思想だかなんだか円高

 

 

 

 

 

 

 ああ、全然更新していないや。Macと遊ぶことが少なくなってしまったからかな。仕事が忙しいというのもあるが、ネットの更新とはあまり因果関係はない。今まで以上にインプットに集中しているため、アウトプットの形にやや苦慮しているという言い訳は、多分通用しない。

 

 そういえば1月末にジジェクの新訳が出た。一応買ったがまだ積読(つんどく)段階である。それでも1/3程度は読んだが。その前に読むべき本が山のように積み重なっており、いつ全部を読むことになるのか不明である。というか、早く読めと自分に言いたい。

 『ラカンはこう読め!』と題されたこの本、原題は「ラカンの読み方(How to read Lacan)」である。真実を書くならば、ジジェクのジジェクによるジジェクのためのラカン本である。これでラカンを理解しようなどと考えてはならない。書いてあるのはあくまでもジジェク思想であり、ラカン思想でない。ということさえわかっていれば、ジジェク流変態的ラカン解釈を楽しむことができる。もちろんジジェクは「ラカン唯一公認」のジャック・アラン・ミレール経由でのラカン理解であり、それほど変な解釈ではないはずだ。しかし、結果として真面目にラカンを勉強している人には失礼な内容の集大成になっているので(ぐはははははははははははははははははははははははははは)、決してよゐこは読んではいけない。

 真面目にラカンの研究をしている人には、同じくミレール経由の立木康介『精神分析と現実界』をお勧めしたい。今が旬。いやもうそろそろ旬が終わりつつある内容なので是非スパッと読み終えていただき「私にとってこんなものは随分昔に既知でした(そしてあなたは現在85%の確率で既知外です)」とほざいてもらいたいものだ。

 たとえば、ラカン思想で大事なのはデリダとの違いである。彼らの思想的差異など事実上何の役にも立たないことのは承知の上なのだが、しかし、自分なりに明解にしておくと後でいろいろと便利である。

 その昔「手紙は宛先人に届く」話でここに書き散らしたような気がするが、それはきっと夢だったのだろう。だが証拠は当日記群の中のどこかにある。そこで書かれている「ラカン的であり、かつデリダ的でないもの」は「手紙は、書かれた〜発信された時点で既に届いている」ことだ。あるいは、かなり世間一般に妥協した非ラカン的説明となるが「届いた地点、時点から遡及的事後的にコミュニケーションが始まっている」でも、不完全にしろ辛うじてなんとかギリギリ「可」だろう。いやこれだと不可かな。

 閑話休題。デリダ的精神分析、あるいはガタリのスキゾ分析とラカンのそれの差を簡潔に述べるならば、(映画『マトリクス』の中でも触れられていたように)それは「選択」である。ラカンは「精神分析をする人」という立場を選択し、その場所に立ち続ける。デリダのように大学における「教える人」の立場には決して立たない。

 「(立場の)選択」とは何か。一つの例を挙げておこう。政治的に自民党を一番支持しているが3割くらいは民主党もいいな、と思っている1人の男性がいたとする。具体的に選挙になったとき、彼はいったい誰に投票するだろうか。選挙のたびに彼は投票する。しかし、彼の1票は自民党に0.7票、民主党に0.3票と分割できるのではない。あくまでも自民党の候補者か民主党の候補者のどちらかを「選択」しなければならないのだ。誤解を恐れずに書いておけば、0.7と0.3に分けるのがデリダの考え方である。それは10回投票すれば7回自民党に投票する、という形で現実化するのかもしれない。しかし、ラカンはその都度どちらかを100%支持する。実はあまり支持していないのだが、投票という行為について仕方なく責任を取る、ということだ。

 あるイデオロギーを分解するために、そのイデオロギーを形成している幻想を暴く、という方法がある。その幻想は要するに「余剰のないもの、しっかりとしたもの、正しいもの」(これはラカンが言うところの「主人のディスクール」に相当する)によって構成される。もちろん実際は、余剰がなくしっかりとして正しいがゆえに歪んでいるのだ。その「先天的構造的誤謬」についての思想を先見的「概念」として持ってしまう(つまり0.3を切り捨て続ける、あるいは0.3の不満が剰余として「残る」ことを常態=法則とする)のがラカン、一つずつ歪みを分節化し分析するのがデリダなのだ。この辺りの話について、例えば論理実証主義者はあまり触れない。敢えて嫌々触れるならばもちろんデリダ的な方法を取るだろう。

 なんにせよイデオロギーに関する考察は論理実証主義的なカテゴリーには属さない。論理実証主義では欲望や欲動の過剰性を理解できないからだ。また、理解する必要もない。思考の無駄なのだ。

 しかしながら人間の魂は最初から歪んでいて、かつ経済構造も本質的に狂っている。前者は猟奇的な事件の数々、後者はファンダメンタルで読めない株価、無意味に暴落する日経平均、何がなんだかさっぱり理解できないドル円の動き、という現象でも日々証明されている。だから分析哲学や科学思考だけが全てではない。どうしてもそこで落ちたものを掬(すく)う思想が必要なのである。いや、前期ヴィトゲンシュタイン『論考』のように、「必要のないものは考えない」などとカッコよく生きることは私にはできない。時にはオッカムの剃刀を捨てるときがあってもよいと思う。なにしろ人生で重要なのは、整合性や首尾一貫性の欠如した「もの」を受け入れることなのだから。

今月の日記