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地獄極楽バーチャルツアー  極楽への道のり

地獄・極楽バーチャルツアー

     

 このお話は、まったく想像のお話です。
 自分で体験し見聞した真実のことを書けば一番いいのですが、なかなか行きづらいこともありますし、今はまだ行きたくありませんし。
 行ったことのある人を探したのですが、誰も行った事がないって言うし。行ったことや見たことがある、なんていう人もいるにはいたのですが、その人の目を見ると、なんか人間離れしていて「ちょっとね」っていう感じ。
 でも、一つだけ解ったことがあります。
 それは、「地獄」はとっても辛く厳しいところ。なにしろ行ったきり帰ってこられた人がいないんですから。
 それと反対に「極楽」はとっても楽しいところ。なにしろ、行ったら帰ってこないんですから。

プロローグ 臨 終 枕  経 通  夜 葬儀の前に    お葬式
死出の旅路 三途の川 二七日 五七日 七七日    極楽浄土


 ようこそ、地獄・極楽体験ツアーにご参加いただき、有難く御礼申し上げます。
 人として、いや生命として、この世に生まれたならば、必ず迎えなければならないのが「死」という
現実です。いやでも、どんなに神仏にお願いしても、逃れられないものも「死」です。
 人生の中でもっとも恐ろしいもの、それも「死」と言うものです。
 死んだらどうなるの?
 死んだらどこへ行くの?
 わからないから不安なのです。不安だから恐ろしいのです。避けて通ろうと思うから怖いのです。
 この怖い怖い「死」というもの、真正面から見つめてみましょう。
 臨終から極楽浄土までは、自分に与えられた人生最後の大旅行です。内容を知っているのと知らないのでは大違いです。
 出発の知らせは、いつどこで来るかわかりません。残して行く家族や知人に迷惑かけないよう、楽しく笑って行ける地獄と極楽浄土の旅。さあ、体験して見ましょう。
 

 添乗ご案内は、不肖私黒ウサギ2号、これより死後の世界とみんなが明るく仲良く正しく暮らせる世界、極楽までの事前体験旅行にご案内させていただきます。
 まあ、なにしろ、私も行ったことがないものですから、あまりあてにならない、チョッと荒っぽい旅になるとは思いますが、ご容赦くださいませ。

 出発時間もせまってまいりました。それではみなさま右側の体験旅行のゲートよりお入りくださいま
せ。左側は本旅行のゲートですのでお間違いのないようにお願いいたします。
 左側の本旅行のゲートは、誰でもいつかは必ずお通りになるゲートです。あせらずに、体験旅行をお済ませになってからお入りくださいませ。体験旅行は無料ですからご安心ください。
 どこぞのお寺や神社のように、拝観料も取られませんし、お守りも売りません。
 それではお入り下さいませ。

 本日は地獄極楽体験ツアーにご参加いただきまことに有難うございます。
 まず始めに、旅の概略をご案内させていただきます。
 当ツアーは「臨終」というところから始まります。その後「枕経」「通夜」「葬儀」をご体験いただいた後、「死出の旅」「各種地獄」をお楽しみいただき、最後に「極楽浄土」の見学となります。
 一言お断りさせていただきますが、当旅行は「浄土宗」の関東地方の風習を基本とさせていただいておりますので、他宗派の方、また、他の地方の方には、ご不審の点多々あるかと存じますが、何卒ご容赦下さいますようお願い申し上げます。
 尚、プロの僧侶方々には、ご不快お叱りの点も多々あると存じます。笑って許して下さいませ。

 まず、旅の手始めは臨終というところからはじまります。
 臨終とは「命の終わりに臨む」と言うことで、生と死の境目、つまり死ぬ間際の短い時間を言います。
 右手前方をご覧くださいませ。
 停車中の紫色雲形の乗り物は「パープルクラウド」申しまして、客室乗務員には25人の菩薩様があたる、最高の乗り心地と設備を誇る、極楽浄土までの直行便でございます。
 浄土宗の信者さまにおかれましては、この臨終より死を迎えると同時に、最上級のサービスを提供され、極楽浄土まで瞬時に到着できるようになっております。
 ただし、単に浄土宗の信者というだけでは、お乗りになることは出来ませんのでご注意下さい。
 日頃の念仏の功徳によって、乗れるか乗れないかが決まります。
 日頃の念仏の功徳とは、つまり、仏様からいただいた人生を、明るく・正しく・仲良く精一杯生き、日々自分の人生を振り返り、反省と感謝の心をもって「ナムアミダブツ」とお念仏をとなえることなのだそうです。
 あくまで「日頃の念仏の功徳ですよ」。お布施の高低ではありませんよ。
 まあ、日頃お念仏をとなえない人は、お金で念仏の功徳を買うということも考えられますが、売っているのはお坊さんですから、非常にあやしい気がいたします。
 よく偽造切符をつかまされて、直行便に乗れず「詐欺にあったー。」と泣き叫んでいるいる人を見かけますが、これもご本人の日頃の行いが元になります。自業自得というやつですね。どうぞ充分にお気をつけ下さい。
 現在、このパープルクラウドの乗車切符を手に入れられる方は、ほとんど見受けられません。
 はなはだ失礼ですが、本日ご参加の皆様方を拝見いたしましても、現在乗車切符を手に入れられる方はいらっしゃらないと思います。
 ですから「パープルクラウド号」も、ほとんど運行休止状態です。
 乗務員の25人の菩薩様方も、ヒマでヒマで、「昔は客が多くてよかったな」などとため息をつきながら、お茶ばかり飲んでいらっしゃいます。
 その代わり、これから向かう各種地獄はまるで渋谷駅前状態で、その混雑ぶりはすごいですよ。血の池地獄なぞは、入るのに三日待ちと聞いております。
 迷子にならないように気をつけて下さい。
 それでは、いよいよご臨終です。 
 
