|
■PARIS 1900(パリ市立プティ・パレ美術館所蔵)
ーベル・エポックの輝きー
福岡市博物館シーサイドももち2004年1月30日(土曜日) ■
ベル・エポックを平たく訳せば、旧き良きパリの時代・・・
幸福感に満ち満ちて、平和で、活気にあふれ、あらゆる芸術の集大成の時代。
1889年に建設されたエッフェル塔。
そして1900年には、あの歴史に残るパリ万博博覧会が催されました。この万博の3つの恒久的建造物とは、アレクサンドル3世橋と、グラン・パレと、プティ・パレです。芸術の宝石箱のような美術館プティ・パレは、シャルル・ジロンの作品なのです。(1880年に、ローマ賞を獲得した芸術家)
ベル・エポックの終焉は、それまで築き上げたものをすべて破壊の道に導いたといわれる第一次大戦(1914年〜1918)だといわれています。
パリジェンヌの定義は、多くの画家たちが絵画で表現し、多くの作家たちが文章で表現しています。たとえば、作家ゾラの「ナナ」では、「蛇のようにしなやかで、巧みに服を脱ぎ、意図していないかのように、好ましく優美で、血統書つきの猫のように神経質なまでに洗練されていて、悪徳の貴族、すばらしく、反抗的で、パリに滞在し、あらがいがたい魅力をもつ」というような内容で示されています。
あるいは、作家モーパッサンは「モデル」という短編小説の中において、「彼女は本当に優しくて、パリジェンヌたちがなんでもなく持ち合わせている優雅な愚かさを天分としていた。彼女はぺちゃくちゃと、たわいもないことをしゃべり、とるにたらないことをこっけいな身振りで機知に富んでいるようにして話す。画家のまなざしを魅惑するため、いかなるときにも洗練されたしぐさで過ごした。腕を上げるときにも、身をかがめるときにも、車に乗るときにも、腕を伸ばすときにも、その動きはまったくもって的確で、タイミングのよいものだった」と表現しています。
画家シャルル・ジロンの「手袋をした女性*通称パリジェンヌ」(1883年作)という作品が会場に展示されていました。漆黒の刺繍とビロードのアフタヌーンティ・ドレスを身につけた外出前のパリジェンヌという設定らしい。
女性の後ろの壁の花柄模様は、アール・ヌーボーの曲線を予感させてます。
19世紀のパリには、外国や地方から芸術家たちが流れ込んできた時代です。彼らはパリの美術館やアカデミーで学習し、カフェで他の芸術家たちと出会い、触発しあったということです。
たとえば、作家のゾラは、パリに遊学する画家のセザンヌに1861年に、「朝6時から11時までは職業モデルをつかって絵を描くためにアトリエに通い、正午から夕方4時まではルーブル美術館やリュクサンブール美術館の傑作を模写し、日曜日は郊外で過ごすように」という内容の助言の手紙を送ったのだそうです。
また、1859年にパリにやって来た画家のモネに対して、トロワイヨンは「写生をするために郊外に赴くように」と助言をしています。
1889年にモンマントルの丘にオープンしたキャバレー「ムーラン・ルージュ」〜あの画家のルノワールは、昼間はお針子さんで夜は踊り子であるムーラン・ルージュの女性たちの生活感や、そこに集まる雑多な人々の活気を愛し、キャンバスと油絵の具を携えて、足しげく通ったことでも有名です。
しかし、この後に続くピカソは同じムーラン・ルージュをルノワールに倣って描くとき、退廃的な色合いを帯びた絵にしあげ、やがてその時期の様式を捨て去り、自らの道を歩みはじめるのです。
展示会においてのルノワール(印象派の画家たちの中では唯一肖像画家としての才能で生計をたてることができた人物といわれています)の作品は、「ボニエール夫人の肖像」(1889年作);ルノワール自身は、この作品はあまり満足がいっていなかったようです。モデルの夫人の青白い顔や華奢な体つきを描くのに苦労したのだそうです。なぜなら、彼はモンマントルの娘たちのような赤い頬と丸々としたスタイルを描く方が、得意だったのですから。
ちなみにゴッホも1886年にモンマントルに住んでいたそうです。まさに文化のるつぼ!!
