業で利益を上げたりする事が、当時は
背徳行為であると考えられていたためなのですが、ローヴェレとバリュー、この両者も結局は聖職者の名の下で、
それなりに私腹を肥やしていたのは確かだと思われます。
要するに器用に立ち回り、しかも組織力のあるボルジア家をかなり疎ましく、
また脅威にも感じていたという事なのかもしれません。

他にも細かい所を上げれば切りがないのですが、絵に変換するには厄介な事も多々有り、
これからも暗礁に乗り上げる事は度々あると思います。
読者の皆様には本当に申し訳ないのですが、今後も気長にお付き合いして頂くしかなさそうです。




2008/07/04
7/17発売のモーニング33号にて「チェーザレ」再開となりました。
気がつけば7月、本当に時間が過ぎて行くのが早いです。(あくまで私の場合です)
現場は今現在も作画に追われている状態ですが、出来るだけ多くの回数を掲載出来る様、頑張りたいと思います。

仕事場に篭りっきりの状態が続くと、楽しみがTVだけになってくるのですが(普段は殆ど音声で楽しんでいますが)
先月はEURO2008のお蔭で深夜の仕事が随分と楽しい物となりました。
とは言え、あまりに面白くてついペンを止め、TV画面に釘付けになってしまい、逆に捗っていなかったような気もしますが、
どうかこれくらいの息抜きは許してやってください。

ところで私の場合、今描いている内容が内容なもので、ついスペインを応援してしまうのですが、
今大会のスペインの試合はどれも面白かったですね。
決勝トーナメントでの対イタリア戦は、火力対防御で一進一退の攻防戦、ロシア戦では火力対火力でロシアを力で捩じ伏せ、
決勝のドイツ戦では、スペインの機動力がドイツを翻弄する形となり44年ぶりにスペインが優勝を決めました。
決勝戦では、ドイツvsスペイン=神聖ローマ帝国vsカスティーリャ・アラゴン連合軍という
個人的フィルターで試合を観戦したりして、欧州選手権のちょっとした自分流楽しみ方を発見したような気がしました。




2008/06/11
「チェーザレ」5巻の発売が7月になってしまいました。今更ながらのお知らせで申し訳ありません。
再考と加筆にそれなりの時間は頂いていたのですが、体調が思わしくなく中々仕事が捗らずにいました。
今はだいぶ持ち直して来ているような状態ですので、出遅れた分をこれから取り返していけたらと思っています。
いつもながら編集部と読者の皆様には御迷惑かけてしまって本当にすみません。


先日、原稿を失くされた漫画家さんが出版社を訴えたという事をニュースで知りました。
なんとも辛い展開となってしまったと大変残念に思います。
本来なら作品に向けられるはずの時間とエネルギーを、訴訟という争いごとに使わなければならないのですから、
その心労の程を考えると、その作家さんと読者の方には本当に気の毒としか言いようがありません。
この件に関しては私にとっても(おそらく大半の漫画家にとっても)他人事とは思えない事件だと思います。

14年前になりますが、私がちょうど小学館から講談社へ移ったばかりの頃、小学館から戻してもらっていた原稿の中に
カラー原稿が大半見あたらない事に気づき、編集部にその旨を電話で伝えたのですが、当時の担当者はすでに部署を離れて
いたため、その時の編集長が間に立って連絡を取ってくれたのですが、小学館には私のカラー原稿は一枚もなく
その時の担当者も全て私の元に送ったと断言していたため、原稿は実は私の手元にあるのではないかと言われ、
あまり真剣に対応してもらえませんでした。
しかし、我が家も九州の実家も、思いつくところは全て探したのですがどこにもなかったので、本当に送ったのかと
再度確認を入れたところ、一年前にB4サイズの原稿を左右二つに入れたダンボール箱にカラーも一緒に梱包し、
九州の私の実家へ送ったので私の母が受け取っているはずだと言い切られてしまい、
仕方がないので母に原稿の全てを再確認してもらったのですが、やはりどこにもないのです。