 西方極楽浄土への旅立ちの一番先がこの臨終です。つまり、生から死へと移る時です。
 この時、「臨終行儀(リンジュウギョウギ)」ということが行われます。これはあなたが安心して死ぬことが出来るようにする儀式のことです。
 人間として生まれれば、何の不足も心配も無い安楽な時間ばかりがあった人生ではありません。
 家族や対人関係、お金、土地、仕事、健康、悩みの尽きないのが私たちです。
 こんな事を、元気で健やかな時に全部片付けて、「さあ ゆっくり死にましょう。」なんて人は、ほんの一握りしかいやしません。
 皆さんもそうでしょ。今すぐ死ぬわけにはいかないでしょう。
 「死んだらみんなお仕舞。辛いしめんどくさいし、いっそ死んじゃおか。」なんて言って死んじゃう人も沢山いますけどもね。日本だけでも毎日100人近くいるんですよ。交通事故よりも多いんですよ。でも皆さん、死んだらそれでお仕舞。すべてチャラ。なんてわけにはいかないんです。生前の行いはずーっとついてまわるんですよ。後ほど地獄のコーナーの方でお解かりになると思いますが。
 話はそれましたが、そんなわけで、なんの心配も無く死んでいける人はほんの少しだけなのです、ましてや、たった一人での旅立ちです、心配するなって言ったってそりゃあ無理な話です。
 だから「大丈夫だよ。心配すること無いよ。阿弥陀様がちゃんと連れてってくれるよ。」って死に行く人に言い聞かせて納得させる儀式なんです。
 この臨終前後のありさまは、芥川龍之介の小説、あの俳人 松尾芭蕉の臨終を描いた「枯野抄」で見ることが出来ます。よろしかったらご参考まで。
 まずは、室内を整理整頓、清潔にします。寝床も楽なものにして、臨終を看取る人は静かにします。
 仲の悪いご家族も、この時ばかりはその悪い心を顔や声に絶対に表さず、本人に「死にたくない」って思わせないようにしなくてはなりません。
 まあ、仲の悪い家族の場合には、死んでしまえば、その関係は骨肉の争いとなって表面に出てくることは必至ですけどね。
 それもこれも、死に行くあなたの生前の行いからなんです。今のうちにせいぜい頑張って修復しときましょうよ。
 寝床に横になるときは、「頭北面西」頭は北に顔は西に向くように右脇を下にして寝ます。
 これは、お釈迦様が臨終の時にこのスタイルだったという故事から生まれたものと言われておりますが、人間、この姿勢が一番楽なスタイルなんです。
 頭寒足熱なんていうように、地球の地軸の関係からも一番理にかなったスタイルで、しかも心臓を上にする、もっとも楽な姿勢なんです。
 死んで行くのに楽な人はいませんから、少しでも楽なようにするのです。
 奥さんが北枕で布団を敷いてくれても「あの女、おれを殺そうと思ってる」なんて思わないで下さい。それもあなたの体のことを考えた愛情のしるしなんですよ。いや、違うかな。
 南半球だと「頭南面西」ですね。蛇足ながら。
 そして顔の正面側、つまり、西の方面に仏像や仏様が描かれた掛け軸などを置きます。
 心の中で思うだけでなく、実際に絵でも写真でも目にすることが出来ると、「あっ、この仏様が私を極楽に連れてってくれるんだな。」って実感出来ますから。
 それでも心配な人は、仏様の右手から本人の左手に五色の糸を渡します。
 将来の夫婦は、小指と小指が赤い糸で結ばれているといいますが、極楽往生する人と仏様は、親指と親指が五色の糸で結ばれているそうです。
 これを実際にやると、かなり安心感が強まりますね。
 そして、僧侶は「臨終行儀」というお経をやります。
 「こういうふうにすれば、必ず極楽往生出来るから安心しなさい、」って納得させるわけです。
 周りにいる看取る人は、小さな声でお念仏を称えたり、ご詠歌を唱えます。
 小さな声でやるんですよ。あまり大きい声でやると耳障りでうるさいですし、隣近所に聞こえると「隣のジイサン死にそうだぜ。」なんて噂がたちますから。
 最後だからと言って、カラオケで
 「きょーうで おわかーれね♪♪」などと歌うのはやめましょう。上手ならまだしも下手だったら「俺のほうがもっと上手く歌えるのに。」などと心残りになりますから。
 それから、言い残すことや遺言などがあったら、心残りのないように話しておきましょう。
 でもね。「言った、言わない。」「聞いた、聞かない。」で後々ゴタゴタすることが、仲の良いような家族でもありますから、出来ればしゃべらないほうが良いですね。どうしても言い残すことは、臨終前にキチンと整理して、良く考えて書類にしておきましょう。
 まあしかし、元気で健やかな時に、明るく仲良く正しくの心構えこそ、安心して臨終を迎えるコツですよ。
 
 それから末期の水(マツゴノミズ)です。
 臨終から死に至る時には、非常にのどが渇くそうです。(あくまで渇くそうです。私は今まで一度も臨終を経験したことがないのでわかりません。)
 だからといって、体力が弱ってますから、一気に水を飲むわけにはいきません。
 あなたを看取る皆さんから、やわらかい筆だとか箸の先に綿を巻いたものなどで、少しずつ飲ませてもらって下さい。
 いくら好きだからといって、お酒はだめですよ。よけいに喉が渇くし苦しくなりますよ。しかも、ちょっとだけ飲んだら、未練が残りますよ。
 この末期の水は、この先の死出の道筋を歩いて行くための水筒代わりともいわれておりますが、でも本当のところは、この末期の水というのは、生まれ育った故郷の清浄な水の霊力によって、離れ行く魂を呼び戻そうという、悲しくもせつない風習の名残りなのでしょう。あなたと離れたくないという愛情を心に感じてください。義理でもなんでも。
 しかし、現在この臨終行儀というものはほとんど行われてはおりません。
 何しろ近頃の住宅事情ですし、広いお屋敷の一間でゆっくりと死を迎えるなんて裕福な家はなかなかありませんしね。しかも、家族親族みーんなが欲を張らない良い人ばっかりの家なんてね。
 そもそも、自宅で死をゆっくり迎えるなんて人はまれです。ほとんどの人が病院で死を迎えるわけですから。
 昔は、「そんな暮らしをしてると、畳の上じゃ死ねねえぞ。」なんてセリフもありましたが、今じゃ、畳の上で死ぬほうのが可愛そうなくらいです。
 「あそこのジイサン、死んでから一月もたってから見つかったんだってね。」なんて。
 それだから、「臨終行儀」なんていう作法を知っている坊さんもほとんどいないのが現状です。
 まったく、近頃の坊さんは死人ばっかり相手にしててね。死んだ人に下手なお経なんか称えたって無駄なのにね。高いお布施ばかりふんだくってさ。
 ああ、すいません。グチ言ったりして。
 しかも、不慮の事故や、突然の病で「臨終行儀」をやるヒマも無く、死に行く人もたくさんいます。
 そのために、次にご体験いただく「枕経」「通夜」などで、まだ生きていることにしてお経をやるようになります。
 この「臨終」というのは、まさに人生の帰結するところです。
 良いも悪いも、みんなあなたの日頃の生活しだい。辛い最後は迎えたくないですね。
 はっ、「俺はだめだ。」って。
 そこのお客様。気がつかれたあなたは、え・ら・い。人生反省するのに遅いことはありません。
 自分の愚かさに気がついて、悔い改めたとき、輝かしい臨終がまってるんですよ。
 昔の人は言ったでしょ。
 「おれがおれがのガを捨てて、おかげおかげのゲで暮らせ。」ってね。
 それでは次のエリア。「枕経」のコーナーに進ませていただきます。
 さあ、元気出して行きましょう。

