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日常のささいなことでも日記ふうに書き綴るきっずはうすのドキュメンタリードラマです。

松本清張さんの「或る小倉日記伝」を2002年の暮れに読み、感銘を受けました。森鴎外が小倉に3年間滞在していたときの、興味深い記事が、小説じたてで、解説してあります。次回は、森鴎外旧居の写真などを掲載しながら、松本清張の小説の内容を掘り下げて、皆様と一緒に小倉の町に、探索の散歩にでかけたいと思っていますので、よろしくお願いします。わらだ光絵より

 

 

 

 

 

 

 

 

1929年:ニューヨークの株が大暴落

大正の終わり頃には、菊池寛、芥川龍之介などの新理知派が全盛期だった。

菊池寛などの庇護で、川端康成などの新感覚派も登場。

松本清張が18歳のとき、芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」という遺書を残して、自害。

1930年(昭和5年)米の値下がりが農村に深刻な打撃を与え、のちの5.15事件発生の背景ともなる。

プロレタリア文学の小林多喜二が、拷問で死去(治安維持法の犠牲者)。その頃、北九州の労働者のあいだでも、彼は偶像であったらしい。

 

編集者さんたちの証言特集も興味深かった!!(テレビ:ビデオの映像にて)

ベテランの編集者は、松本清張氏の自宅の応接室で、待ちながら〜〜書斎から、階段を降りてくる彼の足音の強弱によって、原稿の進み具合を計ったそうです。

また、作品の評価を真摯に編集者に求める作家であって、「どのようにオモシロイのか」までキチンと説明しないと気がすまないタイプだったらしい。
自分のような青二才の編集者の評価など、大先生である彼がどうしてそんなに気にするのだろう〜と不思議に思っていたが、。。。要するに、編集者が「最初の読者」であると、彼は考えていたらしかったのです。

また、別の編集者は松本清張のことを次のように回想しています。「彼は率直で、ユーモアをもちあわせた人物でした」

 

また、他の編集者の証言では、「彼はよく編集者泣かせであるなどと言われたが、実際に彼は編集者の存在価値をしっかり評価してくれ、尊重してくれるひとでした。編集者の取材あってこそと、認めてくれていた人でした。」と。

「時間がたりない。書きたいことがたくさんある。自分の命と時間との競争をしているんだ」と口癖のように言う松本清張は、作家の執念というものを感じさせる人であった。」:と解説する編集者もあり。

「多くの人に感銘を与えなければ、文学ではない」と言い切っていたし、「小説が書けなくなるから、エッセイに流れてゆくのだ。書く材料はこんなにあふれているというのに!」とも断言する彼は、生涯(享年82歳)を通して、筆を折ることはなかったのです。

 

■松本清張記念館;PART1

フラメンコ教室の帰り道、小倉駅方面から、井筒屋方面にゆったりした足取りで歩いてゆくと〜思いがけず、気持ちのよい風が吹き付けてきて!

建設中の映画館を紫川越しにながめて、次に橋の左方面をみると。。。そこにはおびただしい数の海鳥たちが強風にのって遊んでいる姿が!

 

1月の風は冷たいけれど、海鳥の好奇心みたいな気まぐれをくすぐられたアタシは、「今日が、その日だわ!」と思い立ち、小倉城方面の勝山公園内に位置する松本清張記念館に足を運ぶことにしたのです。

 

早咲きの白梅の花をミ〜〜ツケタッ!しばし、梅の木の下で、深呼吸。
小倉城のふもとに、このような看板があります。

 

 

到着しました!館内は、おごそかな雰囲気に満ちていて、モチロン、撮影禁止。

☆1909年(明治42年)に、北九州市 小倉 北区に生まれます。本名は、なんと、松本キヨハル(清張)さんなのです!
ペンネームが、松本清張(まつもとせいちょう)。

☆1923年(大正13年)に、家庭が貧しいために、中学校進学を断念し、株式会社 川北電気製作所の給仕として勤務することに。当時、その会社で作られた扇風機が展示してあります。(3年間勤務)

☆1927年に世界恐慌:会社が倒産、失職する。この頃から、八幡製作所や東陶機器の文学仲間たちと交流を始める。

☆1928年:石版印刷の見習い職人として高崎印刷所に就職する。

☆昭和4年に、八幡署の特高にマークされ、アカ狩りで、検挙され、十数日留置される。文学仲間たちが、非合法出版の「戦旗」の配布を受けて読んでいたことから。しかし、彼は「1928年3月15日」という本の中で、「わたくしの貧弱な本棚からは、そのようなものはみつけることはできなかった〜」と綴っている。

☆1936年:佐賀の内田健次郎の5女のナヲと結婚

☆1937年、印刷所を退職、小倉の朝日新聞支社の広告版下を書くようになる。

☆1942年、朝日新聞九州支社の正社員となる。
鳥取県(父の故郷)を訪れた際の、田舎の風景画のスケッチ(墨絵)の腕前は上場です。

☆兵役に徴収される
「教練に不熱心な者は戦場に出すくらいのことは、市役所の兵事係には出来たらしい」
と「半生の記」という本に綴ってる。

☆8人家族を養うために、ホウキの商売などもサイドビジネスでしていたらしい。また、広告版下の分野で、図案家としての才能も芽生えていたという。

☆1951年「西郷札」が、第25回直木賞の候補となる。

「或る小倉日記伝」で第28回芥川賞を受賞:42歳の作家デビューとなる。(本来は直木賞の候補だったという経緯をもってます)

☆1954年:東京の練馬区に移転

 

☆1958年(昭和33年:49歳)小説「点と線」「眼の壁」などがベストセラーとなる。この年、関門国道トンネルが開通される(3461m)
※点と線:犯人の病弱な妻が国鉄の時刻表ばかり読んでいるという特異性をもっている。小説の発端;違うホームから目撃された男女が乗り込んだのが、15番線に停車中の18:30東京発 博多行き特急「あさかぜ」だった。
このときに用いられた時刻表の複写も展示されてます。

☆ノンフィクション分野にも進出;「日本の黒い霧」(国鉄をめぐるナゾの事件を描いたもの)−第5回日本ジャーナリスト会員賞を受賞

☆多岐にわたる海外取材にいつも持って行ったのはNIKON製のカメラ2台。

☆愛用の虫メガネもNIKON製。

☆愛用の時計はSEIKO

☆愛用の万年筆:なんとその数21本ものモンブラン製。

つづく

 

 

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