確かに活版の原稿は箱詰めされて実家に届けられていたらしいのですが、母がその中を確認した時も
カラー原稿は一枚も入っていなかったという事でした。
私の母が高齢であったため、うっかり保管した物を忘れてしまっている可能性もあるのではと言われ、
それを母に伝えたところ、彼女は明確にその箱が届いた時の事を憶えており
(彼女は私の原稿がどういう物であるか大変よく知っていたので)中身を全て確認した上で保管場所にしまっておいたと
自信をもって言えるとの事でした。
これで私も確信し、編集部に再度探してもらえないか、最悪は弁護士を立てての話し合いも辞さない覚悟だと伝えたところ、
さすがに非常事態だと察したらしく、社内、製版所、あらゆる所を探すので兎に角時間をくれと言われ、
事の始まりから一ヶ月程経った頃、私のカラー原稿がようやく出てきたのです。

製版所の、まず絶対そのような場所には保管しないであろうという場所から見つかったそうで、
ボードに描かれたカラー原稿の数は30数点、大きいものでB2サイズまでの物が、ひとつに梱包されて放置されていたそうです。

編集部曰く、この製版所での担当者がかなり杜撰な管理をしていたらしく、しかもすでに退社しており
本人を探し出せたものの当時の事を当の本人は覚えていないという最悪な状態で、
兎にも角にもこの方を連日問い質すしか術がなく、結果ようやく手がかりが掴め、探し出せたという事だったらしいのですが、
出版社側から見つかったという事で改めて問題視されたのが、九州の実家に箱詰めして送ったと断言していた
元担当の言い分です。
B4が二冊入る程度の箱にどうやって最大B2のボードを含むカラー画稿を一緒に梱包出来るのか、
思い違いというよりほぼ虚偽であると言える発言でしょう。
おそらく、その元担当は私のカラー原稿その物が、どのような大きさで何枚あったのかなど、実際には把握していなかった
のではないかと思われます。
にも関わらず何故こんな嘘がつけるのか私には理解できませんが、この嘘の発言のお蔭で逆に騒動が
大きくなってしまったのは確かです。

当時の編集部の面々に対しては、尽力して頂いた事に関して本当に感謝しています。
しかし、たった一人でも、このように無責任で不誠実な人間がいるだけで、関わった者達が皆翻弄され疲弊するのは
大変腹立たしい事でもあります。
(これは出版界に限らず、どこの世界でも言える事だとは思いますが)
個人の問題なのか、組織の問題なのか言及するのは難しいとは思いますが、ただ改めて原稿を確認していた時に、
自分の原稿の入った封の中から、他の作家さんの描いた、おそらく扉絵であろうカラー原稿が出てきた時には愕然としました。
当然、編集部に連絡し引き取ってもらいましたが。


小学館には優秀な人材も確実に存在します。全ての編集者が上記のような人間という訳ではありません。
漫画家にもいろいろな人間がいて扱いにくいケースもあると思われます。
私自身も言ってしまえば偏屈で我侭な人間だと思いますし、ただこういう仕事は自我だけはしっかり持っていないと
とても成り立たない物でもあると言えます。
結局、大切なのは作家サイドにしても編集サイドにしても、相手に対する最低限の礼儀は守るべきという事なのでは
ないでしょうか。
人間ですから誰だってミスくらいします。問題なのは事が起こってからの対応の有り方なのではないでしょうか。
「原稿は送ったはずだ」ではなくて、「送ったと思うのですが、こちらでももう一度確認します」では
随分とその後の展開も変わってくると思われます。