 臨終から死、それは一瞬の出来事です。
 巷では、死の定義について議論が戦わされていますね。
 脳死をもって死とするのか、それとも、心臓の停止をもって死とするとかってね。
 でもそれは、あなた自身のことではなく、残された人々の議論するところ。人が何と言おうと、あなた自身は生から死へと一瞬にして移行するのです。
 その一瞬の出来事で、あなたはもうあなたではなくなる。
 いや、あなた本来の自分に戻るのです。
 いままでのあなたは、人間という殻を纏った仮の姿であって、この死の瞬間から、あなたがとうに忘れていた、あなたという本体に戻るのです。
 でも、いま死を迎えたあなたは、生という名前のもとにいた時代のその又前のあなたとは別のあなたかも知れません。
 生という名前の時代に過ごしたあなたの行いが、そのまた前の時代のあなたと、いま死を迎えたあなたを変えてしまったかもしれないのです。
 その生という名前の時間がたった一日だけであっても、100年のいわゆる長寿を得たといっても、仏様の時間、この宇宙自然の悠久の時間からすれば、人間の数えるたった一日であっても100年であっても、大して変わらないほんのつかの間の短い時間だと思いませんか。
 そんなつかの間の短い時間であっても、あなたが生という名前のもとで過ごした行いすべてがこれからの死という長い時間の幸せか不幸せか、楽しいか辛いかが決まるのですよ。
 死を迎えたとき、いまさら悔やんでももう遅いんです。もう一度やり直したいと叫んでももう遅いんです。
 でもまだ間に合う方法は一つだけあるんです。
 どうにもこうにも、どう考えても地獄にしか行けないようなあなただって、どうにか極楽浄土に行かせようと頑張るのが、神様仏様にお願いするあなたの親族知人なんです。
 それがこれからの枕経なんです。
 まあ、本心は「地獄に落ちやがれ」なんて思っていても、世間体ってのがあるからね。
 また、地獄にも行けずに、迷い出てこられても困るしね。
 死を迎えたあなたは、じっとこの枕経を見ているしかないんです。親族知人のやり方をよく見ててみな。そのやり方一つで、残して行った人達の本心がわかるから。
 怒るわけにもいかないね。そりゃそうだよ。それがあなたの生前の行いからだもん。
 悔やめ、悔やめ。
 悔やめば人間必ずいいことあるはずさ。

◎湯灌(ゆかん)
 死を迎えたあなたが最初に経験するのがこれです。
 湯灌(ゆかん)と読みます。沐浴(もくよく)ともいいますが、死体をぬるま湯で洗い清める作法です。
 なんですか、そこのオジサン、ニヤニヤ笑って。
 「どうせ洗ってもらうなら、若いお姉ちゃんのがいいな。」って。
 「馬鹿オヤジ、さっさと地獄に落ちやがれ!。」
 すいません。つい口が荒くなって。
 この湯灌というのは、死体の汚れだけを洗うのではなく、死という穢れや、心を清めるために行うのです。
 そこのオジサンのようにかなり心が穢れていると、ほかに伝染するからね。
 この湯灌のときは、読んで字のごとく、熱からず冷たからずのぬるま湯を使うわけですが、このぬるま湯の作り方にも特殊な作法があるのです。
 水を入れたタライにお湯をそそいで作ります。いわゆる逆さ水というやつです。
 その他、遺体の洗い方にも、日常とは違う特殊な方法を取りますが、これは死のけがれが自分にふりかからないようにするためです。
 この湯灌は、昔は近親者の役割でしたが、いまではほとんどが葬儀社の役割となって形式的なものになっているので、くわしくおぼえる必要もないでしょう。
 よく葬儀社のパンフレットに「湯灌サービス」なんて書いてあるでしょ。
 まあ、「あいつの体なんか洗いたくもない。」っていう人が増えた結果かも?
 そこのオジサン。若いネエチャンに洗ってもらえるよう、生きているときに努力しな。オジサンの歳ならまだ間に合うよ。

◎死化粧(しにげしょう)
 身だしなみの第一歩は、顔からです。男性なら無精ヒゲなど擦って髪を整えます。女性ならお化粧します。でも薄化粧ですよ。人間そのほうが綺麗なんですから。
 現代では、エンバーミングとか色々な方法があって、葬儀社さんで生前と同じような姿形にしていただけますので、それをお願いしてもいいでしょう。
 でも「あややと同じ顔にして」なんていうのはだめよ。あくまで生前と同じ自然な顔でね。  
 昔はこの時髪の毛もそり落とし、僧侶の姿にしました。
 これは、お釈迦様の時代から、僧侶は僧侶以外の葬式を執り行ってはいけない。という決まりがあったからなのです。そのために僧侶にしてしまうのです。だから生前にお戒名を授かっていない人には、戒名を付けて仏弟子にするんです。(世の中なんでも裏がありますよね。)
 僧侶の姿にすれば、あの世の入国審査が楽に出来るという魂胆じゃないんですよ。だって今では(昔からか)、僧侶も怪しげなのが多くなったので、僧侶姿なら楽にあの世の入国審査をパスできると思っ
たら大間違いです。
 あの世では外見は通用しません。心の薄化粧を心掛けてください。
 体を綺麗にしたなら、次は衣服と持ち物です。
 
 皆さんはどこか旅行をするときに、色々な準備をしますね。いくら旅行が便利になった現代でも、旅先でのことを考えればある程度の準備が必要です。極楽浄土の旅も同じです。極楽行き超特急「パープルクラウド号」に直接乗れればそれに越したことはありませんが、乗りそこなうかもしれませんからね 。
 衣服や下着をあらため身の回り品を揃えるのはもちろんですが、極楽浄土の旅には特殊な装備が必要です。

