| 2010/12/03 | ||
| 師走ですね。一年経つのが本当に早いです。 ところで、私事で申し訳ないのですが、実は先月、自宅のPCが壊れてしまいまして、PCに詳しいアシさんのおかげで 何とか復旧したものの、廃棄処分になるのも時間の問題ですので、止むを得ず新しいPCを購入致しました。 OSをXPから7へと移行するのがやや不安だったのですが、まあ操作に慣れる事も含めて、現在HPを見直し整理中です。 十年前、PCに精通していた知人、三人の連携プレイで雛形を作ってもらい、それ以降は近況報告だけUPして、 後はほぼ放置状態だったので、今回はデータを写す際から自分の手でトライしてみたのですが、 アシさんのサポートのお陰もあって何とか形になってきました。 試行錯誤のため、ここ数日は画面が不安定で申し訳ありませんでした。 昔はソースから入力だったりで、私にとってHP作りはかなり敷居の高い物だったのですが、説明書に噛り付きとは言え、 今は随分楽になったと思います。 今後も、仕事の合間に息抜きも兼ねて、ちょこちょこと手を加えていけたらと思っておりますので、どうぞ宜しくお願い致します。 |
| 2010/11/07 | ||
| それでは、「パッツィ家の陰謀」の考察について、これまでの経緯を私なりの見解で整理していきます。 ※今回はかなり長いです。興味のある方、もしくは暇を持て余している方のみ推奨です。 まず、この事件について教皇庁(ローヴェレ家)とメディチ家の、ロマーニャ地方の都市、フォルリを巡る確執を踏まえた上で、 予め判明していたデータを挙げていきましょう。 ・ 1478年4月26日、場所はフィレンツェ、サンタ・マリア・デルフィオーレ大聖堂 ・ ラファエーレ・リアーリオ、ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟が揃って開始時間に遅れる ・ 同行していたサルヴィアーティ(ピサ大司教)が、ミサ開始直前に突然退出 ・ ミサ開始直後、司教が杯を上げると共に、フランチェスコ・パッツィがロレンツォ・デ・メディチに近寄り最初の一太刀を浴びせる ・ ロレンツォは難を逃れ聖具室に逃げ込むが、弟ジュリアーノは死亡 ・ デル・フィオーレ大聖堂でフランチェスコ・パッツィがメディチ粛清の名乗りをあげる ・ サルヴィアーティ大司教が正午すぎ、従者を伴いフィレンツェ政庁舎に現れるが、これを不信に思い役人達が拘束 ・ 親メディチ派と反メディチ派による抗争で、フィレンツェが内戦状態となる ・ 親メディチ派が反メディチ派を抑え、パッツイ家の反乱は失敗、関わった人間は全て処刑 ・ 教皇の甥である、ラファエーレ・リアーリオ枢機卿だけが処刑を免れ逮捕、幽閉される ・ 教皇シクストゥスWはこれを受けて、ロレンツォとフィレンツェ市民を破門、フィレンツェとの戦争が勃発 上記は、一般的に伝えられている「パッツィ家の陰謀」を簡単にまとめたものです。 文字情報とすれば、これで十分伝わると思われるのですが、ところが、いざこれを映像として具体化しようとすると、 いろんな場面で謎が生じてくるのです。 まず、一番に謎に思ったのが時間です。 ミサ開始の15時ですが、前回の記事で御紹介したように、当時は一日を24時間表示していましたから、 4月の下旬のフィレンツェ時間は、日没時が現代の夕方7時として、それからカウントすると15時というのは朝の10時を指します。 元々ミサは午前中に行うもので、この時間に行う事もちゃんとした理由があります。 それはミサを行う聖堂その物の構造によるもので、すでに御存知と思いますが、聖堂は真上から見ると十字架の形をしており、 十字の先端部分は、どの聖堂も東の方角を向くように設計されています。その理由は太陽光です。 聖堂の内部は、正面奥にキリストの絵(または像)があり、その壁面にはいくつかの明かり取りの窓があるのが基本です。 それは、東から昇った朝陽が窓から入る事で、キリストが光に包まれるという、宗教上の演出を狙った計算です。 当時の時間表示とミサのあり方から推測するに、朝10時(フィレンツェ時間の15時)にミサが始まったのは間違いない事でしょう。 だとすると、そこでまず一つ目の謎が発生する事となるのです。 それはサルヴィアーティ大司教の退出時間です。 サルヴィアーティ大司教はミサの開始前に、身内の不幸を理由に大聖堂を後にしています。 その後ミサが始まり、大聖堂内であの惨劇が繰り広げられ事となるのですが、サルヴィアーティ大司教がその後再び姿を 現すのは、正午すぎの政庁舎(現在のヴェッキオ宮)なのです。 大聖堂を後にして (しかも身内の元へ駆けつけると言っておきながら) 正午まで彼はいったいどこで何をしていたのでしょう。 もともと従者に伝言を頼めばすむ事を、何故わざわざ本人がデル・フィオーレ大聖堂まで出向いて行き、 ミサへの欠席を伝えなければならなかったのか? さらには、午前10時過ぎにはデル・フィオーレ大聖堂内で暗殺事件が起き、この衝撃でフィレンツェは蜂の巣をつついたような 騒動となっていたにも関わらず、政庁舎にいた役人達は何故のんびりと昼食を取っていたのでしょう? では、見方を変えてみましょう。 これがミサの開始時ではなく、ミサの終了時に起こったとしたらどうなるでしょう。 15時(午前10時)からミサは始まり、約2時間(通常この長さ)をかけて無事終了し、時刻はちょうど正午。 これからメディチ家で催される、昼食会へ皆が向かおうとしていた時、サルヴィアーティ大司教がその場から立ち去る。 その直後に聖堂内でパッツィ達による襲撃事件が起こる。 これによりジュリアーノ・デ・メディチ死亡。 教皇庁とパッツィが用意していた傭兵達によって大聖堂は封鎖、逃げ場を失った親メディチ派が次々と襲われる。 その頃、従者を連れたサルヴィアーティ大司教が政庁舎(ヴェッキオ宮)へ姿を現す。 このように襲撃事件をミサ開始時ではなく、終了時にする事で謎は全て解消されます。 つまりこれは、デル・フィオーレ大聖堂で、フィレンツェの政権を握っているメディチ兄弟を暗殺、そしてフィレンツェの中枢である 政庁舎を占拠するという、現在でいうところの同時多発テロを狙ったものであったと言えるのです。 では何故、矛盾の生じるミサの開始時に、犯行が行われたという記録が残っているのでしょう。 この記述は、ロレンツォ・デ・メディチの最も信頼していた臣下で、メディチ家の家庭教師も務めていた 人文学者アンジェロ・ポリツィアーノによって書かれたものです。 「チェーザレ」8巻Virtu'68 パッツイ家の陰謀より |
||
![]() |
||