自身のプロフィールで触れている、デビュー当時の原稿の枚数で揉めた話ですが、(少女コミックでの初連載第一話)
これ、実はどちらかが間違っていたという訳ではありません。
この時のページ数が40Pで、ただカラー扉の裏に広告が入いるため、掲載時の扉裏の右ページには広告が入ります。
と、当時の担当編集者からそう言われたのですが、この時の私は雑誌掲載のノウハウを一切理解していなかったため
広告を入れて(含めて)40Pという事なのか?と担当に聞きなおしたのですが、
担当は「そうだよ」と言うので、さらに念を押して「では40Pの内私の描く内容は39Pなんですね?」と、さらに聞き返したのですが
担当はちょっと考えてから「そうだよ、39P」と応えたので、私は扉1+広告1+内容38で作り上げてしまいました。
要するに広告1P分のページをを自身の作品から差し引いて描いてしまったのですが、原稿が完成し渡す段階になって
担当が一枚足りないと騒ぎ出したので、「いえ、言われた通り広告1P分差し引いて仕上げました」と言ったら
「いやいや、僕はそんな事言っていない」と。
このやりとりでわかったのですが、どうやら担当は当初私が疑問に思っている事を把握できていなかったらしく、
「40Pの内私の描く内容は39P」と言うのを「扉1P+内容39P」と言っていると勘違いし、
だから39Pで間違いないと応えてしまったというのが事の真相で、この見解に至るまで30分押し問答を続け
ようやく事の経緯がはっきりしたものの、問題は一枚足りない目の前の作品でした。
「これ、足りないのどうすればいいんですか?」正直かなりテンパっていた私に対して、
「あー平気平気、もう一枚広告入れちゃえば大丈夫」と言ってその担当が笑った瞬間、
その意識の軽さに思わずカチンと来て、反射的に目の前のアルミの灰皿をフリスビーのように投げてしまったという訳です。
この灰皿は執筆で篭っていたホテルの部屋のテーブルの上を滑っていき、その担当の膝に落ちただけなんですけど、
まあ今では笑い話のひとつになっていますが、ただあの時ネームの段階でも下絵の段階でも全くページ数には気づかず
完成原稿に対して一枚足りないというのは、編集として意識が低すぎるのではないかという私の提言に
彼は真摯な態度で対応してくれ、作品はページによってコマ割りも構成も微妙に変わってしまう物だから、
そういった伝達は、出来るだけ正確にしてもらいたいという私の要望に、快く承諾してくれました。
「以後気をつけます。でも自分は確かに迂闊な所がある人間なんで、もしまた何かあったら構わず灰皿投げてください」
「出来れば投げたくはありません」
と言ってお互い笑って締め括ったものの、彼はやっぱりよくミスをする人で(苦笑)
それでも嫌な人間だと思った事は一度もありませんでした。

   __________________________________________________________________________________________________________________________

※追記
私の場合小学館に在籍していた11年間に、ちゃお、別コミ 週刊少コミ、この三誌で担当編集者16人と仕事している
ものですから(その内一名が移動で各誌で3回担当者になっているため、頭数でいうと14人ですが)※御指摘ありがとう
一番短い期間で三ヶ月だった担当が二人という有り様なので、どの編集者がどの時期担当だったか克明に表記するのは
書く方も読む方もかなりの労力を強いられるため割愛します。
簡単に表示すると
別コミでのデビュー時から一年の間に2名
少コミに移ってから7年間に7人、平行してちゃおで4年間に4人
別コミで再度仕事をした3年の間に3人
中には相性が合わずに(作品作りの上で)こちらから変えてもらった編集が2人いますが、
(最短三ヶ月の二人ではありません。最低でも一年は一緒に仕事しないと編集との相性は判断できないと思われます)
最初は「ボーイフレンド」という作品の男性主人公を、担当者が自分の好みのキャラクターではないと断言したためで、
この時の担当は上記の灰皿を投げた編集者でしたが、仕事上での事と人柄とは別と考えていますので、今でもこれは
止むを得なかった事と思っています。
次は音楽情報誌から移動して来た編集で、当の本人がすでに漫画にどう介入していいのかわからないと、ある意味正直に
言ってくれたので雑用のみのサポートに徹してもらい、最終的には円満に話し合いをして担当を降りてもらいました。

それから編集部についていけずに雑誌を変えたのが二回、
(デビュー当時のいざこざで別コミから少コミに移ったものの、その時衝突した当の担当者が編集長として少コミに配属され、
個人的な問題ですが、やはり方針についていけなかったため)
この間確実に一緒に作品作りをしたという記憶のある担当は、各誌で3度担当となった編集者一人だけです。
ちゃお三代目担当を2年程続けた所で少コミに移動、当時の編集長の配慮?で2年程担当、その後別コミに移動、
そこで2年程担当、その後また移動、これを最後に私は小学館を離れたためトータルで4作品を6年分担当した事になり、
結果、小学館では最長の担当者になったとも言えます。
お互い人間ですので、仕事上のパートナーシップを築くのは誰とでもという訳にはいきません。
思えば編集者側もこの移動の多さでは、相性以前に作家の原稿の管理と把握すら困難なものになっていたかもしれません。
また雑誌の方針に合わせられないと結論を出した以上、作家自身もそこで執筆を続ける訳にもいかず、
そもそも私が三誌で仕事する事となった原因は、小学館の体質上担当編集者の移動が多く雑誌そのものに定着するというより、
相性の良い担当者との仕事を優先していたら、自然とそうなってしまったという事なのかもしれません。


