特別編 「神々のバトル 〜'90代 WGP 名勝負〜」
第3話:「HONDA 帝国の逆襲 〜ビッグバン・エンジン〜」

 ウェイン・レイニーにとって、新しいシーズンもけっして楽な年ではなかった。この年は、近年でも稀な群雄割拠の時代だったからだ。ガードナー、ローソンの二人に加え、ドゥーハン、コシンスキーも順調に力をつけていた。そして、なんといってもケビン・シュワンツの存在は無視できないものだった。

 ケビン・シュワンツ。レイニーとはアメリカ AMA 時代からのライバルであり、お互いが競うことによってレベルアップを果たしてきた相手。「ゼッケン1以外は 34 でいい」と、アメリカ時代からのゼッケンを変えようとせず、ゼッケン1、すなわちチャンピオンに対する強い執着心を表現していた。

 ケビン・シュワンツを評する言葉に「ブレーキングの魔術師」というものがある。コーナー進入での信じられないほどのハードブレーキングで一気にスピードを殺し、そのまま向きを変えてすばやく立ち上がる“ファストイン・ファストアウト”は彼の魅力的な、最大の武器であった。その印象を我々に強烈に植え付けたのが、'91 のドイツ GP である。

 この頃ドイツ GP はホッケンハイム・リンクとニュルブルク・リンク(ショートコース)の交互で行われていた。この年はホッケンハイム・リンク。シリーズ随一の、ハイスピード・バトルが展開された。
 レースは、ドゥーハンを先頭に、レイニー、シュワンツが追いかける展開が続いた。しかし、終盤にドゥーハンが脱落すると、またしても二人の一騎打ちに。勝負はファイナルラップまで持ち越されが。
 オスト・コーナー後の第2シケインの突っ込み、シュワンツはレイニーを抜き去り、トップに立つ。ところが、レイニーは抜群の立ち上がりを見せ、シケイン出口でトップに返り咲いた。と、その直後、シュワンツの“伝家の宝刀”が一閃。インフィールドへの入口となる右コーナー進入で、シュワンツは脅威のハードブレーキングを敢行したのだ。フロントフォークはフルボトムし、リアは一度完全に浮き上がる。これでシュワンツは再びレイニーと並ぶ。普通なら、この状態ではマシンを寝かすこともできないし、できたとしてもフロントからスリップダウンしてしまう。が、シュワンツは暴れるマシンをコントロールし、方向を変える。今度は立ち上がり。突っ込み重視のコーナーリングは、回れたとしても、立ち上がりが後れがちなのだが、このときのシュワンツはレイニーと同様の立ち上がりを見せる。レイニーも、想像を超えたシュワンツのブレーキングに面食らったのだろうか、普段の立ち上がりの鋭さがなかった。シュワンツは、直後の左ヘアピンもレイニーにアウト側から被せるように進入。残りを完璧に押さえ切って、トップでチェッカーを受けたのだった。

 このレースは、今でもレイニー対シュワンツのレースで語り種になっている。

 こうしてレイニーに対抗したシュワンツではあったが、安定感のなさはあいかわらずだった。年間を通してこのシーズンは優勝4回、その他表彰台3回に終わっている。一方レイニーは、この年も安定した結果を残す。イタリアGPとマレーシアGP以外はすべて表彰台。優勝回数も6回を数え、まさに強さの絶頂を極めていた。

・・・・・

 ところで、今までほとんど話題に上がっていないメーカーがあるのにお気づきだろうか? そう、HONDA である。かつては WGP を席捲、近年でも'87 年ワイン・ガードナー、'89 年エディ・ローソンのライディングによって NSR はチャンピオンを獲得していたが、それ以降はシーズンを通したチャンピオン争いに加わる活躍をできていなかった。
 そんな状況を、HONDA の技術陣が黙っているわけがなかった。勝てない原因をライダーのせいにせず、あくまでマシンの問題として捕らえる姿勢。それは F1 でも、WGPでも変らない。その姿勢が、GPマシンを一遍させる技術を出現させた。

