Ideen-fluchtは意想奔逸と訳された。戦後間もない頃、若い教授は英語の術語を自ら学びつつ生徒に教えたが、精神科学の授業はドイツ語だけだった。Ideas-flightあるいはIdea-gallopingとでも訳すのだろうか。随想欄の投稿が少ないので編集委員の責めを果たす作文として、そのとりとめなさ故にこれを題名としたのである。
時間は同じに経つのだが、電車に乗っている時は別のような気がするので、私は駅のキオスクで週刊誌か文庫本を買う。そのなかに「逆さ日本史」という本があった。皆に聞いてみると歴史の授業は大抵は江戸時代までが良いところで、明治以降については独学するようである。明治以来を大まかに45+15+64+15と計算すれば約140年経つが、その半分以上暮らした私の話にも参考になる点があるだろう。
私は大正の末年に生を享け、昭和6年満州事変で小学校、12年の支那事変で中学、16年の大東亜戦争で高等学校(いずれも旧制)に入学し、敗戦の詔勅は大学の疎開騒ぎの田舎の小学校の校庭で聞いた。しかし出来たばかりの医師国家試験の制度はとても厳しくて、基礎を含む全科目に亘ったから戦後の自由を楽しむことは到底無理だった。映画もダンスも麻雀も一切の娯楽を知る機会がなかったし、まさにアル、カイーダの原理主義教育にも似た環境だった。この青春で唯一恵まれたのは、短期間ながら、高校における旧体制として最後の寮生活を送ったことである。
旧制高校(以下単に高校と記す)は明治30年代までに第一から七高、その後八高までのナンバースクールが出来た。敗戦時には大正の後半に出来た地名をつけた高校たとえば山形、新潟、水戸、松本、浦和、静岡など合わせて32校があった。その定員は帝国大学9校の定員と等しい約6000名であった。高校に受かれば、学部さえ問わなければ、東京、京都、仙台、福岡、札幌、大阪、名古屋のほか、戦争でなくなったが台北、京城のどこかの帝大には入れたのである。
大学受験の心配がなくても理科は勉強したが、文科は政治、経済、文学、哲学、芸術、宗教まで人生の全般を論じて気勢をあげていれば済んだ。友の憂いに我は泣き、我が歓びに友は舞うという夢のような三年であった。今も尚、高校生活の代名詞の『稜(丘)の三歳』(おかのみとせ)が在校した者にとって殺し文句である。『丘の三歳』でオダをあげるのをストームと呼び、そのシュプレヒコールが寮歌でもあった。一高は明治24年に出来たが代表寮歌「ああ玉杯」は35年の作である。寮歌は生徒が作ったが、蓋世人士の悲憤慷慨を高唱したものばかりではない。以下、地元の水戸高校の正寮歌「時乾坤」と松本高校の大正9年寮歌「春寂寥」の一部を紹介する。
水戸)1.時乾坤に移ろいて 春秋老いぬ数百年 古き歴史を秘めて立つ
水府城頭名に高き 常磐の園の草分けて 今年理想の花咲きぬ
3.嗚呼混沌の唯中に 匂い出でける精麗の 理想の花を守りつつ
永久に培え我友よ 筑波嶺おろし荒ぶとも いなさの風は寒くとも
5.嗚呼我友よ諸共に 暗く汚き人の世に この清らけき花かざし
讃歌高く打ち上げて 我等が生命の住家なる 四寮の栄(はえ)をたたえよや
【乾坤=天地、いなさ=関東地方で秋と冬に吹く海からの南東または南西の強風、 讃歌=ほぎうた】
松本)
1.春寂寥の洛陽に 昔を偲ぶ唐人の 傷める心今日は我 小さき胸に懐きつつ
木の花蔭にさすらえば あはれ悲し逝く春の 一片毎に散る涙
2.岸辺の緑夏木立 榎葉蔭のまどろみに 夕暮れさそふ蜩の
果敢なき運命呪ひては 命の流れ影あせて あわれ淋し水の面に
黄昏そむる雲の色
4.嵐は山に落ち果てぬ 静けき夜半の雪崩れ
榾の火あかくさゆらげば 身を打ち寄する白壁に
冬を昨日の春の色 あわれ床し友どちが あかぬまどひのもの語り
この優れたわが国のエリート教育の制度は戦後間もなく強制的にアメリカ式の学制に変更されたので、高校最後の卒業生も今では古稀を越えた。
さて話は遡って明治36年5月のことである。ある一高生が華厳の滝に投身自殺をした。その時彼は滝の上の木の幹を削って遺書を墨書した。藤村操の「巌頭之感」である。『悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此の大を測らんとす、ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチイーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして尽くす、いわく「不可解」、我此の恨を抱いて煩悶 終に死を決するにいたる、既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを』。ところでホレーショはシェイクスピアの劇「ハムレット」のなかの架空の哲学者だという。
当時は日露戦争前で日清戦争後の三国干渉による遼東半島の返還や帝政ロシアの満州進出に対して挙国的な臥薪嘗胆の時期であった。寮歌でさえ「ああ玉杯」では『破邪の剣』を歌い、五高の「武夫原頭に草萌えて」では『斬魔の剣音さえて スラブの末路今ぞ見る』と断じた。しかし昂揚した国家主義的な風潮に対し、一高も開校して既に10年余、個人尊重の自由と自治が旗印の寮生活には時流と対蹠的な面もあったろう。藤村の選んだ死に対しては社会的な反響が凄まじく「巌頭之感」は永らく常識の範疇にあったが、最近では知らない人が多くなった。
