第7回


 七月。僕は七月には少しばかり思い入れがある日があります。
 その日は二十五日!・・・給料日とかそんなんじゃあ無いですよ。
 昭和四十九年七月二十五日、八朗師匠の弟子に成らしてもらった日で、
 あの日から今の僕に至る時間が始じまりました。
 
 昔の梅田花月の楽屋に、緊張しながら師匠を訪ねたのが二回目の芝居が終った
 夜九時前でした。(昔は今より二時間程、舞台がはねるのが遅かったんです。
 10時前に成る事も有りましたねー。)
 
 弟子に成る経過を少し説明しますと・・・
 素人番組に「高田・南出」で出ている時に、吉本に入らないかとスカウトされ、
 悩んだ末に吉本入りを決意。当時は弟子か進行と言う形しか入る方法が無く、
 弟子を選び、はじめは島田洋之介・今喜多代門下に入門を希望するも、
 「弟子が多い」と断られ、吉本から「岡八朗が弟子に逃げられて困ってるから其処
 に行け!」と決められました。
 ・・・そして僕は、当時やっていた家業の卵屋の仕事を後任者(同級生の前田君・
 こいつが又いい奴で、夢を持って吉本に行くんやったら後は俺に任しとけと言って
 受け継いでくれました)に引継ぎ、運命の?二十五日を迎える事に成った訳です!

 忘れもしません、その夜の楽屋は芸人の皆さんが帰り支度をしながら、
 「えらいこっちゃなー!えらいこっちゃなー!」と口々に言ってるのを。
 実はこの日、あの伝説の漫才師、花菱アチャコ先生が亡くなられたんです。
 八朗師匠もスーツに着替えられたので、お通夜に向かわれるのかと思うと、
 そうでは無く、谷しげるさんと二人でナイトクラブの余興に向かわれ、
 勿論僕も師匠の鞄を持って付いて行きましたが、お店の入り口で
 「今日はもぉえぇから帰れ。」・・と帰され、これが僕の吉本での初日でした。
 ・・・お通夜はその後行かれたと思います。

 この日の記憶に、八朗師匠と、同座長部屋の原哲夫師匠から
 「何が有っても、絶対ケツ割ったらあかんで!」と言われ、この言葉は本当に説得力
 が有り、今でも鮮明に覚えています。そしてもう一つ、是は少しおこがましいと思いま
 すが、アチャコ先生が亡くなられた日に僕が吉本に入ったと言う事は、ひょっとしたら
 僕はアチャコ先生の生まれ変わりでは無いのだろうか、と思ったりした事を覚えてい
 ます。失礼しました!
 
 でもまったく縁が無いわけでは無いんですよ。例えば・・・
 1、八朗師匠はアチャコ先生の紹介で吉本に入られた。
 2、亡くなられた日に僕が入った。
 3、後に林会長に「巨人がアチャコを継げ」!と言われる。
 4、昔は玉子屋エンタツ・アチャコと言われた漫才師が居た。
   (あのアチャコ先生かどうか?)
 
 そんなこんなで縁を感じるのですが、継ぐ事は有りませんし、そんな器も有りません 
 ので。第一、もし継いだとして今、街で「あ!アチャコやー!」て言われるのもねー、
 こけるかも・・・
  しかし、長い様で短い、そして色々有った年月で、そしてまだまだ続きそうです。



写真は八朗師匠と、著書にも登場するお友達の合田さん。