上の絵の向かって左側にいるのが、アンジェロ・ポリツィアーノです。 この事件に詳しい方は、すでにお気づきだと思いますが、彼は襲撃の際ロレンツォを庇い、共に大聖堂の聖具室に 逃げ込んだ人物で、この場に居合わせた事件の当事者でもあります。 今回この事件を取り上げるにあたって、本作品はこのポリツィアーノの証言をベースにしましたが、 冷静に見直すと、信憑性に欠ける部分も多々あるのです。 ポリツィアーノは確かにこの現場に居合わせ、自身も危機にさらされましたが、襲撃直後ロレンツォと共に聖具室に逃げ込み、 騒動が鎮静化するまで、部屋の中に閉じこもったままの状態でいました。 つまり、重要な生き証人であっても、この事件の一部始終を見ていた訳ではないのです。 そこでもう一人の証人、フィリッポ・ストロッツィ(彼も当日この場に居合わせた人物) 彼の証言と照らし合わせながら、この事件を考察してみました。 そこで見えてきたのは、ポリツィアーノとストロッツィの証言の表現方法です。 ストロッツィが非常に理論的であるのに対し、ポリツィアーノの証言は、多分に誇張された部分が見受けられます。 これらを鑑みるに、ポリツィアーノの証言は、メディチにかなり偏ったものがあるのではないか、と言えます。 たとえば、ポリツィアーノは、パッツィの襲撃がミサの最中、司祭が杯を上げたのを合図に行われたと証言しています。 ですが、上で述べたように犯行は正午であったと思われ、ミサ終了時に起こった可能性が極めて高いのです。 では、何故このような脚色をしなければならなかったのでしょう? それは、パッツィがいかに卑劣で残虐であったかを、世間に知らせる必要があったからです。 確かに酷い仕打ちを受けたものの、メディチが行ったパッツィへの報復は、さすがに行き過ぎたものがありました。 主犯フランチェスコ・パッツィは、捕らえられた直後に政庁舎の壁に吊るされ、サルヴィアーティ大司教も 聖職者であったにも関わらず、有無を言わさず隣に吊るされ、ラファエーレ・リアーリオ枢機卿は拘束、幽閉、 その従者達も含め、パッツィの関係者は全て殺されるという、実に容赦のないものでした。 ※とは言え、ロレンツォ自身はこの時、大聖堂の聖具室に篭ったままの状態でしたから、直接関与した訳ではなく、 実質的には憤ったフィレンツェ市民の手によって、行われた暴挙であったと言えます。 おそらくポリツィアーノは、この過激な報復のせいで、メディチの印象が悪くなる事を怖れたのではないか、と思われるのです。 メディチは、フィレンツェで絶大な人気を誇る一族でしたが、出自は商人でフィレンツェの一市民にすぎず、 その地位は、王侯貴族のように揺ぎ無いものではありませんでした。 そのためにパッツィをより貶め、メディチに非難の目が向けられないように仕向ける必要性がありました。 ミサの終了後ではなく、ミサの最中に暗殺を試み、キリスト教信者でありながら、聖堂という神聖な場所を血で汚したとして、 パッツィの行為をより非道なものとし、世の中に伝えようとしたのではないかと思われるのです。 しかし、ポリツィアーノの多少の情報操作があったとしても、パッツィの行った事自体は変わりません。 パッツィは何故、わざわざ大聖堂を凶行の場に選んだのでしょう? 神の御前での殺人は、キリスト教信者にとって、これほど最悪なものはありません。 実は、事前の計画では、前日に行われたメディチ家主催の晩餐会で、暗殺が行われる事になっていました。 ところが、ロレンツォの弟ジュリアーノが宴会を欠席。 兄弟揃って始末しなければ、完全にメディチを葬り去る事は出来ないと考えていたパッツィは、兄弟が確実に揃う時、 つまりミサの席上に標準を合わせるしかありませんでした。 それ以外は、ジュリアーノが体調不良を理由にで不在であったため、パッツィにとって暗殺の機会は、 そこしか残されていなかったのです。 しかし、穿った見方をするとジュリアーノの体調不良も、実はメディチ側の防衛手段ではなかったか、と思えてくるのです。 メディチも、教皇庁と険悪な事態を招いてしまっていた事から、当然相当な警戒をしていたはずです。 水面下で敵対していた教皇庁(一応ここではシクストゥスWの甥である、ラファエーレ・リアーリオ枢機卿一行)と、 元々フィレンツェで権力争いをしていた同業者パッツィ。 彼らを本拠地に招き入れているのですから、上辺では互いの関係の修復を図るように見せていても、内心はそれ相応の 緊張状態にあったと思われます。 現に、この数日前にはフィレンツェの警備兵が、城壁外に謎の軍隊の一部を目撃しており、 この時すでにフィレンツェは、教皇庁が用意した軍隊に包囲されていた可能性があるのです。 こういった諸事情から、メディチ側は高警戒態勢に入っていたと思われ、そのため、当主であるロレンツォと弟ジュリアーノを、 揃って公の場に出席させる事を、敢えて避けていたのではないか、とも思われるのです。 ここまでメディチ側は、実に周到な対処をしていたと言えます。 しかし、4月26日の日曜日、この日だけは別だと思ったのでしょう。 メディチもまさか、大聖堂の中で敵がこのような暴挙に出るとは思いもしなかったのでしょう。 結果ジュリアーノは命を落とし、ロレンツォとフィレンツェ市民はは教皇の怒りを買い破門。 その後、教皇庁の要請を受けたナポリとフィレンツェは戦争へと突入するのです。 ※キリスト教信者でなくなる事は、その人間の存在を否定する事となるため、当時のヨーロッパ社会では、 抹殺されても全く問題のない事となります。 経済で発展していたとは言え、フィレンツェが当時の軍事大国であったナポリに適うはずはなく、 ナポリの猛攻にフィレンツェは疲弊し、貧窮の道を辿るしかありませんでした。 ※当時の戦争は大半が攻城戦で、防衛側は城壁内で耐えるしかなく、相当の備蓄、もしくは第三国からの援助がなければ 街(城)が落ちるのも時間の問題でした。 この時、フィレンツェは破門されていましたから、第三国からの援助は全く望めなかったと思われます。 この戦争が続く事でメディチの立場も急変します。苦しさから市民がメディチを恨むようになるのです。 メディチをこの状況の元凶とし、ロレンツォを逮捕、教皇庁へ引き渡すか、もしくはパッツィ同様政庁舎に吊るすか。 パッツィの襲撃時に、あれほどメディチのために憤り戦ってくれた市民が、今度はメディチを断罪する側となるのです。 これが共和制の有り方です。 君主を持たず主権は市民が持つ、共和制の都市フィレンツェの政治形態なのです。 ロレンツォは、あくまでそのフィレンツェ市民の代表でしかなく、決して君主ではないのです。 このままでは、ロレンツォはフィレンツェに災いをもたらした種として処罰され、逆にメディチ暗殺を謀ったパッツィこそ正義と 謳われる可能性まで出てくるのです。 日本では、ロレンツォ・デ・メディチを一般的に豪華王と呼んでいますが、 この豪華王という表現は、イタリアでは決して賞賛の意味で使われている訳ではありません。 il Magnifico(イル・マニーフィコ) 本来Magnificoというイタリア語は、 「素晴らしい」 「立派」 「気前の良い」 「(君主、国王に対しての)豪華」 という意味を持ち、日本語ではこれらを総合し、好意的な言葉として豪華王と呼んでいますが、 実は、500年前のイタリア(特に共和制であったフィレンツェやローマ)では、一市民である人間をMagnificoと呼ぶ場合、 「市民でありながら、王のように振舞う傲慢な者」 といった揶揄、皮肉の意味を秘めた、悪意の言葉となってしまう事もあるのです。 ※ しかしながら、一市民がこのように皮肉の敬称で呼ばれる事自体、ある意味その人物の偉大さを表しているとも言えます。 そういった背景もあってか、ロレンツォは公の場では極めて質素に振舞い、屋敷である現リッカルディ宮も、 外壁は派手な装飾を控え、内装にだけ豪華な装飾を施すという徹底ぶりでした。 これらの状況から、ロレンツォはナポリへ停戦、講和を申し込み、捕らえていたラファエーレ・リアーリオも解放します。 そして、この後ナポリ側との交渉の末、ナポリへと向かう事を決意するのです。 この時のロレンツォにとっては、これしかもう生き残る道は残されていませんでした。 どちらにせよ講和に持ち込めなければ、いずれフィレンツェ市民から粛清を受ける事になるのですから。 当時は現在と違い電話もありませんし、移動が馬、船という時代でしたから、フィレンツェ、ナポリ間でのやり取りは、 それ相応の時間を掛け慎重に行われました。 そして開けて1479年、ロレンツォは単身ナポリへ乗り込みます。命運をかけた旅路です。 ところで、ここまでロドリーゴ・ボルジアの名前は一切出てきていません。 ロレンツォの盟友でもあり、教皇からも絶大な信頼を受けていた彼は、いったいこの時何をしていたのでしょう。 この時期のロドリーゴ・ボルジアの動向については、兼ねてからずっと原さんに調べてもらっていたものの、 実は、今現在まで私の手元には史料がない状態が続いています。 つまり、8巻で描かれたロドリーゴのエピソードは、私の創作というか捏造です。 「チェーザレ」8巻Virtu'68より |
||
![]() |
||
ロドリーゴ・ボルジアはレコンキスタの調停で、ローマ、スペイン間を行き来した際、ロレンツォに助けられ、 それ以来メディチとは蜜月の間柄となっていました。 この調停役の抜擢は、スペイン人である事も要因のひとつでしたが、ロドリーゴの能力によるものが大きく 元々ロドリーゴは、こういった政治的駆け引きに大変長けた人物だったようで、当時の教皇シクストゥスWも、 ロドリーゴを大変頼りにしていたようです。 ※甥であるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、枢機卿に任命されたばかりの頃で、経験が浅くまだ使えなかったためもある パッツィの事件の詳細を、当時ロドリーゴがどの程度把握し関与していたかは、未だ何もわかっていませんが、 ロレンツォと盟友であり、教皇にも信頼されていた事を考えると、ロドリーゴの立場はかなり微妙なものであったと思われます。 上で述べたように、ロレンツォ、教皇、どちらの記録にもロドリーゴの存在は記されていません。 しかし考え方によっては、ロドリーゴの名前が登場していない事は、裏を返せばこの事件に全く関わっていないという事の 証明とも言えるのです。 また、ロレンツォ側の記述にないのも、ある意味当然の事と言えます。 教皇庁とフィレンツェの抗争なのですから、ロドリーゴの立場を考えると、(メディチ側に荷担していたら、尚の事) 記録に残すような事は出来なかったと思われます。 そこで私は、記述が全くない事を逆手にとり、敢えてロドリーゴをこのエピソードに登場させました。 ロドリーゴには、この騒動の裏で暗躍する役割を与えるつもりでしたが、作画に入るぎりぎり手前で、 原さんからちょっとした朗報が入り、これが良い意味で追い風となってくれました。 それはロレンツォが、ナポリからフィレンツェへ戻る際に使った港の情報でした。 ガエタ港。ここはボルジア家とナポリのアラゴン王家が、本国スペインとの行き来で使用していたスペイン航路であり、 この選択が何故行われたのか、なかなか興味深い記述でした。 実際、ロレンツォがナポリを発ったのも突然の事であり、ロレンツォはナポリとの合意事項を、臣下であった書記官、 ミケロッティに託すと、慌ててナポリを後にしています。 これは、教皇庁からの勅使が来る事を、察知したためではないかと思われ、さらに この時の天候は最悪であったにも関わらず、暴風雨の中をロレンツォは強引に船を出航させています。 それは教皇庁へ召喚されれば、どのような目に会うか、ロレンツォ自身がよくわかっていたからだと思われます。 因みに教皇庁からの追手は、この港まで来たものの、後は追わず引き返しています。 おそらく暴風雨の激しさから、ロレンツォの船が沈むであろうと判断し、敢えて危険な船出をする事を避けたのでしょう。 これらに対するロレンツォの迅速な行動は、教皇庁内に内通者がいなければ成り立たなかったのでは?とも思われるのです。 最後に補足ですが、ラファエーレ・リアーリオの事件への関与について、私自身はこれを白だと思っています。 事件の当日、ラファエーレ一行は、滞在していたパッツィ家の別荘から出発したものの、集合場所を間違えて、 何故かメディチ邸へと向かっています。 当日は、直接デル・フィオーレ大聖堂に集合する手筈となっており、メディチもパッツィもすでに大聖堂へ到着していました。 ※これを知ったメディチ兄弟は、慌てて屋敷までラファエーレを迎えに戻り、そのために三人はミサの時間へ遅れる事となった。 この事から、パッツィやサルヴィアーティ等の首謀者達とラファエーレは、意思の疎通がはかられていなかったと推測され、 それは、この謀略をラファエーレに伝えれば、まだ十七歳という若さから動揺して、メディチ側に怪しまれる危険性があるとし、 首謀者達が敢えて計画を伝えずにいたのでは、と思われるのです。 ※と、言いますか、この時フランチェスコ・パッツィやサルヴィアーティ等、首謀者達はかなりの極限状態にあったと思われます。 パッツィは銀行家、サルヴィアーティは聖職者であり、決して暗殺のプロでも軍人でもないのです。 こういった極限状態で、まだ子供であったラファエーレに、正直構ってなどいられなかったのでは、とも思われるのです。 また、メディチ暗殺がパッツィ主導で行われたと長年伝えられてきましたが、パッツィ自体は真の首謀者達に教唆煽動された 可能性もあり、言い換えれば上手く利用された挙句、哀れな最後を迎えた悲劇の一族だったのかもしれないのです。 どちらにせよあの日、ロレンツォ・デ・メディチに止めを刺せなかった事が、後の彼らの運命を決定付けたと言えるのでしょう。 長々と書き連ねましたが、結局これらは私の憶測にすぎません。 いずれまた、新たな文献が出てくる可能性はありますし、もしかしたらそれは、明日にでも見つかるのかもしれません。 しかし、これが歴史物の面白さでもあり、逆にこの作品が私の手よって綴られている、唯一無二の物であるという事を 再確認出来る、嬉しい瞬間とも言えるのです。 お疲れ様でした。それでは、また。 |
| 2010/11/01 | ||||||||||||||