◎持ち物
○経帷子(きょうかたびら)
 無常衣・経衣ともいい、袖なしの単衣で衣服の上から着るものです。
 正式には、反物を買ってきてからすぐ裁断し(買い断ち切り)、肉親がいっしょになって縫う(引張り縫い)。その糸じりは止めず、返し針もせず、縫い終わりも結ばない(素縫い)。そして左前に着ます。
 経帷子は、この世で善根を積み後世の安楽を願うためのものです。
○頭巾(ずきん)
 額につける三角形のかぶりもので、幽霊の絵でおなじみですね。
 これは日よけのためのもので、いわゆる帽子の代わりです。現代ではバンダナと言いますね。いくらバンダナと言っても柄物はお勧めしません。やはり白無垢がよろしいようです。
○手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)
 これらのものは、傷や日焼けを防いだり、腕や足の動作を楽にするものです。極楽浄土までは、今まで歩んできた道と同じように、茨の道があるかもよ。
○草鞋(わらじ)
 現代で言えばスニーカーです。でもスニーカーは壊れると修理がききませんので、壊れても応急修理ができるワラジを二足持参されることをお勧めします。携帯に便利ですしね。
○頭陀袋(ずだぶくろ)
 現代で言うショルダーバックです。頭陀行(少欲知足)のための最低の生活道具を入れる袋ですので小さくてかまいません。極楽浄土の旅に贅沢は禁物です。この中には忘れずに、三途の川を渡る通行料金の六文銭を入れておきましょう。
 この他には、旅の途中に山坂もありますので杖(ステッキ)も必要ですし、極楽浄土に入る時の上履き用草履もお持ちになると良いかも知れません。あとは、ふだんお使いになっているものを整理してお持ちのなることをお勧めします。

 旅行の準備が出来たら、次は送別会、いわゆるお通夜とお葬式です。  

  臨終から、お化粧・衣服・持ち物と準備万端整えて、旅行カプセル、つまり「お棺」の中に入れてもらったらいよいよ送別会。お通夜から告別式までのお葬式です。

『お通夜』
 お葬式の前夜に行うもので「夜どうしをする」と言う意味で、死者のそばで夜を明かすものです。
 かっては「夜伽」とか「仏まぶり」などと言われ、死者のための特別な家で、死のケガレを世間から隔離し、近親者が死者の仲間入りをして暮らした「喪家生活」の名残りと言われています。
 もっとも現代では、死後二十四時間以上たたないと火葬出来ないことに法律上なっていますので、好むと好まざるとにかかわらず、お通夜をしなければならないはめに陥っています。
 このお通夜、本来の主役であるあなたは、ただ「お棺」の中で寝ているだけでいいのですから、気楽この上もないようですが、あなたの生前の行い一つで、ただガマンガマンをしいられる一夜となることもありますし、主役の座を家族に取られて、悔しい思いをする一夜となることもあります。このお通夜の席こそ、あなたの生前の行いが物を言う時なのです。「お棺」の中に入ってから悔やんでも遅いです。今からしっかり考えておきましょう。
 でも、何と言っても大変なのは、お通夜を取り仕切る家族です。
 今ではだいたい、夜の六時頃から遅くとも九時位までですが(坊さんのお経は四十分位です。念のため)、これですんなり弔問客(義理でもなんでも一応あなたにお別れに来た人)が帰ってくれればいいのですが、かっての「通夜見舞」と言った、見舞人が見舞われる人と一緒に「共同飲食」をして相手を力づけてやる風習がエスカレートして、最近では「通夜振るまい」などと称して、サシミだ肉だワインだ焼酎だと、まるで忘年会のパーティーのごとくにやることが増えてきました。遺族のことなんかおかまいなしに、あれもやれ、これも出せ、「ケチケチするとホトケが浮かばれないぞ」なんて輩が多くなりましたから。=浮かばれないのは自分だろが=本来の通夜の席は精進料理だと思うよ。
 また、 「故人は酒が好きでしたから」「ホトケはにぎやかなのが好きでしたから」などという、遺族の儀礼用語を真に受けて、酔っ払って大声で騒いだり、酒が足らないと騒ぐは、歌を歌うは、最後には故人の悪口は言うは、人間性を疑うどうにもならない奴が出てくることがよくあるものです。中には、その輪の中に坊主まで入っているときがあるんですから、まいりますよ。
 お通夜を自宅でやらずに葬儀場を使う気持ちわかりますよ。
 だからといって、あなたが「お棺」の中から起き上がって怒鳴るわけにもいかないし。ここはガマンガマン。もしそうなったのなら、それはあなたの生前の行いからなのです。自業自得。人の一生の良し悪しはお通夜の席に発揮されます。どうぞ人様のお通夜に行ったときにはお気を付けください。 