私の場合は運良く(本当に運がよかったとしか言いようがない)原稿が見つかり、事の経緯がはっきりしたため
穏便に済ます事が出来ましたが、もしあの時見つからないままだったら、原稿を送ったという編集者の発言が最終的には
決め手となり、こちらの落ち度で紛失した事になっていたかもしれません。今でもそれを思うと正直背筋が寒くなります。
今回のカラー原稿紛失事件も(多分、問題の本質はそれだけではないのでしょうが)
出来れば作家、編集、双方が納得いく形で収拾がつく事を祈っています。





2008/05/01
某サイトでの、私のペンネーム及び経歴に関して、ある作家さんの連載作品の主人公の名前を、
ペンネームとして使用したという事と、またその作家さんの元でアシスタントをしていた等の
間違った情報がUPされているという事を知り、確認した所その情報が完全に事実とは違ったものであり、
その件に関しては、そのサイト関係者から取材等も受けておりませんし、この旨をそのサイトの管理者に
伝ようとしたのですが、連絡の取りようがなかったため、その事による誤解と混乱を避けるため、
止むを得ず、自身のこのサイトで改めて事の詳細を記述させて頂く事に致しました。


まず私のペンネーム「惣領冬実」は昭和56年(1981年)の9月に、小学館新人漫画賞、
少女漫画部門への作品投稿時に使われていたもので、この段階ではまだ「惣領冬彌」という字で表記されていました。
この時少女漫画部門の佳作をもらい、翌昭和57年3月に「惣領冬実」となりました。
彌という漢字をファンレターを出す子供が、書きづらいのではないかと編集から指摘され、彌→実に変更しました。

昭和56年12月に、別冊少女コミック誌上にてPN「惣領冬彌」、作品「Bye-Bye雨のメランコリィ」が、
最終予選通過の段階でまず発表され、その翌年すぐに佳作受賞として改めて誌上に発表されました。
残念ながらこの作品は、当時私が漫画の描き方をまったく理解していなかったため、
原稿サイズを、実際の雑誌サイズの枠で描いて投稿してしまい、
通常の原稿より二割小さい物を作成してしまったため、印刷上の問題で雑誌に掲載出来ないという状況を招き、
急遽、新たに「陽だまりの訪問者」という作品を通常サイズで完成させ、
デビュー作として昭和57年3月発売の別冊少女コミック4月号にて掲載、発表させて頂きました。

この時にペンネームを「惣領冬実」として雑誌上で、デビューしたのですが、
この半年後の、おそらく昭和57年の9月頃だったと思われますが、上記のサイトで挙げられている、
ある作家さんの連載作品が他誌で始まり、その段階でその時の作品の主人公の名前が、
私のペンネームに酷似している事を、当時の担当編集者から連絡を受けて知り、私自身当惑したのですが、
その後この事で各方面でいろんな誤解、また憶測や誹謗中傷が行われ、
そのために、その作品より半年前に「惣領冬実」の名前でデビューしていた事実と、
その作家さんとの関係性について、まったくの無関係である事を、誌面上で提示させて頂きました。
また、私は同期の友人の手伝いをした以外は、アシスタント経験はまったくありません。
当然その作家さんのアシスタントをやった事もありませんし、またその方とは今現在までお会いした事もありません。

また初期の長編「ボーイフレンド」においての、主人公加奈子は
自身のデビュー作「陽だまりの訪問者」の蕗子というキャラクターを、そのまま流用したもので
その作品は、女子大生と年下の高校生の男の子の恋愛話を主軸にしたものでしたが、
キャラクターデザインは、主にそれを下敷きにしました。
当時は少女漫画というものを模索中でしたので、複数の少女漫画家さんの影響を受け、
絵に安定はなかったと思われますし、誤解を与えるような絵柄で描いたケースもあったと思われます。


以上、この関連については、すでに過去の事として今まで触れずにおりましたが、
誤った情報が当然の如く、私とはまったく無関係のサイトにより、表示される事で何らかの誤解が生じ、
その事により、各方面に御迷惑をかける可能性もあると見て、今回このような形で訂正、発表させて頂きました。


