雑誌・新聞等の記事から

                                                          

3.来日公演パンフレット(2002年秋)から

We Love Mischa!
小島 昭彦

 何年か前に音楽評論家の黒田恭一さんにインタヴューをしたことがある。「いい音楽をできる音楽家で、会って不愉快な思いをしたことはほんとうに数少ない。いい音楽ができる人はまず、人間としてすごくすてきですね」。今までに多くの演奏家のインタヴューをされてきた黒田さんが、そのように話された。
 ミッシャ・マイスキ−も例外ではない。すばらしい音楽家であり、実にすてきな人柄の持ち主である。マイスキーはとても気さくで聴衆とのコミュニケーションを大切にする。コンサート終演後はどんなに疲れていてもよほどのことがない限り、ファンのサインのリクエストに応じる。
 マイスキーとの個人的な出会いは1988年4月2日、茅ヶ崎でのリサイタルにまで遡る。紺のトレーナーにブルージーンズ姿でチェロのケースを抱えたマイスキーが、改札に現れたときのことを今でもよくおぼえている。気むずかしくて口数の少ない芸術家かと思っていたが、それがとんだ誤解であったことはご承知の通りである。リハーサル後、自分の似顔絵がチョコレートで描かれたケーキを贈られると大はしゃぎし、自ら包丁で12等分に切ったケーキを片手に、まだステージで練習し続けているピアニストのギリロフのところへ走って持って行くあたりは、まるで子どものようであった(ちなみにギリロフは2切食べたが、マイスキーはなんと4切を平らげた)。実はこの日、プログラム最後のドビュッシーのソナタの終楽章もあとわずかというところで弦が切れ演奏が中断するというハプニングもあり、それでコンサートはさらに盛り上がった。聴き手の熱いアンコールの拍手にマイスキーも応え、以来、茅ヶ崎とマイスキーとの何か「特別な」関係が始まった。
 その後、茅ヶ崎での公演だけでなく、各地の演奏会でマイスキーと接する機会が増えた。楽屋に行けば何十枚も持ってきている家族の写真を見せ、解説してくれる。また、ブリュッセルを訪れたときには、ぜひと言って自宅に招いてくれ、近くの練習スタジオ「サラバンド」も案内してくれた。
 個人的な付き合いを重ねていくうちに、マイスキーほどの超一流の演奏家であっても、何でも思い通りにレコーディングできるわけではない事情も知るようになってきた。マイスキーが来日公演で、ブリテンの無伴奏チェロ組曲第1番を弾いたことがある。この作品はブリテンがマイスキーの恩師でもあるロストロポーヴィチに捧げたものだが、マイスキーは独自の解釈で、ロストロポーヴィチとは別の面を浮き彫りにしたすばらしい演奏を聴かせてくれた。あまりに感激し、終演後、何が何でもぜひレコーディングしてほしいとマイスキーにねだった。しかし、レコード会社も方針があるから、そうは簡単に事が運ばない。「たとえばレコード会社に手紙を書いてくれるとうれしい」。そのようにマイスキーに言われ、多くの人たちで彼の演奏活動を支援できないだろうか、という思いに辿り着いた。
 個人的にできることには限りがあるにしても、何らかの形で応援していきたい、それが「ファンクラブ」に発展した。マイスキーはもとより音楽事務所も好意的で、同志にめぐまれたこともあり、話はトントン拍子に進んだ。そのようにして1998年1月10日、マイスキー50歳の誕生日に発足したのが、「ミッシャ・マイスキー ファンクラブ」である。
 「ミッシャ・マイスキー ファンクラブ」には「会長」がいない。空席にしているのは、会員一人ひとりがマイスキーを声援していこうという考えが反映されているからとも考えられるし、いつかそれにふさわしい特別な人が見つかったときに備えてというのもひょっとしたらありなのかもしれない。
 「ミッシャ・マイスキー ファンクラブ」は、マイスキーが将来、愛娘リリー(ピアノ)、愛息サーシャ(ヴァイオリン)と「マイスキー・トリオ」を組み、世界中で活躍するようになることも願っている。

◆「ミッシャ・マイスキー ファンクラブ」のホームページ  http://www006.upp.so-net.ne.jp/mmfc/

(こじま あきひこ=ミッシャ・マイスキー ファンクラブ事務局、茅ヶ崎市楽友協会理事)