| 今年はいつまでも暖かい日が続いていましたが、ここにきて一気に冷え込みが厳しくなってきました。 仕事柄、夜中まで起きている事が多いもので、この寒さが結構身にしみています。皆さんも体調には十分お気をつけ下さい。 さて、今回は「チェーザレ」8巻の収録分についての補足なのですが、 その前に基本的な事として、現代とは著しく異なるルネサンス期における常識を、改めてここで御紹介しておきたいと思います。 (毎度今更で申し訳ないですが) まず時計と時間の読み方についてですが、 500年前のヨーロッパでは重力時計(吊り下げられた錘の重力が駆動力として伝達される)が使われており、 文字盤は現代の物と違い24時間で時刻が分割されていました。 時間の計り方は日没時から計測を開始するという物で、当時は今と違い0時(24時)の表示は真下にあり、 その0時からカウントが開始され、さらに針の進み方は今とは逆の左回りで行われていました。 これは言葉で説明しても現在の物と著しく違うため、非常にイメージしにくいと思い下の図で表記してみました。 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
|
||||||||||||||
|
||||||||||||||
| 2010/10/12 | ||
| いつまでも蒸し暑いなあと思っていたのですが、さすがに夜になると冷え込むようになってきました。 久しぶりにコーヒー(インスタントですが)など入れて飲んでいます。 本当はカプチーノでもと思ったのですが、残念ながら自宅のエスプレッソマシーンが壊れてしまい、 とりあえずインスタントを入れてみたのですが、徹夜の眠気覚ましで飲むのとは違い、 一時的でも仕事から解放されている時は、インスタントでも十分おいしく感じます。 8巻の再考も無事終わり、後は10/22の発売を待つだけとなりました。 今回の8巻では舞台の大半をフィレンツェに移し、ボルジア家とは盟友であるメディチ家が最大の危機を迎えた事件、 「パッツィ家の陰謀」に焦点を当てています。 このパッツィ家の事件は、連載当初から作中で触れるつもりでいましたが、どこまで掘り下げるかは、 実際ボルジアとメディチの関係性の深さにより、その描き方を決めようと思っていました。 元々は、ロドリーゴ・ボルジアが息子のチェーザレを、ローマ近郊のペルージャ大学から、 わざわざトスカーナ地方の、ピサ、サピエンツァ大学(ロレンツォが再建中であった)に転入させた経緯の裏付けとして 調べてもらっていた事から気付いたのですが、そもそも、ロドリーゴ・ボルジアとロレンツォ・デ・メディチの交流は、 どこから始まったのかという事でした。 その切っ掛けは、レコンキスタ早期終結のため、スペインに渡っていたロドリーゴが、その帰路トスカーナ沖で海賊に襲われ、 それを助けたのがロレンツォであり、それがこの両家の絆の始まりと言えます。 ※この一連のエピソードは8巻でロドリーゴ、チェーザレ親子の口から明かされています。 これに伴い、ふと気になったのが、盟友メディチとは逆に、反目していたローヴェレ家との因縁です。 これは、それまで原さんが集めてくださっていたいくつかの資料、 ・ボルジアが貴族であるのに対し、ローヴェレは庶民 ・ボルジアが合理主義であるのに対し、ローヴェレは原理主義 ・ボルジアがスペイン人であるのに対し、ローヴェレはイタリア人であり親フランスでもあった 以上の要因から、ボルジア家対ローヴェレ家の図式が成り立つと、当初は思っていたのですが、 ストーリーが進むに連れ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが、後のチェーザレにとって最大の敵となるにしては、 その因果関係が、個人的にはやや薄く感じられるようになり、 その人物像の精度を上げるため、改めてジュリアーノについて調べてみてもらったのですが、 やはり偉大な功績の羅列以外は、他の詳細がはっきりと浮かび上がってこないのが現状でした。 そこで原さんはシフトを変え、そのルーツである叔父の教皇シクストゥスW、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレに焦点を当て、 代々ローヴェレ家に関わった人物達を含めて、洗い直してみてくださったのです。 その結果、実に興味深い事が見えてきました。 まず、最も驚いたのがシクストゥスW政権時、ロドリーゴ・ボルジアとシクストゥスW(ローヴェレ家)の間柄は実は良好で、 シクストゥスW自体、かなりロドリーゴに信頼を寄せていたという記述が出てきた事です。 ※あくまでシクストゥスW、フランチェスコ・デッラ・ローヴェレとの関係性での話です。 これを知った時、私自身、実は非常に納得の行くものがありました。 それは、「チェーザレ」3巻Virtu'22に登場する幼いチェーザレと父ロドリーゴ、そしてシクストゥスWの場面です。 |
||
![]() |
||
| この場面はチェーザレが8歳にして、教皇庁書記長を任命された、教皇庁での再現場面なのですが、 この他にもシクストゥスWは、在位中に様々な役職をチェーザレに与えています。 当時この場面を描きながら、敵対していたボルジア家の子供に、よくこれだけ恩寵を与えたものだと、 正直言いますと、多少の違和感を覚えつつ描いた記憶がありました。 (しかしシクストゥスWが任命したのは揺ぎ無い事実でしたので)後にこの事実を知った時は、まさしく溜飲が下がる思いでした。 ―――とは言いつつ、そこでさらなる疑問が浮上する事となるのですが。 では、いつ頃からボルジアvsローヴェレという構図が出来上がったのでしょう。 実は、その原因は全てロレンツォ・デ・メディチとシクストゥスW政権時の教皇庁との確執から始まったのです。 元々、ローヴェレ家と敵対していたのはメディチ家で、この段階ではボルジアはまだ中立の立場を取っていました。 ※この経緯については「チェーザレ」8巻の巻末に原さん監修の元、纏めさせて頂きましたので、 そちらを読めばお分かり頂けると思います。 そういった意味合いも含めて見ると、パッツイ家の事件は当時のイタリア半島における、権力者達のパワーゲームとして、 大変象徴的な事件であったと思われます。 教皇庁がこうして政権争いに直接絡み始めたのは、7巻に描かれた「カノッサの屈辱」に登場する グレゴリウスZに端を発したものであり、それまでの教皇達は、ローマ帝国時代の皇帝達が 自身らの権力維持のための象徴として、利用される側の存在でしかありませんでした。 その精神性から清貧を身上とされ、皇帝と並ぶ権威でありながら、長い間不遇で過酷な状況に置かれていた教皇庁ですが、 これを打開するために、グレゴリウスZが起こした一連のムーブメントは、教皇庁にとって大きな転機となりました。 これ以降、教皇及び聖職者達は武力を持たぬ分、その頭脳を駆使し、その時々の権力者達と渡り合うようになり、 これが後にイタリア半島に、皇帝派、教皇派といった二つの派閥を生み出す事となるのです。 