snail5.gif (1130 バイト)  かたつむり四方山話1

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山口の鷲流狂言

 室町時代に能とともに起こり発展してきた狂言には、大蔵流、和泉流、鷲流の三大流派がありました。安土・桃山時代は幕府が保護し、江戸時代には幕府主催の儀式で演じられる「式楽」に定められました。こうした過程の中で、大蔵流、鷲流は幕府お抱えとして勢力を二分し、和泉流は京都・尾張・加賀などで勢力を張っていました。
 明治維新後、能楽、狂言ともに極端に衰微した時期がありました。しかし、昭和になり、特に敗戦後は「笑い」が解禁されると、新作狂言や能・狂言様式による創作劇などの上演によって「狂言ブーム」が巻き起こりました。大蔵流と和泉流が現在でも興行的に上演を行っているのに対し、伝承・保存という形でわずかに残っているのが鷲流狂言です。
 こうした伝統をもつ狂言が、地方都市・山口の地で保存・伝承されているのです。以下、末次和信さん(山口市教育委員会文化課)のまとめられた『山口鷲流狂言』(1997)からの一部を紹介します。

鷺流狂言の公演(1)

鷺流狂言の公演(2)

 
 鷲流狂言は、その昔、大蔵流、和泉流と共に幕府諸大名の保護を受け、わが国の狂言三流派の一つとして、隆盛を極めた古典芸能でありながら、明治維新以後は家元制度ができず、存続・伝承のための手だてを失うことになりました。
 多くの有能な狂言師たちが転職し、伝承のための力添えのなかった鷲流狂言は明治時代中期には滅亡したといわれています。
 しかし、現在もなお家元のない素人の狂言師によって鷲流狂言が伝承されている地方が存在しています。そのうちの一つが山口であり、他には新潟県の佐渡があるのみであります。

 昨年(平成8年)10月26日に山口鷲流狂言保存会により、山口に鷲流狂言が伝わってから110周年にあたることを記念して「山口鷲流狂言伝承110周年記念公演」が開催されました。
 明治19年4月に毛利藩お抱えの狂言方「春日庄作」が山口の野田神社で奉納された神事能において狂言の舞台をつとめた記録が、野田神社に保存されていますが、春日庄作が山口に移住して道場門前の本圀寺に身を寄せて山口の狂言愛好家たちに狂言を教えていく契機となったこの野田神社での奉納からちょうど110年を迎えることを記念して、この記念公演を開催したものです。

 この110年の間の鷲流狂言伝承の道のりは大変厳しいものであったと聞いています。春日庄作には数十人の弟子があったと伝えられており、これらの門弟には玄人に対するような正統で厳格な稽古をつけたそうで、これらの弟子が活躍している間は芸がしっかりしていたので、かなり高い芸位を保っていたそうですが、春日庄作の弟子たちが没したり、狂言から離れたりしてからは、山口市の鷲流狂言は急速に衰微していきました。そして大正中期の頃に狂言役者は、10人を超える春日庄作の直弟子の一人である「吉見安太郎」と、その弟子の「中西治郎」のわずか2人にすぎなかったそうです。

 これは、謡や能に比べれば一般的に狂言を学ぼうとする人が少ないこと、山口には狂言師が狂言で身を立てることができるような地盤がないことなどが、その要因になっていたようです。
 その後、中西治郎氏と河野晴臣氏の尽力により山口の鷲流狂言は伝承され続け、昭和29年3月には、鷲流狂言の伝承者を育成するとともに、同好者を広く求め、永く後世に伝えていくことを目的として、「山口鷲流狂言保存会」が結成されました。同年3月には田口光三、中西治郎、河野晴臣の3名が県無形文化財の指定を受け、その後加屋野幸治、小林栄治、梶山亀久男、安藤方之の4名が保持者の認定を受けて今日に至っているわけですが、伝習生が今よりたくさんいたが長続きしなかった時期や、保持者以外には上演できる演者がいない時期もあったと聞いています。

 しかし、この伝統芸能を後世に伝えていこうという強い意欲が、保持者や指導者だけでなく伝習者や関係者の人たちにも広がっていき、多くの方々の努力により今日まで鷲流狂言保存伝承活動は熱意をもって続けられてきました。

保存会のメンバーによるリハーサル

鷺流狂言の舞台となる野田神社

※このページの作成については、末次和信さん(山口市教育委員会)から多くの資料の提供を受けました。また、次の文献を参考にしました。「山口に現存する鷲流狂言」(吉岡鎮香、1998,『甲南国文』第45号)、狂言ハンドブック(三省堂、1995)。