2. 「江崎友淑のホームページ」から
   
プロデューサー&レコーディング・バランス・エンジニアの江崎友淑氏のサイト
*この部分は、Recording Today(1999年10月)のコーナーより、 江崎氏のご了解を戴いたうえで、転載させて戴きました。
   ◎R.シュトラウス 「ドン・キホーテ」/ V.アシュケナージ(指揮)
       ミッシャ・マイスキー(Vc)チェコ・フィルハーモニー 管弦楽団

     (オクタヴィア・レコード KJCL-00018 3,000円  2001年4月20日発売)

 今回の録音は僕にとっては久しぶりのチェコ・フィルのライヴ録音となった。
 ノイマン、アルブレヒト、小林研一郎らとのものがそうであるが、コバケンのシベリウス2番だった最後のドヴォルザーク・ホールでのライヴの仕事から既に3年以上も経過したことになる。
 今回は、これまでのように単なるオーケストラ録音ではなく、マイスキーをはじめ、初めての顔合わせとなるチェロ、ヴィオラそれぞれのソリストを入れてのものである。やり直しのきかない一発のライヴは非常にリスクのあるものだ。 また、ライヴでの録音の場合は、日本では全くコンサート優先という風に考えられるが、海外の場合殆どがステージ上にマイクを乱立させ、また機材を多数置いてアーティストにある程度の負担をかけて演奏させることにもなる。そのため、全く初めてのアーティストに自分の録音方針を理解してもらえるかどうかが多少心配ではあったが、結果的には自分の中でも非常に思いで深い録音になった。
 今回は先にも書いたように、ドイツ・グラモフォンで多数リリースされているミッシャ・マイスキーとBMGのキム・カシュカシャンのソロによるものであったが、録音の前日キムのお母さんがお亡くなりになり、急遽ノルウェー出身の
ラース・トムターが駆けつけてくれた。数週間までのロンドンでの大成功で、マネージャーからの推薦もあったが、これもすばらしい才能に出会った感があった。マイスキーのあの音色、音量にまったく朽ちることのないダイナミックスの幅を確保しながら、一つ一つの音色の繊細さにも魅力がある奏者だった。オーケストラの仕上がりは上々だった。一連のアシュケナージとのシュトラウスのそれと同じく、色彩感、推進力、音色感どれをとっても魅力にあふれるもので、それにこれらの優れたアーティストが花を添える形になった。
 一方、録音面では僕は数ヶ月前に捜し求めていたノイマンのM−50というマイクを手に入れた。デッカやEMIが長年使っているマイクで、発売から既に50年近く経っている。完動するものは世界中で50本ほどしか存在せず、今では入手が困難でまず手に入らないものなのだ。僕がそのマイクに初めて惚れたのは、ロンドンで有名な録音技師であるトニー・フォークナー氏と出会った時に遡る。88年の井上道義とロイヤル・フィルのマーラーの録音のときだった。
 このM−50は、距離感を保ちながらも音の芯、いわゆる実在感を失わないもので、我々録音技師の憧れのマイクだ。フォークナー氏はもちろん、デッカのジェームス・ロック氏やMEIのマイク・コックス、一連のハリウッド映画のメジャーなものを一手に録音しているショーン・マーフィーなどもオーケストラ録音では欠かさず使っているマイクだ。今回の録音ではそのM−50を始めてチェコ・フィルの録音に使用した。ルドルフィヌムの長いアコースティックには僕も散々泣かされてきたが、今回このマイクを使用することにより、いわゆる「人の耳で聴いた音」を再現することが出来て本当に嬉しかった。綺麗なアコースティックを多く取り入れながらも実在感のあるオーケストラパターンが広がる。まさに理想的な音で、M−50の効果はそこにいた皆がため息をつくほどのものであった。2日間にわたる2回のリハーサル、2回の本番と少なくとも4つの通しのテイク、また問題のある個所をパッチ・アップした20個くらいのテイクによってほぼCD制作には問題のない素材を手際よく収録できた。あとは編集に賭けるのみだ。

1. 「ま音楽雑記帳」
   (茅ケ崎市楽友協会発行『楽友協会だ!より』)から


     今回、このホームページに掲載するにあたり、一部手直しをしております。(筆者=小島昭彦)