7巻でのダンテの時代に登場する、教皇ボニファティウス[や皇帝ハインリヒZ等の出来事を経て、 やがてそれはチェーザレが生まれた時代、1478年のパッツィ家(その黒幕は教皇庁)の事件へと発展していきます。 この事件では、ロレンツォ・デ・メディチが皇帝の立場であったと言えるでしょう。 ※この時代のフィレンツェは共和制ですので、当然皇帝の存在など認めてはいませんが、 ロレンツォのカリスマ性と、彼が当時最も経済的発展を遂げていた、フィレンツェの市民代表であった事から、 心情的には誰もが認めるイタリアの統治者であったのは、揺ぎ無い事実だったと思われます。 そのパッツィ家の事件についての考察は、かなり長くなってしまいそうなので、「チェーザレ」8巻が発売された後にでも、 また御紹介したいと思っております。 因みに補足ではありますが、聖職者の中にも、皇帝党支持派である者は存在しました。 8巻にも登場するアスカーニオ・スフォルツァですが、彼は皇帝党支持派の枢機卿です。 ロドリーゴもロレンツォと盟友であったり、その合理性から窺えるように、皇帝党支持派であったと思われます。 このように皇帝派、教皇派とは、決して身分や役職によって左右されるものではなく、 その人物の指針、思想、また都市の傾向によるものが大半で、単純に言うと 皇帝党支持派=合理主義的 教皇党支持派=原理主義的 と、このように思っていれば、とりあえずは間違いはないと思われます。 |
||
| 2010/09/18 | |
| 4話目もなんとか上がり、今は8巻の修正を行っている最中です。 これを来週頭に仕上げ再考が終われば、当面の作業は一区切りつくといったところです。 8巻発売と共にまた休載となってしまいますが、現在の作業が終わり次第、すぐに9巻の原稿に入れるよう準備中ですので、 どうかもうしばらくお待ちください。 ※8巻についての補足は、巻末でも触れると思いますが、時間に余裕が出来次第、改めてここでも御紹介させて頂きます。 今回も再開時に編集部(また私のHP宛て)へ、たくさんの激励のコメント、メールを送って頂き、 本当にありがとうございました。 正直、大量の文献を目の前に途方にくれる事も多く、 (文献自体は大変有り難いデータなのですが、こちらのストーリーとの絡み、整合性を鑑みる作業に相応の時間を要するため) そんな時に、皆様からの励ましの言葉は大変大きな力となり、本当に救われた気持ちになりました。 なかなか返事を返すことが出来ずに申し訳なく思っておりますが、この場を借りて改めて御礼申し上げます。 また、イタリアはもちろん欧米、アジアの各国の方々からも、度々メールを頂き本当にありがとうございました。 HPが日本語なため、大半の意味が不明であるにも関わらず、皆さん作品共々楽しみにしていてくれるとの事で 大変嬉しく思っております。 せめて英語でUP出来ればよいのですが、長文が多いため時間が掛かりすぎてお手上げ状態です。すみません(苦笑) 7、8巻によって、ようやくこの当時の情勢、時代背景の掘り下げが完了しつつあります。 連載開始当初は5〜6巻くらいになるだろうと思っていたのですが、これは最初入手した資料からの読みで、 表現できるのが5〜6巻程度であったところを、原さんと編集者、また協力して頂いた各分野の専門家の方々の御蔭で 多くの情報を得る事が出来、より磐石な仕上がりになった物と自負しております。 9〜10巻はいよいよその総括です。すでに描く事は決まっており、問題は物理的な事のみとなりました。 今現在、作画は私を含め三名、仕上げ二名、計五名で行っておりますが、背景や建築物、服飾について細かい指示を 与えてからの作業となりますので、場面によっては酷く時間のかかる時もありますが、とりあえずは目の前の事を 順に片付けていくしかなさそうです。 頑張りたいと思います。 それでは、また。 A presto! tanti saluti. |
| 2010/08/28 | |
| 気が付いたらもう8月が終わろうとしてるのですね。本気でびっくりしています。 来週の9月2日から「チェーザレ」8巻収録分の後半、4話が掲載されます。 4話目が実はまだ何も手付かずの状態で、やや危機的状況を迎えていたりしますが、まあ頑張ります。 ところで話は変わりますが、ここのところ息抜きとして、昔観た映画を何本か観る機会があり、 ちょっと懐かしい気分に浸っています。 「ジャッカルの日」('73年) 「ジュリア」('77年) 「ヴェニスに死す」('71年) 等ですが、どれもヨーロッパを舞台にした映画です。 「ヴェニスに死す」は、学生時代にTVで放送していたものを観ていた際、(情けない話ですが)途中で寝てしまい、 まともに鑑賞したのは実はつい最近の事でした。 当時15〜6歳の子供であった私に、老いていく芸術家の心情など理解出来るはずもなく、私の中ではすっかり忘れ去られた 作品となっていましたが、この歳になり改めて観てみると、その細部までの拘りの映像、演出に圧倒されっぱなしで 今更ながら監督のヴィスコンティの凄さを思い知らされた次第です。 余談ですがヴィスコンティとはミラノの貴族の名で、「チェーザレ」に登場するルドヴィーコ・スフォルツァの母方の血筋で 元々はヴィスコンティ家がミラノの支配権を持っていたのですが、承継する男子が途絶えたことから婿として迎えた フランチェスコ・スフォルツァにその支配権を譲る事となり、スフォルツァがミラノ公となりました。 ※監督であるルキノ・ヴィスコンティは、一族の血を引いてはいるもののミラノ公の血筋ではないらしい。 F・フォーサイス原作の「ジャッカルの日」は、暗殺者とそれを追う刑事、双方の視点で淡々とストーリーが展開していくのですが、 暗殺者の心理描写がほとんど描かれておらず、ひたすら自分に課せられた使命に忠実であろうとするその姿から、観ているうちに 思わずストックホルム症候群に陥ってしまいそうになる作品です。 「ジュリア」は幼馴染の女性二人の友情と別離を描いた作品ですが、原作を書いたリリアン・ヘルマンの回顧録であり、 作家としてのヘルマンに多大な影響を与えた、ジュリアという女性へのオマージュのような作品となっています。 女性の逞しさや脆さが実に繊細に描かれており、これを初めて観た時、私はまだ学生だったと思うのですが、 女性の中にも存在する反骨心のようなものに、とても感銘を受けた記憶があります。 このニ作品はどちらも同じ監督、フレッド・ジンネマンによって撮られているためか、街と人の描き方が似ており、 ロードムービー的要素が強く、観ている側がヨーロッパの街を旅しているような感覚が味わえます。 他にも名作と言われる昔の作品はたくさんありますが、今回は最近観た私の中の懐かしの名画を数本、御紹介してみました。 因みに近年の作品では「スパニッシュ・アパートメント」('02年)が何気に良かったですね。 スペインはバルセロナの大学で、ルームシェアをするヨーロッパの学生達(フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、イングランド、 デンマーク、ベルギー)の言葉や文化の微妙な違いから生じる摩擦や歩み寄り、また男女間のトラブル、アイデンティティ等を 淡々と描いている作品です。 たいした事件も起きず、日々日常の人間模様を描いているだけなのですが、私は何気に最後まで惹きつけられ観てしまいました。 ヨーロッパという大陸における多様な人種と、その係わり合いを疑似体験するには打って付けの作品だと思います。 |
