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当時は(明治32年から34年くらいまで)馬を飼っていて、馬小屋もあったことが記されてます。
森鴎外の本名は、「森 林太郎」といいます。前妻の登志子との系図。そして後妻のシゲとのあいだにもうけたコドモの名前の中に、あの作家の森茉莉の名前を確認することが。
明治44年の等身大の写真の横にこのような立て札があります。「鴎外の身長は161.2センチだったらしい。当時の成人男子の平均身長はおよそ155センチであるので、鴎外は高いほうであった」という内容。
裏庭の梅の木が白い花をほころばせていました。周囲はぐるりと、繁華街のビルが取り囲んでいます。
この田上という男は丹念に小倉時代の鴎外の事跡を捜して歩くと言っている。根気のいる仕事だ。40年の歳月の砂がその痕跡を埋め、もはや鴎外が小倉に住んでいたということさえこの町で知った者は稀だと、この筆者は言うのだ。当時、鴎外と交友関係にあった者は皆死んでいる。だから、その親近者を捜して鴎外に関した話が残っていれば聞こうというのだった。実際の例が書いてある。読んでみて面白かった。研究も草稿も途中のものである。完成させたらかなりのものができそうに思えた。文章もしっかりしていた。−或る小倉日記伝より抜粋
松本清張の、肉厚な文章にぐいぐい引き込まれました。ことさら人物描写がすばらしい。読者は、登場人物の癖まで手にとるように感じさせられ、その話し声まできこえてきそうな按配なのです。人物描写が巧い作家は、オオモノだといわれています。まさに王道をいっている松本清張さんです。
森鴎外の略歴 ☆1862年:島根県に生まれる ☆1872年:上京、10歳にしてドイツ語を学び始める。 ☆1881年:東京大学医学部卒業 ☆1884年:ドイツに留学 ☆1888年:帰国、そしてる区軍軍医学舎教官。翌年、最初の結婚(登志子) ☆1890年:「うたかたの記」を発表 ☆1894年:日清戦争が起こり、出征する。翌年、帰京。 ☆1899年:北九州市小倉に赴任。 ☆1900年:小倉の京町に転居する。 ☆1904年:42才 日露戦争が起こり、出征。 ☆1907年に帰京。 ☆1909年:小倉3部作のひとつ「鶏」を発表。 ☆1910年:小倉3部作の「独身」を発表。 ☆1911年:「雁」を雑誌「昴」に連載(大正2年) ☆1913年:「阿部一族」を発表 ☆1915年:「山椒大夫」などを発表 ☆1916年:「高瀬舟」「寒山拾得」発表 以下、割愛。
「或る小倉日記伝」は短編集で、他にも多くの短編が一冊にまとめられています。 どれも秀作ですが、特に「赤いくじ」という悲劇性の高いストーリーには、気持ちを奪われるものがありました。 晋仏戦争のさなか、プロシアの占領下にあるルーアンを脱出するため、大きな馬車がル・アーブルへと向けて出発した。貴族、議員、商人、尼僧など10人の乗客の中に、ブール・ド・シュイフ(脂肪の塊)と呼ばれる太った娼婦がいたの。雪で立ち往生の馬車の中、持参の弁当を皆にふるまい、車内は和気藹々となるのね。ところがようやくたどり着いた宿場には、若い娼婦に目をつけた士官が待ち受けていた。そして、彼と一夜を共にしなければ一行の通行は許可しないと言い出したの。 はじめは彼女に同情していた一行であったが。 ノルマンディーの冬景色。特に、夕闇迫る馬車の中で革命家は歌い、娼婦は泣き続けるというラストシーンで、人間のエゴイズムや残酷さを描ききってます。 なお、この作品の主人公は実在の人物であるという逸話もあります。
この見えない烙印を押された気の毒な夫人に思慕を寄せる二人の男たちが、プラトニックな感情から劣情へと駆り立てられて、絶望的な幕を閉じることとなります。 状況は異なりますが、モーパッサンの「脂肪の塊」と松本清張の「赤いくじ」には、深くえぐるような筆先での人間の心理描写という点において、共通項があると感じました。
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