 '92 の開幕戦、雨の日本GP。従来の 2 ストローク GP マシンとは違った、低い排気音を響かせ、雨の鈴鹿を安定した走りで駆け抜けるドゥーハン&NSRの姿があった。外から見てわかるのは、排気音だけ。しかし、あきらかに他社のバイクとは挙動が違う。雨の路面でも、リアタイヤのホイルスピンも、スライドもない。水飛沫の上がり方すら違うのだ。その不思議な光景を雨中の観客の目に焼き付け、ドゥーハンはこのレースで優勝を飾る。

 謎はすぐに解けた。NSR はエンジンの爆発間隔を、従来の 180°間隔の2気筒同時爆発から、不等間隔爆発に変えていたのだ。従来にない低い排気音はそのためだった。しかし、爆発タイミングを変えるだけで、操作性が劇的に変るものだろうか?
 多気筒エンジンの場合、高回転まで回す(=馬力を得る)には、クランクが360°回る間に等間隔で爆発させることが、スムーズに回す条件だった(注:2ストロークエンジンではクランク1回転、シリンダの上下運動1回に対して爆発が1回発生します)。実際、NSR も'89 年までは、爆発順序は違うものの、各気筒が均等間隔で爆発、トルクを発生していた。
 その後、'90 に NSR のエンジンは2気筒同時の180°等間隔爆発に変更され、さらに '92 にこの不等間隔爆発へと変った。この爆発間隔の変更は、マシンにいったいどんな変化をもたらしたのだろうか?

    '89: 0°---- 270°---- 180°---- 90°
    '90: 0°---- 0° ---- 180°---- 180°
    '92: 0°---- ? ----- 0° ---- ?
        (気筒表示順は 1-2-3-4)

        図: NSR の爆発間隔の変遷

 理屈はこうである。エンジン内で爆発が発生すると、駆動力がタイヤに伝わる。ところが、高い回転域になるとパワーに負けてタイヤが滑りはじめる。そのときにタイヤに絶え間なく駆動力が伝わると、タイヤの滑りがとまらなくなってしまう。そこで、タイヤに駆動力が伝わるまでの間隔を意図的に長くとれば、その間にタイヤはグリップを回復し、再びより大きい駆動力を路面に伝えることができるようになる。これは、タイヤが馬力に負けている GP500 マシンにおいて、出力特性をライダーにコントロールしやすいものにするためには、非常に有効な技術であった。HONDA はこれに気づき、'90 から 180°間隔の2気筒同時爆発に変えていたが、よりこの考え方を推し進め、爆発が伝達しない間隔を長く取れる、不等間隔爆発を採用したのだった。
 不等間隔爆発にすることによって、当然問題も出る。一度に爆発が集中することから、クランクシャフトにストレスがかかる。高回転まで回すことも難しくなる。が、それを補う努力をするだけの価値が、この技術にはあった。'91 から実施された最低重量の引き上げ(115Kg→130Kg)を、HONDA はエンジン関係のパーツの強度の強化に使った。そして、シーズン開幕前に高回転域の特性を改良した。その結果、馬力を'91 と同等にしながら、不等間隔爆発に変更することに成功した。

 この技術は、GP500 が抱えていた問題を解決する指標も示した。年々上昇していくマシンのパワーに、タイヤが、なによりもライダーが追従できなくなてきていたのだ。130Kg のマシンに 200馬力近いパワー。それを後輪だけで路面に伝えるため、タイヤは常にパワーに負けている。そのため、ピーキーな特性のエンジンを神懸かり的な右手で操り、スライドをコントロールする。それは見ている者にとっては非常にインパクトのある光景だが、一歩間違えばハイサイド(注:急激にタイヤのグリップが回復し、マシンから投げ出されてしまう転倒)を誘発する、非常に危険な状態なのだ。GP500 マシンは、例外なくこの技術をライダーに要求し、それに応えられないライダーは文字通りマシンから見放され、路面に叩き付けられる。その光景を目にすることが、この当時、非常に増えていたのだ。チャンピオンのレイニーでさえも、'91 の最終戦では転倒している。レースマシンとは言え、使い切れないパワーは邪魔だけなだけである。GP500 は強大なパワーを手の内に収める「調教」の段階に来ていたのだ。