| 2010/05/23 | |
| いよいよ「チェーザレ」再開です。 8巻収録分は1492年の幕開けから始まります。 作中に登場する主要人物の数は過去最多となりました。次から次と様々な人物達が登場しますが、 7巻までを読んでいれば、これより先もスムーズに読み進める事が出来ると思います。 この時代に詳しい方は、「ああ、この場面であの人とこの人が」といった具合に、別の意味で楽しめるかもしれません。 ついにルネサンスの最盛期へ突入、激動の1492年の開幕です。 だからという訳ではないですが、出だしは何だか「ルネッサーンス」という感じになってしまいました。 それでは誌面で御会いしましょう。 |
| 2010/05/13 | |
| すみません、訂正です。 前回、再開は5月20日発売の26号でと御知らせ致しましたが、5月27日発売の26号の間違いでした。 訂正して御詫び申し上げます。 連休前に告げられた日程でしたので、期日の連絡に多少ミスがあったようです。 26号である事は変わりませんので、27日までもうしばらくお待ちください。 本当に申し訳ありませんでした。 |
|
御詫びという訳ではありませんが、今回は作画についての話でもさせて頂こうかと思います。 (何やらいつも歴史上の堅苦しい話ばかりになってしまうので、今回は完成前の原稿について触れてみる事に致しました) |
|
![]() |
「チェーザレ」のネームとして担当者に送ったコピーです。 ネームと言いつつ原稿の下絵です。 デビュー当時からネーム自体描かずにやってきたので、 頭の中でだいたいの構想が固まったら、 原稿に直接描き込んでいっています。 昔、何度かネームもやった事はあるのですが、 プロット(粗筋)、そこからネーム(絵コンテ)にOKが出ても 時間のある限り、その後も自分で編集し直し続けるため 担当編集者も戸惑う事が多く、それでプロット、ネームは省いて 自分の中でほぼ確定した下絵と台詞を、出来た順に 担当に見せるようになりました。 時々、最終ページから逆に出来上がっていく場合もあるので、 付き合わされる担当も、結構大変なのではないかと思います。 ドラマ等の決まっているシーンから先に撮っていく、 そんな感じなのかもしれませんが、基本的にはページ配分を 意識しながら、左のように下絵を描いていっています。 その方が、担当にダイレクトに伝わり、リテイク箇所も 早めに解決できるようなので、私にとっても 効率がいいような気がします。 とりあえず、このようなやり方で長年描かせて頂いて おりますが、結局は自分にあった描き方が一番と言いますか、 されど全ては結果ですので、どのようなアプローチでも、 上手くいってるうちは良し、という事かもしれません。 一応、話の概要は一話づつ担当者に、 口述で細かく伝えてはいますが、当然下絵の段階で リテイクが出れば描き直します。 最近でリテイクになったのは、シレンツィオの風貌ですかね。 当初、描いたものがごつく見えたようで、 もう少し優男な方がいいのでは?という指摘から、 そのような外見にさせて頂きました。 理由は優しい風貌のキャラクターが、アンジェロとジョヴァンニ くらいしか見当たらないので、この二人とは違ったタイプの キャラクターが欲しいとの事でした。 |
という訳で、とりあえず27日までお待ちください。すみません。 |
|
| 2010/04/24 |
| 「チェーザレ」再開のお知らせです。 5月20日発売のモーニング26号にて連載再開です。 長らくお待たせしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。 |
| 発売までの間、とりあえず制作裏話として、皇帝ハインリヒZの墓についてお話してみようかと思います。 前回までの連載との間が随分と空いてしまったため、私的にも当時の状況を再確認しつつ、御紹介していきたいと思います。 ちょっと長くなりますが、興味のある方はどうぞ御覧になってみてください。 |
![]() |
左の写真が皇帝ハインリヒZの墓です。 (2007年11月の撮影) 現在はピサ大聖堂側廊右の壁に安置されています。 すでに霊廟としての大部分は壊されており、 側廊壁の腕木の上に石棺が置かれている状態で、 その下にはラテン語でハインリヒZの略歴が 書かれています。 これはティーノが制作した霊廟が破壊された後に、 新たに付け加えられた文章であり、 私の方で理解できる範囲で説明しますと ルクセンブルグ出身の皇帝ハインリヒZが、 遠征中に亡くなり、此処ピサに葬られたという経緯が 記されていると思われます。 画像が荒くて申し訳ないのですが、 ラテン語が堪能な方なら、下部の写真から、 さらに詳しい内容がお分かりになると思われます。 破壊された霊廟のパーツは、 現在ではピサ大聖堂美術館に保存されており、 全てが残されている訳ではありませんが、 ハインリヒZや家臣であった人物の彫像等は、 辛うじて残されているようです。 霊廟その物は破壊しても、ハインリヒZや 家臣の彫像は歴史上の英雄として、 破壊する事ができなかったのでしょう。 この辺りにキリスト教信者でありながらも、 その昔ギリシャ神話の英雄達を崇拝してきた イタリア(ローマ)人の歴史の重みを感じます。 これらの彫像は、 ハインリヒZの彫像で175cm、 家臣、天使等の像が140〜145cmと、 どれもかなり立派な物で、 この彫像と石棺の大きさから換算して、 作中での霊廟の規模を設定させて頂きました。 |
![]() |
|
![]() |
下部の文字盤の拡大です。 上の三行はラテン語で 「ここに眠るのはダンテの「神曲」天国篇三十歌に 登場する 皇帝ハインリヒZである」 と、言った意味合いの事が書かれていると思われ そして、その下の二行が天国篇三十歌 (イタリア古語)の一節です。 |