画家ポール・アルベール・スティックの「オフィーリア」(1894年作)の作品も絶品です。
オフィーリアといえば、そうあのシェークスピアの作品の「ハムレット」にて、ハムレットに見捨てられた、悲劇的な運命のヒロインが題材となっています。オフィーリアの悲劇は、あらゆる芸術において、(特に画家ドラクロワの作品が有名です)・・・すなわち、劇、絵画、映画(たとえば、フランス映画「幸福」などの中でも、このモチーフは使用されています)繰り返し、テーマとして、芸術家たちが挑戦する対象となっていますよね。
悲嘆にくれた若い娘、オフィーリア、彼女は自ら川の流れに身を投じたのではあるまい、ただ川岸に咲いていた綺麗な花をつみとりたかっただけ。
あやまって、川に落ちたのだ・・・というようなこのテーマの詩情をベースにね。
1914年作の画家レオン・フランソワ・コメールの作品「アルフォンシーヌ店のシャルロット帽」
これは20世紀はじめに、しょうしゃな平和街に居をかまえる有名な婦人帽子店*アルフォンシーヌが、画家コメールに最新作の帽子(白いモスリンとばらいろのリボンがついたシャルロット帽)のファッション画を依頼したものです。
帽子をかぶっている乙女は、コメールの娘ジュジュで、当時15歳だったのだそうです。
ベル・エポック時代を代表する女優サラ・ベルナールも、パリにて1886年と、1899年の2回、オフィーリアの役を演じたといわれています。
サラ・ベルナール(1844年〜1923年)
この情熱的な大女優の神話を今も語り続ける作品として、画家ジョルジュ・ジュール=ヴィクトール・クレランの「サラ・ベルナールの肖像」(1876年作)***豪快に大きな額縁:ソファーに横たわる白いドレスをまとったサラ・ベルナールの美貌と風格には、物語性を感じさせられます。
彼女は女優としての才能もモチロンのこと、自分自身を演出する天賦の才があったといわれ、自分を崇拝する画家、彫刻家、写真家、ポスター作家たちと共犯関係を築き上げていたそうです。
また、自らも芝居のみならず、小説を書くことや絵画や彫刻の製作に没頭し、女優プラスアルファという相乗効果の宣伝効果を念頭におくという演出家*しかし実際に全てのことに情熱を注ぎ込んだという*だったらしい。
サラ・ベルナールの父親は不明、そして母親は高級娼婦という、さながら小説家ゾラの「ナナ」のような境遇の幼少の頃を過ごしています。
そんな薄幸な幼少時代をひきずるように、サラは生涯を通して、作家や詩人や画家などの様々な男性のあいだを渡り歩いたといわれています。
彼女の演出は、ひとめを引く舞台、すなわち歴史的考証にかなうほどの衣装と装飾にすることもこころがけていたそうです。
それが、先に述べたクレサン作の大肖像画に顕著にあらわれているのです。というのも、1876年のこの作品の中に描かれている曲がりくねった線、虹のような色合い、人間と布地の質感、動物や植物との対峙、、、その全ての描写において、アール・ヌーヴォーの流れが見出せるというのです。つまり、約20年の未来の先取りですよ。当時の20年の先取りといえば、想像を絶する出来事ではありませんか!
成功をおさめた芝居は、ヴィクトル・ユゴー作の「エルナニ」、そしてデュマ作「椿姫」などがあるそうです。
サラ・ベルナールという女性は、失敗も多い中、「それでもやるんだ!」というコドモの頃からのモットーを掲げ、その華奢で小柄な身体つきからは考えられないようなエネルギーと不屈の精神で、どんな逆境にも負けることがなかったといわれています。
もうひとつ、特筆すべき点は、パリ万博においてのマダム貞奴との出逢いでしょうか。
マダム貞奴(1871年〜1946年)は、川上音二郎の妻で、もと、東京日本橋生まれの芸者さん。
音二郎はオトコばかりの芝居を考えていたらしいのですが、女優さんが輝いている外国において、女優不在の芝居は考えられないことだというアメリカ側からの説得により、急遽、貞奴の出番が決定したらしい。そうして、アメリカでの舞台の成功、ロンドンでの成功をあとにして、いよいよパリ万博のロイ・フラー劇場にての公演が始まるのです。
演目は「芸者と武士」や「袈裟」*大変な人気を博すことに。
ここフランスにおいて「日本のサラ・ベルナール」と賞賛されます。
サラ・ベルナール自身も、そのウワサをききつけ、オシノビで舞台を観に行ったというエピソードが残っています。そのとき、サラは貞奴のことを「言語道断!!かわいいオサルさん」と皮肉ったというエピソードも。
当時の作家アンドレ・ジイド(当時31歳)や、作品「にんじん」の作家ジュール・ルナール、画家のクレーや、彫刻家のロダンが彼女の舞台を絶賛しています。熱狂的な当時の「ジャポニズム(日本趣味)の流行もてつだって。
ピカソが貞奴をデッサンしたのは、彼が20歳の頃。そして貞奴が帰国する直前に、あの彫刻家のロダンもモデルとして彼女を切望したそうですが、多忙を理由にことわったのだそうです。ところが後になって、ロダンがあまりにも有名な彫刻家であることを知った貞奴は、大変口惜しがったということです。
ポール・セザンヌ(1839年〜1906年)
1860年、エクス大学法学部に在学中のセザンヌは、プロヴァンス地方の「ジャン・ド・ブファン(風の邸宅)」という自宅の大広間を装飾するための4枚の大きな油彩画を描きました。四季を織り成す寓意的な絵です。署名には、「アングル」とあります。これが発端となり、厳格な銀行家である父親を説得することに成功、美術を学ぶためにパリに出てくることとなるのです。
1899年頃、進取の画商;アンブロワーズ・ヴォラールと緊密な交流をとり、そのおかげでセザンヌの作品の価格はやっと上昇をみせます。
セザンヌの描いたアンブロワーズの肖像画(1899年作)には、その色彩の深みがみられます。
また、ルノワールの描いたアンブロワーズの絵(赤い頭巾をかぶっています);1911年作、そしてボナールの描いたアンブロワーズ*1924年頃の作品(猫を抱いています*彼がイネムリするのを防ぐために、ネコを抱かせたということです)も展示されていて、
画商*アンブロワーズが当時の芸術家たちにどれほどの影響力を与えていたかが、しのばれます。
また、アンブロワーズは新しい試みとして、陶工の大家アンドレ・メテーと若い画家たちを知り合わせ、ルノワールたちに壷の絵付けをさせてみたそうです。(尤も、この試みは短命に終わります)
花器「座るおんな」(1906年作)ルノワールの作品などが展示されていましたが、目を疑うほど、それはあまりにも稚拙な出来ばえでした。
ルノワールは磁器の絵付師の修行をしていた過去があるにもかかわらず・・・です。
ヨーロッパジュエリーの400年の歴史のページへ
リポート:わらだ光絵
|