                                                       惣領冬実




2008/04/19
とりあえず5巻分を掲載できてほっとしています。単行本の発売は6月23日を予定しています。
その頃に連載再会になりそうですが、5巻分の再考にまだ手間取っています。
来週中には次の掲載分の原稿に取り掛かるつもりですが、次回何話分まで掲載可能かそれはまだ謎です。


現段階までで(チェーザレに纏わる話に詳しい方は、もうお気づきだと思いますが)後のチェーザレと敵対する人物達の

何人かを、1491年の現状を情報として作中に流していますが、43、44話に登場したカテリーナ・スフォルツァ、

彼女もチェーザレ同様、様々な逸話を語り継がれてきた人物です。

特にフォルリ城での、フォルリ市民による反乱軍との駆け引きの話は有名で、(これが彼女が女傑と言われるようになった

所以だと思われるのですが)

ただ兼ねてから、当時の上層階級の女性が城壁に登れるものかどうか、私なりに疑問に思っていた所が多く、

フィレンツェ、ピサ、シエナ、サンジャミアーノ、ブラッジャーノ、ルッカと、イタリアを訪問した際、見れる範囲の城壁を

観てきたのですが、サンジャミアーノでは古城跡で一般人が登れる城壁が残っており、試しにそこへ登ってみたのですが、

結構怖いです。

簡易的に造られた石段は狭く急で、当然手摺りなどもなく、当時の女性のスカート(ゴンナ)姿では足元も見れず、

かなり危険だったと思われます。

また、城壁に登れたとしても、弓矢や投石避けの胸壁という物があるので、そこでスカートを捲り上げたとしても、

まず城壁外にいる下の反乱軍にはよく見えないと思われますし、声も当然正確には届かないと思います。

そこで原さんに頼んで、最も自然で信憑性の高い文献を探してもらい、「チェーザレ」ではこの話を引用する事にさせて頂きました。

面白味には欠ける内容となってしまいますが、後にチェーザレの敵となるカテリーナの人間性を掘り下げるためには、

やはり重要なデータだと判断し、私的にこのような形で紹介させて頂きました。

※因みに、仮に反乱軍に向かってスカートを捲り、大腿部及び、服の上からでも性器の位置を指差そうものなら、
それは淫らな行為で周囲の人間を侮辱したという罪に問われ、当時であったら異端審問にかけられ、処刑された可能性も
あったそうです。
まあ、現代でも十分に憚られる行為ではあると思いますが、その前に高い所でそのような真似をしたら、侮辱されたとして
反乱軍の頭に血の上りやすい兵士から、弓矢で射られていた可能性もあったでしょう。
どちらにせよカテリーナにとっては、そのような行為は自殺行為にも等しく、危険極まりないパフォーマンスであった事は、
確かだと思われます。
こういった風評は、恐れや屈強さを増幅させる(または悪評で人望を失わせる)という、当時では有効な戦略の
ひとつでもありました。


そして模擬戦ですが、今更ながらの補足で申し訳ないですが、当時このような模擬戦闘は貴族、市民にとっても非常に

楽しみな催し物だったらしく、何せTVなどない時代ですから、イベント、お祭りは大変重要な娯楽だったようです。

模擬戦は今で言うならスポーツ観戦のような物で、騎士はスター並みのスポーツ選手のような存在だったと思われ、

馬を自在に乗りこなし、武器を扱う訳ですから、(日本にも流鏑馬という伝統がありますが)それは特別な技術でしたし、

それが出来る人間は限られていたため、当時の民衆には憧れの対象だったようです。


騎士となる男性もそのあたりは自覚していたようで、名誉ある立場として奮闘していたと思われるのですが、

実はこの模擬戦でそれなりの活躍をした騎士には、それを称えて婦人達からの祝福(キス、抱擁)があったらしく、

本当のところ、これが目的で彼らは頑張っていたのではないかと。

このあたりのモチベーションは、今も昔もあまり変わっていないのではないかと思ったりもします。

(男性諸氏には穿った見方で申し訳ないですが)