L'ALTO ARRIGO CH'A DRIZZARE ITALIA VERRA' IN PRIMA CH'ELLA SIA DISPOSTA. 気高いアリーゴは、イタリアを立て直すために、整う前の彼の地へ向かうであろう。 直訳すると上記になります。(イタリア古語なのでニュアンスは伝わりにくいとは思いますが) アリーゴとはハインリヒZのイタリア名(他にエンリコとも呼ばれる)で、 DRIZZARE ITALIA これはイタリア半島が 教皇派と皇帝派との対立で混沌としていた時期を意味し、それを立て直すためにハインリヒZが IN PRIMA CH'ELLA SIA DISPOSTA まだ準備前の場所、 内紛が勃発していたローマへ向かった事を意味しているのだと思われます。 ※戴冠式を行う事になっていたローマは、この時皇帝支持派のローマ市民と、それを阻止しようとフランスが送り込んだ アンジュー軍が衝突していた 面白いのは「神曲」でのハインリヒZの様子が未来形で書かれている所でしょう。 ※VERRAは、VENIRE(行く、向かう)の未来形三人称 何故未来形なのかというと、それはダンテが「神曲」を書いていた時期には、ハインリヒZはまだ存命中だったからです。 ※しかもハインリヒZにローマでの戴冠式を促し、背中を押したのも実はダンテその人だったようです。 これは作中にも登場しましたが、ミラノに滞在するハインリヒZに宛てて書簡を送った場面ですが、 あの書簡は原文そのままを翻訳した物で、かなり詩的な文章になっていますが、その内容は ミラノで教皇派と皇帝派の対立を和平させようと悪戦苦闘していたハインリヒZに対し、 「手っ取り早くローマ(真の教皇庁)を牛耳ってしまえ そうすれば誰もが皇帝に跪くのだ」 と、いったような、かなり攻撃的で辛辣な物で、 ダンテの教皇派への失望ぶりと、ハインリヒZに対する期待と敬意が入り混じった、実に興味深い手紙となっています。 存命中のハインリヒZを「神曲」に登場させる事は、すでに死んでいる事を意味するため、ダンテは敢えてこの中で、 予言のような言い回しをしています。 それが上記の一節、「彼の地(ローマ)へ向かうであろう」の部分です。 それと同じく作中でも触れた、「神曲」天国篇でのベアトリーチェが指差す玉座の場面ですが、そこはまだ空席で、 いずれそこに座るべき人物を待っている状態だと、未来形で綴られています。 これはダンテが、未だ存命中であるにも関わらず、それでも敢えて天国篇に名を列ねたかった、皇帝ハインリヒZに対しての、 希望と崇敬の念が実によく表れている場面だと思います。 |
|
そして問題の皇帝ハインリヒZの石棺です。(現在) |
|
![]() |
墓の側面に施されている 浮き彫りがキリストの弟子達 十二使徒です。 現在では使途の数は12人に なっていますが、 1935年に出版された本 Valentiner,W.R.1935. Tino di Camaino. The Pegasus press に掲載されている写真では 11人の状態です。 ※上記の史料写真については 版権の問題からここでの使用は 控えさせて頂きたく思います。 |
この使徒の数ですが、以前11人であったという原因については、制作者であるティーノ・カマイーノが、 あまりに作業を急かされたため、数を誤ったとティーノの伝記には記されていたのですが、 個人的にはこれがどうしても納得いかず、その理由は制作過程における微妙な矛盾点でした。 通常このように類似した浮き彫りが並ぶ場合、総数は偶数の方が制作しやすく、 4体の使徒のパーツを3枚作れば、自動的にそれで12体となります。 ところが1935年の段階では4、3、4といったパーツの組み合わせで、一枚だけ(中央部)が3体のパーツになっている状態でした。 3体のパーツを一枚だけ造らなければならない、この事自体が実は地味に厄介な事でして。 仮に12体であれば、石棺全体の長さを等分していく事で、1体の割り当てが楽に計算出来るのですが、 これが11体となると、1体につき分量の割り当てが面倒になるのは必然で、綿密な計算は避けられない事となり、 時間に追われていたはずのティーノが、うっかり数を間違えてしまったというのは、どうにもおかしな話に思えてくるのです。 ※余談ですが、私も学生時代に彫塑を三ヶ月だけ学んだ事があります。 高校時代、美術専門学校だったため、一学年のうちに 油絵、彫塑、デザインを一学期間づつローテーションで学び 自身の適性を判断、及び教師と相談の上、ニ学年から専攻実技として選択しなければならず、 他に日本画の専攻もありましたが、これは画材と技法が特殊であったため、他三種の適性から日本画教師の判断と 他実技の教師陣からの推薦によって決められる事になっていました。 私自体はこの時、日本画専攻を希望していたのですが、教師側からは油絵か彫塑が適性であると判断され 特に彫塑科の教師陣からは、実に彫塑向きの性質であると推薦まで頂いたのですが、 (どうやら一年間の制作態度から、繊細な作業は不向きであると判断されたため) 何気にそれを覆そうと、日本画ほど特異性はありませんが、やはり精密性を要求されるデザイン科を選んでみたものの、 当時のデザイン科の教師からも 「おまえデザイン選んで後悔するぞ」 と、念を押されるほど繊細さに欠ける生徒でした(苦笑) とは言え、今思えば彫塑の授業は実に興味深く、友人の頭部を造るために、座っている友人を前に脚立に上がり、 真上から脳天を見たり、床に寝転んで背中から首の付け根を見上げたりと、当時の私にとって 三次元、立体という物を 改めて認識させてくれた、大変貴重な三ヶ月間でした。 私にとっては、たった三ヶ月間で基礎中の基礎しか学んでいない彫塑でしたが、この時友人の頭部を造るだけでも まずはデッサンからやらされました。(これは油絵でも日本画でも同じで、下絵というものは必須と言えます) まして石棺の造形ならば、規模、装飾において何枚もの図面、設計図が描かれる訳で、その計算上から数を間違えるなど ほとんど有り得ない状況だったと思われます。 実際は4体を3枚造ったものの、計算違いから枠に入らなくて1体削ったというケースも、実は考えられなくもないのですが、 1935年の写真を見る限り、そういったやっつけ感は見当たらず、 デザイン上から言っても、正確に割り出された物としか思えない趣きがあります。 第一、キリスト教信者であったティーノが、石棺の寸法が合わなかったからと言って、使徒一人を削る事が出来たかどうか、 そちらの方が心情的には厳しかったのでは、と思います。 当時から私は、原さんと会う度にこの事をぼやいていたらしく、後から聞いた話ですが、 この事で原さんも逆に興味を持ち、「11人である必然性」について、独自で調べてくれていたのだそうです。 その結果、聖書の中にある 「遅れてきたヨハネ」 キリストが最も愛した弟子、ヨハネを欠く状態は教会として不完全を意味する、(ヨハネは謎の多い人物ではあるのですが) この理論から、11人の使徒=教会の不完全さ という示唆が成り立つのでは、という仮説に辿り着いたのです。 以前にも書きましたが、我が家で担当者含め全員で史料整理していた際、改めて史料を見比べるているうちに、 私達はこの時初めて石棺の側面が、12人の使徒に造りかえられている事に気がついたのですが、 1935年以降にこのような事ができるなら、もっと以前に造り替えていてもおかしくなかったのでは?と 改めて原さんに伺ったところ、そもそも教会批判とも成り得るようなミスを、当時の職人が、しかも偉人の石棺で うっかりやってしまうだろうか?という原点に戻り、 さらに600年もの間、そのままの形で維持されていたという事は、これはただの間違いではなく、 敢えて変えてはならない何らかの意図 (かつてピサは皇帝派の都市だった) があったのではないかという結論に至ったのです。 と言うわけで、下の写真が現在の石棺の使徒です。 |