   1) No.121 (1997年2月16日発行)

茅ヶ崎公演を記念したワインとそのラベルを手に微笑むマイスキー マイスキーの楽器
95年に来日したときのチェロは、モンタニアーナ(1720年)ではなかった。実は、ドアと壁の間にはさんで壊してしまったのだ。仕方なく、ミッシャはオフリラ(1690年)をかなりの金額で買った。ところが、修理から戻ってきたモンタニアーナは前よりもよい音がしたというからミッシャも苦笑い。「オフリラを買わなくてもよかった...」。

今回注目されているのは、楽器よりも、マイスキーがのっている台(*註1)では。ドイツ製で、もともとしまったのだ。ドイツ製で、もともとチェロを弾いていた人が設計していたものとか。音響でもプラスにもなるそうで、こちらは初来日。「徹子の部屋」(テレビ朝日)でも紹介されたので、今回の来日公演では、休憩時にステージ付近でじっくり見る人が多い。

*(註1)クラングキステと呼ばれる、チェロ演奏の際の共鳴台の
     こと。

PHOTO:
(C) 1997 小島昭彦

歌曲の演奏について
ロビーで販売しているプログラムの中で、マイスキーはこのテーマについて自分の考えを詳しく述べていて興味深い。

(内容が一部重複するが)マイスキーはシューベルト、ブラームスらの歌曲をチェロとピアノために編曲するにあたり、その全てをまず聴いた。シューベルトは600曲ほど、ブラームスは200曲ほど。その中から残ったものは、シューベルトが約30曲(録音したのは14曲)、ブラームスが57曲だった。

今夕の曲目をじっくり聴きたい。すると、シューベルトもメンデルスゾーンも、数曲の作品が実に自然につながっていることに気づく。前の曲から次の曲への音のつながりに無理がなく、まるで1つの曲を聴いているような気もちになる。また、各曲の歌の詩も関連性を感じずにいられない。

これは全て、ミッシャの凝りに凝った、彼ならではの緻密な計算である!

編曲はマイスキー自身によるものである。今年中にはブラームスの歌曲がCDとしてリリースされる。

マイスキーの家族の話
マイスキーの楽屋を訪ねると、たいてい何十枚もの写真が並べられていて、ほとんどは家族のものである。ホテルの部屋でも、ちょっと暇ができるとベルギーの自宅へ国際電話をかけ、ついつい長くなってしまうのだと笑う。

奥様はアメリカ人のケイさん。とても感じがよく、落ち着いた人である。ミッシャのバッハ:無伴奏チェロ組曲のLD(レーザーディスク)を見ると、「オーディオ・プロデューサー」として彼女の名前があることに気づく。

さて、今回の来日公演では、2人のかわいい子も同行!上は9歳のリリー(女の子)、下は7歳のサーシャ(男の子)。ベルギーではカーニバルがあってちょうど休みが取れたため、2人の子も初めて日本にやってきた(お父さんは11回目の来日だというのに)。9日のサントリーホールの公演には3人で聴きに来ていたが、その日の朝成田に着いたばかりとあって、2人の子は疲れ気味。サーシャは飛行機内を元気よく歩きまわっていたそうだが、ホールではそうはいかず、ちょっともじもじしていた。

終演後、楽屋口では150人以上の長蛇の列。ミッシャがサインをしている横に行ってじっと見ているリリーとサーシャ。実にほほえましい光景である。ときどき退屈して、離れた所にいるケイのところへ戻ってくる。

ぼくはすかざず言った。「サーシャのサインをもらっちゃおうかなあ」。サーシャの目が輝いて、にこにこしている。サイン帳を開けて、「ここだよ」と言うと、「えへへー」という感じで、ちょっと得意顔。それがこの下のもの。そのあとにリリーにももらう。

リリ−はピアノを習っている。手は大きめらしい。サーシャはヴァイオリン。午後4時半に学校から帰ると、週何回かは近くの先生のレッスンがある。ケイに「2人は練習はいやがりませんか」と尋ねると、「あまり好きでもないかもね。だってミッシャの子だもの(笑)」。

ミッシャの夢は、将来”マイスキー・トリオ”を結成し、世界で演奏すること。そうなると、リリーとサーシャのサインは価値が出るかも!