 身内との本当の意味での最後の「おわかれ」お通夜が無事すむと、明日はいよいよ「お葬式」です。
 それでは「葬式」っていったい何でしょうか。日本語では「ほうむる」とか「とむらい」っていいますね。わかっているようだけどわからないでしょ。わからないまま旅立っても心残りでしょうから、一寸一休みで「お葬式」を考えてみましょう。
 まず葬式の「葬」の字ですが、これは「草」と「死」と「草」の合成文字で中国から来た言葉です。昔中国では、死者を見晴らしのいい大草原に運び、埋めたことに由来します。
 つまり「お葬式」とは、死者を草と草の間に埋める儀式と言う意味です。ですから今でも、総ミカゲ造りのお墓に入っても「草葉の陰から・・・」と言うでしょ。
 それでは「ほうむる」と言うのは、「放り出す」と同じ意味から出た言葉といい、昔の日本では、山中に死者を捨てて帰ったと言う事になります。
 それでは「とむらい」は。「とむらう」「訪問する」と言う意味で、「肉親の死を悲しんでいる人を訪問し、慰め、励ましてあげること」が元の意味でです。
 「おくやみ」という言葉もありますね。これは、「生前にもっとお会いしておけばよかったのに。すまなかった。」と後悔することです。
 言葉だけでも、ずいぶんと難しいですね。
 「四大不調のため、兼ねて療養中のところ・・・」
 皆さんも、新聞等の死亡通知にこんな文章を見たことがあるでしょう。
 仏教では、私達の体は地・水・火・風の四大から出来ていると説明します。
地とは「形があること」
水とは「湿気があること」
火とは「暖かさがあること」
風とは「動くこと」であります。
 この四つがバランスの取れているときが健康な時です。しかし、その調和が崩れたときが「四大不調」健康ではないときです。つまり「四大不調」とは病気のことを言います。
 そして、この四大のバランスが完全に壊れると、死ぬのです。
 ですから、古来より人間が死ぬと、この四大の四つの方法でお葬式をすることになります。
  地・・・土葬
  水・・・水葬
  火・・・火葬
  風・・・風葬
「土葬」は、つい最近までほとんどの所で行われておりましたので、皆さんご存知でしょう。
 死者をそのまま土に埋める方法です。
 地方によっては、一度埋葬し、一定の期間経過してから再び堀上げ、その骨をきれいに洗ってから壷に納め改めて埋葬する方法もとられます。
「水葬」は、現在日本では特殊な場合しか行われませんが、戦争中には、航海中に死者が出、故国まで遺体を連れて帰ることが不可能なときに行われました。戦争に行かれた方は、こういう経験をしたこともおありでしょう。
「火葬」は、ご存知の通り日本では最も一般的な方法です。
 仏教伝来と共に入ってきた、いわゆる、最新型の方法です。
「風葬」は「鳥葬」とも言われ、死体を野外に置き、鳥や獣の餌食とし、あとは、風化するに任せる方法です。日本では、平安時代以前には結構行われていたようです。
 以上四つの方法があるわけですが、現在の日本では、ほとんどの地域で好むと好まざるとにかかわらず、「火葬」せざるを得ないのが実情です。
 どうしても「土葬」がいいとか「水葬」がいいと言う人のために、現在では「散骨」という方法もあります。これは一度火葬した骨を細かく砕き、その人の好きだった山に撒いたり、海に撒いたりするわけです。でも、どこでもいいというわけには行きません。ちゃんと役所の許可を得なければだめですよ。
 でも、いくらあなたが望んでも、「風葬」だけは出来ません。役所の許可が下りませんし、まあ、望む人もいないでしょうけど。
 さあいよいよ、極楽浄土への旅立ちの日が近づきました。
 極楽浄土へ旅立たれるあなたは、浄土宗信者らしく、心静かに阿弥陀様のお迎えを待てばよいのですが、大変なのは残されたご家族です。
 めったに起こらない「近親者の死」ということで、気も心も動転しているところに「風習」「しきたり」というやっかいなものに出会うからです。
●連絡のしきたり
「お葬式の連絡は決して一人ではいかない。」
 まずは、お寺への連絡・近所への連絡そして必要ならば葬儀社への連絡となります。
 今では電話で済ませることが多くなりましたが、「一人で行くと死んだ人に呼ばれる」と言われて、正式には二人以上で行くことになります。
 これは気が動転して冷静さを欠いた家族一人だけでは、手落ちが無いように事を処理していくことが難しいため言われたものです。
 この時頼りになるのが遠くの親戚より近くの友人なのです。あなたもこの日の為に、ご近所仲良くしていてくださいね。
 一方、家のほうでは帳面を用意しておきます。昔は半紙を折って作りましたが、今は葬儀社に頼めば三種類ほどの帳面を持ってきてくれます。
 臨終直後にこられた方や、頂戴したもの、小さな買い物などは家の中がゴタついているので忘れがちです。
 種類ごとに責任者を一人決めておいて下さい。これを二人三人と頼むと間違いのもとです。
●薄墨のしきたり
お葬式の時の書き物は全部「うす墨」で書くことになっています。
「涙で墨をすっても濃くなりません」と、悲しみの表現だと言われますし、「あわてて書いたので、まだ墨が濃くなりません。」とも言われます。
●結び切りのしきたり
帳面をとじたり、お香典の袋のように何かを結ぶときには、黒白又は黄白の水引や麻紐を使いますが、これらは全部「結び切り」という結び方で結びます。
こんな不幸は再び無いように「もう二度と使いません」との願いが込められます。
●一本花のしきたり
 ご遺体の前には、お線香もお花も一本だけお供えします。
 これも「二度と無いように」の心と言われます。
 この他「逆さ屏風」「着物の左前」など、前にも申し上げましたが、何れも「思わぬ不幸で心が動転してしまい、平常のしきたりを忘れるほど取り乱しています」との心と、平常とは逆にすることによって「この不幸が二度と無いように」との願いをあらわしていると言います。

「葬式に手落ちは当たり前」と言われますが、色々といわれるのもこの時です。
あなたが安心して旅立てるのも、残して行くご家族やご友人・ご近所の愛情あればこそです。
 安心して極楽浄土に旅立つためには、やはり、あなたの日頃の行いこそ一番大事なのです。
 それでも心配なら、残して行くご家族には「わからない事があったら、はずかしがらず、お寺に相談に行け」と言っといて下さい。
 ただ、お寺によっては、かえってまずいことになったりして?

 お通夜も終わり、また日が昇ると、いよいよお葬式です。「今生の暇乞い」ってやつですね。
 葬儀とは、亡き人との最後の別れを悲しみ、死後の幸せを祈る人生のうちでもっとも厳粛な儀式ですが、現在では「葬式無用論」などと言って、一般的によく目にする葬儀はやらず、もちろん戒名なども無しにして、故人とごく近しい人たちだけでやる「お別れ会」的な形式も増えてまいりました。
 たしかに、そういうお考えの方が出てきますのも、もっとものことだと思います。
 田舎ではまだしも、都会地の葬儀社さんなんかでは、手を変え品を変え、これでもかとばかり豪華絢爛な趣向をこらして悲しみの演出をなさっていらっしゃいます。
 こんな場面に立ち会えば、「こんなのいやだよ」って考えるのも無理からぬことでございますよ。
 坊さんも坊さんですよね。
 「いやー、お宅さんくらいの地位の方でしたら、院号くらい付けて上げなきゃねー。そうしないと世間様に笑われますよ。親不孝だなんてね。」とかなんとか、半分おどしみたいなこと言って、法外な戒名料なるものを請求されたりして。
 そんな話聞いたら、「戒名なんか死んでからもらったってしょうがないよ。長年使い慣れた俗名でいいよ。」ってな事になりますよね。
 お寺もお寺で、お墓を人質に取っているような所もありまして「戒名、俺が付けなきゃ納骨させないぞ。」なんて話も聞きますから。
 まあ、戒名もほしい。納骨も先祖代々の墓に。なんて思っていらっしゃる方は、生前お寺と仲良くしておくことですね。でも、どうしても仲良く出来ないお寺もあることはあるようです。私は知りませんが。
 葬儀の中心は、お坊さんの「あんたみたいな人でも、ちゃんと極楽へ行けるよ。道教えて上げるからね。」的な引導(いんどう)と、会葬者のお別れのお焼香です。
 その後、火葬ということになります。地方によっては、先に火葬を済ませてしまってから後に葬儀ということもあります。
 これは、火葬の時間が長時間かかっていた時代の名残りですね。
 なかには「火葬は熱くていやだ」なんて言う人もいらっしゃいますが、大丈夫です。ご安心を。はっきり言って、燃すのはあなたの生前の抜け殻です。痛くも痒くもありませんので。
 お葬式が終われば、いよいよ出発です。そう「極楽浄土への旅立ち」ですよ。
 身の回りのもの、今一度ご点検を。お忘れ物なきようお願いいたします。これから先はコンビニなどありませんので。
 尚、携帯の使用、おタバコなどはご遠慮くださいませ。
 出発します。