 かくして、「調教」された '92 NSR はドゥーハンに開幕から4連勝を遂げることをもたらし、シーズンの流れを大きく自分のものにした。この結果を見せ付けられた各メーカーは、HONDA がもたらしたこの路線に追従する。まずは SUZUKI。以前(10年ほど前)に独自に爆発間隔変更にトライした経験を持っていたため、対応も早かった。シーズン7戦目のドイツGPに不等間隔爆発エンジンをもつ RGV-γを投入する。その後 CAGIVA 、YAMAHA も追従し、結局、GP500 を走るすべてのワークスマシンが、この方式に変ってしまった。そして、不等間隔爆発を採用したエンジンは、"爆発"間隔を変更したことと、影響力の大きさから、以後「ビッグバン・エンジン」と呼ばれることになる。
 まさに「ビッグバン」―――新時代の創造であった。

 さて、シーズンのほうはどうなっただろう。ビッグバン・エンジンを持つ NSR +ドゥーハンは圧倒的強さを誇り、ライバルに大きな差を築いていく。このまま行けば間違いなくチャンピオンを手に入れるはずだった。ところが、オランダGPで転倒し右足を負傷、これに医療ミスが重なり、復帰が大幅に遅れることになる。この間にポイントを着実に重ねたレイニーが逆転、最終戦で3連覇を達成した(このあたりは「WGPでポン! 第4回」で触れましたね)。
 またもチャンピオンは取れなかった HONDA 。しかし、間違いなく NSR はシーズン最速のバイクであった。そして、この年は今に続く HONDA 黄金期の原点となっているのであった。


レースの思い出:
 開幕も近づいてきてまして、スケジュールの都合上、一気に2シーズンまとめてやっていまいました。この2シーズン、結果としてはレイニーの連覇で終わるんですが、レース一つ一つは、面白いものも多かったと思います。

 '91 はなんといってもドイツGP。文中でも紹介したシュワンツのブレーキングは、何度見ても鳥肌が立ちます。今回見直して、また感動しちゃいました。他にも、初めてGPを見に行った日本GP(四つ巴のレースを制してシュワンツ優勝)とか、いろいろあるんですが、また折りを見て紹介することもあるかと思いますので、次の機会にでも。
 それから、この年は今に至る日本人ライダーの活躍の礎が築かれた年とも言えます。畝本らによって始まった GP125 クラスへの参戦ですが、この年に、上田昇、坂田和人、そして若井伸之(故人)の三人がそろって参戦を開始しました。この年、上田は1年目にしては脅威の活躍を見せ、海外チームからのオファーを得るようになりました。

 '92 は紹介した「ビッグバン・ショック」に尽きます。いやー、ほんとに速かったです、NSR。いえ、ドゥーハンのおかげじゃないとは言いませんが、レイニーやシュワンツ以上にマシンの締める割合が大きかったと思います。さすが HONDA といったところでしょうか。常勝マシン NSR の基盤はこのころ作られたといっても過言ではないでしょう。事実、これ以降 NSR は大幅な仕様変更を行っていません。
 ところで、カンのいい方はお気づきでしょうが、現在の GP500 のトップライダーで、ビッグバン以前のマシンを操ったことがあるライダーは、ドゥーハン以外はいません。昨年までのドゥーハンの強さの原因の一つが、このあたりにあるのかもしれませんね(そういう点では今年はコシンスキーに期待できるかな?)

・・・

 それにしても、書いてみて思い知りました。メカ・ネタって難しい・・・。私は基本的には理系な人間なんですが、機械系はまったく手を染めていないので、うまく表現できてるか非常に心配です。技術説明も結構はしょっているし・・・言い訳しちゃうと、多分それだけで2回くらい連載できちゃうネタなんで、思い切り省略しました。図がテキスト図しか使えないってのもあるし・・・。
 毎回わかりやすい技術記事を連載しておられる T.N.さん、尊敬しちゃいます。

それでは、また。

参考文献:
(1)「NSR500 ハイパー2ストロークエンジンの探求」、つじつかさ、
  (株)グランプリ出版、1995
(2) RIDING SPROTS '97 7月号 PP.56-59

当コーナーで取り上げてほしいテーマなど、ご要望は下記までメールにてお寄せください。
e-mail : nakamu@qb3.so-net.or.jp


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