イッセー・ミヤケのこと
マイスキーのステージでの衣裳がイッセー・ミヤケだということはすっかり有名になった。成田到着の際、衣裳の入ったスーツケースが出てこなくて、と「徹子の部屋」で言っていたが、あのあとブリュッセルより無事到着し、ひと安心した。

「イッセー・ミヤケは天才です。美しい洋服は何でも好きですが、彼の衣裳はとても着心地がよく、演奏する際も動きやすくて気に入っています。日本滞在中、どんなに忙しくても時間を見つけて店に行くようにしていますよ。もっともメンズは10分位で、あと2時間半はレディースを見ることになりがちです(笑)」。

今回は奥様も来ているから絶対行くだろうと思っていたら、行きました!2月10日、まずは原宿にあるKIDDY LAND(キディランド)へ行って、リリーとサーシャのお土産。その足でイッセー・ミヤケの店へ。2人にはさっき買ったおもちゃで遊ばせておいて、4時間ショッピングを楽しんだそうな。「バナナ1本しか食べていなかったけど、買いものに夢中になっちゃったよ」とミッシャは笑いながら話してくれた。

ステージ衣裳(シャツ)の色と、演奏曲目の関係
曲によってミッシャは違う色のシャツを着てくる。小品が続くときはわざわざ着がえないが。

色と曲目には何か関係があるのだろうかと思い、以前尋ねたことがある。「ぼくはものすごく汗っかきなんだ。曲と曲との間に着がえるとき、色が違えば、お客さんも、『ああ着がえていたんだ』ってわかってもらえるでしょ。それだけのことなんだ」。

近頃はピアノのダリア・ホヴォラもイッセー・ミヤケだし、今回来日していないが、パーヴェル・ギリロフもイッセー・ミヤケに凝っていたりする。

'95年の東京でのリサイタルにはイッセー・ミヤケが来てくれて興奮していたミッシャであった。

そうそう、あのシャツ、くしゃくしゃなので、鞄に入れるのも適当に丸めて突っ込むだけだから、とてもいいみたい!

CD
マイスキーのリサイタルではCDが飛ぶように売れる。今回はやはり、シューベルトのアルペジオーネ・ソナタと歌曲14曲を収めたものがイチ押し(グラモフォン・POCG1968 \2,548)。ホヴォラのピアノが実にやさしく、マイスキーのチェロと見事に響き合う。CDの写真(解説書の表紙---昔はLPならジャケットっていってましたね)は、スイスで撮ったものだそうである。

売り場に残ってしまうことが多いプロコフィエフの交響的協奏曲とミヤスコフスキーのチェロ協奏曲のCDは、あまり知られていないが、とてもロマンティックで、買って損のないもの。23年ぶりに踏む祖国の地での演奏は、プレトニョフ/ロシア・ナショナル管と(グラモフォン・POCG10008 \3,059)。

オルフェウス室内管とのチャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲」ほかも名演!指揮者を置かず自発性に富んだオルフェウスのアンサンブルと、マイスキーとの駆け引きのようなスリルが味わえる。一音一音がとても生き生きしていて、表情も豊か。マイスキー節が堪能できる(グラモフォン・POCG-10001 \2,548)。

その他、どれ買ってもハズレはない。大丈夫。

一方、ダリア・ホヴォラのピアノによるCDでは、マイスキーとのシューベルトのほか、「ノクターン」というタイトルの小品集のCD(グラモフォン・POCG-1771 \3,059)がお薦め(チェロはマイスキー)。このほか、Michel Arrignon というフランスのクラリネット奏者との、ブラームスのソナタ(2曲)ほか(輸入盤・VOGUE 645 005)や、長谷川陽子(チェロ)との「サパテアード〜スペインのバラ」(ビクター・VICC 192 \3,000)などが好評。

さて、珍しいCDの話。韓国で売られているマイスキーのベスト盤(グラモフォン)では、日本の2曲(「浜辺の歌」「五木の子守歌」)の代わりに、「蒼き山にて生きたし」(キム・ヨンジュン作曲)、「懐かしの金剛山」(チェ・ヨンソプ)の2曲が収められている。日本では入手が難しそうだが(*註2)。