 あなたが臨終を迎えるとすぐに「死出の旅」などと言われる旅行に出かけなければなりません。それも徒歩で。しかも一人ぼっちで。
「どこへ旅行に行くの?」ですって。
 それは、生前に善い行いをすれば善い世界に。悪い行いをすれば悪い世界に行く。当たり前のことです。これを「因果応報(いんがおうほう)」って言うんです。
 みなさんはどこへ行くんでしょうかね。私にはわかりません。すべてあなたの生前の行い一つですから。
 まさにミステリーツアーですね。私にとってはとっても楽しみです。みなさんの行く末を高みの見物出来るんですから。
「この旅行は何日くらいかかるのか?」って。49日間と決まっております。そして、7日間ごとにチェックポイントがあります。そこには必ずお立ち寄りくださるようお願い申し上げます。必ずですよ。
 この旅行の期間を通称「中陰(ちゅういん)」と言っております。
 なぜこの期間を中陰と言うのか、49日間なのか、私には難しい話はよくわかりませんが、一つの命の節目を4つに分けるそうです。
 この世に生まれ出ることを「生有(しょうう)」と言い、この世で生きている間を「本有(ほんぬ)」と言い、死ぬ時を「死有(しう)」と言うそうです。そして亡くなった後、次にどこの世界に生まれ変わるかを決める期間を「中有(ちゅうう)」と言うんですが、この期間は目に見えない世界なので「陰」という字を書いて「中陰」と言うそうなんです。
 で、この期間が49日というのは、昔から決まっているんです。例え日本からアメリカまで飛行機で行けば、一日かからなくなったからといっても49日は49日なんです。
「なぜ49日間なんだ?」と言っても、そんなこと関係ないんです。
 たとえはるか昔でも、約束されたことはかたくなに守り通す。それが仏様なんです。
 その時々で発言がぶれる現代の政治家さんなどとは雲泥の違いです。
 もちろん、前にも申し上げました通り、紫色の雲形ロケットに乗って、菩薩様たちの最高のサービスを受けながら、この49日間の苦しい旅行をせずに、瞬時に極楽浄土に行かれる方もいることはいます。
 でも、このショートカットが出来るのは、阿弥陀様の本願を深く信じ、こんな愚かないたらない私ですがどうぞお助けくださいと心から念じ、口にはナムアミダブツとお称えして、明るく正しく仲良く生活してきた人だけです。
 みなさまがたのお顔を拝見いたしますと、残念ながらショートカット出来そうにもない方々ばかりとお見受けいたしましたが。違いますか?

 さあ、いよいよ旅立ちです。
 ここから先は、もう団体旅行ではありません。一人ぼっちです。周りを見てごらんなさい。誰もいませんね。真っ暗闇の中で、あなた一人だけです。
 本当の孤独と、本当の暗闇を経験できなくなった現代の人にとっては、とても寂しいですね、不安ですね、怖いですね。でも、引き返したらだめです。なんとしても前に進むのです。あの前方の真っ黒に大きくそびえる山「死出の山(しでのやま)」と言いますが、それを越えるのです。空に輝くあの星に導かれて。
 でも安心してください。今回は体験ツアーということで、私が声だけはおかけしますので。本番はこうは行きませんよ。誰の助けも受けられませんので。
 膝が痛い、腰が悪い、体力がない、太ってる。安心して下さい。もとのあなたの体は、現世に置いてきてしまっているのですから。もう痛くも痒くもありません。歩くのになんの心配もいりません。ただ、現世のことを振り返り、あんな事もあったな、こんな事もあったなと思い返しながら前に進むだけです。振り返ると、恥ずかしい思いをする事ばっかりだったでしょ。悔やむことばっかりだったでしょ。穴があったら入りたい気持ちになるでしょ。これから先が怖くなることばっかりでしょ。でも、引き返しちゃだめです。なにしろ前に進むのです。
 えっ「不思議とお腹がすかない」ですって。
 そうでしょう。今あなたの食料は「お香」の香りだけでいいのですから。体験ツアーの本部のほうでは、あなたたちのために特別高級なお香を絶やさずに焚いているのですから。
 本番の場合には、残されたご遺族などがお線香などを供養するわけですが。もし本番でお腹がすくようなことがあったら、それはご遺族などがお香を焚いてくれないからなんです。でも恨んじゃだめですよ。それもこれもあなたの生前の行い一つなんですから。
 7日間歩き通しましたね。ずいぶんいろんなことを思い返したでしょ。悔やむことばかりだったでしょ。あんなことしなけりゃ、こんな苦しい旅をしなくて済んだのにってね。本番はもっと辛いかもよ。
 立派なお屋敷に到着しましたね。
 ここは死出の旅の第一番目のチェックポイント。秦広王(しんこうおう)様の関所です。
 ここでは書類審査だけです。みなさま必ずここで書類にスタンプを押してもらって下さい。もしここでスタンプをいただかないと、先にも行けませんし、後にも戻れません。いわゆる浮かばれない霊として、この世とあの世の間をさまようことになるので充分ご注意下さいませ。
 みなさん。全員スタンプ押してもらいましたね。よろしいですね。
 それでは先に進みましょう。

 はい、みなさん、通行証にスタンプを押してもらいましたか。
 えっ、あなたスタンプ押してもらってないんですか。なんで?「俺はさまよえる幽霊になりたい。」ってですか。なんで?「幽霊になれば、今まで入りたくても入れなかったところを見られるし、いやな奴のところに行っておどかすことも出来る。」ってですか。馬鹿なこと言っちゃあいけませんよ。いまだに覗きの癖がぬけないんですね。
 透明人間にでもなるわけじゃないんですよ。テレビドラマの見過ぎじゃないですか。さまよえる幽霊って言うのは、それはそれはつらいものなんですよ。なんだったらなってみますか?やっぱりやめますか。早くスタンプ押してもらってきて下さい。