この模擬戦は三日間ほど続くものが通常で、騎馬戦のほか馬上槍試合、剣技等色々な戦闘を織り交ぜながら(ここら辺は

もう割愛させて頂きました)陽が落ちれば宴会でワインを振舞うといった具合に、町を挙げてのお祭り騒ぎだったようです。

お祭りとはいえ時代が時代ですので、戦争に纏わる物が多かったと思われますし、当時の若者達は模擬戦などを通して

戦争を疑似体験し、自らの経験値を上げていたのでしょう。

またこの当時、実際の戦闘での戦死者の死因は、熱中症や酸欠による物が殆どで、原因は当然過剰な防具のせいです。

戦死者の数はそれほど多くはなく、怪我人が大半であったのではと思われるのですが、それでも当時の医療ですので、

この怪我が原因で亡くなっていた人間は、それなりにいたかもしれません。

兵士は殆どが傭兵であったため、旗色が悪くなると敗走したでしょうし、何万人もの兵士が戦死するような事はそうそうなく、

ある意味古き良き時代であったのではないかと思われます。

戦況が熾烈になるのは、火器(銃、大砲)の射程距離や威力が増してからで、作中の時代から35年後の1526年、

カテリーナ・スフォルツァの息子であり、メディチ家の傍系でもある、当時の教皇軍司令長官、黒隊長ジョヴァンニが

砲弾に倒れた頃から激化していき、日本ではそれから約50年後の1575年に信長、家康による連合軍の鉄砲隊が

武田騎馬隊を全滅させた話が有名ですね。

(信長のこういった新しい兵器や戦術を取り込んでいく軍事的センスは、ある意味チェーザレと似ているような気がします。)


そして今回もまたフランス団(アンリ)は、残念な結果となってしまいました。

連載開始当初から、フランスの方が見ていたら憤慨しそうな内容が続いていますが、

実は当時のピサ大学にマルセイユ出身のフランス人学生がいまして、これがかなりの乱暴者だったらしく、

大学内で暴行事件を起こし停学処分を食らったという記録が残っていたため、これが当時のフランス人学生のイメージとして、

序盤からこの作品のデフォルトというか、この物語におけるヒールとしてのハマリ役になってしまいました。

(彼が直接アンリのモデルという訳ではありませんが、でも個人的にはアンリ、結構好きなキャラクターだったりもします)



2008/04/07
もう春なんですね。頭の中は冬真っ只中のまま止まっている状態です。

記憶といえば、ひたすら防具と馬を描いていた事しかないですね。
馬を描くのは実はとても楽しかったのですが、何せ数が多すぎて、さすがにペン入れは大半アシにお願いしました。
まあ今回、もっとも厄介だったのは、やはり鎖帷子でしたね。
厄介な事になりそうなのは想定の範囲だったのですが、上手い端折り方をあれこれ考えてる時間が、すでにもったいなく
結局、片っ端から描いていく事になってしまいました。

作画スタッフはうちの場合、硬質な物を得意とするアシと自然物を得意とするアシが一名づついるのですが、
防具は下絵で大体の形を作ると、後はこの硬質な物を得意とするアシさんに任せていたものの、さすがに最終段階になると、
この鎖帷子のペン入れが総動員(といっても、私を入れて三人ですが)の作業となり、ここからが正念場というか。

細かい作業とは、ひたすらテンションが下がる物のようで、
会話も「これ鎖帷子?」「それ鎖帷子」と、終始、鎖帷子という単語を連発するだけの状態になっていたので、
「ここも鎖帷子?」と訊ねられた時に「うん、ジョン・カビラ」と応えたら、
二人が同時に手を止め顔を上げ、私を凝視しているので、「あ、すべった?」と聞いたら、
どうやら二人共、私の精神崩壊が始まったと勘違いしたらしく、
「いや、場が和むかなと思って」と事情を話すと、紛らわしい事しないでくれと逆に咎められました。

アシスタントを増やせば解消出来るのかもしれない、とも思うのですが、
何せ、やってる事が独特すぎて間口を広げにくく、頭を悩ませている状態です。
中世の防具、または馬を種類別に、どんな角度からでも状況に合わせて短時間で描けるという方がいらっしゃったら、
どうか御一報ください。


2008/03/30
なんとか間に合いました。四話まとめて掲載出来そうです。(ページ数的には五話分になりますが)
単行本5巻発売はちょっと先になりますが、6月になりそうです。すみません。