|
![]() |
|
| お分かりでしょうか?右から5番目 (写真では一番右の使徒が見切れています) が新たに加えられた使徒です。 |
|
![]() |
拡大すると、よくわかると思います。 色が白味を帯びていて、 まだ質感が新しく両隣りの使徒より やや身長が高くなっています。 右の4体のパーツと 中央の3体のパーツとの間に 新たな1体を捻じ込んだ形となって います。 そのせいで石棺は一回り大きく 造りかえられており、 両サイドには、そのスペースを 埋めるために、赤い大理石 (皇帝石かもしれません) が埋め込まれています。 |
こういった制作上での逸話は、ミケランジェロのモーセ像でも知られていますが、こちらは一説ではミケランジェロが、 ラテン語の文献「モーセの頭上の光」という文章を、「頭の角」と解釈を誤ったためではないかとも言われていますが、 ティーノの場合は誤訳の問題とかではありませんし、もし仮にミスだったとしても、石棺の装飾だけを やりなおせばよかったのではとも思えるのです。 (実際1935年代以降には造りかえられている訳なのですから) ティーノは霊廟が完成した直後に、代金も手にせずピサを去っていますが、 これは教皇派であったティーノが、職人としてのプライドからピサ(皇帝派)の依頼通りの霊廟を創り上げたものの、 皇帝ハインリヒZが亡くなった事により、ピサが徐々に不安定な状況下となっていったため、霊廟を造った事で糾弾されるのでは ないかと恐れて、慌てて故郷のシエナへ逃げ帰ったというのが真相ではないかと言われています。 現在では聖堂は教会の物とされていますが、かつては皇帝もそこへ確固たる権威として奉祀された時代があったのです。 残念ながら現在では、この事実はイタリアで殆ど語られていません。 「チェーザレ」7巻に1コマだけ登場した、皇帝フェデリコU(父は神聖ローマ皇帝ハインリヒY、母はシチリアの王女)は、 キリスト教信者でありながらも、異教徒に寛容であり、また学者を庇護し、科学や芸術にも精通していた、奇蹟の皇帝とも呼ばれる 大変優れた皇帝だったと伝えられています。 3巻でチェーザレがアンリに言う 「我々の祖先が手放した文献」 これを取り戻し学者に翻訳させ、 後に花開くルネサンスの祖となったのは誰あろう、この皇帝フェデリコU、その人でした。 しかし、現在教会での皇帝フェデリコUの評価は大変低く、(思考が近代的であった事から)悪魔的であるとさえ評されています。 作中、この皇帝フェデリコUについて、実は個人的には、チェーザレ本人に語らせたいという気持ちがありましたが、 (実際、後のチェーザレの指針から、このフェデリコUをかなり意識していたのでは、と思われる傾向が窺えるからです) しかし、教皇派で司教でもあったチェーザレに、それを認めさせるのには、当時としてはかなり危険な事でもあり、 また時期尚早である事も考慮し、敢えて描く事を避けました。 因みに、ハインリヒZが戴冠式を行ったミラノの聖アンブロージョ教会ですが、 この教会は、残念ながら第二次世界大戦中にピサ同様、空爆で破壊されたのですが、運良く設計図が残っていたため、 それを元に忠実に復元され現在の物となっています。 しかし、作中のハインリヒZが座っていた玉座はしっかりと残されており、今現在も教会の内陣に設置されています。 実はミラノの取材は、当時私が日本を離れる事が出来ず、そのために担当編集者がプライベート旅行の際に、ミラノを訪れてくれ 私の代わりに撮影、及び教会関係者にも話を聞いてきてくれたのですが、残念ながら当時の戴冠式については応えてもらえず、 玉座についても、これは教皇のための椅子であり、皇帝のための物ではないと、完全否定されてしまったそうです。 ※しかし、実際文献にはこの事は公式として記されています。 |
|
![]() |
←ミラノの聖アンブロージョ教会です。 「チェーザレ」に登場した皇帝ハインリヒZが、 三つの戴冠式のうち一つを行った場所です。 |
|
![]() |
←聖堂内です。 皇帝ハインリヒZが→ 戴冠式を行った際に 座った玉座です。 |
![]() |
これはミラノに限った事ではなく、おそらくピサのハインリヒZの霊廟についても、同じ現象が起こると思われます。 現地で教会関係者に皇帝の事をあれこれ尋ねても、ハインリヒZの霊廟が聖堂内陣にあった事など、絶対に認めないはずです。 一部の研究者を除いて、イタリア人の大半の対応は、一般人なら知らない、教会関係者なら、言えない、認めない、だからです。 これもイタリアの伝統と言えば伝統なのかもしれません。 施政とは教皇(神)に委ねるべきか、皇帝(人間)に委ねるべきか、 さらには理想であると言われた、皇帝と教皇という二元論は果たして成立するのか、 これらを踏まえた上で、これからの「チェーザレ」を楽しんで読んで頂けたらと思っております。 それでは、また。 |
||
| 2010/03/06 |
| 長い間更新できずに申し訳ありませんでした。 当初、連載再開を四月に予定していたのですが、最終的に五月からという事になってしまいました。 前回のお知らせで、8巻(実際は8〜10巻までのスパン)の構成はほぼ決まっていると書いたのですが、 1491〜1492年の各一族の布石の打ち方に、若干の不安材料があり、その軌道修正が数箇所発生したため、 その対応にかなり手間取っていました。 私にとって、これはほぼ想定内ではありましたが、ここで事を性急に進めると、ボタンの掛け違いの如く 各場面で矛盾が生じる事となり、またその波及が取り返しのつかない事態に発展する危険性もあるため、 とりあえずここは慎重に対処すべきという事で、編集部との話し合いの結果、 安全策として一ヶ月程掲載を遅らせて頂く事となりました。 連載再開を長らく待っていた読者の方々には、いつもながらの事ですが大変申し訳なく思っております。 五月までもうしばらくお待ちください。 詳しい日時はまた後日、確定した時に御知らせしたいと思っております。 |
| 2010/01/01 |
| 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。 今年は去年休んだ分を取り戻す勢いで作品を描いていけたらと思っています。 作画の状態で時間がかかる回もあるとは思いますが、作品自体の骨格と方向性はすでに私の中で出来上がっていますので、 たゆまずに描いていけるよう努力したいと思います。 2010年が皆様にとって良い年になりますよう、御多幸をお祈りしております。 |