 それではみなさん、この高台から向こうを見て下さい。
 大きな川が流れていますね。これがかの有名な「三途の川」です。そして、あの右の方、広い河原があって小さな子供たちがいっぱい、石で塔を造りながら鬼と遊んでいますね。あそこを「賽の河原」といいます。
 いま子供たちが鬼と遊んでいると申しましたけれども、本当は、鬼の目にかなうような立派な塔が出来るまで、あの鬼のトゲトゲの付いた鉄棒でいじめられているところなんです。この望遠鏡で見てご覧なさい。小さな子供たちが、目にいっぱい涙を溜めているところが見えるでしょ。可哀想ですね。
 あのいたいけな小さな子供たちは、自分の罪と親の罪を背負って、その罪を償い続けているところなんです。
 「自殺以外に、子供の頃に死んだからって、子供に罪はないと思うけど?」ですって。そうなんですよね。
 でも、親よりも先に死んでしまって、親を悲しませてしまった。「自分なんか、この世に誕生しなければ、親を悲しませることはなかったのに。」と言う、親を思う子供たちの痛切な想いからなんですよね。「子供の心、親知らず」とも言いますね。
 よく巷では「水子の霊がたたる」なんて言ってますけどね、子供たちは、親にうらみは持ってないんですよ。例えどんな親にでもね。
 「水子の霊がたたってる」なんて言われた人はよく考えて見ることです。本当のところ、自分が自分にたたってるんじゃないですか。子供が親の罪を肩代わりしてくれてるのを忘れてさ。

 さあそれでは、三途の川を渡りましょう。
 ここは死での旅路のなかで、一回だけ通行料がかかるところです。
 通行料は一文銭で六枚。六文ということに昔からなっております。現代の皆様方はお持ちじゃないでしょうから、当社の方でまとめて払っておきますので、どうぞ渡し船にお乗り下さい。
 「なぜ一文銭が六枚なんだ。」ってですか。難しい話をすると時間が長くなりますので、とりあえず「三途の川」の通行料は六文と言うことだけ覚えておいて下さい。
 三途の川って言うと、なんか怖そうな感じですけど、意外ときれいでおだやかな流れの川でしょ。歩いたって渡れますし、向こうには橋も架かってますから。
 
 はいみなさん、舟が岸に着きましたならば、一列に並んで前方のゲートをお通り下さい。
 そこには、奪衣婆(だつえば)というお婆さんが居ますんで・・・このお婆さん昔からお婆さんだったんですよね。こちらでは不思議なことが不思議でないんですから不思議ですね・・・そこで着ている衣服をすべて差し出して下さい。まあ、差し出すというよりは、はぎ取られるっていう感じですかね。「恥ずかしい」ですって。大丈夫ですよ。死んだときにあなたの体はもう無くなっちゃったんですから。
 その差し出した衣服は、その左記にいる懸衣翁(けんねおう)というお爺さんが秤で重さを量りますので、その重さを覚えておいて下さい。まあ覚えておくこともなくなりました。現在ではオンラインシステムになっておりますので、その衣服の重量は、各大王様のもとに直接行っておりますので。
 でも、衣服の重量で買い取ってくれるわけじゃないんですよ。皆さんの衣服の重さは、生前の罪の重さに比例してるんです。重さがあればあるほど、 重たからっていってがっかりしないで下さい。今回は体験ツアーです。本番の時までに軽くしとけばいいんですよ。
 さあ、元気出して先へ行きましょう。      



 さあ、ここから先はどんどん行きますよ。
 毎回毎回七日間も費やしていたら、今回のツアーの料金と釣り合いが取れませんからね。我が社は損をしないことがモットーですから。
 二七日(ふたなのか)は「初江王(しょこうおう)様」、三七日(みなのか)は「宋帝王(そうていおう)様」、四七日(よなのか)は「五官王(ごかんおう)様」のお裁きです。
 ここでは主に、殺生の罪・邪淫の罪など生前の行いの罪が裁かれます。ようは本格的なお裁きですよね。
 つまり人間の持っている基本的な悪い行い「貪・瞋・痴(トン・ジン・チ)」という三毒と言いまして、むさぼり、つまり欲張りね。そして怒りの心と愚かな行為の心が裁かれるんです。
 皆さん、お裁きの現場を見てご覧なさい。みんな徹底的に調べ上げられてしょんぼりとしているでしょ。
 まあ、人間誰でも多かれ少なかれ持っているものなんですけど、こう改めて裁かれるとね。
 今のうちですよ。心を改めるのは。本当に死んでからでは遅すぎますからね。
 ほら、見てご覧なさい。五官王様の前に土下座してなにか叫んでいる人たちが沢山いるでしょう。あれはね、ここで地獄行きを宣告された人たちなの。
 まあ、このツアーに参加している皆さんもそうですけど、人間として適当に毎日毎日を生きてきた人たちは、みんな地獄行きを宣告される訳なんです。重い軽いはありますけどもね。
 だからああして五官王様の前にひれふして「もう一回調べ直して下さい。私にだって少しは善いことしたことだってあるんですから。」って再審をお願いしてる訳なんです。見てて悲しくなりませんか。見苦しくありませんか。。あんな情けない事するくらいなら、生前にもう少し考えて生きてくれば良かったのにね。
 でもね、五官王様って優しいんですよね。それとも優柔不断なのかな?ほとんどすべての人の再審を許可しちゃうんですから。次の五七日(いつなのか)の閻魔王様に丸投げですよ。
 はい、それでは急いで下さい。五七日の閻魔王様のところに向かいます。 