*(註2)その後、いわゆるベストアルバム「鳥の歌、白鳥/マイスキー、チェロ名曲集」(グラモ
     フォン・POCG-50081 \1,800)がリリースされ、韓国の2曲を収めたCDを日本でも簡単に
     聴くことができるようになった。

ヴァレリー・マイスキー
ヴィヴァルディの「四季」のCDで、アイザック・スターンがヴァイオリン&指揮を受けもち、イェルサレム・ミュージックセンター室内管のCBSソニー盤がある。チェンバロのところに、「ヴァレリー・マイスキー」と書いてあるじゃないの。実は、この人、ミッシャのお兄さん。不慮の事故で亡くなっているが、ミッシャにきいたところ、オルガン奏者として活躍していたと教えてくれた。入手可能なCDなので、ご関心があればぜひお聴きいただきたい。

マイスキーの家
マイスキーの家は、ブリュッセル郊外の湖に面したところにある(*註3)。自宅から湖沿いに少し歩くと練習用のスタジオがある。番地が172で、バッハが無伴奏チェロ組曲第1番を作曲した1720年の0をとると一致(!)するという「偶然性」が気に入っている。スタジオの周囲にフェンスがあり、そこには第5番の「サラバンド」の譜がデザインされている。スタジオ名は「サラバンド」(*註4)。室内にはピアティゴルスキーやバーンスタイン、家族の写真などが貼ってあった。

マイスキーの愛車はトヨタのレクサス(ソアラ)。大好きなレコード会社(独グラモフォン)に因み、ナンバープレートにもDGGの文字が入っている。もっとも、DGGも、マイスキーのハイドンの第2協奏曲をはじめ、いくつか廃盤扱いをしていて、ちょっぴりマイスキーに冷たい(*註5)。これが「ビジネス」なのだろうけど。   

*(註3)その後、マイスキー一家は近くの丘にある城に引っ越している。NHK衛星第2テレビでも、音楽ドキュメンタリー 「夢の城を求めて」が放映された。
*(註4)ファンクラブの会報、"SARABANDE" は、ここから名付けられた。
*(註5)現在は日本で再び入手可能となっている(グラモフォン・POCG-20036 \2,039)。


   2) No.170 (2001年6月2日発行)

マイスキーに関する話題は実に多い。今までけっして平坦な人生ではなかったからであろうし、また、人間としての魅力にあふれた人だからでもあろう。テレビで放送されたドキュメンタリー「夢の城を求めて」は、そのようなマイスキーを様々な角度から紹介する、非常に興味深い番組であった。

先日、ピアノのダリア・ホヴォラと夕食をとりながら話をする機会にめぐまれた。ヘルシーにしゃぶしゃぶを食べようということになって、鍋をはさんでいろいろなことを話した。ミッシャの話題になったので、24年間も一緒に演奏してきたのだから、きっと何か面白い話があるにちがいないと思い、さっきから豆腐ばかり狙って食べているダリアにきいてみた。

「イタリアでコンサートをしたときの話。いつだったか覚えていないけど、その日の最後がドビュッシーだったの。終楽章になったら、ミッシャのテンポが急に速くなったのよ。私、ミッシャとはドビュッシーは何度もやっているから、なぜ?って思ったわ。そんなに速くなったことはなかったからね。もうついていけないくらい...(笑)。で、最後のピツィカートのところでバチッ!と大きな音。見たらミッシャのチェロ、‘2本’弦が切れていたのよ!どこからか気づかなかったけど、1本すでに切れていたのね(笑)」。

ダリアが推測するに、ミッシャはその日に限って予備の弦を用意していなかったんじゃないかと。ものすごい弾き方をしていたというから笑ってしまった。

そういえば今でも語り草になるのが、'88年の茅ヶ崎でのドビュッシー。この日も終楽章のおわりの方で弦が切れ、一度ステージから姿を消し、再び(少し前のところから)弾いた。ピアニストはギリロフだったが。聴き手からすると、このようなハプニングに居合わせたことは案外うれしい気もしないわけではない。

最後に。音楽ジャーナリストの伊熊よし子さんが、マイスキーについて1冊の本にまとめ、この秋に出版する予定である。楽しみである。