さて昭和において特筆すべきは、戦時下の高校生が、不本意な死に対し「哲学的な思索」や「宗教的な探求」によって死生観を確立する必要があった点である。開戦後半年、日本海海戦の大勝利とは逆にミドウエー海戦の大敗北で、わが海上航空兵力はほぼ壊滅し、専門職として長期にわたり実技に研鑚し熟練した軍人と多くの精兵が戦死した。以後敗戦への一本道を辿るのだが、昭和18年徴兵猶予が取り消されて学徒出陣が始まり、多くの学友も戦死した。多少学べば、わが国の元首こそ唯一の帝王 The king of kings だとするのは無理で、one of kings でしかなかったことは、解った筈だし、非道な体制下で二十歳そこそこで否応なく死なねばならかったとは、嗚呼、哀れというほかない時代であった。
話は飛ぶが、横文字のカタカナ表記が全盛の今日、明治の先哲が考案した、たとえば郵便、電信、電話、銀行、経済、哲学、物理などの訳語は素晴らしい。宗教はおそらくreligionの訳語だと想うが、唯一これはいただけない。儒教と、仏教でも自力の禅宗は「教え」としても良かろうが、大日如来、阿弥陀仏、ヤハウェ(エホバ)など他力の信仰は、下世話な表現では『鰯の頭も信心から』というが、理知を超えた飛躍が必要な点で「教え」とは言えない。「宗旨」とか「信心」という昔の表現が適切な場合が多いようだ。
それはさておき、1990年刊行「寮歌よもやま話」(非売品)所載の昭和23年八高理甲卒の安川明夫氏の「旧制高等学校回想の賦」はおおむね妥当な見解と思うので、その末尾の部分を引用して本稿を閉じよう。
* * * * * * * * * *
昨今の世の中を見るにつけ、真に国家民族の将来を託するに足る人格識見を備えた少数のエリート、所謂「上に立つ者」を育てる人間教育の場があるのかどうか、危惧するものはあながち筆者のみではあるまい。
同じ敗戦国でありながら、ドイツは国土を地上軍部隊に蹂躙され、首都ベルリンは白兵戦の戦場となり、降伏後は国土を東西に二分され、日本より遥かに過酷な状況であったにも拘わらず、独自の教育制度を頑なに守り通した。占領した四カ国がそれぞれ独自の教育制度を誇っており、その中のどれか一つを押しつけることがむ難しかった事情が、ドイツには有利に働いた。それにひきかえ日本は実質的にアメリカ一国による占領であったため、他の連合国に気兼ねなくアメリカの教育システムを押しつけることができたのだろう。
その事を残念がる向きもあるが、当時の日本の為政者が教育に無関心だったとは思われない。ただ敗戦直後の日本には、皇室の存続問題、天皇の戦争責任問題などドイツには無い大きな難問を抱えていた。幸いアメリカの単独占領に近い状態であったうえ、占領軍総司令官に人を得た事もあって、無条件降伏し敵軍に軍事占領された敗戦国の元首が、処刑や亡命の憂き目に遭うこともなく、引き続きその地位を確保し帝政を存続させたうえ、めでたく天寿を全うしたという、誠に人類史上前例のない幸運な結果を生むこととなった。
占領軍総司令官マッカーサーの側にも占領行政の円滑化のために、日本国民に対する天皇の影響力を巧く利用しようとする打算があったとは思うが、今にして思えば、時の為政者が「よくぞ民族の危機を乗り切ってくれた」と賞賛すべきではなかろうか。
その蔭で、旧制高等学校に象徴される古き良き日本の教育制度が、抗(あらが)うすべもない生贄のごとく静かに姿を消して行ったのである。
以上で引用を終わるが、戦後の為政者が「よくぞ民族の危機を乗り切ってくれた」という見解に、私としては異議がある。米軍の占領政策は無血革命というべく、農地開放で小作農がなくなり、教育改革で指導層が弱体化し、「平等」という国民の意識は『悪』が付くまで強化した。そのうえ戦争責任の曖昧な追求から、その後の社会全体の無責任時代が始まった。アメリカの企図したところ、わが国の米州化と主体性を喪失した国民の属国意識化は、間違い無く成功したのである。それはさておき、明治の臥薪嘗胆は無理としても、まさしく終戦の後に武力進入して、数多の同胞を強制労働下に極北の地で憤死させ、わが固有の領土まで略奪して今なお占拠する、ロシアの横暴と言語道断!これを黙視する他ない国情を看よ!人道支援とて虚しい。スラブの末路とは言わぬが、諸賢よ、刮目してわが国民の奮起する秋を待とうではないか。それにしても、戦いを好む者は必ず滅ぶ、創業よりも守成は難く、格言どおり「売り家と唐様で書く三代目」の誠に遺憾な十五年戦争ではあった。
付記】
学徒出陣では私と同級の高校生(19年9月卒業予定)の1割以上が出征した。彼等は約1年の激烈で過酷な教育の後、素質が優秀の故に、人間魚雷や人間爆弾の即戦力として前線に投入された。静高卒業50年を期に当時の思い出を編んだ文集「富士いばら」に、辛うじて生還した学友等が超絶した体験を寄稿している。広島に駐屯し偶々休暇で、原爆投下の翌日帰隊した大島重雄は歴史的にも貴重な記録を寄せている。原爆といえば夏休み返上で特別講義中であった長崎医大の教室で、教授、クラス全員とともに、私と高校同級の4名が爆死した。如何なる神の采配か、私は同校を志望したが他学に編入されたので、今日まで生きながらえることが出来た。静岡高等学校戦没者遺稿集「地のさざめごと」にも先輩や学友の短い生涯を偲ぶ多くの記事がある。ここに付記して鎮魂の辞としたい。