 皆さん、だいぶ疲れたような顔をなさってますね。心にぐさっと太いクサビを打ち込まれたような気分でしょ。
 さあ、ここが五七日(いつなのか)の裁判所。閻魔王(えんまおう)様の裁判所です。
 さすがに、一段ときらびやかな宮殿造りですね。しかも重々しいですね。閻魔王様の後ろに上がる紅蓮の炎がすごいですね。ハードロックのコンサートでもこんな凄いの見たことないでしょ。怖い顔してますね。恐ろしい形相をしてますね。
 誰だって、閻魔王様の前に出たら震え上がっちゃいますよ。
 ほら見てご覧なさい。あそこにいるのはヤクザやってたお兄ちゃん。生前は肩怒らして風切って歩いてたのが、あのざまですよ。へたりこんでおしっこまで漏らしちゃって。だってこれから、あの鬼の持ってる大きなペンチで舌を抜かれちゃうんですから。
 閻魔王様の前に、大きな水晶の鏡が置いてあるでしょ。あれは「浄波璃(じょうはり)の鏡」っていいまして、生前の行いの心の奥底まで映し出せる超高性能なビデオレコーダーなんです。
 口で何を言っても駄目。みんなわかっちゃうんですから。あの舌を抜かれるヤクザのお兄ちゃん、閻魔王様の前で嘘を言ったんですね。
 舌を抜かれたら大変ですよ。しゃべれないし、食べられないし、それに凄く痛いしね。「おれは二枚舌だから一枚ぐらい平気」だって。駄目ですね、あの鬼の持ってるペンチは舌抜き用の特別製で、二枚でも三枚でも抜いちゃうんですから。
 でもね、あの浄波璃の鏡で何を調べているかって言うと、生前どのくらい善いことをしてきたかを調べてるんです。あの浄波璃の鏡には、残していった家族なんかの心まで映し出されているんですよ。悪事は今までに全部調べ上げられてるんですからもういいんです。
 あの顔の怖さに比べて優しいんですよね。閻魔王って。やっぱり地獄のスーパースターですよ。
 閻魔王様もやっぱり人がいいのか優柔不断なのか、結局は判決を言い渡せずに、次の変成王(へんじょうおう)様のところに丸投げです。

 六七日(むなのか)の変成王様は、いかにもお役所的なお方です。自分の感情などはまるで表に出さず、初七日から五七日までの五人の大王様が裁いた事柄を、一字一句漏らさず、ましてや自分の考えも入れず、ありのまま正確にパソコンに打ち込み、次の七七日(なななのか)の泰山王(たいせんおう)様に送るのが仕事です。
 人の生涯を裁くんですからね、このくらい念には念を入れないとね。間違いじゃ済まされないですからね。
 



  さあ、いよいよ死出の旅の最終章、七七日(なななのか)の裁判所に到着しました。七七日、通常では四十九日って言ってますね。泰山王(たいせんおう)様の裁判所です。
 もう後はありません。六道地獄のどこに落とされるのか、はたまた極楽浄土に行けるのか、端で見ている私にとってはとってもスリリングないつ見ても楽しい光景です。
 泰山王様はオンラインで結ばれた各大王様からの報告を詳細に判断して、判決を言い渡します。
 泰山王様だって、こんな責任のある役はやりたくないのが本音なんです。でももう後が無いんです。ここで人の生涯を裁かなくちゃいけないんです。しかも一人で。
 以前、泰山王様が休みの日に私と飲んでて、「俺ってなんでこんなつらい仕事させられてんだろ。昔、なんか悪いことをしたのかな。」なんて愚痴ってましたよ。わかりますよね。人が人を裁かなきゃ行けないって言う苦しみ、大変だと思いますよ。裁判員に選ばれた人の気持ちも痛いほどよくわかります。
 しかも、地獄へ落としたら、一番軽い刑期だって、一兆六千四百二十五億年ですからね。愚痴るのも無理ないですよ。

 さあ見ててご覧なさい。いま泰山王が判決を言い渡すところですから。

 でも泰山王様の目はなにか寂しそうな目をしているのがわかりますか。
 そうなんです。いま泰山王様の心には「生前、仏道修行なんていう極楽浄土浄土に真っ直ぐに行ける方法があるのに、ただいたずらに修行もしない暮らしをしてきやがって、なんでこんな所に来たんだよ−」っていう思いがあるからなんですね。
 右手を上げて、泰山王様が後ろにある六っつの扉の前に行くように指し示しましたね。あの扉は、「六道地獄」のどこかへ続く扉なんです。
 六道(ろくどう)というのは、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人道(にんどう)、天道(てんどう)という六っつの世界を言うんですけど、個々の説明は時間の関係上割愛させていただきます。「天道」なんて言うと何かすばらしそうな世界の感じがしますが、あくまで字面だけです。極楽浄土に比べれば、それはもう雲泥の差、まあ地獄よりはまだましっていう世界です。
 
 でも泰山王様は、どこの扉に入れって指示してませんよね。ただ六っつの扉全体を指し示していますよね。
 そうなんです。その六っつの扉のどこに入るのかは、罪人が自分自身で決めることになっているのです。
 「そんないいかげんな。」って。そんな事はないんです。これがもっとも公平な裁きなんです。
 みんなが「公平平等」。これが仏教の基本なんです。
 でも、罪人が一生懸命に「ここの扉が天道の扉かな?」って考えて選んでも無駄なことなのです。自然と自分の落ちていく道を選んでしまうようになっているのです。これが「因果応報(いんがおうほう)」って言うことで、善い行いをすれば善いことがあり、悪いことをすれば悪いことがある。これが自然の摂理なんです。ここまで来てしまって悪あがきするなっていうことですよ。
「極楽浄土の扉はどこにあるの」ですって。よく聞かれました。
 さっき泰山王の心を紹介したでしょ。「なんでこんな所に来たんだよ−」っていう嘆きの心を。
 そうなんです。七七日まで来てしまった人には極楽浄土への道は無いんです。極楽浄土へ行く人は、死出の旅路の道には入らないんです。
 息を引き取った時点で、極楽浄土から直行便のお迎えが来てますから。
 七七日まで来てしまった人達は、六道の何処かに行っていただいて、一度リセットしていただいて、いつの日かまた極楽浄土の道にチャレンジしていただくことになります。

 はい、ここまでで四十九日間の死出の旅は終了ということになります。
 なお、当社では「六道巡りツアー」と「地獄見学体験ツアー」というスペシャルプランもご用意する予定となっておりますので、その時は是非ともご参加下さるようお願い申し上げます。尚、特に地獄道につきましては、以前当社のレポーターをしておりました源信さんというお坊様が、詳細かつ綿密なレポートを「往生要集」という本の中に掲載して出版されております。そちらをご参考いただくのもよろしいかと思います。

 さあ、それではおまたせいたしました。いよいよ阿弥陀如来様のいらっしゃる極楽浄土に向けて出発いたします。
 ここから西の方、十万億土を越えたところまで一気にワープします。しっかりとシートベルトをおしめ下さい。昨今、こちらでも警察の取り締まりが厳しいもんで、ご協力をお願いいたします。
 出発します。しゅっぱーつ。