お十夜(おじゅうや)
| ◎お十夜とは お十夜は正しくは「十日十夜法要」と言います。主に天台宗と浄土宗で修せられる念仏会のことで、元来は旧暦の十月十五日を結願として、その前十日間に渡って修せられるのが一般的でした。 現在ではお寺によっては三日三夜のところもあり、一日一座の法会となっているところが多いようです。また、法要の期日も十月から十一月にかけてそれぞれの寺院で定めているようです。 ◎お十夜の起源 室町時代、永享年間(1429〜1440)後花園天皇の時代のことです。 平貞国が出家の願を建てて、京都の天台宗寺院真如堂に籠もり、三日三夜の不断念仏を修せられました。その時夢中に高僧が現れて、来世の救いと現世の利益を約束されたのです。 なんと三日後、兄である伊勢守貞経が隠居して家督を継ぐことになったのです。 貞国は感涙の中、後七日七夜の念仏を勤めました。その結願の日が十月十五日であったと言われています。 このことから、真如堂において引声念仏の十夜法要が行われるようになったのです。 |
![]() |
| ◎浄土宗でのお十夜 貞国によって真如堂で勤められてから六十年後、明応四年(1495)に鎌倉の大本山光明寺第九世観譽祐崇上人が、後土御門天皇に宮中で浄土のみ教えをご進講されたとき、天皇は大変感激され、そのご縁により勅許を賜り、光明寺をはじめとした浄土宗の各寺院でお十夜が勤められるようになったのです。 ◎阿弥陀さまへの報恩の法要 お十夜の法要は前述のような起源、経過を経てきましたが、その基本は、阿弥陀さまが私たち凡夫を哀れみ慈しんでお救いくださるという、広く大きなご恩に感謝し報いていこうと、共に修する法要なのです。 十日十夜勤めるという根拠は、浄土宗のより所とする教典の一つである『無量寿経』に「此土に於いて善をなすこと十日十夜なれば、他方諸仏国土において善をなすこと千歳に勝る」と記せられていることに依っています。 私たちが日々暮らしていくこの娑婆世界は、そうは思ってもなかなか善い行いをすることが難しい所です。その地で十日十夜に渡って善い行いをすることは、善行があたりまえのお浄土では千年実践するよりすぐれているということですね。 それではなぜ、お念仏をとなえることが善行なのかということになりますね。これは経文にも「念仏大善根」と記されているように、お念仏とは「善いことの種まき」ということなのです。 私たちも阿弥陀さまの大いなるご恩に報いるために、善いことの種まきを行おうではありませんか。 お十夜とはこうした本来の意味と共に、季節的にも「収穫感謝祭」の意味も強く持ちながら今日に至るまで、五百年の歳月を経て現在でも全国の浄土宗寺院で盛んに勤められているのです。 |
![]() |
| ◎声高らかにお念仏を 五百年の歴史を持つこのお十夜、その賑わいの風景は著名な俳人の句にも残されています。 あなとうと 茶もだぶだぶと 十夜かな(蕪村) もろもろの 愚者も月さす 十夜かな(一茶) 極楽は いつも月夜に 十夜かな(浪花) というように、十夜は俳句の季語にもなっているのです。 このうち、蕪村の句を解説しましょう。 「なんとありがたく、尊いことでしょう。お十夜の席に参詣し、ご法話を聞きお念仏をとなえていると、休息時間にいただいたお茶さえも、お腹の中でダブダブ(なむあみだぶつ)と言っているよ」という意味なのです。 実りの秋、その収穫を天地の恵みと感謝すると共に、自然やさまざまな人々のおかげの中に生きゆく自分に気づき、そんな私たち守り、導いてくださる阿弥陀さまのご恩に感謝し、そうした人々の集うお十夜は、お説教やお念仏の合間の会話が、いつしか信仰座談会の様相さえ呈してくるのです。そんな時、飲んだお茶さえ「ダブダブ」と言うのです。ありがたいことですね。 時代、様相は変化しました。お十夜にもそれに応じた変化があるかと思いますが、忙しくてただ効率的なものを追い求めている現代人も、たまには味わうべき雰囲気であると思います。 「仏のみ名を称うれば 明けく正しく和やかに 永久に生かされ健やかに 心も身をも育ちゆく」十夜和讃にはうたわれています。 私たちは、阿弥陀さまへの感謝の念仏をおとなえすることにより、さらに素晴らしい功徳をいただくことができるのです。 最後に、大本山善導寺の御法主であられた一田善寿台下の句をご紹介しましょう。 拝みあう ことが挨拶 十夜衆 どうぞ皆さんもこのお十夜の法座にご参加して下さい。 |
秋のお彼岸
| 彼岸とは、読んで字のごとく、川をはさんだこちら側の岸に対する向こう側の岸を言います。 仏教では、こちら側の岸を「此岸(しがん)」といい、現在私たちが生活している煩悩多い悩み苦しみの世界をあらわします。 そして、川をはさんだ向こう岸を「彼岸(ひがん)」といい、みんなが明るく正しく仲良く暮らせる世界をあらわしております。 お彼岸とは正式には「到彼岸(とうひがん)」といい、悩み苦しみの多いこの世界から、川を渡って、すべての人が楽しく暮らせる世界へ行くための方法を考える仏教の修養期間の一つとしております。 秋のお彼岸のお中日「秋分の日」は「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日」という国民の祝日となっているように、秋のお彼岸は自分自身の生き様を振り返り、亡き 命のおおいなるおかげを思い、反省悔悟することがもっとも大事なことです。 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるように、夏の暑さに別れを告げ、秋の涼しさを感じてほっとしたこの時期に、真西に沈む夕日を見つめて、 私は 「たくさんの命に心のこもった、見返りを期待しない施しをしてきたのだろうか?」 「やらなければいけないことをやらず、言わなくてもいいことを言って、人を傷つけてこなかっただろうか?」 「苦しくて辛いときに堪え忍ぶこともせずに、逃げ出してしまったことがなかっただろうか?」 「自分に与えられた仕事・勉強などを、ほんとうに精一杯やってきたのだろうか?」 「心を静めて考えず、唐突な行動や言動で、困らせてきたことがなかっただろうか?」 「たくさんの命のおかげで生かされていることを忘れ、わがままや愚痴を言ったりしてこなかっただろうか?」 自分自身を今一度見つめ直し、今自分がこの世にあるのも、亡き人々のおかげと、反省懺悔して、ご先祖様を敬い、亡き人々を偲ぶのがこの秋のお彼岸の過ごし方なのです。 西に沈む太陽の向こうには、阿弥陀如来様のいらっしゃる極楽浄土があります。 亡き人々に喜んでいただく生き方、それが亡き人々への何よりのご供養になるはずです。 浄土宗の開祖 法然上人は 「あみだぶと とこえとなえて まどろまん ながきねむりになりもこそすれ」とお歌いになられました。 私たちの命が永遠に続くと思っている方はいらっしゃらないでしょ。 でも、私たちの命は風前の灯火です。今この直ぐ後に消えてしまうかも知れないはかない命だとも思う方は少ないはずです。 「また明日」こんな簡単な別れの挨拶だって、叶わないこともあるのです。 だから今この時を、大切に、しっかりと自分自身を見つめ直すのが「秋のお彼岸です」 |