2008/03/04
二月には復帰できると思っていたのですが、すでに三月になってしまい本当に申し訳ありません。
完全に読みを誤りました。今更ながら漫画の恐ろしさ(量産の壁)を痛感しています。
連載再開は3月27日発売のモーニング17号誌上となったのですが、未だ20号掲載予定の原稿(第四話)に着手出来ておらず、
現場では相変わらず時間との闘いが続いている状態です。
不毛だとわかっていても、つい「一日が48時間だったら――」などと思ってしまいます。



2008/01/27
すみません。1月25日のコメントで何やら心配させてしまったようで申し訳ないです。
鎖帷子、防具等、日頃あまり見かけない物ばかりの作画で、確かに大変な思いはしていますが、
だいたいのフォルムとアンジュレーション(うねり)の下絵を入れたら、細部はアシスタントに任せられる状態なので、
それなりに楽させてもらっています。(実は逆にアシ達の手首が心配だったりしますが)
眼精疲労は、絵を描く事で酷使したというより、文字の読みすぎが原因のような気もしますが、
御心配かけて本当に申し訳ありませんでした。

ここの処、出来れば避けたいエピソード(絵的に)が続いていますが、結果避ける訳にもいかず、やはり時間をかけて
描いていくしかないのだなと、すでに腹をくくっている状態ですので御安心ください。(苦笑)



2008/01/25
また休載で申し訳ありません。
さぼっている訳ではないのですが、中々原稿が埋まらないというか、視神経が疲労しているというか
(ドライアイのせいかもしれませんが)作画にどうしても時間がかかってしまい、御迷惑かけています。
来月中には復帰できるとは思うのですが、今はとにかく目の前の事を片付けていくだけです。



2008/01/08
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

年が明けてすでに8日が過ぎてしまい、私にとっては、本当に時間の流れがますます加速していっている様な、

(毎年そう感じてはいるものの)そんな2008年の幕開けでした。

今年の三箇日は、さすがに去年までの疲れが出たのかずっと眠り続けで、まさに寝正月の状態でした。

ここに来てようやく頭が切り替わって来たというか、そろそろ切り替えないとやばいというか。(笑)

とにかく今年もよろしくお願いします。(年賀メールをくださった方々、本当に有難うございました)

ここ数年忙しいのは変わらないのですが、特に去年はTV取材を受けたりイタリアへ行ったりと、

例年にも増して変化の多い年だったので、さすがに後半ちょっとバテてしまいましたが、目まぐるしくもありながら、

とても充実した一年だったと思います。

12月には、イタリアでお世話になったカッパブックスとスターコミックスの面々が、東京の我が家に遊びに来てくれたので、

再会を祝して食事会を催したのですが、ちょうどその日、浦和レッズvsACミランの試合が予定されていたため、

うちのスタッフが揚げてくれた天婦羅をつまみに、ワインを飲みながら(彼らは日本食通な上に、箸の持ち方も大変上手で

本当に恐れ入ります)編集部の担当編集二名、原さん、イタリアでお世話になった講談社国際部のKさんも交えて皆で観戦。

私にとっては久々の息抜きであり、現地では双方時間に追われていて、ゆっくり話す機会もなかったため、

これが本当の意味でのイタリアイベントの打ち上げとなり、 本当に楽しいひと時を過ごしました。

因みにカッパブックスの代表、アンドレアさん達はミランが得点を入れても至って冷静で、よくよく聞いたら、

サッカーはあまり好きではないとの事、必ずしもイタリア人=サッカー好き、と言う訳ではないのだなあ、

と感慨深げに思っていたら、その横で原さんが熱狂的にレッズを応援していて、思わず笑ってしまいました。

(実は、原さんは私の前担当者と同じ草サッカーチームの仲間で、言わばサッカーが縁で知り合ったような物?とも言える)

「あ〜ピルロだね」と冷静に観戦しているイタリアの面々と、片や「試合はこれから!」と、熱く声援を送る日本人の原さんを

横目で見つつ、つくづく世の中は面白いなあと、サッカーの試合よりも、TVの前の人間模様を堪能した私なのでした。


今年も読者の方々には御迷惑をかけるとは思いますが、(年頭からこんな挨拶ですみません)

どうか長い目で見守ってやってください。




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